56 / 90
伍幕 小谷城、燃ゆる
第56話
しおりを挟む
「姉さま、お山が燃えております。父さまは、もう……」
「それ以上、なにも申してはなりませぬ。よいか、お初」
わずか五歳の茶々は、妹に向けてぴしゃりと言い放った。ふたつしか離れていないというのに、茶々は長女としてしかと眼を開き、ごうごうと炎に包まれていく小谷城を眺めていた。
妹の手をしっかりと握りしめ、泣くまいと全身に力を入れる姿は痛々しい。本来ならば、声を上げて泣いても許される年齢だというのに、気丈に振る舞うその姿に、周囲の大人たちが涙を禁じ得ない。
(なんと気丈な姫君じゃ。父君が伯父御に討たれたことを理解し、哀しみに耐えておられる)
お市が乗った輿に付き従いながら、於小夜は他の侍女たちと共に歩む姫たちの姿を盗み見た。輿の中からは、絶えず忍び泣きが聞こえてくる。
小谷城攻略は、これで終わった。亮政、久政、そして長政。浅井家はわずか三代でこの乱世から姿を消した。いや、まだ万福丸と万寿丸が逃げているため、四代続くかもしれない。しかし、と於小夜は気付かれぬよう小さくかぶりを振った。あの信長が万福丸の存在を是とするはずがない。草の根を分けてでも探し出すよう命じることは、充分にあり得る。
(もし万が一、万福丸さまが捕らえられたとしたら、お市さまは耐えられるだろうか)
長政の遺言に従い、お市は姫たちの養育と万福丸が生き延び、浅井家を再興してくれることを心の支えにしている。亡き夫との約束を果たせなくなったら、後を追いかねない。それほど今のお市の心は危ういものになっている。
(お市さまはそれほどまでに、浅井の殿を)
二人の仲は周囲も羨むほどだった。こんな乱世でなければまた違った人生が待っていただろうにと、於小夜は忍びらしからぬ感傷に浸ってしまった。今の於小夜は忍びとしての立場を忘れ、すっかりお市付きの侍女になりきっている。府抜けたと傍からは見えるかもしれないが、女主人を憐れむ気持ちは本物だ。
お市たち一行は勝利に沸き立つ織田本陣をすり抜け、お市の兄であり信長の同母弟である、織田信包が守護する安濃津城へと移送されている。さすがに長政を討った張本人である信長も、自分の手元に置くことは居心地が悪かったらしい。
お市たち一行が無事に安濃津城に入った報せが、岐阜城に戻った信長にもたらされると、心底安堵の息を洩らした。
(おそらく市は、終生儂を許さぬであろう。だがこれも全て乱世の習い。再嫁は当分考えられぬだろうから、好きにさせてやろう)
何といっても信長にとってお市は、いくつになっても目の中に入れても痛くないほど愛しい妹なのだ。それほど溺愛している妹の夫として選んだ長政の才能を高く評価していただけに、今回の戦は信長自身の心にも深い影を落としていた。
「お市が自害せぬよう、心配りを抜かるな」
信包に早馬で報せると、信長は隣に座す正室に向けて語りかける。
「それ以上、なにも申してはなりませぬ。よいか、お初」
わずか五歳の茶々は、妹に向けてぴしゃりと言い放った。ふたつしか離れていないというのに、茶々は長女としてしかと眼を開き、ごうごうと炎に包まれていく小谷城を眺めていた。
妹の手をしっかりと握りしめ、泣くまいと全身に力を入れる姿は痛々しい。本来ならば、声を上げて泣いても許される年齢だというのに、気丈に振る舞うその姿に、周囲の大人たちが涙を禁じ得ない。
(なんと気丈な姫君じゃ。父君が伯父御に討たれたことを理解し、哀しみに耐えておられる)
お市が乗った輿に付き従いながら、於小夜は他の侍女たちと共に歩む姫たちの姿を盗み見た。輿の中からは、絶えず忍び泣きが聞こえてくる。
小谷城攻略は、これで終わった。亮政、久政、そして長政。浅井家はわずか三代でこの乱世から姿を消した。いや、まだ万福丸と万寿丸が逃げているため、四代続くかもしれない。しかし、と於小夜は気付かれぬよう小さくかぶりを振った。あの信長が万福丸の存在を是とするはずがない。草の根を分けてでも探し出すよう命じることは、充分にあり得る。
(もし万が一、万福丸さまが捕らえられたとしたら、お市さまは耐えられるだろうか)
長政の遺言に従い、お市は姫たちの養育と万福丸が生き延び、浅井家を再興してくれることを心の支えにしている。亡き夫との約束を果たせなくなったら、後を追いかねない。それほど今のお市の心は危ういものになっている。
(お市さまはそれほどまでに、浅井の殿を)
二人の仲は周囲も羨むほどだった。こんな乱世でなければまた違った人生が待っていただろうにと、於小夜は忍びらしからぬ感傷に浸ってしまった。今の於小夜は忍びとしての立場を忘れ、すっかりお市付きの侍女になりきっている。府抜けたと傍からは見えるかもしれないが、女主人を憐れむ気持ちは本物だ。
お市たち一行は勝利に沸き立つ織田本陣をすり抜け、お市の兄であり信長の同母弟である、織田信包が守護する安濃津城へと移送されている。さすがに長政を討った張本人である信長も、自分の手元に置くことは居心地が悪かったらしい。
お市たち一行が無事に安濃津城に入った報せが、岐阜城に戻った信長にもたらされると、心底安堵の息を洩らした。
(おそらく市は、終生儂を許さぬであろう。だがこれも全て乱世の習い。再嫁は当分考えられぬだろうから、好きにさせてやろう)
何といっても信長にとってお市は、いくつになっても目の中に入れても痛くないほど愛しい妹なのだ。それほど溺愛している妹の夫として選んだ長政の才能を高く評価していただけに、今回の戦は信長自身の心にも深い影を落としていた。
「お市が自害せぬよう、心配りを抜かるな」
信包に早馬で報せると、信長は隣に座す正室に向けて語りかける。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる