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いぬ
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初夏の爽やかな気候に誘われて、種村栄吾は吾妻山に向かった。
大平村の先に、いい渓流があると聞いたのだ。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。子犬の時分から飼っている可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。
水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれた。
栄吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
しかし、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなミズの群生を見つけた。何匹釣れるか分からない魚よりも、山菜の方が下女を喜ばせそうだ。
栄吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。
ぎっしりと魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。
見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。
屋根から煙が立ち上っていた。
栄吾が近づくと、一人の老婆が顔をのぞかせた。
七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで薄い白髪頭。小柄だったが背筋はしゃんと伸びている。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか」
「よござんすよ」
火の礼に、栄吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
栄吾は木陰に座って煙管をくわえた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れた。
老婆の飼い犬らしい。栄吾の側でうずくまっていたハクは尾をたて、挨拶するようにそちらへ向かった。
赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクはぴたりと立ち止まり、前屈みになって歯をむき出した。赤犬もそれに応じ、すごみのあるうなり声をたてた。
ハクはおびえもせずに、赤犬のまわりをぐるぐる回って吠え始めた。栄吾が止めようとした時、老婆がでてきた。
「うるさいやつだねえ」
老婆は、ちっと舌打ちした。
「おまえ、懲らしめておやり」
赤犬はハクにとびかかった。
栄吾は、あわてて赤犬を追い払おうとした。
が、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますからね」
立ちつくす栄吾に老婆は冷たく言い、力まかせに小屋の戸をしめた。
赤犬は血のついた口のまわりをなめながら栄吾を一瞥し、林の奥に姿を消した。
栄吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱え上げた。
山に埋め、家に帰った。
†
悔しさは、日を追うごとにつのってきた。
あの時は怒りよりも、ハクを失った悲しみが勝っていて、老婆や赤犬に仕返しすることもできなかったのだ。
仇をとってやらなければ、ハクもうかばれまい。
あの赤犬に勝る犬を手に入れなくては。
そして、もう一度山に乗り込むのだ。
どこかにいい犬はないものか。
知り合いに声を掛け、自分でも探してみた。
望みの犬はなかなか見つからなかった。
その夕暮れ、所用を終えた栄吾は川井小路をぶらぶらと歩いていた。
ぼっとした黄昏時に、すれ違う者もまばらだった。
四つ辻にさしかかった時、栄吾の目の前を白い影が横切った。
栄吾は思わず立ち止まった。
犬だ。
ハクと同じ、白い犬だった。
しかし、その純白の毛並みはハクよりもはるかに美しい。
四肢は長く、鼻筋がすっと通っている。太い尾、ぴんと立った耳。
