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応接室に座っていると、執事のハイドがお茶を持ってきた。本邸には今主がいないので、今はこちらで父の執事をしているらしい。そういえば父には補佐官がついていなかったが、お茶などはどうしていたのだろう。
お茶菓子がないのはまあ当然として、飲んでみたお茶はあまり品質の良いものではない。軍部には予算のほとんどをまわしているのに、辺境伯の飲むお茶としてはあまりに不味い。ハイドのお茶の淹れ方は問題ないはずなのに。
お茶の味に頭を捻っていると、先ほどの衝撃が薄れてきた。
腰を抜かしたわたしを父が支えてくれ、更に抱き上げて執務室の隣の、応接室まで運んでくれた。父に抱き上げられたことなど初めてで、腰が抜けたうえに緊張して途中に何か話しかけられたが、聞かれたことも答えたことも覚えていない。でも何故か安心感があって、血の匂いがすると思い込んでいた父からは、森のような爽やかな匂いがした。その父は今、執務室で残りの仕事を片付けている。
「父はお茶とか、どうしていたの?」
味はともかくとして温かいものを口に入れると、心に余裕ができる。隣で控えているハイドに疑問に思ったまま、聞いてみた。
「ご自分で淹れられています」
口に含んだお茶を吹きそうになって、慌てて飲み込んで、噎せた。
「茶葉も自ら市井で買ってこられていますね」
ハイドもお茶の品質には言いたいことがあるのだろう。でも今の辺境領で買えるお茶となればこの程度しかない。わたしと同じく、お忍びで市井に出ていると聞き、鉢合わせなかった幸運に安堵した。
「何度か街で奥様を見かけたと仰っておいででしたよ」
何故か得意げなハイドの衝撃の言葉に更に噎せた。見つけていないのはわたしだけで、父は知っていたのだ。多分サヤもスレインも気づいていない。
「街で何をしていたの」
「まあ色々と……砦の奥にいてはなかなか情報も入って来ませんから」
父は、わたしが軍人狩りをしていたことも知っているのだろう。小さな正義感に酔っていたわたしを、どう思っているのだろう。お茶の味がわからなくなってきた。
更に聞けば、夜になるとほぼ毎晩街に出て色々なところで食事も摂っていたという。名の知れた店ではなく、おもに小さな個人店主の店で。
ハイドも知っていたなら教えてくれれば良いのに、人が悪い。わたしがハイドに言わずに出かけていたこともあるが、次にどんな顔をして父の前に出ればいいのかわからない。と混乱しているところに、応接室の扉が開いて、父が入室した。勢いよく立ち上がろうとしたが、手で制された。
「市街はほぼ鎮火したそうだ」
「はい、……いえ、あの……」
返事ははっきりと。話す言葉はよく聞こえるように。心中を態度に出してはならない。
父に何度も繰り返された幻聴が聞こえて、背筋を伸ばすが、想っていた厳しい言葉はなかった。拍子抜けした気分で父の顔を見ると、思っていた以上に老けてみえた。顔には皺が、髪にも白いものが混じっている。厳めしいことに違いはないが。
「救護所ではサヤがよく手伝ってくれているらしい。よく労っておきなさい」
「はい」
人が出入りする気配はなかったが、どこからか新鮮な情報を得ているようだ。父の魔法だろうか。わたしは、父が何の魔法を使えるのかも知らないけれど。
「アーシア」
「はい」
改めて名前を呼ばれて全身を緊張させた。
「ここにこの地域で採れる金色の砂についての研究をまとめてある」
「……はい」
父が抱えてきた数冊のノートのようなものをテーブルに置いた。上の方は新しく、下のものは擦り切れて背表紙が解けて、ただの紙束になっている。
「何代もの辺境伯が研究してきたものだ。この砂の研究を託したい」
「わたしに、でしょうか」
辺境伯が引き継ぐものなら、わたしではなくクライブに任されるものではないだろうか。思っていたことが顔に出てしまったのか、父は小さくため息をついた。
「クライブには辺境伯は任せられない。軍人として優れていても、人を束ねる器ではなかった。見抜けなかったのは私の落度だ。ハイドがここに来るまで、おまえがどんなにひどい暮らしぶりだったかも知ろうとしなかった」
父の後ろに立つハイドを見ると、小さく首を振っていた。父に現状を伝えようとしていたハイドを止めていたのはわたしだ。家政や資金繰りなど、すべて軍部中心に持っていかれて夫と交渉もできない、任された仕事を全うできないと叱責されるのを避けていたのだ。
「代々この地を治めてきたものは、この砂を利用して、いずれ王家から独立を目指してきた。私の代でとうとう王家に砂の価値を知られてしまった」
大きなはずの父の姿が、萎れて見える。普段は張りのある声が掠れて聞こえる。
「王家に私の首を差し出せば、おまえは連座を免れるだろう。隣国との軋轢はすべて王家が引き受けるはずだ。ただ、最期の願いを聞いてもらえるなら、できれば砂の研究は続けてもらいたい。これはこの地だけでなく、人々すべてを救えるかもしれないのだ」
