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かげふみ 後編
しおりを挟む翌朝、私は千雪と登校するのをやめた。
千雪と顔を合わせたくない、話したくない。そんな思いから、私は千雪を避けるようになったのだ。私は登校前に「今日は一人で学校へ行って」と、千雪に素っ気ない文面のメッセージを送り、一人で登校した。
そんな態度を取ったにも関わらず、教室で私を見掛けた千雪は、怒る素振りも見せず笑顔で私に近付いてくる。
「おはよう幸恵。ねえ今朝はどうしたの?」
「別に。ちょっと用事があって一緒に行けなくなっただけ」
私は普段より突き放した態度を取ったつもりだったか、千雪はいつも通り私の傍を離れない。
今迄と変わらず、トイレにまで一緒について来て、その日の昼食は私と同じものを頼むのだ。
私はそんな千雪に対して友情とは違う、歪んだ感情を抱くようになった。
どこへ向かう時ものこのこと私の後ろをついて来て、今日自分が食べるものですら、自分の意志で決められない。
優秀な癖に何もかもが人真似に過ぎない千雪の姿を、いつしか私は嘲笑の目で見るようになった。
しかし、周囲の人間は違う。周囲はどんな時も、私ではなく千雪を評価するのだ。光の中に居るのは、いつだって私ではなく千雪だ。
大勢のクラスメートに囲まれ、嬉しそうに笑顔を振りまく千雪。
自分一人ではなんにも決められないくせに、成績はいつも私より上で、彼女が何かをやり遂げる度、周囲は千雪を褒め称える。
千雪はますます美しくなっていく。称賛の声を浴び、人の輪の中心に立つ千雪は、私と同じ瞳や、私と同じ唇で、私とは違う笑顔を浮かべるのだ。
その日の放課後、私は千雪を避け一人で下校した。時間と共に千雪への嫌悪感が倍増していく。私の中で、酷く恐ろしい魔物が暴れているようだった。
校門を出たあたりで、私は忘れものに気付く。億劫だが仕方がないので、教室まで取りに戻った。
殆どの生徒が下校して、人気が無くなった教室。そこには二つの人影があった。
一人は千雪。そしてもう一人は……。
それはクラスメートの男子であった。彼は顔もよく、勉強もスポーツも出来る人気者で、女子の一番が千雪なら男子の一番は間違いなく彼だと言えるような人物だ。
あの二人が教室で何をしているのだろうか。いや、元々似た者同士の二人だ。何か接点があってもおかしくはない。
私は廊下から教室で揺れる二つの影を眺めていた。その影は醜悪な程に絡み合い、そして間もなく私は目を覆いたくなるような二人を目撃する。
彼が千雪にキスをしたのだ。
私はその場に居られなくなり、たまらず近くの女子トイレに向かった。
嘔吐しそうな程の嫌悪感が胸の奥で渦巻いている。この感情は何なのだろうか?千雪の『女』の顔を見てしまった事に対する倒錯的な感情か?それとも私に黙って男を作っていた千雪に対する、裏切りのような感情か?