しなやかで、強靱そうな体つきは、狼をも思わせる。
栄吾が求めていた通りの犬だった。
それが、脇目もくれず東の方へ駆けていく。
栄吾は魅せられたように犬の後を追いかけた。
犬は、松川の橋を渡り、河原に下りた。
川辺を辿って行き着いたのは、下河原の刑場だった。
いつしか日も暮れ、満月に近い月が上っていた。
静かに流れる川は月明かりを映していた。川面も犬のつややかな毛並みも、光をふくんでいるかのようだった。
川石に、何か所か黒ずんだ大きな染みが残っていた。
今日処刑された罪人の血だ。
しばらくそれをなめ続けた犬は、やがて月を見上げ、刑場に背を向けた。
飼い主の元に戻るのか。
これほどみごとな犬が、野良犬であるはずはないと栄吾は確信していた。誰が飼っているかつきとめ、頼み込んで譲ってもらうことにしよう。
栄吾は、来た時よりも早足な犬の後をつかず離れず追いかけた。
犬は再び橋を渡って川井小路に戻り、柳町をすぎて商家が並ぶ東町に入った。
東町のとある家の前で犬は歩みをとめた。
家の戸はわずかに開いている。
犬はするりと戸をくぐった。
†
「あら、お帰りなさいませ」
戸が閉まると、家の中から若い女の声が聞こえた。
「遅うございましたこと」
「すまんな。いろいろ用を足しているうちにこんな時間になってしまったよ」
こんどは男の声だ。
今入ったのは、犬だけだったはず。
栄吾は首をかしげた。別の出入り口でもあるのだろうか。
ともあれ、犬がこの家にいるのは間違いあるまい。
飼い主に話をしてみよう。
栄吾は戸を叩いた。
ほどなく、手燭を持った主が現れた。
三十路を越えたぐらいの優男だ。見知らぬ栄吾に、不思議そうに、
「どなたさまでございましょう。何のご用で」
「夜分にすまないが」
栄吾は自分の名を告げた。
「実は市中でこちらの犬を見かけてな。一目で気に入ってしまった。譲ってはもらえないだろうか」
男は眉をひそめ、静かに言った。
「なにかのお間違かと。手前どもでは、犬など飼っておりません」
「いや、そんなはずはない」
栄吾は言いつのった。
「川井小路からずっと後をついて来たのだ。確かにこの家に入った。おぬしが帰ったのと同じ時だったな。声が聞こえた」
「それは……」
男は口ごもった。栄吾は男をひたと見つめた。
「中にいるのだろう」
男は目をそらし、黙り込んだ。
「隠すことはないではないか」
栄吾は、荒らげた声を低くした。
「おや、帯に白い毛がついているが」
男ははっとして帯を見た。その表情が、栄五の求める答えを語っていた。
栄吾は、男ににやりと笑いかけた。
男は観念したように、
「お入り下さい」
†
男の家は小間物屋だった。棚に櫛やら口紅やらが置いてある。
細面の美しい女が顔をのぞかせ、不思議そうに頭を下げた。男の女房なのだろう。
男はかまわなくてもいいといったふうに首を振り、栄吾を奥の間に導いた。
栄吾はあたりを見まわしたが、犬の気配はない。
安兵衛と名乗った男に栄吾は、
「で、犬はどこに?」
安兵衛は行燈に火をつけると、栄吾の前に座った。
しばらく黙り込み、やがて声を落として言った。
「あれは、私でございます」
栄吾は息をのんだ。
ゆらぐ行燈のあかりが、安兵衛の影を深くしていた。
「これ以上隠し立てをしても、あなたさまは周りで犬のことをお尋ねになるでしょう。みなに不審に思われては、女房が可哀想だ」
安兵衛は、ひと息に言った。
「人ならぬ身でありながら、長い年月、人に混じって暮らしてまいりました。この家の婿になり、女房にも満足し、人並み以上の幸せを味わっているはずなのに、時折どうしようもなく魔性が蘇るのです」
「魔性か」
栄吾は、呆然とつぶやいた。安兵衛の目は、暗く悲しげだった。
「処刑があるたび、人の血をなめて自分をなだめておりました。あなたさまにその浅ましい姿を見られていたとは」
安兵衛は両手をつき、うなだれた。
小刻みに震える男の肩を、栄吾はただただ見つめていた。
「正直に申しました。お願いでございます。このことはどうぞご内密に。化け犬が虫のいいことをとお思いでしょうが」
心底驚いていたものの、栄吾は安兵衛が哀れになった。
人に害をなすわけでもなく、これまで慎ましく生きてきたのだ。自分が咎めることではないだろう。
「よく打ち明けてくれたな」
栄吾は言った。
「むろん、誰にも言うつもりはない。ただ、ひとつ、頼みがあるのだ」
「私にできることでしたら、どんなことでも」
