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記憶の残滓
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彼女は頭の回転が良く、ユーモアがあって、ときに辛辣だった。ほんの些細なことですぐに怒り出すけれど、数分もすると今度は子供のように笑いだす。彼女の薄茶色の瞳は、いつだって好奇心に満ちていて、くるくるとよく動いては、今までぼくが気づかなかったことや、見逃していた風景を見つけ出して教えてくれた。
ぼくらは高校2年の初夏に出会い、秋を共に過ごし、冬を迎えた。17歳の恋の大半がそうあるように、世界はぼくら二人を中心に回っていて、遮るものなんかひとつもないと信じて疑わなかった。ぼくらには大学入試という共通の目的があったけれど、それは二人の関係にほんの僅かな影を差すこともなかった。ぼくらは理想的な友人でありライバルで、その関係は確実に恋人へと移行しつつあった。
12月になり、彼女との連絡が取れなくなった。年明けに行われる全国共通模試の申し込みに一緒に行こうと約束していたのに、その日、彼女は姿を見せなかった。
スマホで連絡を取ろうとしたけれど、何度着信をいれても彼女は応答せず、やがて電源が入っていないというメッセージだけが繰り返し流れるようになった。
通学に利用していた電車にも乗らず、駅にすら姿を見せなかった。待ち合わせに使っていたドーナツショップで幾ら待ってみても、彼女が姿を現すことはもう二度となかった。
ぼくは混乱し、困惑し、なぜこうなったのかを考えてみた。いくら考えても、ぼくに思い当たる節は無かった。最後にあったとき、彼女はぼくに渡すクリスマスプレゼントの話をしてくれた。お互い2千円を限度に、なんのヒントもなしにプレゼントを選ぶんだよといって、彼女は嬉しそうに笑っていた。その思い出を最後に、彼女はぼくの前から姿を消してしまった。
友達の伝手を頼って、彼女の同級生から情報を手に入れることができた。それによると、彼女は12月に入ってから一度も登校していなかった。無遅刻無欠席だった彼女が不意に登校しなくなれば、当然周囲も疑念を抱く。だけど彼女の担任は、家庭の事情で休んでいるとだけ伝え、それ以上は何も話さなかったらしい。
冬休みに入った最初の日、ぼくは意を決して彼女の自宅を訪ねた。彼女の家は、ぼくの住む街からそれ程離れていない大きな街の駅前に建つマンションの七階にあった。行ってはみたけれど、エントランスはオートロックで、中に入ることはできなかった。ぼくは小一時間ほどエントランス前をうろつき、住人らしい小学生が自動ドアを開けた際にエントランスに侵入した。
エレベーターで七階に向かったが、同じような玄関が十数件も並んでいて、どれが彼女の住む部屋なのかを知る方法は無かった。その頃になってようやく、誰かに見咎められ警察を呼ばれたらどうしようという恐怖が沸いてきた。冷静になって考えてみれば、ぼくがやっていることは、彼女に対するストーカー行為以外の何物でもない。どんな理由があれ、ぼくに連絡を取ってこないということは、彼女にとってぼくはもう必要のない人間なのだということに、今更ながら気がついた。
エレベーターで1階のエントランスに戻り外へ出ようとしたとき、エントランスの郵便受けを見て違和感を抱いた。郵便が溢れ、入りきらない封筒が何通か床に落ちているボックスを見つけ、近づいて床に落ちている封筒を拾い上げてみた。宛名に彼女の苗字と、父親であろう男の名前が記載されていた。
郵便の大半は督促状だった。何十枚とある封筒のほとんどに、至急開封とか重要書類在中という文字が印刷されていた。派手な赤色の封筒の大半には、宛名書きより大きな文字で警告と記されていた。それらが何を意味するのかは、十代のぼくにも十分に理解できた。郵便受けと同じ番号の部屋の前まで行って部屋の様子を伺ってみたけど、中に人がいる気配は感じられなかった。
