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七瀬
しおりを挟む瀬戸の言葉の真意もわからないまま、怒涛の感情労働に耐えかねていた脳は休息を欲し、その要請に従うまま俺は眠りについた。
そこまでは良かったのだが、心身は予想以上に疲れていたようで、ベッドの上で目覚めた時には翌日の夕方だった。
つまり、意図せず学園を一日サボってしまった。
「マズイな……」
瀬戸と喧嘩をしたのはもうどうしようもないとしても、七瀬の送り迎えができなかったのはマズイ。
あとで担任の吉田と、七瀬の両方から怒られそうだ。
昔、良くしてくれた七瀬のご両親にも申し訳が立たない。
「あ、おはよう。桜井くん」
「――――――――――え?」
上半身を起こし、スマホを確認していた辺りで、聞こえるはずのない声が聞こえた。
夢見心地でそのまま首から上を横に曲げると、そこにはあるはずのない姿が見える。
「な……え? なん…………は……?」
「ついさっき来たところなんだ~」
いや、何時来たかは聞いていない。
「なん…………で…………?」
「今日休んだでしょ? 心配になって」
いや、何故来たかは聞いていない。
「どう、やって……来た……?」
「あー、そゆこと。これこれ」
七瀬が片手をあげる。
その指先には、見覚えのある鍵があった。俺の家の鍵だ。
どうして七瀬が俺の家の鍵を持ってるんだ?
「ちょっと待ってくれ……」
慌ててベッドから飛び起きて、学園指定のズボンのポケットを探る。
そこには、きちんとチェーンに繋がった鍵の存在を確認できた。
「どういうことだ……?」
未だに夢現気味の頭で七瀬を見ると、悪戯をする子供みたいな顔をしていた。
最近よく見るその表情に、これが夢ではなく現実であるという実感が強まる。
「これ、合鍵なんだー」
「…………は?」
確かにもしもの時に備えて家の合鍵は何本かある。
でも、学園に持っていくのは一本だけだし、それを落とした時に備えて外に隠してあるのも一本だけだ。
いや、しかし……水道管が這ってるデッドスペースの、ほんのわずかな隙間にダミーと一緒に紛れ込ませているアレを、そう簡単に見つけられるのか……?
七瀬が本当に俺の心が読めるなら、そうかもしれないけど。
「それ……どこで見つけた?」
「見つけた?」
「いや、だから…………なんていうか、その」
「あー。これはね、もらったの」
「は…………?」
もらった? 誰に? 一度も落としていないし、一度も空き巣に入られてもいないのに?
「桜井くんの、お母さんに」
「――――――――――は?」
頭が揺さぶられてクラクラしてしまい、思わず胃液を吐き出してしまいそうな気分になった。
なんだか額がものすごく熱くて、痛くて、重く感じられる。
夢想もしない現実の前に、脳が知恵熱を起こしてしまいそうだ。
「……い……いつ…………?」
「半年ぐらい前かなー。急にお家に来てね」
「嘘だろ…………」
「桜井くんに何かあったらよろしくーって言ってた」
俺には一度も会いに来てくれないのに。
家族でもない七瀬には会いに行ってたっていうのか。
それで、七瀬に俺の世話を頼んで自分は楽しようっていうのか。
そんなのって、ないだろ。酷いよ。
「大丈夫?」
「…………ああ、まあ……」
たぶん、大丈夫じゃないかな。
このぐらいの苦しみには、もう慣れた。
慣れ切ってしまった。
「桜井くん、お腹空いてるでしょ?」
「……まあ、それなりに…………」
「じゃあキッチン、借りるね」
「は…………?」
なんで当然のように居座ろうとしてるんだよ、こいつは。
他人の家なんだぞ? 男が一人で暮らしてるんだぞ? 怖くないのかよ。
お前は男が苦手だったはずだろ。俺に何かされるんじゃないかって思わないのかよ。
いくら俺の母親と顔見知りで頼まれてるからって、そこまでするか? 普通。
「いや、でも食材が」
「大丈夫大丈夫。買っておいたから」
前提を崩そうとする俺に対して、七瀬は床に置いてあるエコバッグを開いて中身を見せてくる。