「ありがたい。犬をさがしていたのも、そのためでな」
栄吾は太平山でのことを安兵衛に話した。
「私は、どうあってもハクの仇をとってやりたい。力を貸してくれ」
「それはたやすいこと」
安兵衛はほっとしたように頷いた。
「承知してくれるか」
「お任せ下さい」
「早速、明日」
「それでは明日の夜明けごろ、七軒町の外れでお待ちしています」
「よろしく頼む」
栄吾は言った。
「首尾よくいけば、おぬしにはもう迷惑をかけん」
†
翌日、夜がしらみかけたころ、栄吾は城下はずれの七軒町についた。
待っていた安兵衛は、犬の姿をしていた。軽く尾を振り、栄吾に寄り添った。
あらためて近くで見ると、ほれぼれするほど美しく、力強い犬だ。頭をなでてやりたかったが、人間の安兵衛に悪いような気がして止めにした。
栄吾は安兵衛を伴い、早足で大平山に向かった。
老婆の家はすぐに見つかった。
木陰からうかがうと、老婆は外でなにやら仕事をしており、赤犬ものっそりと側にひかえている。
安兵衛はしばらく一人と一匹を眺めていた。
やがて、鼻先に皺を寄せて栄吾を見上げた。
「種村さま。あれを人だとお思いか?」
「なんだと」
「私と同じ、魔性の臭いがいたします。犬からも、老婆からも」
栄吾は目を見ひらいた。どう見ても人間と犬なのだが、同類の安兵衛が言うなら間違いあるまい。
「ハクは化け物に殺されたのか」
「犬は私だけでなんとかなると思います」
考え深げに安兵衛は言った。
「しかし、二匹相手は難しい。婆の方をお願いできますか」
栄吾は腰の刀に手を伸ばした。
「斬るか」
「相手は人間ではありません。簡単には斬れないかと」
「どうすればいい」
「喉笛を狙ってください。急所はそこしかありません。遅れを取っては反対に咬み殺されてしまいますから、ご注意を」
「わかった」
臆病者ではないつもりだ。栄吾は大きくうなずいた。
「では」
安兵衛は念を押すように栄吾を見、すばやく木陰から飛び出した。
脇差しを抜き、栄吾も後に続いた。
安兵衛は一直線に赤犬に向かい、その首に噛みついた。
赤犬は大きく吠え、安兵衛を振り払らう。二匹はもつれながら激しい咬み合いをはじめた。
驚いた老婆は、白髪を振り乱して、赤犬に加勢しようとした。
栄吾は老婆の腕をつかんで押し倒した。安兵衛に言われた通り、ためらいなくその喉元に刃を突き刺した。
老婆は獣のようなうめきを上げてのたうった。
瀕死の年寄りとは思えぬほどの力で栄吾を押しのけようとする。
栄吾は夢中で老婆を抱え込んだ。老婆の姿がみるみる毛深く、膨れあがっていった。
大きく口が裂け、むき出しになった牙が空を噛む。栄吾はひるまず同じ場所を刺しつづけた。
弾けたように痙攣が走り、それは動かなくなった。
安兵衛も、赤犬の喉を喰いちぎっていた。
栄吾と安兵衛は、肩で大きく息をして顔を見合わせた。
倒れているのは子牛ほどもある巨大な猫二匹だった。
血にそまった斑の毛は針金のように太く、尾が二つに割れている。
何百年もの歳を経てきた猫又だ。ハクの命さえととらなければ、まだしばらくはこの山奥でぬくぬくと生きていられたものを。
栄吾は猫又の前にどっかりと座り、煙草をくゆらした。
安兵衛に、さほどの怪我はないようだ。身体についた血糊をなめながら、毛繕いをはじめた。
その目は満足げに細められていた。
†
安兵衛の正体を、栄吾はむろん誰にも話さなかった。
東町の家にも近づかず、そっとしておくつもりだった。
しかし、どういうわけか町中に噂が広がり始めた。
東町の安兵衛は犬であると。
安兵衛の家に出入りする犬が、何度も人の目についたのだ。店にも奥にも犬などいないというのに不思議なことだ。
犬安兵衛。
そう人々は囁き交わした。
栄吾は後ろめたく思った。安兵衛は、これを怖れて自分に力を貸してくれたというのに。
安兵衛の魔性をこらえきれなくしてしまったのはこの自分だ。たまに罪人の血を舐めるぐらいで抑えていたものが、猫又との戦いで大きく呼びさまされてしまったのだろう。長く人の姿を保てなくなったのかもしれない。
栄吾とて、猫又の首に刀を突き刺した時の感触を忘れられないでいる。
右手に伝わってきた断末魔の蠢きを、どこかでもう一度味わってみたいとすら思う。
魔性の誘惑は、それ以上のものにちがいない。
安兵衛に、むしょうに会いたくなった。人ではなく、犬の安兵衛に、だ。
またあの美しい犬の姿を目にしたかった。ともに猫又と戦った時の夢をくりかえし見た。
