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谷間は、みずみずしい緑にあふれていた。
年中うっそうと生いしげる樹木におおいかくされているような〈谷〉だったが、この季節だけは風も光も明るくて、空気すら軽やかに感じられる。
草は鐘楼の小窓から顔をつきだして、深ぶかと息を吸いこんだ。鐘楼係は一番好きな当番だ。なにしろ、日に何度も外気にあたることができるのだから。
(草)
ついたばかりの鐘の余韻が残っている耳のもっと奥のところで、杜の声がひびいた。
(行くぞ)
「あんたも外を見てみろよ。気持ちがいいぞ」
(無言の行)
(はいはい)
草はしぶしぶ顔を引っこめた。
外の光になれた目に、鐘楼の中は一瞬まっくらに見えた。杜の衣がようやく白く浮き上がる。生真面目そうな色白の顔も。
杜はさっさと梯子を下り始めた。草もあわてて後を追った。
鐘楼の梯子は、幅広い階段回廊の踊り場に続いている。〈谷〉の建物を結ぶ主要な通路の一つだ。明りとりの窓があるというものの、回廊の中は薄暗かった。階段の両端は影にとけ込んでいる。
〈谷〉には長い年月をかけて増えていった建物がいくつもあり、回廊や細い管めいた通路がそれらをつないでいた。すでに使われていない建物や通路も多く、〈谷〉の作りをいっそう複雑にしている。十年暮らしている草ですら、迷ってしまう場所もあるくらいだ。
と、二人の傍らを白い影が通り過ぎた。
杜はちらと目を向けただけだったが、草は思わず振り返った。足早に歩く数人の姿が見えた。筒袖の上衣に細身の長袴、草たちと同じ行者のなりをしている。それが、薄暗がりの中に溶けるように消えた。
たびたび出くわすとはいえ、不思議でしかたのない現象だ。
〈谷〉の時空はあちこちほころびていて、過去や未来が透かし見えることがある。いますれ違ったのは、百年前の行者かもしれないし、まだ生まれてもいない行者かもしれないのだ。
「そういえば」
階段を下りながら草は言いかけ、杜がにらんだので心語に切り替えた。
(今朝方、新しい見習いが入ったって)
(ああ)
(二文字名前の?)
(王の甥だ)
草はうなずいた。二文字を名乗れるのは大聖と王族だけなのだ。
王が崩御したのは、去年のことだ。〈谷〉でも大々的に法要がおこなわれた。その後、二人の王子の相続争いが起こり、都はだいぶ賑やかだったらしい。
王位に就いたのは兄の方で、腹違いの弟は家族とともにすみやかに粛清された。成人していない男子だけが許されて〈谷〉に送られ、歴史の中に消えていく。これまでも、幾度となく繰り返されてきたことだ。
〈谷〉。
〈谷〉の始まりは、開祖の弧宇が結んだ小さな庵だった。
五百年ほど前のこと。
多くの小国が分立した戦国の世に弧宇は生まれた。武人の家柄で、成人後は戦いに明け暮れる日々だった。天災の多い時代でもあり、たびかさなる飢饉や疫病でさらに多くの人々が死んだ。弧宇の妻子も流行病であいついで命を落としたという。
悲嘆にくれた弧宇は刀を捨て、ひとり国を飛び出した。どうすればこの苦しみが消えるのか。山野をさまよいながら弧宇は考えた。たとえ生を終えても、次の生が待っている。この世の生きものは、はてもない輪廻の中で苦しみを重ねながら生死をくりかえしているのだから。
そして、答えを得た。
輪廻を絶つには、魂を地上から解き放つしかない、と。
一切の欲望を押しのけて、魂を浄化させるのだ。
弧宇は人里離れた谷に入り、庵をむすんだ。水と必要最小限のものだけをとり、誰とも語らず触れ合わず、ただひたすら心を空にする生活をおくった。
谷にはやがて弧宇をしたって人が集まり、それぞれ修行を始めた。
弧宇が息を引き取った時、彼らは弧宇が輪廻をぬけ出して昇天したのだと信じた。
弧宇の死後も修行者はやって来た。
谷に庵は増え、集団生活する者も現れた。彼らにとって弧宇は絶対だった。弧宇のようにひたすら魂を澄ましていけば、弧宇の待つ天上に行けるだろう。
戦乱の世は終わりつつあった。現在の王家が国を統一し、都を築いた。
