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前編
しおりを挟む淫魔の成熟には個人差があると言ったって。
ーーいくらなんでも、これはない……。
熱い体とは裏腹に、泣きそうな気分を飲み込んで、保健室のベッドで眠る担任を見ていた。
◆◇◆◇
放課後の、クラスメイトがパラパラと帰り始めた頃。
「おーい、佐木!課題提出しろって田代先生が言ってたぞー!」
声の主を振り返らず、「はーい」と適当な返事を向けた。
周りじゃ珍しくもないけど、こんな態度は普段とらない。
鞄から出し忘れていたノートを出していると、フと後ろに気配がした。
「佐木?調子悪いんか?」
頭の上から掛けられた声が耳朶に響く様で。
振り向きもしないのは、さすがに違和感があったか。
自分の行いの所為とはいえ、苦い気持ちで見上げた。
「んーん。だいじょーぶ。ありがとタニセン」
「そか。ならいい。職員室行くから渡してやろうか?」
背の高いこの担任教師・谷川健斗は、肩の力が抜けてるけど明るいタイプの高校教師。体育担当。
対する私・佐木美夜は、タニセンの生徒。高3になったところ。
人間として暮らしているけれど、淫魔の血が入ってる。
親に聞いた時は冗談かと思ってたけど、精気を求めた発情を経験したら、イヤでも実感した。
……普通じゃないんだなぁって。
『アナタ、お姉ちゃんより発育早そうだから、先に言っとくわね』って。
その姉にはそれっきり伝え忘れたらしいけど。
苦い苦い気持ちをため息でやり過ごす。
「いやいや。自分でいくよ」
その私を呼んだ田代先生は、フェロモンに弱いタイプらしくて、淫魔のそれにあてられている。
私への執着のようなものがあるから、タニセンが持ってったら、タニセンに嫌味言うだろ~な~と想像つく。
きっと少しぐらい触って来るだろうが、フェロモンを発する私にも原因があるんだろうし。別に田代先生だって、生理的に無理というほど変な男性ではない。
…ただタニセンじゃないとイヤだと身体が拒絶し出してしまっただけで。
発情が始まった辺りで、私に惹かれたらしい男子と付き合ったり、一度だけ体の関係を持ったりした事があった。精気の摂取を行った、必要に迫られて。
精気への飢餓が始まったのは、丁度タニセンに出会った頃だった。
新卒で赴任して来て、壇上に立つ彼から目が離せなかったのを覚えている。
でも仕方がないじゃないか。タニセンの精気をもらってしまったら、彼は淫行教師となってしまう。
それに、フェロモンの効きにくい体質のようで、それらしい目で見られた事などないのだ。
夢に入ってしまおうか、なんて思ったけど、中途半端に摂取して、その後箍が外れることなど分かりきっている。
好きなひとを貶めたいと思う人など居るのだろうか。
ーー彼が欲しいと泣く身体を何とか押し込めて。
鞄を机にかけ直して、職員室へ行く為に廊下へと出た。
昨日から体調が安定しない。
そろそろ摂取しないとなぁ。
誰かいるだろうか。真っ先に浮かぶ顔は自分の中で即却下なのに。
「お~い、一緒に行こうぜ~」
「も~子どもか。」
タニセンが追いかけて来た。
呑気なエモノに、呆れた声を返す。
私の理性のおかげで今も教師でいられるんだぞ、という八つ当たりめいた気持ちが湧いてしまう。
横に並ばれると匂いを嗅いでしまうのは、本能だからって言い訳。
早く職員室へ着いて。嘘だずっと着かないで。
無情にも彼の大きな手で、その扉は開いてしまう。
「田代先生~!佐木持ってきました~!」
タニセンの声に、少しムッとして田代先生がこっちへ来る。
ノートを差し出しながら、「遅れてすみませんでしたぁ~」と若干反省の色を見せる。だって目が。こっわ。
「佐木さん、何度目ですか?準備室へ来なさい。」
な、何度め!?そんなに言われる程じゃない筈だけど…2人きりになりたいんだな~…
この人から精気か~…気が進まない。こっちは進んで淫行に及ぼうとするんか~い。
「は~い…」
進もうとする私たちをタニセンが止める。
「佐木の提出物遅延は何度目なんですか?」
ん?タニセン?