栄吾がついに東町に行こうとしたやさき、安兵衛は姿を消した。
以来、栄吾は夜の城下を歩きまわっている。
安兵衛が、どこかをさまよっているような気がして。
処刑のあった日などは、かかさず河原までも足を伸ばす。
安兵衛の家まで行くと、たいてい戸が細く開いている。
さびしげに通りを見つめる安兵衛の女房を見かけることもある。
城下には、たびたび辻斬りが現れるようになった。
安兵衛の行方はついぞ知れない
大平村の先に、いい渓流があると聞いたのだ。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。子犬の時分から飼っている可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。
水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれた。
栄吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
しかし、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなミズの群生を見つけた。何匹釣れるか分からない魚よりも、山菜の方が下女を喜ばせそうだ。
栄吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。
ぎっしりと魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。
見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。
屋根から煙が立ち上っていた。
栄吾が近づくと、一人の老婆が顔をのぞかせた。
七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで薄い白髪頭。小柄だったが背筋はしゃんと伸びている。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか」
「よござんすよ」
火の礼に、栄吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
栄吾は木陰に座って煙管をくわえた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れた。
老婆の飼い犬らしい。栄吾の側でうずくまっていたハクは尾をたて、挨拶するようにそちらへ向かった。
赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクはぴたりと立ち止まり、前屈みになって歯をむき出した。赤犬もそれに応じ、すごみのあるうなり声をたてた。
ハクはおびえもせずに、赤犬のまわりをぐるぐる回って吠え始めた。栄吾が止めようとした時、老婆がでてきた。
「うるさいやつだねえ」
老婆は、ちっと舌打ちした。
「おまえ、懲らしめておやり」
赤犬はハクにとびかかった。
栄吾は、あわてて赤犬を追い払おうとした。
が、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますからね」
立ちつくす栄吾に老婆は冷たく言い、力まかせに小屋の戸をしめた。
赤犬は血のついた口のまわりをなめながら栄吾を一瞥し、林の奥に姿を消した。
栄吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱え上げた。
山に埋め、家に帰った。
†
悔しさは、日を追うごとにつのってきた。
あの時は怒りよりも、ハクを失った悲しみが勝っていて、老婆や赤犬に仕返しすることもできなかったのだ。
仇をとってやらなければ、ハクもうかばれまい。
あの赤犬に勝る犬を手に入れなくては。
そして、もう一度山に乗り込むのだ。
どこかにいい犬はないものか。
知り合いに声を掛け、自分でも探してみた。
望みの犬はなかなか見つからなかった。
その夕暮れ、所用を終えた栄吾は川井小路をぶらぶらと歩いていた。
ぼっとした黄昏時に、すれ違う者もまばらだった。
四つ辻にさしかかった時、栄吾の目の前を白い影が横切った。
栄吾は思わず立ち止まった。
犬だ。
ハクと同じ、白い犬だった。