王は、身勝手に俗世を離れる人々を見すごせなかった。谷を国家で管理することにした。〈谷〉の形が出来上がったのはこの時からだ。〈谷〉の者たちは、為政者の昇天をも祈ることを義務づけられた。
〈谷〉は王家の庇護を受けながら歴史を重ねることになった。見習行者と行者、その上に位置する聖、〈谷〉の最高位である大聖という身分制も整った。
実に多くの人間がここで生き、死んだ。自らの意思で来た者はもちろん、一族の意向を受けた者、あるいはなにかしらの理由で俗世を捨てなければならなかった者。
いったいその中の何人が弧宇のもとに昇天したのか草は知らない。ただ〈谷〉に入って四年、昇天が口で言うほどたやすくないことは理解できた。
草と杜は同い年で、ほぼ同時期に見習いになった。境遇も似ていた。生活が楽ではなかった両親が、あっさり末子を手放したわけだ。
あの〈谷〉へと続く坂道を下りた時から、二人はほとんど同じ時を過ごしている。
草と杜が道場に戻ると、見習たちはすでに瞑想の行に入っていた。
百人近くいる。
子供から初老まで、その年頃は様々だ。来るものは拒まずの〈谷〉だったが、ある程度の〈念〉を得ないと行者にはなれない。そうそうにあきらめて〈谷〉を出たり、下働きとして一生を終えるものも少なくない。
〈谷〉に入って一年も経ずして、草と杜は行者になった。これほど早く〈念〉を得る者は珍しい。
草にしてみれば簡単だった。来る日も来る日も続く無言の行に耐えきれず、杜に心語をためしてみたのだ。やがて杜が答えるようになった。杜自身も心語を使えるようになるまで時間はかからなかった。
それは間もなく行者の気づくところとなり、彼らは自分たちの一員に二人を加えた。見習の指導はもちろん、〈谷〉の管理一切と自分たちの修行、俗世の人々のための祈祷などなど。行者の仕事は多忙きわまりない。一人でも多くの仲間が欲しいというのが彼らの本音だったのだろう。
行者たちは見習を囲むように壁際に座っていた。草と杜も入り口近くに静かに座った。
王の甥はすぐわかった。真新しい白衣を着込み、隅の方で居心地悪そうに胡座をかいている。十二三才ぐらいだろうか。目を固く閉じた顔にはまだ幼さが残っていた。落ち着き無く肩が動いているのは、瞑想の方法を知らない証拠だ。
他の行者が誰も指導に行く気配がないので、草は腰を浮かしかけた。と同時に杜が立ち上がり、音もなく王の甥に歩み寄った。
王の甥はかたわらに座った杜を見た。驚いたような顔をしたが、すぐに目を閉じ呼吸を整えた。
杜が心語で教えている。瞑想に入る前の呼吸法。ゆっくりと吸い、深く吐き出す。
様々な雑念は精神の表層をただよっている。自分の呼吸に集中し静かに静かに精神の奥へと向かうのだ。
〈念〉の源は、精神の核にある。それを取りだし、自在に操れるようになれば行者として一人前だ。もちろん〈念〉を得ることが行者本来の目的ではない。〈念〉は自分の魂と向き合うときに生まれる付加的なものだ。自らの魂をとらえ、あらゆる感情を退けて空にする。それをできるものだけが聖となり、来るべき昇天を迎えることになる。
杜がそっとこずいたので、草は我にかえった。
(悪かった。意識を失っていた)
(いつもながら感心する。よく瞑想中に眠れるな)
(はは)
二人は鐘を衝くために再び鐘楼に向かった。
(王の甥っ子は、うまくやっていけそうかい)
(卓雅という名だ。自分から答えた。驚いたな)
草は思わず杜を見た。
(心語を返したということか)
(ああ)
〈念〉を持たない者に使う心語は一方的なものだ。相手の心に話しかけ、その相手の思念を拾い上げる。杜にしても、自分から草に呼びかけるのには、それなりの時間が必要だった。
(世の中には、始めから〈念〉を持っている者がいるんだ。草のように)
(わたしも、なのか)
(たいした修行もしないのに、並以上の力がある。瞑想中に居眠りしても、だ)
草は苦笑した。
(行者が増える。喜ばしいことじゃないか)
(そうかな)
杜は眉根を寄せた。
(これまで、王族が行者になった話はきかない)
(うん)
草はうなずいた。命を奪われる変わりに〈谷〉に追いやられた子供だ。二度と表に出ることなく、ひっそりと生きることだけを許されている。
