白犬奇譚

ginsui

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 夜がしらみかけたころ、永吾は城下はずれの九軒町についた。
 矢兵衛は、犬の姿で待っており、静かに永吾に近づいた。
 永吾はあらためて矢兵衛を見つめた。
 矢兵衛のもたげた頭は、永吾の腰のあたりまでとどく。
 まったく、なんて見事な犬だろう。
 冴えて冷たく光る二つの目は、黒曜石さながらだ。純白の毛色は燐光を放つかのよう、寸分の狂いなく均整のとれた肢体。
 自分は魔であると矢兵衛は言ったが、たしかにこの世のものならぬ美しさだ。
 手をのばし、やわらかな絹糸めいた毛並みに指を埋めたい衝動を、永吾はようやくこらえた。矢兵衛に申し訳ないような気がする。
「参りましょうか」
 人の声で矢兵衛は言った。
「ああ」
 永吾は、我にかえってうなずいた。
「行こう」
 稲綱山の緑はいっそう深くなり、高い所ではほのかな色づきもあった。平地よりもずっと風が冷たくなっている。
 永吾はハクを埋めた場所に寄って手を合わせた。
 仇は必ずとってやると心に誓い、老婆の小屋に向かった。
 矢兵衛は小屋が見える木陰で立ち止まった。老婆は外でなにやら仕事をしており、赤犬ものっそりと側にひかえている。
「あれでございますね」
 矢兵衛は低く言った。
「ああ」
 矢兵衛はしばらく一人と一匹を眺めていた。
 やがて、鼻先に皺を寄せて永吾を見上げた。
「隅倉さま。あれを人だとお思いか?」 
「なんだと」
「私と同じ、魔性の臭いがいたします。犬からも、老婆からも」
 永吾は目を見ひらいた。どう見ても人間と犬なのだが、同類の矢兵衛が言うなら間違いあるまい。
「ハクは化けものに殺されたのか」
「赤犬は私だけでなんとかなると思います」
 考え深げに矢兵衛は言った。
「しかし、二匹相手は難しい。婆の方をお願いできますか」
 永吾は腰の刀に手を伸ばした。
「斬るか」
「相手は人間ではありません。簡単には斬れないかと」
「どうすればいい」 
「喉笛を狙ってください。急所はそこしかありません。遅れを取っては反対に咬み殺されてしまいますから、ご注意を」
「わかった」 
 臆病者ではないつもりだ。永吾は大きくうなずいた。
「では」
 矢兵衛は念を押すように永吾を見、一声吠えて、ためらいもなく木陰から飛び出した。
 脇差しを抜き、永吾も後に続いた。
 矢兵衛は一直線に赤犬に向かい、その首に噛みついた。
 赤犬は大きく吠え、矢兵衛を振り払らう。二匹はもつれながら激しい咬み合いをはじめた。
 驚いた老婆は、白髪を振り乱して、赤犬に加勢しようとした。永吾は老婆の腕をつかんで押し倒した。老婆はのけぞって、哀れっぽい声をたてた。
 こんな年寄りを、とひるんでしまう。だが、矢兵衛の言葉を信じるしかなかった。これは、人間の姿をした化けものなのだ。
 永吾は、思いきってその喉元に刃を突き刺した。
 老婆は、ぎゃっと獣のような悲鳴をあげた。
 のたうつ老婆の力は、もはや瀕死の年寄りのものではなかった。永吾をがむしゃらに押しのけようとする。永吾は夢中で老婆を抱え込んだ。
 老婆の姿がみるみる毛深く、膨れあがっていった。
 大きく口が裂け、むき出しになった牙が空を噛む。永吾はひるまず同じ場所を刺しつづけた。
 と、弾けたような痙攣が走った。
 それはぐったりと動かなくなった。
 矢兵衛も、赤犬の喉を喰いちぎっていた。
 永吾と矢兵衛は、肩で大きく息をして顔を見合わせた。
 倒れているのは子牛ほどもある巨大な猫二匹だった。
 血にそまった斑の毛は針金のように太く、尾が二つに割れている。何百年もの歳を経てきた猫又か。
 ハクの命さえととらなければ、まだしばらくはこの山奥でぬくぬくと生きていられたものを。
 永吾は猫又の前にどっかりと座り込んだ。
 今回は忘れなかった火打ち袋を出し、煙管に火をつけた。
 深々と煙を吐き出す。
 矢兵衛に、さほどの怪我はないようだ。身体についた血糊をなめながら、うずくまって毛繕いをはじめた。
 その目はうっとりと細められていた。
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