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しおりを挟む珀麻はよろめくように立ち上がった。
弧宇が生きている時代に来ている。
まだ〈谷〉は〈谷〉として成り立っていない過去。自分が未来のことを憶えているのは、鬼の力のせいなのだろうか。
「おまえも、江さまの教えを求めて来たのか」
驚いたように男は言った。
「若いのに殊勝なことだ」
男は、珀麻を連れて歩き出した。
「名はなんという?」
「珀、です」
「そうか。おれは賛という」
賛は湧き水を汲みに通りかかったということだった。獣道をしばらく下っていくと、岩肌をむきだしにした低い崖があり、それを支えにするかのように粗末な小屋が建っていた。
小さな炉が切ってあり、賛はそこに掛けていた山菜粥を珀麻に振る舞ってくれた。珀麻は夢中で食べた。口にものを入れたのは、草の小屋で白湯を飲んで以来だ。
草。
珀麻は思い出して胸がつまった。
自分が殺してしまったのだ。あの優しい老人を。どういうわけか時空に絡め取られて、幾通りもの様相を見せている草を。狼や老人以外にも、まだ草は存在しているのだろうか。
そして尽。〈谷〉の行者と同じ名前を持っていた。なぜ自分を殺そうとしたのか。彼も、老人の草とともに死んでしまったのか。
「思い悩んでいるようだな」
賛がしみじみと言った。
「生きていれば、様々のことがある。死んだところで輪廻が続く。江さまのところへ来たということは、おまえも輪廻を断ち切りたいのか? まだ少ししか生きていないというののに」
珀麻は答えることができなかった。
輪廻のことなど、考えたこともない。自分が望んでいるのは、現在生きている時の平穏な生活、それだけだ。
ここは五百年も前の時代だ。珀麻を知るものはいない。少し落ち着いたら谷を出て、どこかでひっそりと暮らすのはどうだろう。危険さえなければ鬼は現れない。このまま鬼を押さえ込んでおけさえすれば。
「まあ、ゆっくり考えればいい。おまえはまだまだ先が長い。深谷に留まるのもよし、別の土地に行くのもよし」
炉の火を小さくしながら賛は言った。
「だがな、江さまはまもなく昇天する。お姿を見ておくのも悪くないかもしれん」
「江さまに、お目にかかれるのですか?」
「遠目からだ。近づいてはいかん。五日ほど前から江さまは谷深くの樹洞に入って瞑想を続けている。もう水さえ含まれていないということだ。おれたちはただ、江さまの昇天を見守ることしかできないんだ」
珀麻はうなずいた。弧宇は死に、そして〈谷〉の歴史が始まるのか。
弧宇の昇天がなかったら、〈谷〉は存在しないのだろうか。しかし、その死後に、ほんとうに昇天したかなんて誰が証明できる?〈谷〉ができたのは、弧宇のそれらしい死があったからだ。〈谷〉を作ったのは、後の世の人間だ。
昼間眠っていたのに、夜にも変わらぬ睡魔がおとずれた。小屋の隅の筵の上で、珀麻はぐっすりと眠り込んだ。
気がつくと、暗い山中を歩いていた。
木々の梢の間で、たくさんの星々がまたたいている。
月はなかった。
月明かりがなくても、珀麻の目は闇をも見通せる。歩を進めるのは容易だった。
これは夢か?
珀麻は自問した。
それとも自分の身体が、勝手に動いているのか?
深いブナの木の林だった。年古りた幹の間を縫うようにして珀麻は歩いている。
ゆるやかな斜面を下ったところの、ひときわ大きい樹の手前で珀麻は立ち止まった。
地面近くに裂け目のような虚があって、その中にすっぽりと一人の老人が収まっていた。
伸びた白髪と髭は、骨と皮ばかりの身体を覆うようだった。胡座をかき、両手を組んで瞑想の姿をとっている。
目を閉じ、ぴくりとも動かない。息をしているのか、もう死んでしまったのか。
木に同化したその姿は、昼であっても見落としてしまいそうだった。
弧宇だ。
鬼たちが弧宇のもとに導いたのだと珀麻は悟った。
弧宇の昇天がなければ〈谷〉は存在しない。〈谷〉がなければ、鬼が生まれるはずもない。鬼は弧宇を憎んでいる。
弧宇を殺せば、鬼は解放されるのか? だが、そもそも珀麻がここにいるのは、〈谷〉があったからだ。
草と狼の時と同じだ。草は輪廻の先の狼に会えず、過去に帰る機会をなくしてしまった。だが、帰らなければ、狼に生まれ変わる草はいない。時は、どこかで修正しながら織り成されるのだろうか。それとも、次々と違う未来が分岐していくのだろうか。
どちらにせよ、自分はいまここで安全だ。状況を変えるつもりはない。
「珀」
背後で声がした。
珀麻は、はっと振り向いた。
松明を手にした賛が立っている。珀麻の様子を不審に思い、追いかけて来たのか。
だとすれば、これは夢ではない。
現実だ。
珀麻は、鬼の思いを振り切ろうとした。
背を向け、賛とともに引き返そうとした。
しかし、足は珀麻に逆らって一歩前に踏み出した。
弧宇が静かに目を開け、こちらを見た。
抑えがきかなかった。
「珀!」
事の異常さを悟った賛が、珀麻の前に立ちはだかろうとした。
鬼が爆ぜた。
閃光と轟音は同時だった。鋭い刃のような雷が、天上から真っ直ぐに弧宇のいる樹を貫いたのだ。
大樹は弧宇の身体もろとも二つに裂けた。
衝撃で地面に叩きつけられる寸前、珀麻は弧宇の最後の姿をとらえた。もも問いたげな眼差しを珀麻に向けたまま、枯れ枝のようにひしゃげていく姿を。
倒れた樹が、悲鳴を上げる賛を押しつぶした。
珀麻の意識は、その時とぎれた。
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