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「なぜなんだ」
永吾は矢兵衛を振り返った。矢兵衛の白い身体は、雪に溶けこみそうだ。黒々とした目が潤んでいる。
「わたしのせいです」
矢兵衛は言った。
「お夕は、わたしのために魔に堕ちてしまった」
「そんなことが──」
「わたしが」
矢兵衛は首を振り、ようやく低く声にした。
「あなたの方ばかりを向いていると、お夕は思ったのです」
永吾は言葉を失った。
死期が近いと悟ったお夕の、思いだけが迸しってしまったのか。
自分には届かない結びつきを矢兵衛と永吾に感じていた。どうしようもなく嫉妬し、鬼に変じた。死ぬのなら、永吾もろともに、と。
「おれはただ、犬のおまえといたかっただけだ」
「わたしも、この姿で隅倉さまといれば心地よかった」
矢兵衛は呻くように小さく唸った。
「ですが、お夕のことをもっと考えてやるべきでした。わたしと過ごした時間が長かっただけ、わたしの魔性がお夕に染みこんでしまった。最後の最後に、鬼にしてしまった」
罪は永吾にもある。永吾が矢兵衛の正体さえ暴かなければ、お夕はこんな最期をむかえずにすんだのだ。矢兵衛は魔性を抱えながらも、お夕と穏やかに日々をおくれたはずだった。
永吾は、お夕の腕を見つめた。細い、細すぎる指は、何かをつかみ取ろうとするかのように、むなしく宙に向かって曲げられていた。
「すまない」
永吾は、がくりと両手をついた。
「可哀想なことをしてしまった」
矢兵衛はしばらく黙り込んだ。
泣いているのかもしれなかった。
「わたしは、怖ろしいのです、隅倉さま」
やがて、矢兵衛は言った。
「わたしとかかわる者は魔性を帯びてしまう。あなたまで」
「そんなことはない」
「いえ」
矢兵衛は苦しげに言葉を続けた。
「おかしいとは思いませんか。いままでおとなしかった化けものが、なぜこのごろ城下に現れだしたのでしょう」
「なぜ?」
「なにかに導かれてだとは思いませんか」
永吾は考えた。幽霊や妖怪、化けもの話は昔から山ほど伝わっている。だがはっきりと形をなし、人間に危害を加えたのは最近の大蜘蛛と子喰い猿だけだ。
「呼んでいたのです、わたしたちが」
永吾ははっと目を見開いた。
たしかに、永吾は矢兵衛とともに戦う機会を追い求めていた。相手がなんであれ、ただ犬の矢兵衛の側で刀を振るうことが悦びだった。
おそらく矢兵衛にとっても。
「おれたちが、化けものを引き寄せていたというのか」
「お夕がこうなってしまい、気がつきました。あなたにもわたしの魔性が及んでいる。だから心が合わさって、やすやすと力を得たのです。自分たちが望むものを呼び寄せる力を」
永吾は愕然とした。
大蜘蛛も子喰い猿も、自分たちがいなければ人里になど現れなかったのか。彼らに襲われた者たちも、命を落とさずにすんだのか。
「みな、わたしが悪いのです」
「ちがう」
永吾は激しく首を振り、ようやく言った。
「おまえに会う前から、おれはこんな生き方がしたかった。ずっと、おまえのようなものを求めていた。おまえのせいじゃない」
「隅倉さま」
「おれには、たぶん最初から魔がひそんでいたんだ」
矢兵衛は永吾を見、お夕の腕に視線を移した。
「そうかもしれません。人の心のずっと奥にも、魔はかくれているのでしょう。ですが、わたしというものは、それを取り返しのつかないまで露わにしてしまう」
矢兵衛は辛そうに首を振って、縁に上った。
永吾に近づき、
「このままではまた化けものたちがやって来ます」
「ああ」
「無害だったものたちが、わたしたちの欲を充たすためにだけ禍を撒き散らす」
そして永吾と矢兵衛は彼らと戦い、戦いだけに悦びを見だし、さらに新しい獲物を呼び寄せることになるのだ。
永吾も遠からず、鬼になるかもしれない。矢兵衛はそれを怖れている。
「わたしは、あなたの側にいてはいけないのです、隅倉さま」
永吾は、矢兵衛を見つめた。
矢兵衛の漆黒の眼が、しばし永吾を映した。やがて矢兵衛は眼をそらし、お夕の腕をそっと咥えた。
「矢兵衛」
低く名を呼ぶ。
矢兵衛は永吾に目礼した。次の瞬間には、美しい犬の身体はひるがえって庭に下りていた。一度永吾を振り返ると、軽々と跳躍して塀を越えた。
永吾はその場に座り込んだまま、矢兵衛が行ってしまった闇にいつまでも目をこらしていた。
風はやみ、雪が静かに降りつづいた。
朝までには、矢兵衛の足跡も消えてしまうにちがいなかった。
東町の小間物屋が、女房の葬式を出した後、店をたたんで城下を去ったと聞いた。
それでも永吾は、夜の街を彷徨い歩かずにはいられない。
月の光にほのめく、白い影が現れるような気がして。
もう一度その姿が見たかった。
もう一度その美しい毛並みに指を埋めることができるなら、魔に墜ちても鬼になってもかまわないと、今となっっては思うのだ。
──参考『米沢地方説話集』