なんか知らん間に目の前にでっかい壁の如く立っている。
え?と思いながら、隣に移動して見上げる。
「何度でもいいだろう!態度がなっていないんだ!」
田代先生が苛立った声で応える。
タニセンは背に隠したそうな動作をしたが、私は顔を覗かせ続けた。
「どの様な態度でしょう?佐木の普段の態度は担任である私がよく知っています。授業を阻害する様なことも、課題未提出を続ける様なこともするとは思えません。もし、その様に注意すべき態度でしたら、担任として田代先生と一緒に面談させて頂きます。」
見たことのない、目が笑ってない笑顔と、穏やかそうな声なのに有無を言わさぬ圧を纏って発される言葉と。
え?誰?って職員室にいる皆が思ったと思う。私も思った。
それぐらい、普段のゆる~んとしたタニセンからかけ離れていた。
「…ッフン、佐木!次から気をつけなさい!」
「…はぁい」
一応いい子に返事だけはしておいた。
すげー負け犬の遠吠え感が拭えない。
田代先生は、タニセンの正論にひと言も言い返せず職員室を出て行った。
いや~多分、悪い人ではない筈なのだ。フェロモンにあてられなければ。心の中で謝罪しながらも。
あぁあぁあーーーー…????
なんだこのかっこいいひとーーーーー…!!
赤くなった顔と潤んだ目を、一瞬タニセンに見られて、慌ててパッと俯く。
嬉しい。すごく。
普段の私を見ていてくれた。
身を挺して庇ってくれた。
大切に扱ってくれた。
その全てが、担任としてだったとしても。
嬉しくて嬉しくて、顔に熱がこもる。
目頭が熱く震える。
「佐木、この後部活行くんだろ?その後家に送る。保健室集合な。」
もーー…どこまで。
私が真剣に部活通ってる事なんか、今までの担任知らなかったと思うよ。
朝礼で表彰される様な事はないし。
「…うん、ありがとう」
その時の私は、嬉しさで冷静じゃなかった。
マトモに考えたなら、強烈にいい匂いのするひとと、一緒に車になんか乗れる筈ないと断っただろうから。
でも、事件はそれよりも前に起こったのだ。
◆◇◆◇
先生を待つし、と普段よりも長引いた部活の後片付けを全て請け負ったのが失敗だったかも。
もうタニセン受け持ちの陸上部の、部室の明かりも消えていた。
慌てて保健室に入ると、もう養護教諭の先生はいなかった。
タニセンの姿も見当たらない。
でも部屋の明かりは付いている。
「…タニセン?」
囁いても返事はない。
少し歩いて、覗き見たベッドに、寝息を立てる愛しいひとがいた。
疲れてるのに。
早く帰りたかっただろうに。
タニセンの心遣いが、より沁みる。
こんなに良い“先生”なのに。
色目なしで彼を見たかった。
ただの生徒として慕っていたかった。
ーーーそう思った途端、反発するかの様に、未だかつて経験したことのない程の発情が襲って来たのだ。
ズクリと疼いた合図と共に、息が上がる。
身体が精気を求めて準備を始める。
でも今までの比ではない。
こんなに早く下着が使えな苦なる程濡れた事はなかったし、歩くことが困難になった事はない。
いやだ。
いくら…
淫魔の成熟には個人差があると言ったって。
いくらなんでも、これはない……。
ーーー繁殖期だ。
繁殖期なんて、何で今。
姉は社会人になって暫くしてからだった。
母だって私ほど早くない。
何で今なの…?
ベッドで寝息を立てる度に上下する、その男らしい喉が。
形のいい唇が、高い鼻梁が。
今は閉じられている、真っ直ぐな目が。
その柔らかそうな髪が、ジャージから出る筋が立つ逞しい腕が。
いやになる程欲しいのだ。
欲しい。
どうか与えて欲しい。
ーーーでも、絶対ダメだ。
荒い息を堪えて、タニセンに背を向けて歩き出そうとした、その時。
「夢にぐらい、入ってくれてもいいんじゃねぇ?」
背後から聞こえた言葉に、朦朧としかけた意識がはっきりとした。
な?夢?に入るって言った…?
淫魔の習性を知ってる人にしか分からない言葉だろう。
そして私が“そう”だと知っている人にしか。
掛けられない言葉ではないか。
ーー気が緩んだ。
タニセンの声で私の決死の我慢が決壊してしまった。
踵を返した筈の足は再び愛しいエモノへと足早に駆ける。
上履きを脱ぐのも忘れて、ベッドへと乗り上げ、最愛の男を押し倒す。
私の力になど容易に抵抗できるだろう彼は、素直に倒れて、私の腕を撫でた。
「…やっとだ。」
ゾクリとするほど、色を孕んだ声音に、私の官能はすぐさま平伏した。
ーーーーーーーーー
後編は明日投稿予定です。
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