そこには、肉や魚だけでなく、不摂生な俺には不足しがちな野菜までもがぎっしりと入っていた。
「……わかった。とりあえず代金を」
「いーからいーから」
何かを言おうとしても、続けざまに七瀬に流されてしまう。
そして、俺を放って七瀬は食材を両手に、居間にあるキッチンへと向かおうとしてしまうので、俺も追いかける他ない。
「いや、でも米が」
「そんなことだろうと思いまして!」
居間につくやいなや、七瀬はそこに置いてあるバッグを開いて、パック詰めされた白米を見せてくる。
なんだよこれ……用意が周到すぎて気持ち悪い…………なんなんだこいつ…………。
「じゃあ、作っちゃうねー」
「…………」
「これ、借りてもいい?」
「……いいよ」
もはや逃げ道を片っ端から潰されてしまった俺は何も言えず、食卓の椅子に座って、キッチンに立つ七瀬の姿を呆然と眺めることしかできない。
誰にも使われずにずっと吊るされていた母さんのエプロンが、誰かに使われてる光景をまた見ることになるなんて夢にも思わなかった。
「とりあえず、すぐ作ろうとすると“こういうの”になっちゃうけどいい?」
そう言って、七瀬は小袋を見せてくる。
スーパーで売られているような、唐揚げ用の粉を商品化したもので、短時間で味がしみ込む便利な商品だ。
こいつは、何かあったら唐揚げを突っ込んでおけば俺が黙ると思っているらしい。
さすがに半日以上何も食べていない胃腸の叫びには逆らえず、俺は黙って頷く。
「よかった。ちょっと待っててね」
七瀬はあまりにも手際良く、購入したポリ袋を取り出してその中に鶏肉を入れていき、唐揚げ用の粉をまぶして揉みこんでいく。
まあ、こんな商品を使わなくても唐揚げを作れるぐらいだから、この程度はお手の物か。
用意周到すぎて本当に気持ち悪いけど。
「では、十分間お待ちください」
「……はい」
ポリ袋の口を捻って結んだ七瀬はスマホを取り出し、タイマーをセットする。
普段から使い慣れているのだろうか。これだけ時間をきっちり管理できるなら、待ち合わせ場所にも早めに来れそうなものなんだけど。
「じゃあ、その間にお掃除するね」
「は?」
これから過ぎ去る沈黙の十分間に憂いを馳せていると、そんな俺を尻目に、七瀬は掃除機を引っ張り出してきてしまった。
いや、その辺に置いてはあったけど、あれでよくわかったな。
「ちょっと埃っぽいよねーここ」
「……まあ」
「あ、マスク」
虚空を見つめていた俺の視界に、七瀬の指が混ざり込んでくる。
それは俺の頬を横切って、あっという間に俺の顔に布の質感を与えてしまった。
「ハウスダストには気をつけなくちゃだよね」
「……まあ、そうだな」
その衛生観念があるなら、家に帰った時にきちんと手洗いうがいをできそうなもんなんだけど。
「軽めにやっちゃうねー」
七瀬もマスクを着けて、こんな時ばかり手早く、居間のフローリングに掃除機をかけていく。
いつの間にやら窓も開けられ、キッチンの換気扇も回っていて、本当に手際が良いなと感心する。
ただ、どうしてこんなことになっているのかは、よくわからなかった。
「……なあ」
「んー?」
「どうして俺なんかにここまでしてくれるんだ?」
それは、純粋で素朴な疑問だった。
実の親にも見捨てられたこんな俺に、どうして七瀬はここまでしてくれるのかが、よくわからなかった。
ご飯を用意するなら、別に惣菜や弁当を買ってくればいいだけの話。あるいは、いつもみたいに弁当を作って置いていってくれればいい。
わざわざ材料を買ってきて作ってくれて、しかもその材料費も請求せず、掃除までしてくれるなんて、あまりにも親切すぎてむしろ不審にすら感じる。
俺の母親に頼まれたからといって、七瀬がここまでしてくれる理由が、俺にはよくわからなかった。
「だって、私は桜井くんの彼女さんでしょ?」
「…………え?」
そんなの、ただの噂だってお前が一番よく知ってるんじゃないのか。
告白された時に否定してたって、ついこのあいだ滝川から聞いたぞ。
なにより、俺はお前から受けた好意に、望ましい答えは返してない。
それって、普通ならもうとっくに見限ってるもんじゃないのか?
