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しおりを挟むアイルは、リーの後について土手の上に向かった。
ずらりと並んだ露店からは、さまざまな食べ物のにおいがしていた。香ばしい肉の匂い、茹でたじゃがいも、揚げたての菓子。
アイルは、今朝から何も食べていないことを思い出した。急に空腹をおぼえてしまう。
すぐ先に、練った小麦粉を大きな鉄板で焼いている店があった。こんがりと焼けたそれを棒状に切りわけて、砂糖と香料をまぶしてくれるのだ。
「これ、砂漠の方のお菓子よね。わたし、大好きなの」
リーは、二つ注文した。
紙に包んだ焼きたての菓子を受け取り、一つをアイルに手渡した。ぴりっとした香料と砂糖の甘い香りが一緒になって鼻をくすぐり、アイルの顔は思わずほころんだ。
一口かじりついた瞬間、ふと誰かの面影が頭をよぎった。
アイルは、はっとして顔をあげた。
この菓子の香りはおぼえている。
誰かが作ってくれた。
いつも微笑みを浮かべている、優しい女の人……。
もう少しでその顔が思い出せそうだった。
アイルは、必死で記憶をたぐり寄せようとした。
誰だったろう。
もう少しで──。
「やあ、セガスのおじょうさん」
つかみかけた記憶の糸を、無骨な声が断ち切った。
ちらりとかいま見えた人は、あっという間に消え去った。
「どうしたんだい。今回はだめだったじゃないか」
ナズルのカズだ。
リーは、おもいきり嫌な顔をした。
「決勝戦までは時間があるんだ。一杯やろうと思ってたところさ。こんどこそつきあわないか。賞金で何かいいものを買ってやるよ」
リーは怒り心頭に達しているようだったが、無視を決めこんだ。
「行きましょう、アイルくん」
「やれやれ、つまらん女だねえ」
カズは大げさに首を振り、背を向けた。その時、彼のふところから何かが落ちて、アイルの足下に転がった。
アイルは拾い上げた。
コルクの蓋がついた小さな瓶だ。透明な液体が中に少しだけ入っている。
「返せよ、小僧」
カズは、あわててアイルから瓶をうばい取った。
「これは、おれのもんだ」
あっけにとられているアイルとリーをしりめに、カズは瓶をにぎりしめて、早足で立ち去った。
「変なやつ!」
リーははきすてるように言った。
「相手になっていられないわ」
まったくだ。おかげで思い出しかけた何かが、また遠くに行ってしまった。
アイルはため息をついた。
冷めて香りも薄くなった菓子をかじりながら、リーと土手に戻った。 河原の弓引きの数は、半分ぐらいに減っていた。
ダグは弓を手にしゃがみ込み、川の流れを見つめている。
並んだ五人が矢を射るたび、観客の拍手やため息が起こった。続けて何組も的に入らなかったり、一度で三四人の的中者を出す組もあった。
ついに最後の組、ダグの番だった。残った三人は、弓を手に定位置に並んだ。
百三番目のダグは、一番後ろだ。
三人の弓が高々と持ち上がり、一呼吸置いて引き分けられた。
「いい形をしているわね」
アイルの傍らでリーがつぶやいた。
「よほど基礎をつまないと、あんなふうにはならないわ」
アイルは、まじまじとダグを見つめた。
いまや、ダグの腕と体は、みごとな十字を作っていた。リーの言う通り、その姿は伸び伸びとして美しかった。いつも猫背ぎみに弓をつま弾いていダグよりも、ずっとしっくりして見えた。
やはりダグは、弓を引きたかったのではないか。
矢が放たれた。
一本の矢が、にぶい音を立てて的に当たった。他の二本は幕の前に落ちた。
「誰の?」
リーが、うれしそうにアイルの肩を叩いた。
「あなたの連れよ。やったわ。的の角にぶつかったけど、入ってる。決勝に残ったのよ」
当のダグは、的を眺めたまま、まだ立ちつくしていた。
すぐに決勝に入るとのことで、アイルはダグに会いに行くことができなかった。
決勝に残ったのは十三人。
さっきまでの的が、ふた周りほど大きなものに取り替えられた。
「的が変わったね」
「大的よ。順番をつけやすくするため」
リーが説明してくれた。
「公式戦ではないから、主催者が自由な的を使えるの。十位まで入賞と言っていたでしょう。今日のはいつもより大きいわ。的の中心に近い矢から順番をつけていくわけ」
係りが、くじを引かせて決勝の順番を決めていた。
並んだ順を見ると、ダグは最初から四番目のようだった。ガズは、一番最後で自信たっぷりに胸をそらせていた。
一番目の弓引きの矢は、的の星よりに、小気味いい音をたてて命中した。それを意識しすぎたのか、二番手の矢は、おしくも的をそれた。三番目の矢は、的の縁に近い右側に当たり、
そして、ダグは──。
