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しおりを挟む戸を開けてくれたのは若い男だった。行者のなりをしている。
しかし、見たこともない顔だ。
ますます降り続く雪の中、草は勘を頼りに来た方向に戻ったのだ。療養所とおぼしき灯りが見え、ぎょっとした。鬼のために大破したはずの療養所が、何事もなかったようにそこにある。
何が起きているというのか。
草の頭は混乱したままだった。
「道に迷ったのですか」
行者は草をしげしげと眺めた。
「怪我を?」
「いや」
自分が血まみれなことに気づいた。卓我の血しぶきの感触が蘇り、ぞくりとする。
「これは、わたしのものじゃない」
「行者の姿をしているが」
「行者だ」
「でも、わたしはあなたを知らない」
(わたしもだ。あんたに会ったこともない)
草が心語で言葉を返したので、行者は目を見開いた。
(〈念〉が使える)
(もちろん)
「お入りなさい」
奥から年配の行者が出てきたが、やはり見知らぬ人物だった。
彼らは目を見合わせて心語を交わした。若い方が土間に置いた水瓶から桶に水を汲み、湯を足してくれた。
草は手や顔にこびりついた血を無言で洗い流した。
床から身を起こして、こちらを見ている少年に気がついた。
草は顔を上げて彼を見返した。
ありありと驚きの表情を浮かべているその顔には憶えがあった。
つい今朝方のことではないか。大聖の元に行く途中ですれ違った、違う時空の見習い行者。
「可名さまは?」
「可名」
「大聖だ。私たちの」
二人の行者は黙り込んだ。一呼吸置いて、年配の行者が口を開く。
「その方は、四代前の大聖です。亡くなって、六十年はたつ」
「六十年…」
草は愕然とした。
耳の奥に、早い心臓の鼓動を聞きながら考える。
自分は、六十年の時を越えてしまったということなのか。
「あなたは、過去から来たというわけなのですね」
落ち着き払った声で若い行者は言った。何事にも動じない。日々、修行に精進しているとみえる。
「おっしゃることが本当ならば」
「むろん嘘じゃない」
彼らがこちらを騙していることもありえる。
「今の大聖の名は」
「茂利さまです」
杜?
草は目を閉じた。細く長く息を吐き出し、心を落ち着ける。
六十年たって、杜はまだ生き、大聖となっている?。
「大聖に会わせてくれ。わたしは草だ。伝えてくれ」
「伺ってみましょう」
年配の行者は思念をこらした。そして、
「すぐ来るようにと。尽がご案内します」
尽は奥から、古いが清潔な衣を持ってきてくれた。べたついた衣から解放されたのはありがたかった。尽に連れられ、大聖──杜?──の元に向かう。
〈谷〉の内部はまるで変わっていなかった。
底冷えのする大階段を登り、講堂脇の通路に入って大聖の庵へ。まさしく、今朝たどったままの道行きだ。
何かに騙されているのではないかと、繰り返し思わずにはいられない。〈谷〉にとって、六十年という時の流れなど、実にささやかなものでしかないのだ。
変化は、生きているものにだけ現れる。
大聖の庵で草を迎え入れたのは、可名とは違う白髪の老人だった。
庵の奥にあぐらをかいて座っていた。炉の炎が、顔に刻まれたいくつもの皺をきわだたせていた。
しかしそこには、草が知っている生真面目な面影があった。
草は、ひとまわり小さくなった杜の老いしなびた顔を愕然と見つめた。
「尽」
杜は、かすれた声で言った。
「二人にしてくれ」
「はい」
尽が出て行った後も、杜はしばらく何も語らなかった。目を伏せ、枯れ枝のような指を腹の前で組み合わせ、静かに呼吸を続けている。
平静を保とうとしている。
「杜」
突っ立ったまま草は言った。
「ほんとうに、杜なんだな」
「草」
杜は顔を上げた。
草を置き去りにして歳を経た老人の顔。
「わけがわからない」
叫ばないでいるのがやっとだった。
「何が起こっているんだ」
「訊きたいのはこちらの方だ。あの時、わたしたちが見つけたのは、ばらばらになった卓我の死体だけだった。草はどこにもいなかった」
「わたしの目の前で卓我は弾けた」
草は思い出してぞくりと身を震わせた。
