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しおりを挟む夜明けとともに、草は老いた自分が住んでいるという〈谷〉の入り口に向かった。
杜を振り切るようにして庵を出てきたのだ。
杜とともに老いる未来を、どうしても確かめたかった。
それに、転生した狼に出会うことで自分は過去に戻ることができたらしい。老いた自分の存在は、同じように過去へと戻してくれるのではないか。
そして、殺されることもなく穏やかな老年を迎えられるのではないか。
草は、祈るような気持ちで考えた。
だが、それらしき場所を探しても、人の住んでいる小屋はなかなかみつからなかった。
斜面の高みに立って灰色に冬枯れた谷を見下ろした。〈谷〉の建物はもう見えない。雪が貼り付いた常緑樹や、枝だけになった灌木の上を冷たい風がどよもしていく。
かすかなきな臭さを感じ、草はもう一度あたりを見まわした。
木々の間に、遠く煙が立ち上っているのが見えた。
草ははっとして、そちらに駆けだした。
林のとぎれた平地の真ん中で、小屋が燃えていた。
炎は壁と屋根のあらかたを平らげて、小さくなっていた。黒い炭のようになった残骸の中に、やはり黒く煤けた人間の身体が横たわっていた。
草は煙から目をかばいながらそれに近づいた。顔は判別できなかった。ただ、一房の白髪だけが燃え残っていた。
両膝をつくと、煙が目に浸みた。
これは、自分なのだろうか。
涙がとめどなく流れ落ちた。
狼にも会えなかった、年老いた自分にも。
生きている自分であるものに相対さなければ、もとの時代には帰れない。
狼にも、年を重ねた自分も会えなければ、どうして帰ることができるのだろう。
杜のもともとの記憶は、草が帰らないというものだ。しかし、帰らなければ狼もこの草も存在するわけがない。
草はぞくりとした。
狼に輪廻した草と、杜とともに老いた草。自分は、同時には成り立たないものをつなぎ合わせてしまった。
時空を混乱させていることは確かなのだ。
これが何度も積み重なっていくとしたら、杜の言うとおり、この世界そのものが崩壊してしまうかもしれない。
いっそ──。
草は思った。
自分がここで命を絶ってしまったらどうだろう。
またなにかに輪廻するにしても、これ以上この世界に影響は与えないような気がする。
だが、鬼と珀麻はどうする。
この時代の行者は鬼に接していない者がほとんどだ。鬼が再び現れだしたとき、手を貸してくれと杜は言ったのだった。
草はその場にうずくまったまま、頭を抱えた。
燃え残りの煙が薄くたなびき、空に上っていた。
誰かが近づいた気配があった。
顔を上げると、尽が立っている。
尽は、もう一人の草だったものを見下ろしてささやいた。
「あなたを追うようにと、大聖が」
「尽」
草は弱々しい声でささやいた。
「いったい、何が起きたと思う?」
「珀麻です」
尽がつぶやいた。
「珀麻が来ました」
草は尽を見つめた。
「わかるのか?」
尽は、静かに頷いた。
「わたしも、ここにいましたから」
草は、思わず腰を浮かした。
「どういうことだ?」
尽は顔を歪めた。いつにない表情の乱れだった。
尽は、心を落ち着かせるかのように目を閉じた。
「わたしは、珀麻を殺そうとしました」
尽は、言葉をくぎりながらゆっくりと言った。
「珀麻は〈念〉を放ち、この方を、あなたを巻き込みました。わたしはその衝撃で時を超えたのです、あなたのように」
草は、尽と向き合ったまま立ちつくした。
「わたしは、まだ子供でした」
尽は、静かに息を吐き出した。
「何も憶えていなかった。行者が見つけてくれ、〈谷〉で暮らすようになりました」
尽も時を超えてやって来た人間だったのか。十数年前の過去へ。
時を逆行すると、何かのきっかけに出会わぬ限り、未来での記憶は消えてしまうらしい。自分と同じだ。
「いつ思い出したんだ」
「〈谷〉で珀麻を見たときから、心はうずいていたのです。そして、今はっきりと」
「なぜ、珀麻を?」
「鬼を、感じました」
尽は、草の死体の前に膝をついた。
「あなたを、守らなければと思いました」
「わたしを知っていたのか」
「ずっとよくしてもらっていました」
尽はうなだれた。
「ここが…あなたが好きでした」
尽は珀麻に鬼を感じた。生まれながらに〈念〉を持っていたのだろう。過去に飛ばされ、成長し、行者になった。いま、尽はもともとの時間に辿り着いたわけなのだ。彼の親や知っている者たちにとっては、信じられない姿となって。
尽が生まれた時、行者としての尽はすでに存在していた。同じ人物が平行して生きている期間がしばらくあったのだ。これもまた、時空間の乱れを引き起こすもとになっているのではないか。もし、その間に子供の尽と行者の尽が出会ったらどうなったのだろう。尽は、過去のこの場所に帰ったのか。一瞬にして成長した尽になっているのか?
考えれば考えるほど混乱してくる。
「これから、どうするつもりだ? 尽」
草は訊ねた。
尽は小さく首を振った。
「いまさら村には帰れません。このまま行者として生きるしかないでしょう」
「そうか」
今は、互いにできることをしなければならない。
「珀麻を捜そう、尽」
草は言った。
「珀麻は〈谷〉を出ようとしている。たぶん」
珀麻の内には鬼がいる。
珀麻は、それを知っているのだろうか。
知っていて存分に力をふるいはじめたら、〈谷〉どころかこの世界の脅威になってしまう。
珀麻を解き放ってはならないのだ。
「ええ」
尽は立ち上がった。いつもの淡然とした表情に戻っている。
「ですが、その前に草さまを…あなたを、葬らなければ」
「ああ」
草は、やりきれない思いで足元の黒い死体に目を向けた。
「このままにしてはおけません」
「そうだな」
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