しかし、その純白の毛並みはハクよりもはるかに美しい。
四肢は長く、鼻筋がすっと通っている。太い尾、ぴんと立った耳。
しなやかで、強靱そうな体つきは、狼をも思わせる。
栄吾が求めていた通りの犬だった。
それが、脇目もくれず東の方へ駆けていく。
栄吾は魅せられたように犬の後を追いかけた。
犬は、松川の橋を渡り、河原に下りた。
川辺を辿って行き着いたのは、下河原の刑場だった。
いつしか日も暮れ、満月に近い月が上っていた。
静かに流れる川は月明かりを映していた。川面も犬のつややかな毛並みも、光をふくんでいるかのようだった。
川石に、何か所か黒ずんだ大きな染みが残っていた。
今日処刑された罪人の血だ。
しばらくそれをなめ続けた犬は、やがて月を見上げ、刑場に背を向けた。
飼い主の元に戻るのか。
これほどみごとな犬が、野良犬であるはずはないと栄吾は確信していた。誰が飼っているかつきとめ、頼み込んで譲ってもらうことにしよう。
栄吾は、来た時よりも早足な犬の後をつかず離れず追いかけた。
犬は再び橋を渡って川井小路に戻り、柳町をすぎて商家が並ぶ東町に入った。
東町のとある家の前で犬は歩みをとめた。
家の戸はわずかに開いている。
犬はするりと戸をくぐった。
†
「あら、お帰りなさいませ」
戸が閉まると、家の中から若い女の声が聞こえた。
「遅うございましたこと」
「すまんな。いろいろ用を足しているうちにこんな時間になってしまったよ」
こんどは男の声だ。
今入ったのは、犬だけだったはず。
栄吾は首をかしげた。別の出入り口でもあるのだろうか。
ともあれ、犬がこの家にいるのは間違いあるまい。
飼い主に話をしてみよう。
栄吾は戸を叩いた。
ほどなく、手燭を持った主が現れた。
三十路を越えたぐらいの優男だ。見知らぬ栄吾に、不思議そうに、
「どなたさまでございましょう。何のご用で」
「夜分にすまないが」
栄吾は自分の名を告げた。
「実は市中でこちらの犬を見かけてな。一目で気に入ってしまった。譲ってはもらえないだろうか」
男は眉をひそめ、静かに言った。
「なにかのお間違かと。手前どもでは、犬など飼っておりません」
「いや、そんなはずはない」
栄吾は言いつのった。
「川井小路からずっと後をついて来たのだ。確かにこの家に入った。おぬしが帰ったのと同じ時だったな。声が聞こえた」
「それは……」
男は口ごもった。栄吾は男をひたと見つめた。
「中にいるのだろう」
男は目をそらし、黙り込んだ。
「隠すことはないではないか」
栄吾は、荒らげた声を低くした。
「おや、帯に白い毛がついているが」
男ははっとして帯を見た。その表情が、栄五の求める答えを語っていた。
栄吾は、男ににやりと笑いかけた。
男は観念したように、
「お入り下さい」
†
男の家は小間物屋だった。棚に櫛やら口紅やらが置いてある。
細面の美しい女が顔をのぞかせ、不思議そうに頭を下げた。男の女房なのだろう。
男はかまわなくてもいいといったふうに首を振り、栄吾を奥の間に導いた。
栄吾はあたりを見まわしたが、犬の気配はない。
安兵衛と名乗った男に栄吾は、
「で、犬はどこに?」
安兵衛は行燈に火をつけると、栄吾の前に座った。
しばらく黙り込み、やがて声を落として言った。
「あれは、私でございます」
栄吾は息をのんだ。
ゆらぐ行燈のあかりが、安兵衛の影を深くしていた。
「これ以上隠し立てをしても、あなたさまは周りで犬のことをお尋ねになるでしょう。みなに不審に思われては、女房が可哀想だ」
安兵衛は、ひと息に言った。
「人ならぬ身でありながら、長い年月、人に混じって暮らしてまいりました。この家の婿になり、女房にも満足し、人並み以上の幸せを味わっているはずなのに、時折どうしようもなく魔性が蘇るのです」
「魔性か」
栄吾は、呆然とつぶやいた。安兵衛の目は、暗く悲しげだった。
「処刑があるたび、人の血をなめて自分をなだめておりました。あなたさまにその浅ましい姿を見られていたとは」
安兵衛は両手をつき、うなだれた。
小刻みに震える男の肩を、栄吾はただただ見つめていた。
「正直に申しました。お願いでございます。このことはどうぞご内密に。化け犬が虫のいいことをとお思いでしょうが」
心底驚いていたものの、栄吾は安兵衛が哀れになった。
人に害をなすわけでもなく、これまで慎ましく生きてきたのだ。自分が咎めることではないだろう。