アイルは、祈るように両手の指を組み合わせて、弓をかまえるダグを見つめた。
脱落者は三人だ。すでに一人、的を外しているし、的に当たりさえすれば入賞できる確率は高い。
ダグは呼吸を整えながら弓を引きしぼっていた。
目を見開き、的をにらんでいる。
ねらいをつけている時間が、あまりにも長すぎると思えた瞬間、矢は放たれた。
アイルは目をこらした。
ダグの矢は的のぎりぎりの所に刺さっていた。
「上位入賞は無理みたいね」
リーが、心底残念そうに言った。
アイルは、うなずくしかなかった。せめて、あと二人、的を外してくれれば。
つづく六人は、次々と的を射た。さすがに、決勝に残るだけのことはある。
しかし、十一番目の弓引きの矢は、的にぶつかって下に落ちた。
あと一人だ。祈るように考えながら、アイルは複雑な気持ちになった。他の弓引きの不運を待っているわけだから。
カズの前の弓引きは、小柄な初老の男だったが、弓をかまえると背筋がぴんと伸び、射形もみごとだった。
矢は銀の星のほぼ中央に命中した。観客の歓声は一番大きく、河原をゆるがした。
残るのは、カズだけだ。なかなか鳴りやまない拍手に、まるで自分のもののように答えて手を振って、的に向かって肩をいからせた。
今に見ていろ、といったふてぶてしい雰囲気だった。
カズは矢をつがえ、弓をななめに持ち上げた。
その時、筈が弦から外れ、矢はぽろりと地面に落ちた。
観客がどよめく間もなかった。地面に落ちたはずの矢は、矢尻をもたげて、生きているもののように的に向かった。空を切る音をたてて、的の真ん中に突き刺さった。
おそらく見ている者全員が、ぽかんと口を開けたに違いなかった。
一呼吸後、観客の悲鳴や怒号が飛びかった。
リーは突然両手を打ち鳴らし、けらけらと笑いだした。
「なるほどね、これでわかったわ」
「どういうこと?」
「あいつの弓の腕前は、本物じゃなかったってこと。矢にまじないをかけていたのよ。どんなことをしても、矢は的の真ん中を射抜くことになっていた」
「地面に落ちても」
「そういうこと。さっきの小瓶があやしいわね。矢につける、まじな呪い薬よ、きっと」
「ああ、あれ」
アイルは、ガズが落とした小瓶を思い出した。彼は、けっそう変えてアイルから取り返したっけ。
「ナズルには、魔法使い並の力を持つまじない師がいるって聞いたことがあるわ。大金かけて手に入れたんでしょうね。賞金で充分もとは取れるはずだもの」
興奮さめやらない観客が、持っていた物を次々と河原に投げつけていた。果物や菓子、紙くずや土くれが乱れ飛び、役人たちが止めに入った。
その場からこそこそと逃げ出そうとしたカズを、河原近くにいた観客が取り押さえて役人に引き渡した。
カズは役人に引っ立てられて行き、観客たちのさわぎもようやく収まった。
「ばかなやつ」
リーが、軽蔑ともあわれみともとれる口調でつぶやいた。
「二三年の労役は間違いなしね。さぞかし、やせることでしょう」
最後の混乱はあったものの、ブルクの弓術大会は終わりをつげた。
入賞者には、栄誉と賞金が贈られた。
なんとか十位になったダグは、銀貨一枚を手に入れた。
「よかったわね、これで宿賃が払えるじゃない」
「なんとかね。運がよかった」
肩をすくめたダグは、さほど嬉しそうでもなかった。
「運も実力のうちですってよ」
リーは明るく笑い飛ばし、こんどこそ二人に別れを告げた。公式戦に出るために、故郷に帰ると言うことだった。
アイルは、名残惜しい気持ちで彼女に手を振った。
彼女が公式戦に勝ち残って、王の射手祭に出場できることを祈りながら。
待ちかまえていた宿屋の主人は、昨夜の宿賃の他に貸した矢の代金まで請求した。
「あと銀粒一つで、ゆずってやってもかまわないがね」
「結構だよ」
二人はやっとのことで荷物を取り戻し、宿屋を後にした。
もう日暮れ近くだったが、この街に留まるよりどこかで野宿した方がましな気分だった。
「やれやれ」
夕日を見上げながら、ダグがため息をついた。
「さんざんな目にあった」
「うん」
アイルはうなずいた。
「むだ足をふませちゃったね、ダグさん」
「無駄じゃなかったさ」
ダグはアイルの肩をたたいた。
「いいことを聞いただろ。ナズルには、魔法使い並のまじない師がいる」
「でも、報酬は高いらしいよ」
「何とかするさ。どうせナズルは砂漠に行く途中にあるんだ。寄ってみる価値はある」
「ごめんね」
アイルは唇をかんだ。
「もう少しで思い出せそうだったんだ。もう少しで……」
「だいじょうぶ」
ダグが、力強く言った。
「きっと思い出せる。それまでの辛抱だよ」
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