ゼエゼエと荒くなる息と高鳴る鼓動を必死に抑えながら、私はトイレの鏡を覗く。
そこには酷く醜い顔をした私の姿が映っていた。
眉間にしわを寄せ、憎悪に満ちた瞳。奥歯を噛み締め、恐ろしく曲がった口元。
その夜叉のように歪んだ表情が、私にはどうしてだか、あの美しい千雪の本当の姿に見えてたまらないのだ。
千雪、どうして貴女は美しいの?私と同じ顔をした少女。なのに貴女は美しく、私の顔は酷く歪んでいる。
貴女は私の真似をしているだけ。なのに、光の中に立つのはいつも貴女。
誰もが貴女を評価する。誰もが貴女を褒め称え、賞賛の声を向け、愛情を注ぎ込む。
そんな時、貴女はいつだって、私に勝ち誇ったような目をして笑顔を振りまくのだ。
「貴女は私に勝てない」と、そう言いたいような顔をして。
鏡の奥に目を向ける。憎しみに狂ったような私の顔。それは私の顔であり、千雪の顔でもあった。
「そんな顔で見ないでよ千雪!」
私は鏡に向かって声を上げた。
その瞬間、背後から声が聞こえた。
「幸恵」
そこに居たのは千雪だった。
「千雪……」
「見ていたのね。さっきの教室での事」
千雪は何の感情も抱いていないような、能面のような表情で私に近付く。
「彼とはね、なんて事はないの。ただのお友達よ。それなのに幸恵ってば勘違いしちゃって」
私は声を張り上げた。
「馬鹿にしないでよ!ただのお友達?友達があんなふうに抱き合ったり、キスしたりする?そうやっていい加減な嘘をついて、私を誤魔化そうとでもしているの?」
千雪はゆっくりとした足取りで、私の目の前に立つ。
「どうして幸恵がそんなに怒るの?私が彼と仲良くするのはまずかった?それとも、まさか幸恵は彼の事……」
「いい加減な事を言わないで!」
千雪のひょうひょうとした言葉が、私をますます苛立たせる。自分でも、何故こんなに怒っているのか判らないのだ。
千雪が言うように、私は彼に憧れていたのだろうか?だから、そんな彼を奪った千雪が憎いのだろうか。
違う。私は千雪の、千雪の行動全てが憎いのだ。
私がどんなに苦労しても手に入れられないものを、何の苦労もなく手に入れてしまう千雪。何一つ持たない惨めな私を嘲笑うように、千雪は全てを取り込んでいく。
私は千雪自身が、千雪の全てが憎いのだった。
千雪はいつものように穏やかな微笑を浮かべている。
「幸恵、苦しそうな顔をしているわ。可哀相、きっと何か辛い事があったのね」
聖母のように優しい口振りで、千雪は私の目の前に立ち、両手を私の頬に添えた。その手はまるで氷のように冷たかった。
「触らないで!」
私は千雪の手を振り払った。千雪の表情から微笑みが消える。それは、私が初めて見る千雪の表情であった。
「なによ、その顔。同情でもしているつもり?」
私の口から刺々しい言葉が吐き出される。
「私の事、可哀相って言ったよね?」
千雪がうなずく。
「本当はずっとそう思っていたんでしょう?可哀相だって……ううん、そんなの綺麗事。私の事、哀れだって思っていたんでしょう!?」
抑えきれない感情が私の心を支配する。私は今まで胸の内に溜めていた、何かどす黒いような感情を目の前の千雪にぶつけ始めた。
「どうして?どうしてあんたはそうなの!?私と同じ顔をして、私の真似ばかりして、いつも影みたいにぴったりと後ろをついてくる。なのに、光の中に居るのはいつだって私じゃなくてあんたばかり!」
千雪は悲しそうな顔をしながら私の顔を見詰めている。
「私と同じ顔なのに、綺麗だと褒められるのはみんな千雪。沢山の人に囲まれて、賞賛されて、その度にいつも得意げに笑っていたわよね?あんたとは違うっ て、私に言うように!勉強も運動も、何でもできる癖に、いつも私に引っ付いてばかり!私の真似ばかりしている癖に、最後に笑うのはいつもあんた。私、そん なあんたが憎くてしょうがないのよ!」
