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初夏の爽やかな気候に誘われて、隅倉永吾は稲綱山に向かった。麓近くに、よい渓流があると聞いたのだ。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。
ハクは毛足の長い、白くたくましい犬だった。ころころした毛玉のような子犬の時分から飼っており、登城の時以外は永吾の行くところ、どこにでも付いてくる可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれる。目を上げると鳳連峰の高い稜線が残雪を際立たせて青空にくっきりと浮かび上がり、これもまた美しい。
永吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
永吾の隅倉家は、鷲杜藩の馬廻りを代々勤める士だったが、君主の側で颯爽と馬を駆っていたのも今は昔。この太平の世にあっては、仕事と言えば城内警備ぐらいなものだ。非番に日がな一日釣り糸を垂れていても、文句を言う者はだれもいない。
両親はとっくに亡くなっていた。二十五にもなって独り身はいかがなものかと、親戚連中はしきりと気をもんでいるけれど、永吾はどこ吹く風。濃い眉にきりりとした目鼻立ちの美丈夫で、嫁選びにも苦労すまいにとため息をつく家人たちをよそに、永吾はこの気ままな暮らしを充分楽しんでいる。
とはいうものの、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
聞いた場所を間違えたのか。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなみずの群生を見つけた。おひたしにすれば美味いだろう。何匹釣れるか分からない魚よりも、こっちの方が下女を喜ばせそうだった。
永吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。ハクも喜んでついてくる。
山の恵みは豊かだった。みずばかりではなく、ぜんまい、姫竹、こしあぶら。
魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。屋根から煙が立ち上っている。
こんな所にも人が住んでいるのか。
永吾は小屋に近づいた。うち捨てられた樵小屋といった粗末さだったが、前は日当たりのよい空き地になっていて、畑らしきものもある。
一人の老婆が顔をのぞかせた。七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで、頭頂の薄い白髪頭。小柄で腰が曲がっていた。白目の黄ばんだ目で永吾を見上げた。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか。火打ち袋を忘れてきた」
「よござんすよ」
老婆は種火を持ってきてくれた。その礼に、永吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
空き地の隅に大きな石が転がっていて、永吾はそこに座って煙管をくわえた。足下で長々と寝そべっていたハクが、突然頭を上げた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れたのだ。
老婆の飼い犬らしい。ハクは起き上がり、前屈みになって歯をむきだした。赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクは低いうなり声を上げた。赤犬は動じることなく、鼻をならした。
ついにこらえきれなくなったように、ハクは激しく吠え始めた。永吾が止めようとした時、赤犬がハクに飛びかかった。
永吾は、あわてて赤犬を追い払おうとしたが、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
永吾は呆然と立ち尽くした。
赤犬は、血のついた口のまわりを舐めながら永吾を一瞥した。
永吾は、思わず腰の刀に手をかけた。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますよ」
後ろから、老婆の冷たい声が聞こえた。
赤犬は勝ち誇るかのように身体をゆすり、林の奥に姿を消した。
老婆が、力任せに小屋の戸をしめた。
永吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱えた。
さっきまでふかふかとやわらかな温もりを伝えていた毛並みは、血にまみれごわついていた。硬直した身体が、たちまち冷たくなっていく。
子犬のころからの思い出が、とりとめもなく頭に浮かんだ。
あと数年は、共にいられるはずだったのに。それが一瞬で命を奪われてしまったのだ。
永吾は、絞り出すようなため息をついた。
ハクを山に埋め、家に帰った。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。
ハクは毛足の長い、白くたくましい犬だった。ころころした毛玉のような子犬の時分から飼っており、登城の時以外は永吾の行くところ、どこにでも付いてくる可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれる。目を上げると鳳連峰の高い稜線が残雪を際立たせて青空にくっきりと浮かび上がり、これもまた美しい。
永吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
永吾の隅倉家は、鷲杜藩の馬廻りを代々勤める士だったが、君主の側で颯爽と馬を駆っていたのも今は昔。この太平の世にあっては、仕事と言えば城内警備ぐらいなものだ。非番に日がな一日釣り糸を垂れていても、文句を言う者はだれもいない。
両親はとっくに亡くなっていた。二十五にもなって独り身はいかがなものかと、親戚連中はしきりと気をもんでいるけれど、永吾はどこ吹く風。濃い眉にきりりとした目鼻立ちの美丈夫で、嫁選びにも苦労すまいにとため息をつく家人たちをよそに、永吾はこの気ままな暮らしを充分楽しんでいる。
とはいうものの、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
聞いた場所を間違えたのか。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなみずの群生を見つけた。おひたしにすれば美味いだろう。何匹釣れるか分からない魚よりも、こっちの方が下女を喜ばせそうだった。
永吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。ハクも喜んでついてくる。
山の恵みは豊かだった。みずばかりではなく、ぜんまい、姫竹、こしあぶら。
魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。屋根から煙が立ち上っている。
こんな所にも人が住んでいるのか。
永吾は小屋に近づいた。うち捨てられた樵小屋といった粗末さだったが、前は日当たりのよい空き地になっていて、畑らしきものもある。
一人の老婆が顔をのぞかせた。七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで、頭頂の薄い白髪頭。小柄で腰が曲がっていた。白目の黄ばんだ目で永吾を見上げた。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか。火打ち袋を忘れてきた」
「よござんすよ」
老婆は種火を持ってきてくれた。その礼に、永吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
空き地の隅に大きな石が転がっていて、永吾はそこに座って煙管をくわえた。足下で長々と寝そべっていたハクが、突然頭を上げた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れたのだ。
老婆の飼い犬らしい。ハクは起き上がり、前屈みになって歯をむきだした。赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクは低いうなり声を上げた。赤犬は動じることなく、鼻をならした。
ついにこらえきれなくなったように、ハクは激しく吠え始めた。永吾が止めようとした時、赤犬がハクに飛びかかった。
永吾は、あわてて赤犬を追い払おうとしたが、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
永吾は呆然と立ち尽くした。
赤犬は、血のついた口のまわりを舐めながら永吾を一瞥した。
永吾は、思わず腰の刀に手をかけた。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますよ」
後ろから、老婆の冷たい声が聞こえた。
赤犬は勝ち誇るかのように身体をゆすり、林の奥に姿を消した。
老婆が、力任せに小屋の戸をしめた。
永吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱えた。
さっきまでふかふかとやわらかな温もりを伝えていた毛並みは、血にまみれごわついていた。硬直した身体が、たちまち冷たくなっていく。
子犬のころからの思い出が、とりとめもなく頭に浮かんだ。
あと数年は、共にいられるはずだったのに。それが一瞬で命を奪われてしまったのだ。
永吾は、絞り出すようなため息をついた。
ハクを山に埋め、家に帰った。
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