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第一部
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しおりを挟む雨の多い季節になっていた。
晴れ間のない空が幾日も続いた。更伎は都琉を従えて、変わらず琵琶の稽古にやって来たが、羽矢は遠乗りにも行けずに、自室に引きこもっていた。
肌寒い日で、不二は都琉といっしょに詰め所にいた。雨音に交じって嫋々と聞こえる琵琶の音は、いつにも増して心に響いた。
あいかわらず無口な都琉は、部屋の隅でじっとしている。不二も頭の後ろに手を組んで、うっとりと壁にもたれていた。
静かで、このうえなく贅沢な時間。
「不二どの」
戸口から、ふっくらとした顔立ちの少女が顔を覗かせた。母屋づきの侍女だ。
「羽矢さまがお呼びです」
「羽矢さまが?」
不二は、驚いて繰り返した。都琉も、意外そうな顔を不二に向けた。不二は思わず彼の顔を見返し、しかし急いで立ち上がった。
侍女に連れられて向かった羽矢の部屋は、母屋の南角にある。羽矢は敷物の上に胡座をかいて、庭に降る雨を眺めていた。
一瞬目にしたその横顔がひどく寂しげだったので、不二ははっと胸を突かれた。もっとも、すぐに不二に向けられた紫色の目は、いつもながらのきかん気そうなものだったが。
不二は廊下に膝をついた。
「お呼びとのことで」
「雨にはうんざりだ」
羽矢はむっつりと言った。
「退屈している。故郷の話でも聞かせてくれ」
ほう。
不二は目を見開いた。羽矢がこんなことを言い出すとは。ようやく側人として受け入れてもらえたれのかな。
そこで、不二は廊下に座り直した。
「早波がどこにあるか、ご存じですか?」
「大那の最南端と聞いた」
「ええ。海と山ばかりの土地です。わたしの家は岬の上にありまして、外に出ると細長く続く磯浜が見下ろせました。天気のいい昼間は、たいてい子供たちが貝や海藻採りをしていて賑やかでしたよ。波の音は昼夜問わず絶え間なく、そうですね、わたしは早波を離れてもしばらくは耳の奥に波の音が聞こえるような気がしました」
不二は、懐かしい故郷を思い出した。
「ずっと向こうの水平線の上に、手白香島がぽつりと見えます。ちょうどこの夜彦山のように円錐形の美しい姿をしていて、沖に出た漁師たちが陸地に戻る目印になっています。古くからの海上の守り神。俗人が足を踏み入れることを許されぬ、聖地なんです」
「その聖地の砂を」
羽矢は口をはさんだ。
「なぜおまえが持っているんだ?」
憶えていたのか。不二は、ちょっと笑ってみせた。
「天香に来る前に、どうしても見ておきたいものがあって、一人で舟を出したんです。沖に向かってどこまでも漕ぎました。もう出会う舟もなく、島影も見えない。見渡す限り海と空のただ中に、わたしだけがいるんです。すこぶるいい気分で漂っているうちに、急に雲がかき曇り、嵐になってしまいました。わたしはあっけなく波に呑み込まれ、気がついた時には、舟といっしょに手白香の砂浜に打ち上げられていました。命拾いしたわけです。わたしは手白香への感謝を込めて、その砂を持ち帰りました」
「何が見たかったんだ?」
「水平線ですよ」
羽矢は眉を上げた。
「いつでも見えただろうに」
「端のない水平線です。漁師たちからは聞いていました。ずっと遠くの沖では、水平線は一続きになって海をとりまいているのだと。その景色を一目見ておきたかったのです」
「そんなにしてまで?」
「はい」
不二は、にっこりと笑った。
「海は、とてつもなく大きな水盤のようでしたよ」
「おかしなやつだな」
羽矢はつぶやき、想像するかのように目を細めた。
「わたしは、本物の海を見たことがない」
「いずれ、ご覧になれるでしょう」
そう、羽矢には時間がたっぷりある。
不二は懐から守り袋を出して、縫い目の端を少しほどいた。手のひらに、さらさらと砂をこぼしてみせる。
砂はきめが細かく、一粒一粒が透明に近い白だった。遠い海の匂いを不二は感じた。手白香に打ち上げられていたのは夜だった。砂浜は、月の光を含んで銀色に輝くようだった。
羽矢は、そっと手を伸ばした。
「触ってみてもいいか?」
「もちろんです」
羽矢は感触を確かめるように指先で砂をつまんだ。
「綺麗なものだな」
「ええ。わたしもあれほど美しい砂浜は見たことがありません」
不二はうなずいた。
「溺れたかいがありましたよ」
羽矢はちらと笑みを浮かべた。意外にあどけなく、可愛らしい。はじめて見る羽矢の笑顔に、不二は少なからず満足した。