恐ろしいほどの罵声が響き渡る。私の心に眠っていた、妬み、憎しみが全て解き放たれたようだった。 何故こんなにも、千雪が憎くなったのだろうか。鏡の ように、双子のように、私と同じ姿を持ちながら、私に無い物を全て持っている千雪。彼女が光だとしたら、私は影なのだろうか。称賛される事も、注目される 事もなく、光の中で微笑む千雪を、ただ恨めしい気持ちで見詰めるだけの。
「……私は影じゃない」
それは、千雪に向けたものではない。自分自身の心に向けた言葉だった。
「私はあんたの影じゃない!あんたさえ居なければ、あんたさえ居なければ、私はきっと……!」
その時、千雪は私の両腕を掴んだ。
「千、雪……?」
千雪は人形のように表情を凍らせている。その刺すように冷たい瞳が、私の顔に向けられた。
「そうね、貴女は影じゃない」
冷淡な口調で、千雪はそう言った。
「今日までは」
普段の顔とはあまりにも豹変した千雪を見て、私は思わず千雪の掴む手を払った。
「貴女は光に憧れていた。注目され、賞賛され、誰よりも輝き愛される、特別な存在になりたいと思っていた」
「ち、違う……」
千雪の言葉は遮る私の声にも反応せず、淡々とした口調で続いた。
「なのに貴女は、いつだって他人を羨むばかり。自分から変わろうともせず、こうなればいいと自分の理想を思い描くだけ。臆病で嫉妬深くて、その癖自信家で何にも出来ない癖に理想ばかりを追いかけていた」
「違うわ!私、そんなんじゃない!」
千雪の両手が私の首を掴んだ。
「わたしはもうひとりのあなた」
千雪の両手に力が入る。
「私は貴女が思い描いた理想の貴女。貴女が鏡を覗き込むたびに空想した、貴女がなりたかった本当の姿」
「く……苦しい……」
私はやっとの思いで必死の声を絞り出した。
「貴女は光に憧れていた。だけど、光になろうとはしなかった。貴女が生み出したのは私。理想と現実逃避を重ねるうちに、貴女はもう一人の自分を作り出した。貴女自身が影になるのと引き換えに」
目の前が霞みだし、歪んでいるように感じた。それは、蜃気楼のように揺れながら、私の体を包み込んだ。
「だから私は影を踏んだ。貴女の住む世界で、貴女が思い描いた光を浴びる為に」
千雪の手が私の首を離れる。私は眩暈に襲われたような感覚のまま、その場に倒れ込んだ。
「さようなら、幸恵」
そう言って千雪は、またいつもの美しい微笑みを浮かべるのだった。
「ま、待って千雪……」
私は千雪に手を伸ばした。目の前にひんやりとした、見えない壁のようなものを感じた。
これは鏡だ。鏡の向こうには、さっきまで居た女子トイレの景色が広がっている。
「嫌あああ!千雪!お願い!ここから出して!」
どんなに力強く叩いても、その鏡は一向に壊れる事が無い。
「千雪!」
鏡の向こうから声がした。それは、景子の声であった。
「一人で何をしているの?私、部活が終わったところだから一緒に帰ろうよ」
ニコニコと笑いながら、景子は千雪に話しかける。
「景子!ねえお願い!ここから出して!お願いよ景子!」
私の声などまるで耳に入っていない様子で、千雪は景子に言葉を返す。
「一人……そう、一人ね。私は一人。ずっと一人しか居なかった」
「やだ、千雪ったら何を言ってるの?早く帰ろうよ」
景子は千雪にそう声を掛けると、足早に女子トイレから出ていった。
「景子!景子!ねえ、行かないで!」
泣き叫びながら呼ぶ声も、景子にはまるで聞こえていない。
透明な鏡越しに、千雪は再び私の顔を覗き込んだ。
「さようなら幸恵、もうここは貴女の居場所じゃない。貴女は影、私は光。お互いの世界で生きましょう」
千雪はそう言って、最後にとびきり美しい笑みを見せた。それは、誰からも称賛を浴び、愛され、全てに勝ち誇った表情で笑う千雪よりも遥かに美しく、残酷な笑みだった。
やがて、私と千雪を隔てる一枚の鏡は闇に包まれ、千雪の姿も闇の中に消えていった。
私は最後に見せた千雪の笑みを思い出しながら、ゆっくりと闇の中に飲み込まれていった。
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