「ついさっきのことだ。ほんの少し、意識を失っていたかもしれない。気がつくと、雪が降っていた」
「卓我は死に、草は時を越えた」
杜はつぶやいた。
「鬼はどこだ」
「鬼?」
「鬼は消えてしまった。あの日までの鬼は。〈谷〉には鬼が存在しない時期もあったのだ。今いる鬼は、この六十年の間に生まれたわずかな数にすぎない」
「消えた…」
「みな考えた。草が自分の身体と命を賭して鬼を倒したのだと。そうでなければ説明がつかなかった。卓我はやむおえず犠牲になったのだと」
草はかぶりを振った。
「わたしにそんな力があるわけがない」
「鬼を追い払った草の〈念〉をみなが見ていた」
「それだけだ。わたしは何もしていない。卓我を助けてやることすらできなかった」
草は両手で顔をこすった。
「鬼は、卓我を殺して満足したのかもしれない。最初から卓我を狙っていた」
「だとすれば、その死で鬼の長きに渡る怨念を解き放った卓我とは、いったい何者だったのだ」
「わからない」
「そうだ、わからない。鬼が本当に消滅したのかさえ。草は、ここに現れた」
「鬼も」
草ははっとした。
「わたしと一緒に?」
杜は目を閉じた。
草の知っている誰よりも年老いた顔。
杜は〈谷〉のまわりを見渡していた。
草も彼の中にそっと〈念〉をすべりこませた。
鬼はどこにもいなかった。この六十年の間に生まれたという鬼でさえ。
もっと〈念〉を伸ばすと、鬼ではない人間のざわめきが感じられた。〈谷〉 を越え、俯瞰してみる。竜巻でも起こったかのように、山の麓に向かって木々が一直線になぎ倒されている。途中に点在する村の家々は無残に吹き飛ばされ、人々が暗闇の中で呆然と立ち尽くしていた。
その延長の遠く、地平に火の手が見えた。都の方角だ。
明らかに自然のものではない力が働いている。
それを引き起こしたものの気配はすでに消えていたが。
「鬼、なのか?」
草はつぶやいた。
「わたしが連れてきたのか? しかし、どこに消えた?」
「わからん」
茂利は首を振った。
「なぜ都を? 鬼が恨んでいるのは、〈谷〉だけなのに」
「卓我は王族だ」
「ああ」
「卓我が鬼に殺されたのではなく、自から進んで鬼になったとしたら」
草は唖然として杜を見つめた。
「卓我は、鬼の力を一つにしたのかもしれん」
「憎むなら自分の時代の王家だろう。なぜ時を越えたんだ」
「王族が来た。今日、また」
杜はささやいた。
「珀麻という。卓我と同じ境遇だ」
「ここに呼んだな」
杜はうなずいた。
大聖の元を訪れた見習い行者。
暗い通路ですれちがった、違う時空の少年。
いまさっき療養所で会った少年と同じ顔の。
「わたしは以前にも珀麻を見たことがある。時空をへだてて」
「卓我と珀麻の鬱屈が時空を越えてひとつになった?」
杜はつぶやいた。
「草はそれにまきこまれた」
「珀麻に〈念〉は感じられなかった。力を隠しているのか?」
「わからない。卓我の憑人に過ぎないのかもしれないが」
杜はゆっくりと首を振った。
「何もかも分からないのだ、草。ただ、胸騒ぎだけがする。時まで越えて来た卓我が、都を燃やしたくらいで満足するだろうか」
杜は立ち上がろうとした。草は思わず手をさしのべた。草にもたれかかった杜の身体は、痛ましいほど重みがなかった。
「見ての通りだ」
杜は小さく笑った。
「わたしは長く生きすぎた。もうろくに歩くこともできん」
「無理するな」
「今の〈谷〉で鬼の驚異を知っているのは、わたしを含めて二三の老人だけだ。若い者は、結界だけで鬼を追い払えると思っている。昔のような荒れ狂う鬼を前にしたら、どうなるか──」
「ああ」
「力を貸してくれるな」
「もちろんだ」
草はうなずいた。
「ただ、ひとつだけ教えてくれ、杜」
草は、思い切って問いかけた。
「わたしはもとの時代に帰っているのか?」
「わからない」
杜の眉を困惑がかすめた。
「わたしが草に会うのは、あの時以来だ」
「そうか」
草はうなだれ、つぶやいた。
「そうなのか」
草は顔をこすり、深々とため息をついた。
もう二度と、若い杜には会えないということだ。
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