「最期の……。わたしに、お父様の首を落とせと?」
父とハイド、両方の目がわたしを見ていた。
お茶菓子がないのはまあ当然として、飲んでみたお茶はあまり品質の良いものではない。軍部には予算のほとんどをまわしているのに、辺境伯の飲むお茶としてはあまりに不味い。ハイドのお茶の淹れ方は問題ないはずなのに。
お茶の味に頭を捻っていると、先ほどの衝撃が薄れてきた。
腰を抜かしたわたしを父が支えてくれ、更に抱き上げて執務室の隣の、応接室まで運んでくれた。父に抱き上げられたことなど初めてで、腰が抜けたうえに緊張して途中に何か話しかけられたが、聞かれたことも答えたことも覚えていない。でも何故か安心感があって、血の匂いがすると思い込んでいた父からは、森のような爽やかな匂いがした。その父は今、執務室で残りの仕事を片付けている。
「父はお茶とか、どうしていたの?」
味はともかくとして温かいものを口に入れると、心に余裕ができる。隣で控えているハイドに疑問に思ったまま、聞いてみた。
「ご自分で淹れられています」
口に含んだお茶を吹きそうになって、慌てて飲み込んで、噎せた。
「茶葉も自ら市井で買ってこられていますね」
ハイドもお茶の品質には言いたいことがあるのだろう。でも今の辺境領で買えるお茶となればこの程度しかない。わたしと同じく、お忍びで市井に出ていると聞き、鉢合わせなかった幸運に安堵した。
「何度か街で奥様を見かけたと仰っておいででしたよ」
何故か得意げなハイドの衝撃の言葉に更に噎せた。見つけていないのはわたしだけで、父は知っていたのだ。多分サヤもスレインも気づいていない。
「街で何をしていたの」
「まあ色々と……砦の奥にいてはなかなか情報も入って来ませんから」
父は、わたしが軍人狩りをしていたことも知っているのだろう。小さな正義感に酔っていたわたしを、どう思っているのだろう。お茶の味がわからなくなってきた。
更に聞けば、夜になるとほぼ毎晩街に出て色々なところで食事も摂っていたという。名の知れた店ではなく、おもに小さな個人店主の店で。
ハイドも知っていたなら教えてくれれば良いのに、人が悪い。わたしがハイドに言わずに出かけていたこともあるが、次にどんな顔をして父の前に出ればいいのかわからない。と混乱しているところに、応接室の扉が開いて、父が入室した。勢いよく立ち上がろうとしたが、手で制された。
「市街はほぼ鎮火したそうだ」
「はい、……いえ、あの……」
返事ははっきりと。話す言葉はよく聞こえるように。心中を態度に出してはならない。
父に何度も繰り返された幻聴が聞こえて、背筋を伸ばすが、想っていた厳しい言葉はなかった。拍子抜けした気分で父の顔を見ると、思っていた以上に老けてみえた。顔には皺が、髪にも白いものが混じっている。厳めしいことに違いはないが。
「救護所ではサヤがよく手伝ってくれているらしい。よく労っておきなさい」
「はい」
人が出入りする気配はなかったが、どこからか新鮮な情報を得ているようだ。父の魔法だろうか。わたしは、父が何の魔法を使えるのかも知らないけれど。
「アーシア」
「はい」
改めて名前を呼ばれて全身を緊張させた。
「ここにこの地域で採れる金色の砂についての研究をまとめてある」
「……はい」
父が抱えてきた数冊のノートのようなものをテーブルに置いた。上の方は新しく、下のものは擦り切れて背表紙が解けて、ただの紙束になっている。
「何代もの辺境伯が研究してきたものだ。この砂の研究を託したい」
「わたしに、でしょうか」
辺境伯が引き継ぐものなら、わたしではなくクライブに任されるものではないだろうか。思っていたことが顔に出てしまったのか、父は小さくため息をついた。
「クライブには辺境伯は任せられない。軍人として優れていても、人を束ねる器ではなかった。見抜けなかったのは私の落度だ。ハイドがここに来るまで、おまえがどんなにひどい暮らしぶりだったかも知ろうとしなかった」
父の後ろに立つハイドを見ると、小さく首を振っていた。父に現状を伝えようとしていたハイドを止めていたのはわたしだ。家政や資金繰りなど、すべて軍部中心に持っていかれて夫と交渉もできない、任された仕事を全うできないと叱責されるのを避けていたのだ。
「代々この地を治めてきたものは、この砂を利用して、いずれ王家から独立を目指してきた。私の代でとうとう王家に砂の価値を知られてしまった」
大きなはずの父の姿が、萎れて見える。普段は張りのある声が掠れて聞こえる。
「王家に私の首を差し出せば、おまえは連座を免れるだろう。隣国との軋轢はすべて王家が引き受けるはずだ。ただ、最期の願いを聞いてもらえるなら、できれば砂の研究は続けてもらいたい。これはこの地だけでなく、人々すべてを救えるかもしれないのだ」
「最期の……。わたしに、お父様の首を落とせと?」
父とハイド、両方の目がわたしを見ていた。
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