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家族
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とおく、終電が通り過ぎて行く。
ここの駅で降りる人は、ほんの少しだ。
そして、この道を通る人はたいてい一人。
迷路のように道が入り組んでいる古い住宅地は、夜になると素敵に暗い。
家々は早くに寝るし、街路灯はまばらに立っているだけ。いまどき防犯カメラもついていない。
わたしは街路灯の下にうずくまって、あの人の足音に耳をすます。火曜日が夜勤で終電帰り。あの人のことは、ちゃんと調べてある。ママとわたし、気に入った人は逃がさないもの。
軽い靴音が響いてくる。
早くお家に帰ろうと急いでいる。
向こうの角の街路灯に、あの人の影。
私は両手で顔をおおって、静かに泣き始めた。肩をふるわせ、しゃくりあげる。
あの人はわたしに気づき、ぎょっとしたように立ち止まった。
けれど、とまどいながらもゆっくりと近づいてくる。こんな夜中に小さな女の子がひとりで泣いているんだもの、やさしいあの人なら、ほうっておけるわけがない。
あの人は、私の前に立つ。
背が高くて引き締まった身体。若くて、きれいなお兄さん。
「どうしたの?」
静かな声でわたしに尋ねる。
わたしは、かぶりをふって泣き続ける。
お兄さんは、わたしの目線までかがみこむ。
わたしは、その首にぎゅっと手をまわす。
驚く暇も与えず、堅い首もとに噛みついた。
街路灯の光がとどかないところで、闇に溶け込んでいたノインが現れた。
黒くほっそりとした大きな犬だ。その姿がすうっと伸び上がって、人間のかたちになる。
「こらこら」
ノインはわたしの頭に手をのせた。
「そんなに飲んだら死んじゃうでしょ。ママに叱られちゃうよ」
「はあい」
わたしは、ぐったりしたお兄さんから身体を離す。
ノインは軽々とお兄さんを右肩に担ぐ。
わたしたちは手をつないで闇を抜け、ママの待つ家に帰る。
†
ママは住宅地の一角に家を借りている。
目立たない一戸建で、まわりには詮索好きの住民もいない。なかなかの住みごこちだ。
ノインは、お兄さんをママの部屋のベットに横たえた。
お兄さんは、うっすらと目を開いているだけで、身動きしない。わたしに噛まれると、みんなそうなってしまうから。
ママは満足そうにお兄さんを見下ろして、高い鼻筋を指先でなぞったりしている。
こんな時のママは、うっとりしてしまうほど美しい。
臙脂色の長いガウンをまとい、波うつ黒髪が背中をおおっている。優しい横顔は、何かの画集で見た女神さまのよう。
「さて」
ノインは、わたしをうながして部屋を出た。ママが微笑みながらドアを閉めた。
ノインは、また犬の姿になっていた。
二本の手が必要な時以外は、ノインはたいてい犬になっている。
犬と人間と、どっちが本当なのかノインに聞いたことがある。
「どっちも」
ノインは答えた。
「犬の方が気楽ではあるがね」
わたしは、犬のノインも人間のノインも好きだ。犬の艶やかな黒い身体にもたれかかって眠るのは、ベットに横になるよりずっと気持ちがいい。
ノインの人間の顔はきれいで魅力的だ。あのお兄さんのように、わたしやママが好きになる顔はノインに似ている。
わたしたちがノインに似た顔に惹かれるのか、ノインがわたしたちの好きな顔に変身しているのか、それはわからない。
わたしとママとノイン。わたしたちは、楽しく暮らしている。
わたしたちは、いい家族だと思う。
†
わたしは、毎日お兄さんから血をもらう。
お兄さんは浅く息をしているだけで、もう目をあけている力もない。
皮膚は青白さを越して透明になっていくようだ。
蝋人形めいてますます美しくなった身体を、ママは優しく撫でまわす。
「ころあいかしらね」
ママはつぶやき、わたしはちょっと悲しくなる。
お兄さんから最後の血をもらって、ママの部屋を出る。
わたしは、泣いている。
お兄さんがいたベットは空っぽだ。
寝ていたあとが、ほんの少しくぼんでいるだけ。
ママがお肉を食べ、骨はノインが食べる。
わたしたちは、何一つ残さない。
「こまった子ねえ」
ママが微笑みながら、わたしの顔をのぞきこむ。
「まだ、お腹が痛い?」
ノインにもたれて泣いていたわたしは、こくこくとうなずく。
「つまみ食いなんてするから」
ママは言う。
「だって、食べてみたかったんだもの」
「お肉は、まだ早いっていったでしょ」
「いつになったら、食べれるようになるの?」
「そうねえ」
ママは、首をかしげる。
「あと、百年くらいかしら」
「百年──」
わたしは、すすり上げながらくり返す。
我慢できるかしら。
あんなにおいしかったのに。