なのに、どうして未だにこんな距離感で、俺たちは顔を合わせているのかがわからないんだ。
だから、七瀬がいう言葉の意味は、やっぱり俺にはわかりそうにもない。
俺なんかには、きっと永遠にわからない。
「――あ、できたできた」
俺が物思いにふけっている間に、いつのまにやら十分間の時が経過してしまっていたようだ。
七瀬は掃除を中断してしまっていて、十分間の労働の報酬としては大きく、床はかなり綺麗になっていた。
そして、今の七瀬は味がしみ込んだ鶏肉をフライパンに投入し、油で揚げている。
その光景を眺めることしかできない俺は、とりあえず自分の顔に張り付いたままのマスクを引き剥がす。
「このフライパン、結構テフロンが剥がれちゃってるからそろそろ買い替えた方がいいよ?」
「ああ……そう……」
七瀬が何か生産的なことを言っているのはわかるのだが、このフライパンは母さんが置いていったものをそのまま使っているだけで、俺にはフライパンの違いはよくわからない。
そもそも、そんなに頻繁に使うものでもないから、買い替える必要性もそこまで見出せない。
「よかったら、今度一緒に買いに行こっか?」
「いや……いいよ……」
七瀬の軽快なトークにすっかりペースを乱されっぱなしで、まるで詐欺の勧誘を受けているような気分になってきた。
だから、「今後の約束」だけは拒否しないと、ズルズルとなにかに飲み込まれてしまいそうな不安がある。
「うーん、残念」
「…………」
「せっかく久しぶりに一緒にお出かけできると思ったんだけどなぁ」
「あっそ……」
ただでさえほとんど毎日一緒にいるんだから、一緒に出かける必要性なんて見出せない。
何より、これ以上七瀬と一緒にいる時間が増えてしまったら、自分の惨めさに耐えられそうにない。
「あ、できたよ」
そう言いながら、七瀬は唐揚げをキッチンペーパーの上に置いて、油を落としはじめた。
できたとは言うものの、まだ食べられる状態ではないらしい。俺はそのままでもいいんだけど。
そのまま、七瀬はキッチンの隅からまな板と包丁を引き出して、スーパーで買ってきたらしい半玉キャベツをリズム良く切り出す。
どうやら唐揚げに合わせてキャベツの千切りを作ってくれるようだ。
同世代でこんなに家事ができるのはすごいなと、素直に感心する。
ちなみに俺は、自分では唐揚げ一つ満足に揚げられないし、ハンバーグも作れるか怪しいぐらいだ。
「よーし、こんなもんかな」
満足のいく出来になったらしく、七瀬はキャベツの千切りを皿に載せ、さらにその上に油の切れた唐揚げを載せている。
続いて、しばらく使っていない茶碗を取り出して、実家から持ってきたであろう出来上がった白米をそこに盛っていく。
ようやく形になった食事が、そのまま食卓にいる俺の目の前まで運ばれてくる。
「はい、どうぞ」
「…………」
失礼とは思いつつも、なんとなくお礼の言葉を口に出す気にはなれず、七瀬に軽く目を合わせて会釈で示す。
それだけで何故かニコニコしてくれる七瀬から目を伏せて、添えられた箸を手に取り、白米を一口。
久しぶりに自分の家で食べるきちんと炊かれた白米は、ただそれだけでとてもおいしくて、少しだけ涙が出そうになった。
「…………」
「…………」
唐揚げを一口。これも、おいしい。
おいしいんだけど、少しだけ、食べづらい。
「……あのさ」
「なーに?」
「食べづらいんだけど」
少しだけ顔をあげると、そこに七瀬の存在が写り込んでくる。
七瀬は、食卓を挟んで俺の向かい側に座っていて、両手で頬杖をつきながらじっと俺のことを見ていた。
誰かに監視されてる状態で、気楽に飯が食べられるわけもない。
口に入れ損ねた白米やキャベツが零れたりするのも見られるし、唐揚げを誤って食卓の上に落とした時に拾い食いしようとしても見られているわけで。
とてもじゃないが、気が休まらない。いつもならできている粗相が何もできない。
「…………ふふ」
「はぁ…………」
七瀬は監視を止めてくれないようなので、諦めていつも以上に精密な動作で食事を続ける他ない。
「嬉しい?」
「なにが?」
「好きでしょ? 唐揚げ」
好きだけど、さすがにこんな状況だと味がしなくなってくるんだよなぁ。
そう思いつつも、せっかくの厚意を無下にすることなんて到底できないので、俺は軽く頷いて見せて箸を進めた。
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