黒犬幻譚

ginsui

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 ビルのはざまの細い通路に、私は獲物を追い詰めた。
 クリスマスのイルミネーションや車のライトで、通りの方は明るんでいる。
 だが、この夜更け、近くを歩いている者はほとんどいない。
 仕事帰りの若いホステスだった。
 口をすっかりふさいでいるので、彼女は声を出すことができない。
 いや、悲鳴をあげる余裕すらなく、その目は恐怖に見開かれている。
 私は彼女を壁に押しつけて、のけぞる頸筋に手をかける。
 苦悶と絶望がいっしょくたになった表情が、まだ少女めいた可愛らしい顔に浮かぶ。
 私の、一番好きな瞬間だ。
 やがて、彼女はがくりと首を垂れる。
 私はおもむろに両手を使い、最後の息の根を止める。
 静かに彼女を横たえた私は、立ち上がり、ぎょっとした。
 通りの方からこちらを覗き込んでいる者がいる。
 逆光で、顔形はわからなかった。
 過ぎていく車のライトが、一瞬そのほっそりとした影を際だたせた。
 影は身をひるがえした。
 私は思わず追いかけた。しかし、通りにはもう人の姿はない。
 まずいことをしたものだ。
 顔を見られたろうか。
 胸がざわついた。
 私はコートの襟を立て、足早に歩き出した。

 夜の街の殺人事件は、数日メディアを賑わせたが、目撃者は現れなかった。
 あの黒い影が目に焼きついて離れない。
 どうも気持ちが悪い。けれど、あいつ自身後ろめたいことがある人間なのかもしれない。
 世の中の目はまた新たな事件に向けられ、都会の片隅の絞殺死体などあっさり忘れさられてしまった。この二三年の間に犯人不明の殺人がいくつあったかなんて、警察以外憶えているわけがない。
 授業をしながら生徒たちの細頸を眺めていると、両手がうずいてくる。締め上げた時の喉の動き、掌に伝わるやるせない痙攣を、また味わいたくてたまらない。
 年が明けてから、私は郊外の古い住宅地に足を向けた。
 坂や階段が多く、道も入り組んでいてお誂えの場所だ。
 まばらな街灯の下、一人で歩いている男子中学生を見つけた。塾か部活の帰りだろう。
 悪くない。
 雪がちらついてきた。中学生は寒そうに肩をすくめ、狭い階段を一段上った。私は背後から近づき、彼のリュックをぐいとつかんで押し倒した。 
 頭を打ったのか、中学生は倒れたまま動かなかった。頸に手をかけると、きょとんと目を開いた。なにが起きているか理解出来ないにちがいない。少し考える時間を与えてから、私は両手に力をこめた。
 ふうと息を吐き出し、断末魔の感触をもう一度指先に反芻した。
 満ち足りて立ち上がる。
 雪は、さらに降ってきた。空を見上げようとして、凍りついた。
 階段の上から、誰かこちらを見下ろしている。
 街灯に照らされて、その姿ははっきりと見えた。
 ジーンズに黒っぽいセーター、防寒着は着ていないほっそりとした姿。
 影の輪郭が一致した。
 あいつだ。
 私は、確信した。
 あそこで見ていたやつだ。
 なぜまた現れたのか。
 場所が離れすぎていた。偶然とは考えられない。
 まさか、私を見張っていたとでも?
 めぐるましく考えながら、私は階段を駆け上がった。
 あいつは後ずさり、にっと笑った。
 色白で美しい顔をしていた。私の生徒たちと、この中学生とさして変わらぬ年に見えた。
 あいつは、くるりと背を向けた。
 一陣の風が吹いた。
 雪が横なぐりとなって、私の視界を妨げた。
 雪が入った目を拭った時、あいつの姿はもうなかった。

 中学生の一件は、だいぶ世間をさわがせた。
 これまで断続的に起きていた未解決の絞殺事件は、同一犯の仕業だろうと、報道は今ごろになってかしましい。
 おとなしくしていた方が身のためなのはわかっている。しかし、どうしても考えてしまうのはあいつのことだ。
 あの寒空でマフラーもせず、むき出しになっていた頸の白さが、ともすれば甦る。
 いくぶん癖のある長めの髪、笑った時のけぶるような長い睫。形のいい唇は皮肉っぽく、おまえのしていることは何でもお見通しだと語っていた。
 あれは、人間ではないのかもしれない。
 ふと思った。
 天使が私の前に現れるはずがない。
 悪魔なのか?
 だとしても、またその顔を見たかった。
 その喉に手を触れたくてたまらなかった。
 あいつを誘き出すしかないだろう。
 私はまた、夜にまぎれた。
 
 団地近くの公園だ。駅からの近道なので、帰宅者はよくここを通り抜ける。
 もっとも、終電間近の時間、公園は闇を含んで静まりかえっている。
 私は隅のベンチに座り、運の悪い獲物を待った。
 寒さは気にならない。あるのは、期待と指の疼きだけ。
 耳をそばだてる。カツカツと靴音が聞こえる。小走りのヒールの音だ。
 私は他に人気のないことを確かめ、ゆっくりと靴音の主の前に立ちはだかった。
 女は、声を上げて逃げようとした。私は、素早くその腕を掴んで引き寄せた。マフラーが邪魔だったが、暴れるのでそれを持って締め上げる。ぐったりと崩れ落ちた女から、マフラーを引きはがそうとした。
 その時だ。
 後ろに人の気配がした。
 振り向くとあいつがいた。
 やはり、来たのだ。
 忘れようのないその顔、白い頸。
 私は、あいつに手を伸ばした。あいつは笑みを浮かべ、駆け出した。
 こんどは逃がさない。私は追いかけた。あいつは水のない噴水のところでつまずき、転びそうになった。
「つかまえた」
 私は、後ろからその首に腕をまわし、ほくそ笑んだ。
 華奢な身体だ。身動き出来まい。
「あなたこそ、手を離した方がいいよ」
 あいつは、平然と言った。
「ゼクスが噛みつくよ」
 足元で低いうなり声がした。
 いつの間に現れたのか、大きな黒犬が足元にいた。
 艶めいた黒は、闇よりも濃い。さらに濃い黒い目で、私を鋭く見つめている。
 思わず緩んだ腕の中から、あいつは抜け出した。首をさすりながら、噴水の縁に腰を下ろす。
「おまえは、何だ?」
「だいぶ楽をさせてもらったよ」
「楽だと?」
「ぼくたちはね、死にたての魂が好きなんだ。衰えて逝ったものではなく、活力を残した新鮮な魂がね。あなたにくっついていれば、確実にありつけた」
 呆けたように立ち尽くす私に、あいつは言葉を続けた。
「でも、もう飽きちゃった」
 あいつは、犬と顔を見合わせた。
「自分の力で探した方が美味しさが増すものね」
 つんざくような悲鳴が聞こえた。
 女が息を吹き返したのだろう。叫びとともに靴音が遠ざかって行く。
「顔を見られたね。殺してしまってればよかったのに」
 あいつは、軽やかに立ち上がった。
「さて、どうする?」
 面白そうに私を見上げる。
「絞殺魔で捕まる? 自分で始末をつける?」
 黒犬が、静かに歩み寄って来た。
「始末をつけたいのなら、力をかすよ。殺したものの魂を食べるのも、ぼくたちは好きだ」
 私は、両指をこわばらせたまま、身動きひとつできなかった。
 彼らがどちらを選択させたいかは、分かりきったことだから。
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