永吾は矢兵衛を振り返った。矢兵衛の白い身体は、雪に溶けこみそうだ。黒々とした目が潤んでいる。
「わたしのせいです」
矢兵衛は言った。
「お夕は、わたしのために魔に堕ちてしまった」
「そんなことが──」
「わたしが」
矢兵衛は首を振り、ようやく低く声にした。
「あなたの方ばかりを向いていると、お夕は思ったのです」
永吾は言葉を失った。
死期が近いと悟ったお夕の、思いだけが迸しってしまったのか。
自分には届かない結びつきを矢兵衛と永吾に感じていた。どうしようもなく嫉妬し、鬼に変じた。死ぬのなら、永吾もろともに、と。
「おれはただ、犬のおまえといたかっただけだ」
「わたしも、この姿で隅倉さまといれば心地よかった」
矢兵衛は呻くように小さく唸った。
「ですが、お夕のことをもっと考えてやるべきでした。わたしと過ごした時間が長かっただけ、わたしの魔性がお夕に染みこんでしまった。最後の最後に、鬼にしてしまった」
罪は永吾にもある。永吾が矢兵衛の正体さえ暴かなければ、お夕はこんな最期をむかえずにすんだのだ。矢兵衛は魔性を抱えながらも、お夕と穏やかに日々をおくれたはずだった。
永吾は、お夕の腕を見つめた。細い、細すぎる指は、何かをつかみ取ろうとするかのように、むなしく宙に向かって曲げられていた。
「すまない」
永吾は、がくりと両手をついた。
「可哀想なことをしてしまった」
矢兵衛はしばらく黙り込んだ。
泣いているのかもしれなかった。
「わたしは、怖ろしいのです、隅倉さま」
やがて、矢兵衛は言った。
「わたしとかかわる者は魔性を帯びてしまう。あなたまで」
「そんなことはない」
「いえ」
矢兵衛は苦しげに言葉を続けた。
「おかしいとは思いませんか。いままでおとなしかった化けものが、なぜこのごろ城下に現れだしたのでしょう」
「なぜ?」
「なにかに導かれてだとは思いませんか」
永吾は考えた。幽霊や妖怪、化けもの話は昔から山ほど伝わっている。だがはっきりと形をなし、人間に危害を加えたのは最近の大蜘蛛と子喰い猿だけだ。
「呼んでいたのです、わたしたちが」
永吾ははっと目を見開いた。
たしかに、永吾は矢兵衛とともに戦う機会を追い求めていた。相手がなんであれ、ただ犬の矢兵衛の側で刀を振るうことが悦びだった。
おそらく矢兵衛にとっても。
「おれたちが、化けものを引き寄せていたというのか」
「お夕がこうなってしまい、気がつきました。あなたにもわたしの魔性が及んでいる。だから心が合わさって、やすやすと力を得たのです。自分たちが望むものを呼び寄せる力を」
永吾は愕然とした。
大蜘蛛も子喰い猿も、自分たちがいなければ人里になど現れなかったのか。彼らに襲われた者たちも、命を落とさずにすんだのか。
「みな、わたしが悪いのです」
「ちがう」
永吾は激しく首を振り、ようやく言った。
「おまえに会う前から、おれはこんな生き方がしたかった。ずっと、おまえのようなものを求めていた。おまえのせいじゃない」
「隅倉さま」
「おれには、たぶん最初から魔がひそんでいたんだ」
矢兵衛は永吾を見、お夕の腕に視線を移した。
「そうかもしれません。人の心のずっと奥にも、魔はかくれているのでしょう。ですが、わたしというものは、それを取り返しのつかないまで露わにしてしまう」
矢兵衛は辛そうに首を振って、縁に上った。
永吾に近づき、
「このままではまた化けものたちがやって来ます」
「ああ」
「無害だったものたちが、わたしたちの欲を充たすためにだけ禍を撒き散らす」
そして永吾と矢兵衛は彼らと戦い、戦いだけに悦びを見だし、さらに新しい獲物を呼び寄せることになるのだ。
永吾も遠からず、鬼になるかもしれない。矢兵衛はそれを怖れている。
「わたしは、あなたの側にいてはいけないのです、隅倉さま」
永吾は、矢兵衛を見つめた。
矢兵衛の漆黒の眼が、しばし永吾を映した。やがて矢兵衛は眼をそらし、お夕の腕をそっと咥えた。
「矢兵衛」
低く名を呼ぶ。
矢兵衛は永吾に目礼した。次の瞬間には、美しい犬の身体はひるがえって庭に下りていた。一度永吾を振り返ると、軽々と跳躍して塀を越えた。
永吾はその場に座り込んだまま、矢兵衛が行ってしまった闇にいつまでも目をこらしていた。
風はやみ、雪が静かに降りつづいた。
朝までには、矢兵衛の足跡も消えてしまうにちがいなかった。
東町の小間物屋が、女房の葬式を出した後、店をたたんで城下を去ったと聞いた。
それでも永吾は、夜の街を彷徨い歩かずにはいられない。
月の光にほのめく、白い影が現れるような気がして。
もう一度その姿が見たかった。
もう一度その美しい毛並みに指を埋めることができるなら、魔に墜ちても鬼になってもかまわないと、今となっっては思うのだ。
──参考『米沢地方説話集』
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