上 下
48 / 90
肆幕 甲斐国の猛虎が眠る刻、決別の夜明け来たる

第48話

しおりを挟む
 元亀四年、信玄が遂に病没した。最期は甲府でとの思いで陣を引き払い引き返したが、途上で息を拭き取った。影武者が立てられたにもかかわらず、信玄の死から四日後には上杉、織田、徳川はその機密を知り得ていた。

 庄助から飛び立った伝書鳩は琵琶湖畔で漁師として住み着いている、九郎の許に届いた。本来ならば小十郎の処へ届くはずのこの密書が、九郎の手元に届いたことが一種の誤算だった。てっきり自分宛の密書と思った九郎は、幾重にもかけ回してある蝋封を破ると、ひと息に読み眉根をきつく寄せた。

「お屋形さま亡き後は、武藤どのに従えだと? 頭領さまは何を考えておいでだ。しかも小十郎どのと於小夜どのばかりで、俺にはひと言もなしとは」

 これまで骨身を惜しんで働いてきただけに、九郎は頭領から捨てられたような気持ちになった。小十郎は頭領の覚えがめでたいし、於小夜は姪。扱いがあまりにも違いすぎることに憤慨した。

「九郎どの、九郎どの」

 いくら激怒し我を忘れていたとはいえ、声をかけられるまで人の気配に気付かなかったことは、不覚としか言いようがない。我に返った九郎が懐の手裏剣を掴んだときには、はっきりと顔が認識できる距離に若い男が立っていた。

「お久しゅうございます、九郎どの」
「おお、佐助さすけではないか。久しいな」

 そこに立っていたのは、九郎とさほど年の変わらぬ下忍の佐助だった。この者も若いながら腕が立ち、庄助が真っ先に喜兵衛のもとに預ける約束をした。猿飛術が得意で、小柄な体躯ゆえに敏捷性に優れ将来を有望視されている。

「お屋形さまが、御隠れになりました」
「なんだと、お屋形さまが?」

 あまりの衝撃に、九郎が一瞬だけ我を忘れた。その間隙を突いて、佐助の手から光る物が飛ぶ。矮小な佐助の肉体に合わせて造られた小ぶりな手裏剣は、九郎の喉笛に深く食い込んだ。

 何をするか。

 そう言いたかった九郎だが、ごぼごぼと泡吹く音しか喉から洩れてこない。倒れた九郎を佐助は何の感情も宿さぬ冷たい目で見下ろし、突き刺さった手裏剣を引き抜く。途端に鮮血が地面を染め、身体が断末魔に蠢く。やがて完全に動かなくなったことを確認すると、佐助の体躯からは想像もつかぬほどの膂力で遺体を持ち上げ、琵琶湖に沈めた。

「ふむ。於小夜さまと小十郎どのに、連絡をつける事になるとは想定外だったが、頭領さまに命ぜられた事は果たした」

 あとは自分が伝えれば済むことと、佐助は小十郎の許へと駆け出した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

6年生になっても

ryo
大衆娯楽
おもらしが治らない女の子が集団生活に苦戦するお話です。

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

処理中です...