夜逃げという言葉は知っていたが、それが現実に行われることがあるなどと、ぼくはただの一度だって考えたこともなかった。だがそれは存在し、確実に実行されたいた。相手の注意を引くために派手に彩られた封筒に刻印された、督促や警告の文字。不意に連絡が取れなくなるスマートフォン。十年近く無遅刻無欠席を貫いてきたのに、ある日突然、学校に来なくなる十七歳の少女。それら全てが、この世界のルールから逸脱してしまった者とその家族に対する容赦のないペナルティの証だった。
彼女とその家族は、おそらくもうこのマンションに住んではいない。彼女の家庭は、なんらかの理由で経済的に破綻していた。ぼくの前から姿を消すまで、彼女にそんな素振りは微塵も感じられなかったから、それは唐突にこの家庭を襲い、一瞬にして壊滅的な被害をこの家族にもたらしたのだろう。
ぼくは自宅に戻り、自分の部屋でスマホの画面を眺めながら何時間も過ごした。幾ら待ったところで彼女からの連絡は来ない。すでに彼女のスマホは解約されているようで、電話もメールも繋がることはなかった。
せめて一言でいいから、ぼくに伝えて欲しかった。何でもいい。たった一言でいいから、こうなる前に、ぼくに話してくれていれば・・・・・。
ぼくは何度もそう考え、その度にその考えを打ち消した。多分彼女は、最良の選択をしたのだ。家族の苦境を、自分の現在と未来が足元から崩れていくのを、赤の他人でしかないぼくに相談なんかできるわけがない。ぼくはただの高校生で、彼女と分け合って食べたドーナツのひとつだって自分の金で買ったことはない。例え相談してくれたとしても、住む家を手放さなければならないほどの問題を抱えた彼女に対して、ぼくがどんな言葉を返せるのだろう?答えはおそらくひとつだけで、それは彼女も十分知っていたはずだ。だからこそ彼女は、何も告げずにぼくの前から姿を消した。
次の日から、ぼくは彼女のいない生活を始めた。
ぼくは彼女に恋をしていた。恋をしていると思い込んでいた。17年という歳月の中の数カ月。その数カ月の中の、ほんの僅かな時間を共有しただけなのに、ぼくは彼女こそが、ぼくの運命の人だと信じて疑わなかった。だけどそれは、この世界の仕組みを何ひとつとして理解していない子供の幻想に過ぎなかった。
ぼくは大きく息を吐き、いつもより歩幅を大きく取って歩き出した。彼女が消えた世界に適応するのは、すごく難しいことだった。
だけど一度、いつもと変わりない日常に足を踏み出してみると、驚くほど早くぼくの生活は以前のリズムをとりもどしていった。
数カ月もすると、ぼくは彼女のことを幻のように思い始めていた。毎日乗る電車の中や、待ち合わせに使っていたドーナツショップの前を通るとき、反射的に彼女の姿を捜してしまうことはあったけれど、それでも彼女の記憶は曖昧なものになり、胸を苛む激烈な痛みは和らぎ、時間の経過と共に消えつつあった。
ぼくは模試で上位の成績を収め、ギターの腕も格段に上がっていた。友達と笑い合うこともできるようになったし、通い始めた学習塾で知り合った女の子と夜中まで電話で世間話をしたりできるようになった。
そうしてぼくは、凍えるように寒い高校2年の冬を乗り切り、3年に進級した。高校生としての最後の一年は、ただひたすら机に向かって問題を解いていた記憶しかない。ただ、英単語だけはほとんど覚える必要が無かった。彼女と問題を出し合ったあの数カ月のおかげで、受験に必要な単語は全て完璧に覚えてしまっていたからだ。
月日は容赦なく記憶を奪い去り、一生忘れることはないと信じていた彼女の姿は、深い霧の中にいるように曖昧になっていった。信じられないことに、ぼくは彼女の利き腕を覚えていなかった。左利きならきっと印象に残っていたはずだから、多分彼女は右利きだったはずだ。だけどそれを確かめる術は、おそらく永遠に失われてしまった。それにぼくは、本当にそんなことが知りたかったのだろうか?それはもう過去の話で、何の意味もない記憶の残滓でしかない。
ぼくが彼女と再会したのは、彼女がぼくの前から消えて3年ほど経過した、冬の夜だった。
ぼくらは高校2年の初夏に出会い、秋を共に過ごし、冬を迎えた。17歳の恋の大半がそうあるように、世界はぼくら二人を中心に回っていて、遮るものなんかひとつもないと信じて疑わなかった。ぼくらには大学入試という共通の目的があったけれど、それは二人の関係にほんの僅かな影を差すこともなかった。ぼくらは理想的な友人でありライバルで、その関係は確実に恋人へと移行しつつあった。
12月になり、彼女との連絡が取れなくなった。年明けに行われる全国共通模試の申し込みに一緒に行こうと約束していたのに、その日、彼女は姿を見せなかった。
スマホで連絡を取ろうとしたけれど、何度着信をいれても彼女は応答せず、やがて電源が入っていないというメッセージだけが繰り返し流れるようになった。
通学に利用していた電車にも乗らず、駅にすら姿を見せなかった。待ち合わせに使っていたドーナツショップで幾ら待ってみても、彼女が姿を現すことはもう二度となかった。
ぼくは混乱し、困惑し、なぜこうなったのかを考えてみた。いくら考えても、ぼくに思い当たる節は無かった。最後にあったとき、彼女はぼくに渡すクリスマスプレゼントの話をしてくれた。お互い2千円を限度に、なんのヒントもなしにプレゼントを選ぶんだよといって、彼女は嬉しそうに笑っていた。その思い出を最後に、彼女はぼくの前から姿を消してしまった。
友達の伝手を頼って、彼女の同級生から情報を手に入れることができた。それによると、彼女は12月に入ってから一度も登校していなかった。無遅刻無欠席だった彼女が不意に登校しなくなれば、当然周囲も疑念を抱く。だけど彼女の担任は、家庭の事情で休んでいるとだけ伝え、それ以上は何も話さなかったらしい。
冬休みに入った最初の日、ぼくは意を決して彼女の自宅を訪ねた。彼女の家は、ぼくの住む街からそれ程離れていない大きな街の駅前に建つマンションの七階にあった。行ってはみたけれど、エントランスはオートロックで、中に入ることはできなかった。ぼくは小一時間ほどエントランス前をうろつき、住人らしい小学生が自動ドアを開けた際にエントランスに侵入した。
エレベーターで七階に向かったが、同じような玄関が十数件も並んでいて、どれが彼女の住む部屋なのかを知る方法は無かった。その頃になってようやく、誰かに見咎められ警察を呼ばれたらどうしようという恐怖が沸いてきた。冷静になって考えてみれば、ぼくがやっていることは、彼女に対するストーカー行為以外の何物でもない。どんな理由があれ、ぼくに連絡を取ってこないということは、彼女にとってぼくはもう必要のない人間なのだということに、今更ながら気がついた。
エレベーターで1階のエントランスに戻り外へ出ようとしたとき、エントランスの郵便受けを見て違和感を抱いた。郵便が溢れ、入りきらない封筒が何通か床に落ちているボックスを見つけ、近づいて床に落ちている封筒を拾い上げてみた。宛名に彼女の苗字と、父親であろう男の名前が記載されていた。
郵便の大半は督促状だった。何十枚とある封筒のほとんどに、至急開封とか重要書類在中という文字が印刷されていた。派手な赤色の封筒の大半には、宛名書きより大きな文字で警告と記されていた。それらが何を意味するのかは、十代のぼくにも十分に理解できた。郵便受けと同じ番号の部屋の前まで行って部屋の様子を伺ってみたけど、中に人がいる気配は感じられなかった。