いつごろからか、琵琶の音はやんでいた。不二が砂を守り袋に戻していると、廊下の曲がり角に静かな人影がさした。
更伎だ。
不二はあわてて羽矢の側から退き、頭を下げた。更伎は、そのままで構わないといったしぐさをして微笑み、羽矢の部屋に入った。
「ひさしく会っていなかったのでね」
にこやかに更伎は言った。
「羽矢の顔を見に来たよ」
「稽古は終わったのか?」
眉を上げた羽矢の口調はぎこちなかった。あきらかにふいをつかれたらしい。
「いや、休憩だ」
「なら、少し横になった方がいい。顔色がよくないぞ」
「いつものことだ」
更伎は微笑んだままだった。
確かに、よく日焼けした羽矢と比べると、更伎の肌は病的なほど青白い。ほっそりとした指の先などは、骨が透けるかのようだ。
「もう少ししたら、大龍祭の曲を通しで弾くよ。初めて龍の琵琶をお借りする。月弓さまが助けてくださるが、うまくいくかどうか」
「大丈夫さ。伯父上は、いつもあなたを誉めているよ」
「月弓さまには、まだまだ追いつけなくてね」
更伎は目を伏せ、軽くため息をついた。
「羽矢も聴きに来てくれるだろう?」
「うん。じゃあ、そうさせてもらう」
羽矢を見つめる更伎のまなざしは、弟を見る兄のように優しげだ。少なくとも、更伎は羽矢を嫌ってはいない、と不二は思った。目をそらしているのは、羽矢の方だ。自分たちの違いに負い目を感じているのは、羽矢の方なのか。
羽矢が下がっていいと言ったので、不二は二人の会話に興味を抱きながらも羽矢の部屋を後にした。
詰め所に帰ったころから、雨は小止みになってきた。都瑠が動かない黒い影のように、奥の壁にもたれて座っている。
「更伎さまは、これから龍の琵琶をお弾きになるそうですよ」
不二は声をかけた。
「どういうものなのですか? 龍の琵琶とは」
「〈龍〉の宝物です」
低い声で都瑠は答えた。
「わたしは見たことがありませんが、漆黒に銀箔の龍が描かれた、この上なく美しい琵琶だそうです。琵琶自体に大きな呪力がこもっていて、それが認めた者でないと音を出さないとか。龍の琵琶弾きだけが、代々それを弾きこなすことができると聞いています」
「ほう」
更伎が龍の琵琶を弾くことは、月弓の跡を継ぐ試験のようなものなのか。
いつのまにか雨は止んでいた。夕方には空が明るんで、西の方によどんでいる雲が薄橙色の輝きを帯び始める。
不二は廊下に出て、次第に色を濃くしていく夕焼けを眺めた。明日はめずらしく晴れそうだ。
しばらく途絶えていた琵琶が、再び澄んだ音を響かせた。
更伎が弾き始めたのだ。
不二は耳を澄ました。何度も聞いていた曲だったが、今はどこか感じが違う。これが龍の琵琶の音なのだろうか。耳よりも、心の奥底が共鳴するような響き。
都瑠が、いかにも安心したように息を吐き出した。それはそうだろう。龍の琵琶は、更伎を受け入れてくれたのだ。
夕焼けは、琵琶の音とともにすばらしく美しい。
琵琶の伸びやかな旋律はいっそう深みを増し、やがて荘厳なものに変わっていく。龍が巨大な身をくねらせ、いましも大空を飛翔する龍ような──。
と、不二は目をこらした。朱に染まって重なり合う雲の中に、何かの姿が見えたのだ。
鳥?
いや。
不二は思わず声を上げた。
「龍だ」
まぎれもなく龍だった。
龍は長い尾を打ち振って、胴をくねらせた。枝分かれした二本の角が、逆光にくっきと浮かび上がった。
天香では、年に何度か龍が現れると真崎が言っていたっけ。月弓の琵琶の音に呼び寄せられて、と須守も。
しかし、不二にとっては初めて見る龍だ。興奮をおさえ、不二は龍に目をこらした。気流に乗って、悠然と飛翔する龍を。
硬質の鱗は、金色に輝いていた。長いたてがみが、炎さながらに翻った。
いつのまにか、都瑠が不二の側に立っていた。龍を見つめたまま、満足げな笑みを浮かべている。
「あなたは」
不二は、ささやいた。
「何度かご覧になったことがあるのですね」
「はい」
都瑠はうなずいた。
「ですが、これは更伎さまの──。更伎さまがはじめて呼んだ龍なのです」
だが、どこから現れるのだろう。
ふと不二は考えた。この近くに、龍の棲む場所が残っているのか。それとも、龍の琵琶がつむぎ出す呪力が、時空を超えたどこからか龍を呼び寄せるのか。
龍は、雲の上に昇りつめた。首をもたげ、咆哮するかのように口を開けた。空気を震わす深々とした声が、ここまでも聞こえてくるようだった。
さらに高く、龍は舞い上がった。不二が見守り続けるうち、やがて藍色の空に見えなくなった。
龍の曲も止んでいた。
更伎が倒れたのは、その直後のことだという。
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