「よく打ち明けてくれたな」
栄吾は言った。
「むろん、誰にも言うつもりはない。ただ、ひとつ、頼みがあるのだ」
「私にできることでしたら、どんなことでも」
「ありがたい。犬をさがしていたのも、そのためでな」
栄吾は太平山でのことを安兵衛に話した。
「私は、どうあってもハクの仇をとってやりたい。力を貸してくれ」
「それはたやすいこと」
安兵衛はほっとしたように頷いた。
「承知してくれるか」
「お任せ下さい」
「早速、明日」
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「よろしく頼む」
栄吾は言った。
「首尾よくいけば、おぬしにはもう迷惑をかけん」
†
翌日、夜がしらみかけたころ、栄吾は城下はずれの七軒町についた。
待っていた安兵衛は、犬の姿をしていた。軽く尾を振り、栄吾に寄り添った。
あらためて近くで見ると、ほれぼれするほど美しく、力強い犬だ。頭をなでてやりたかったが、人間の安兵衛に悪いような気がして止めにした。
栄吾は安兵衛を伴い、早足で大平山に向かった。
老婆の家はすぐに見つかった。
木陰からうかがうと、老婆は外でなにやら仕事をしており、赤犬ものっそりと側にひかえている。
安兵衛はしばらく一人と一匹を眺めていた。
やがて、鼻先に皺を寄せて栄吾を見上げた。
「種村さま。あれを人だとお思いか?」
「なんだと」
「私と同じ、魔性の臭いがいたします。犬からも、老婆からも」
栄吾は目を見ひらいた。どう見ても人間と犬なのだが、同類の安兵衛が言うなら間違いあるまい。
「ハクは化け物に殺されたのか」
「犬は私だけでなんとかなると思います」
考え深げに安兵衛は言った。
「しかし、二匹相手は難しい。婆の方をお願いできますか」
栄吾は腰の刀に手を伸ばした。
「斬るか」
「相手は人間ではありません。簡単には斬れないかと」
「どうすればいい」
「喉笛を狙ってください。急所はそこしかありません。遅れを取っては反対に咬み殺されてしまいますから、ご注意を」
「わかった」
臆病者ではないつもりだ。栄吾は大きくうなずいた。
「では」
安兵衛は念を押すように栄吾を見、すばやく木陰から飛び出した。
脇差しを抜き、栄吾も後に続いた。
安兵衛は一直線に赤犬に向かい、その首に噛みついた。
赤犬は大きく吠え、安兵衛を振り払らう。二匹はもつれながら激しい咬み合いをはじめた。
驚いた老婆は、白髪を振り乱して、赤犬に加勢しようとした。
栄吾は老婆の腕をつかんで押し倒した。安兵衛に言われた通り、ためらいなくその喉元に刃を突き刺した。
老婆は獣のようなうめきを上げてのたうった。
瀕死の年寄りとは思えぬほどの力で栄吾を押しのけようとする。
栄吾は夢中で老婆を抱え込んだ。老婆の姿がみるみる毛深く、膨れあがっていった。
大きく口が裂け、むき出しになった牙が空を噛む。栄吾はひるまず同じ場所を刺しつづけた。
弾けたように痙攣が走り、それは動かなくなった。
安兵衛も、赤犬の喉を喰いちぎっていた。
栄吾と安兵衛は、肩で大きく息をして顔を見合わせた。
倒れているのは子牛ほどもある巨大な猫二匹だった。
血にそまった斑の毛は針金のように太く、尾が二つに割れている。
何百年もの歳を経てきた猫又だ。ハクの命さえととらなければ、まだしばらくはこの山奥でぬくぬくと生きていられたものを。
栄吾は猫又の前にどっかりと座り、煙草をくゆらした。
安兵衛に、さほどの怪我はないようだ。身体についた血糊をなめながら、毛繕いをはじめた。
その目は満足げに細められていた。
†
安兵衛の正体を、栄吾はむろん誰にも話さなかった。
東町の家にも近づかず、そっとしておくつもりだった。
しかし、どういうわけか町中に噂が広がり始めた。
東町の安兵衛は犬であると。
安兵衛の家に出入りする犬が、何度も人の目についたのだ。店にも奥にも犬などいないというのに不思議なことだ。
犬安兵衛。
そう人々は囁き交わした。
栄吾は後ろめたく思った。安兵衛は、これを怖れて自分に力を貸してくれたというのに。
安兵衛の魔性をこらえきれなくしてしまったのはこの自分だ。たまに罪人の血を舐めるぐらいで抑えていたものが、猫又との戦いで大きく呼びさまされてしまったのだろう。長く人の姿を保てなくなったのかもしれない。
栄吾とて、猫又の首に刀を突き刺した時の感触を忘れられないでいる。
右手に伝わってきた断末魔の蠢きを、どこかでもう一度味わってみたいとすら思う。