ノインが、わたしの心を見透かしたように、口の中の骨をぱりんと噛み砕いた。
ここの駅で降りる人は、ほんの少しだ。
そして、この道を通る人はたいてい一人。
迷路のように道が入り組んでいる古い住宅地は、夜になると素敵に暗い。
家々は早くに寝るし、街路灯はまばらに立っているだけ。いまどき防犯カメラもついていない。
わたしは街路灯の下にうずくまって、あの人の足音に耳をすます。火曜日が夜勤で終電帰り。あの人のことは、ちゃんと調べてある。ママとわたし、気に入った人は逃がさないもの。
軽い靴音が響いてくる。
早くお家に帰ろうと急いでいる。
向こうの角の街路灯に、あの人の影。
私は両手で顔をおおって、静かに泣き始めた。肩をふるわせ、しゃくりあげる。
あの人はわたしに気づき、ぎょっとしたように立ち止まった。
けれど、とまどいながらもゆっくりと近づいてくる。こんな夜中に小さな女の子がひとりで泣いているんだもの、やさしいあの人なら、ほうっておけるわけがない。
あの人は、私の前に立つ。
背が高くて引き締まった身体。若くて、きれいなお兄さん。
「どうしたの?」
静かな声でわたしに尋ねる。
わたしは、かぶりをふって泣き続ける。
お兄さんは、わたしの目線までかがみこむ。
わたしは、その首にぎゅっと手をまわす。
驚く暇も与えず、堅い首もとに噛みついた。
街路灯の光がとどかないところで、闇に溶け込んでいたノインが現れた。
黒くほっそりとした大きな犬だ。その姿がすうっと伸び上がって、人間のかたちになる。
「こらこら」
ノインはわたしの頭に手をのせた。
「そんなに飲んだら死んじゃうでしょ。ママに叱られちゃうよ」
「はあい」
わたしは、ぐったりしたお兄さんから身体を離す。
ノインは軽々とお兄さんを右肩に担ぐ。
わたしたちは手をつないで闇を抜け、ママの待つ家に帰る。
†
ママは住宅地の一角に家を借りている。
目立たない一戸建で、まわりには詮索好きの住民もいない。なかなかの住みごこちだ。
ノインは、お兄さんをママの部屋のベットに横たえた。
お兄さんは、うっすらと目を開いているだけで、身動きしない。わたしに噛まれると、みんなそうなってしまうから。
ママは満足そうにお兄さんを見下ろして、高い鼻筋を指先でなぞったりしている。
こんな時のママは、うっとりしてしまうほど美しい。
臙脂色の長いガウンをまとい、波うつ黒髪が背中をおおっている。優しい横顔は、何かの画集で見た女神さまのよう。
「さて」
ノインは、わたしをうながして部屋を出た。ママが微笑みながらドアを閉めた。
ノインは、また犬の姿になっていた。
二本の手が必要な時以外は、ノインはたいてい犬になっている。
犬と人間と、どっちが本当なのかノインに聞いたことがある。
「どっちも」
ノインは答えた。
「犬の方が気楽ではあるがね」
わたしは、犬のノインも人間のノインも好きだ。犬の艶やかな黒い身体にもたれかかって眠るのは、ベットに横になるよりずっと気持ちがいい。
ノインの人間の顔はきれいで魅力的だ。あのお兄さんのように、わたしやママが好きになる顔はノインに似ている。
わたしたちがノインに似た顔に惹かれるのか、ノインがわたしたちの好きな顔に変身しているのか、それはわからない。
わたしとママとノイン。わたしたちは、楽しく暮らしている。
わたしたちは、いい家族だと思う。
†
わたしは、毎日お兄さんから血をもらう。
お兄さんは浅く息をしているだけで、もう目をあけている力もない。
皮膚は青白さを越して透明になっていくようだ。
蝋人形めいてますます美しくなった身体を、ママは優しく撫でまわす。
「ころあいかしらね」
ママはつぶやき、わたしはちょっと悲しくなる。
お兄さんから最後の血をもらって、ママの部屋を出る。
わたしは、泣いている。
お兄さんがいたベットは空っぽだ。
寝ていたあとが、ほんの少しくぼんでいるだけ。
ママがお肉を食べ、骨はノインが食べる。
わたしたちは、何一つ残さない。
「こまった子ねえ」
ママが微笑みながら、わたしの顔をのぞきこむ。
「まだ、お腹が痛い?」
ノインにもたれて泣いていたわたしは、こくこくとうなずく。
「つまみ食いなんてするから」
ママは言う。
「だって、食べてみたかったんだもの」
「お肉は、まだ早いっていったでしょ」
「いつになったら、食べれるようになるの?」
「そうねえ」
ママは、首をかしげる。
「あと、百年くらいかしら」
「百年──」
わたしは、すすり上げながらくり返す。
我慢できるかしら。
あんなにおいしかったのに。
ノインが、わたしの心を見透かしたように、口の中の骨をぱりんと噛み砕いた。
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