夜逃げという言葉は知っていたが、それが現実に行われることがあるなどと、ぼくはただの一度だって考えたこともなかった。だがそれは存在し、確実に実行されたいた。相手の注意を引くために派手に彩られた封筒に刻印された、督促や警告の文字。不意に連絡が取れなくなるスマートフォン。十年近く無遅刻無欠席を貫いてきたのに、ある日突然、学校に来なくなる十七歳の少女。それら全てが、この世界のルールから逸脱してしまった者とその家族に対する容赦のないペナルティの証だった。
彼女とその家族は、おそらくもうこのマンションに住んではいない。彼女の家庭は、なんらかの理由で経済的に破綻していた。ぼくの前から姿を消すまで、彼女にそんな素振りは微塵も感じられなかったから、それは唐突にこの家庭を襲い、一瞬にして壊滅的な被害をこの家族にもたらしたのだろう。
ぼくは自宅に戻り、自分の部屋でスマホの画面を眺めながら何時間も過ごした。幾ら待ったところで彼女からの連絡は来ない。すでに彼女のスマホは解約されているようで、電話もメールも繋がることはなかった。
せめて一言でいいから、ぼくに伝えて欲しかった。何でもいい。たった一言でいいから、こうなる前に、ぼくに話してくれていれば・・・・・。
ぼくは何度もそう考え、その度にその考えを打ち消した。多分彼女は、最良の選択をしたのだ。家族の苦境を、自分の現在と未来が足元から崩れていくのを、赤の他人でしかないぼくに相談なんかできるわけがない。ぼくはただの高校生で、彼女と分け合って食べたドーナツのひとつだって自分の金で買ったことはない。例え相談してくれたとしても、住む家を手放さなければならないほどの問題を抱えた彼女に対して、ぼくがどんな言葉を返せるのだろう?答えはおそらくひとつだけで、それは彼女も十分知っていたはずだ。だからこそ彼女は、何も告げずにぼくの前から姿を消した。
次の日から、ぼくは彼女のいない生活を始めた。
ぼくは彼女に恋をしていた。恋をしていると思い込んでいた。17年という歳月の中の数カ月。その数カ月の中の、ほんの僅かな時間を共有しただけなのに、ぼくは彼女こそが、ぼくの運命の人だと信じて疑わなかった。だけどそれは、この世界の仕組みを何ひとつとして理解していない子供の幻想に過ぎなかった。
ぼくは大きく息を吐き、いつもより歩幅を大きく取って歩き出した。彼女が消えた世界に適応するのは、すごく難しいことだった。
だけど一度、いつもと変わりない日常に足を踏み出してみると、驚くほど早くぼくの生活は以前のリズムをとりもどしていった。
数カ月もすると、ぼくは彼女のことを幻のように思い始めていた。毎日乗る電車の中や、待ち合わせに使っていたドーナツショップの前を通るとき、反射的に彼女の姿を捜してしまうことはあったけれど、それでも彼女の記憶は曖昧なものになり、胸を苛む激烈な痛みは和らぎ、時間の経過と共に消えつつあった。
ぼくは模試で上位の成績を収め、ギターの腕も格段に上がっていた。友達と笑い合うこともできるようになったし、通い始めた学習塾で知り合った女の子と夜中まで電話で世間話をしたりできるようになった。
そうしてぼくは、凍えるように寒い高校2年の冬を乗り切り、3年に進級した。高校生としての最後の一年は、ただひたすら机に向かって問題を解いていた記憶しかない。ただ、英単語だけはほとんど覚える必要が無かった。彼女と問題を出し合ったあの数カ月のおかげで、受験に必要な単語は全て完璧に覚えてしまっていたからだ。
月日は容赦なく記憶を奪い去り、一生忘れることはないと信じていた彼女の姿は、深い霧の中にいるように曖昧になっていった。信じられないことに、ぼくは彼女の利き腕を覚えていなかった。左利きならきっと印象に残っていたはずだから、多分彼女は右利きだったはずだ。だけどそれを確かめる術は、おそらく永遠に失われてしまった。それにぼくは、本当にそんなことが知りたかったのだろうか?それはもう過去の話で、何の意味もない記憶の残滓でしかない。
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