(苦労しなければいいんだが)
年中うっそうと生いしげる樹木におおいかくされているような〈谷〉だったが、この季節だけは風も光も明るくて、空気すら軽やかに感じられる。
草は鐘楼の小窓から顔をつきだして、深ぶかと息を吸いこんだ。鐘楼係は一番好きな当番だ。なにしろ、日に何度も外気にあたることができるのだから。
(草)
ついたばかりの鐘の余韻が残っている耳のもっと奥のところで、杜の声がひびいた。
(行くぞ)
「あんたも外を見てみろよ。気持ちがいいぞ」
(無言の行)
(はいはい)
草はしぶしぶ顔を引っこめた。
外の光になれた目に、鐘楼の中は一瞬まっくらに見えた。杜の衣がようやく白く浮き上がる。生真面目そうな色白の顔も。
杜はさっさと梯子を下り始めた。草もあわてて後を追った。
鐘楼の梯子は、幅広い階段回廊の踊り場に続いている。〈谷〉の建物を結ぶ主要な通路の一つだ。明りとりの窓があるというものの、回廊の中は薄暗かった。階段の両端は影にとけ込んでいる。
〈谷〉には長い年月をかけて増えていった建物がいくつもあり、回廊や細い管めいた通路がそれらをつないでいた。すでに使われていない建物や通路も多く、〈谷〉の作りをいっそう複雑にしている。十年暮らしている草ですら、迷ってしまう場所もあるくらいだ。
と、二人の傍らを白い影が通り過ぎた。
杜はちらと目を向けただけだったが、草は思わず振り返った。足早に歩く数人の姿が見えた。筒袖の上衣に細身の長袴、草たちと同じ行者のなりをしている。それが、薄暗がりの中に溶けるように消えた。
たびたび出くわすとはいえ、不思議でしかたのない現象だ。
〈谷〉の時空はあちこちほころびていて、過去や未来が透かし見えることがある。いますれ違ったのは、百年前の行者かもしれないし、まだ生まれてもいない行者かもしれないのだ。
「そういえば」
階段を下りながら草は言いかけ、杜がにらんだので心語に切り替えた。
(今朝方、新しい見習いが入ったって)
(ああ)
(二文字名前の?)
(王の甥だ)
草はうなずいた。二文字を名乗れるのは大聖と王族だけなのだ。
王が崩御したのは、去年のことだ。〈谷〉でも大々的に法要がおこなわれた。その後、二人の王子の相続争いが起こり、都はだいぶ賑やかだったらしい。
王位に就いたのは兄の方で、腹違いの弟は家族とともにすみやかに粛清された。成人していない男子だけが許されて〈谷〉に送られ、歴史の中に消えていく。これまでも、幾度となく繰り返されてきたことだ。
〈谷〉。
〈谷〉の始まりは、開祖の弧宇が結んだ小さな庵だった。
五百年ほど前のこと。
多くの小国が分立した戦国の世に弧宇は生まれた。武人の家柄で、成人後は戦いに明け暮れる日々だった。天災の多い時代でもあり、たびかさなる飢饉や疫病でさらに多くの人々が死んだ。弧宇の妻子も流行病であいついで命を落としたという。
悲嘆にくれた弧宇は刀を捨て、ひとり国を飛び出した。どうすればこの苦しみが消えるのか。山野をさまよいながら弧宇は考えた。たとえ生を終えても、次の生が待っている。この世の生きものは、はてもない輪廻の中で苦しみを重ねながら生死をくりかえしているのだから。
そして、答えを得た。
輪廻を絶つには、魂を地上から解き放つしかない、と。
一切の欲望を押しのけて、魂を浄化させるのだ。
弧宇は人里離れた谷に入り、庵をむすんだ。水と必要最小限のものだけをとり、誰とも語らず触れ合わず、ただひたすら心を空にする生活をおくった。
谷にはやがて弧宇をしたって人が集まり、それぞれ修行を始めた。
弧宇が息を引き取った時、彼らは弧宇が輪廻をぬけ出して昇天したのだと信じた。
弧宇の死後も修行者はやって来た。
谷に庵は増え、集団生活する者も現れた。彼らにとって弧宇は絶対だった。弧宇のようにひたすら魂を澄ましていけば、弧宇の待つ天上に行けるだろう。
戦乱の世は終わりつつあった。現在の王家が国を統一し、都を築いた。
王は、身勝手に俗世を離れる人々を見すごせなかった。谷を国家で管理することにした。〈谷〉の形が出来上がったのはこの時からだ。〈谷〉の者たちは、為政者の昇天をも祈ることを義務づけられた。
〈谷〉は王家の庇護を受けながら歴史を重ねることになった。見習行者と行者、その上に位置する聖、〈谷〉の最高位である大聖という身分制も整った。
実に多くの人間がここで生き、死んだ。自らの意思で来た者はもちろん、一族の意向を受けた者、あるいはなにかしらの理由で俗世を捨てなければならなかった者。
いったいその中の何人が弧宇のもとに昇天したのか草は知らない。ただ〈谷〉に入って四年、昇天が口で言うほどたやすくないことは理解できた。
草と杜は同い年で、ほぼ同時期に見習いになった。境遇も似ていた。生活が楽ではなかった両親が、あっさり末子を手放したわけだ。
あの〈谷〉へと続く坂道を下りた時から、二人はほとんど同じ時を過ごしている。
草と杜が道場に戻ると、見習たちはすでに瞑想の行に入っていた。
百人近くいる。
子供から初老まで、その年頃は様々だ。来るものは拒まずの〈谷〉だったが、ある程度の〈念〉を得ないと行者にはなれない。そうそうにあきらめて〈谷〉を出たり、下働きとして一生を終えるものも少なくない。
〈谷〉に入って一年も経ずして、草と杜は行者になった。これほど早く〈念〉を得る者は珍しい。
草にしてみれば簡単だった。来る日も来る日も続く無言の行に耐えきれず、杜に心語をためしてみたのだ。やがて杜が答えるようになった。杜自身も心語を使えるようになるまで時間はかからなかった。
それは間もなく行者の気づくところとなり、彼らは自分たちの一員に二人を加えた。見習の指導はもちろん、〈谷〉の管理一切と自分たちの修行、俗世の人々のための祈祷などなど。行者の仕事は多忙きわまりない。一人でも多くの仲間が欲しいというのが彼らの本音だったのだろう。
行者たちは見習を囲むように壁際に座っていた。草と杜も入り口近くに静かに座った。
王の甥はすぐわかった。真新しい白衣を着込み、隅の方で居心地悪そうに胡座をかいている。十二三才ぐらいだろうか。目を固く閉じた顔にはまだ幼さが残っていた。落ち着き無く肩が動いているのは、瞑想の方法を知らない証拠だ。
他の行者が誰も指導に行く気配がないので、草は腰を浮かしかけた。と同時に杜が立ち上がり、音もなく王の甥に歩み寄った。
王の甥はかたわらに座った杜を見た。驚いたような顔をしたが、すぐに目を閉じ呼吸を整えた。
杜が心語で教えている。瞑想に入る前の呼吸法。ゆっくりと吸い、深く吐き出す。
様々な雑念は精神の表層をただよっている。自分の呼吸に集中し静かに静かに精神の奥へと向かうのだ。
〈念〉の源は、精神の核にある。それを取りだし、自在に操れるようになれば行者として一人前だ。もちろん〈念〉を得ることが行者本来の目的ではない。〈念〉は自分の魂と向き合うときに生まれる付加的なものだ。自らの魂をとらえ、あらゆる感情を退けて空にする。それをできるものだけが聖となり、来るべき昇天を迎えることになる。
杜がそっとこずいたので、草は我にかえった。
(悪かった。意識を失っていた)
(いつもながら感心する。よく瞑想中に眠れるな)
(はは)
二人は鐘を衝くために再び鐘楼に向かった。
(王の甥っ子は、うまくやっていけそうかい)
(卓雅という名だ。自分から答えた。驚いたな)
草は思わず杜を見た。
(心語を返したということか)
(ああ)
〈念〉を持たない者に使う心語は一方的なものだ。相手の心に話しかけ、その相手の思念を拾い上げる。杜にしても、自分から草に呼びかけるのには、それなりの時間が必要だった。
(世の中には、始めから〈念〉を持っている者がいるんだ。草のように)
(わたしも、なのか)
(たいした修行もしないのに、並以上の力がある。瞑想中に居眠りしても、だ)
草は苦笑した。
(行者が増える。喜ばしいことじゃないか)
(そうかな)
杜は眉根を寄せた。
(これまで、王族が行者になった話はきかない)
(うん)
草はうなずいた。命を奪われる変わりに〈谷〉に追いやられた子供だ。二度と表に出ることなく、ひっそりと生きることだけを許されている。
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