魔性の誘惑は、それ以上のものにちがいない。
安兵衛に、むしょうに会いたくなった。人ではなく、犬の安兵衛に、だ。
またあの美しい犬の姿を目にしたかった。ともに猫又と戦った時の夢をくりかえし見た。
栄吾がついに東町に行こうとしたやさき、安兵衛は姿を消した。
以来、栄吾は夜の城下を歩きまわっている。
安兵衛が、どこかをさまよっているような気がして。
処刑のあった日などは、かかさず河原までも足を伸ばす。
安兵衛の家まで行くと、たいてい戸が細く開いている。
さびしげに通りを見つめる安兵衛の女房を見かけることもある。
城下には、たびたび辻斬りが現れるようになった。
安兵衛の行方はついぞ知れない
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霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。
【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】
※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)
壬生狼の戦姫
天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。
土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──?
激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。
参考・引用文献
土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年
図説 新撰組 横田淳
新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博
漱石先生たると考
神笠 京樹
歴史・時代
かつての松山藩の藩都、そして今も愛媛県の県庁所在地である城下町・松山に、『たると』と呼ばれる菓子が伝わっている。この『たると』は、洋菓子のタルトにはまったく似ておらず、「カステラのような生地で、小豆餡を巻き込んだもの」なのだが、伝承によれば江戸時代のかなり初期、すなわち1647年頃に当時の松山藩主松平定行によって考案されたものだという。なぜ、松山にたるとという菓子は生まれたのか?定行は実際にはどのような役割を果たしていたのか?本作品は、松山に英語教師として赴任してきた若き日の夏目漱石が、そのような『たると』発祥の謎を追い求める物語である。
織姫道場騒動記
鍛冶谷みの
歴史・時代
城下の外れに、織姫道場と呼ばれる町道場があった。
道場主の娘、織絵が師範代を務めていたことから、そう呼ばれていたのだが、その織姫、鬼姫とあだ名されるほどに強かった。道場破りに負けなしだったのだが、ある日、旅の浪人、結城才介に敗れ、師範代の座を降りてしまう。
そして、あろうことか、結城と夫婦になり、道場を譲ってしまったのだ。
織絵の妹、里絵は納得できず、結城を嫌っていた。
気晴らしにと出かけた花見で、家中の若侍たちと遭遇し、喧嘩になる。
多勢に無勢。そこへ現れたのは、結城だった。
田んぼ作っぺ!
Shigeru_Kimoto
歴史・時代
非本格的時代短編小説
1668年、日照りで苦しむ農民のために立ち上がった男がいた。
水戸藩北部、松井村の名主、沼田惣左衛門。
父から譲り受けた村のまとめ役もそこそこに、廓通いの日々を送っていたのだが、ある日、村の者たちに詰め寄られる。
「このまま行けば、夜逃げしかねえ、そうなって困んのはオメエだ」と。
そこで、惣左衛門は咄嗟に言った。
「『灌漑用水』を山から引く用水路をつくろう!」
実は死んだ父の夢だったのだ。
村に水を引ければ安定して稲作が出来る。村人たちの願いと惣佐衛門の想いが合致した瞬間、物語は動き出す。
350年前の実話をもとに作者が手心を加えた日照りで水田の水に困窮した村人達と若き名主の惣佐衛門が紡ぐ物語。
始まります。
短編。
作中の度量換算、用語、単位、話法などは現代風に置き換えておきました。だって、わかり辛いもんね。
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