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弐幕 浅井家の女として
第29話
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義昭から、そして義景から送られてきた密書を前に、長政は厳しい顔をしていた。
「――織田殿に反旗を翻せと、公方さまが御命じになられた」
嘆息混じりに呟くように言えば、お市は、その美しい顔に僅かに朱を刷いた。長政はお市が苦悩することが判っていても、敢えて言わざるを得ない己の身を、この時代を恨めしく思う。
信長は、自分を頼みにしてお市を嫁にやった。この長政を義弟に相応しい男と見込み、大事に守ってきた妹を嫁がせた。季節の折々に送られてくる文や届け物の数々はどれも真心が籠もっており、浅井家のことをいかに頼りにしているかが窺えた。それだけに信長を討つことに協力せよと命じてきた公方義昭と、盟友朝倉義景の密書に心が千々に乱れそうになる。無表情だが頬を薄紅色に染め口元を固く引き結んでいるお市の心情を慮ると、何も言い出せなくなる。
「儂は、織田どのに弓引きとうはない。だが、公方さまの命令に逆らえぬ」
絞り出すような、苦渋に満ちた声だった。お市が嫁いでまだ二年だが、夫がこれほどに悩む姿を見たことがない。妻の実家を取るか、長年の交誼を取るか――どちらを選んでも心が晴れぬ二者択一を迫られ、浅井家当主として決めねばならぬ刻が近付いている。明朝、久政をはじめ重臣たちの前でこのことをどうするかの評定があるのだから。その席では、お市の処遇をどうするかも話し合われる。
そのことは既に、お市にも伝えてある。場合によっては妻は実家に帰されるか、人質として幽閉されるか。どちらにせよ長政の正妻としての立場は、なくなる可能性が大きいのだ。
「殿」
ずっと黙っていたお市が、ようやく口を開いた。じっと長政の目を見つめ、決意に満ちた表情である。長政も覚悟を決め、妻の言葉を待つ。
「この縁組が整いましたときより、わたくしは浅井のおなごとなりました。殿がお決めになったことに、わたくしは従います。わたくしは浅井の、長政公の正室にございます」
お市はそう言うと両手を付き、深々と頭を下げた。それは長政が仮に信長と袂を分かつことになろうと、浅井家の人間として運命を共にするという宣言であった。
「お方、そなたはそれで良いのか? 兄君を敵に回すやもしれぬのだぞ?」
「覚悟の上でございます。先ほども申し上げました通り、わたくしは浅井家のおなごでございます。例え兄であろうとこの乱世。争わねばならぬなら、殿に従います」
お市の脳裏には、かつて二人の兄が家督争いをした光景がよみがえっていた。信長と信行が、父の死後に他の親族と家臣団を巻き込み争った。結果、信行は信長の病気見舞いに訪れたところを暗殺された。その病気も仮病であったのだが。
また義姉の帰蝶も、婚家と実家の争いを経験している。彼女は婚家に残り、今もなお、信長の正室として奥向きの一切を取り仕切っている。幼い頃より兄夫婦を手本としていたお市はおなごとしての幸せを与えてくれる夫に、どこまでもついていく覚悟を決めていた。
政略結婚とはいえ、愛情が育つことはある。この時代の女は政略の道具として扱われ、さぞ不幸であったと思われがちだが、その中でも絆を結びその生涯を全うしていった者も多い。お市のひたむきさに心を打たれた長政は、愛する妻の肩をそっと抱き寄せ、その柔らかな身体を掻き抱いた。
「――織田殿に反旗を翻せと、公方さまが御命じになられた」
嘆息混じりに呟くように言えば、お市は、その美しい顔に僅かに朱を刷いた。長政はお市が苦悩することが判っていても、敢えて言わざるを得ない己の身を、この時代を恨めしく思う。
信長は、自分を頼みにしてお市を嫁にやった。この長政を義弟に相応しい男と見込み、大事に守ってきた妹を嫁がせた。季節の折々に送られてくる文や届け物の数々はどれも真心が籠もっており、浅井家のことをいかに頼りにしているかが窺えた。それだけに信長を討つことに協力せよと命じてきた公方義昭と、盟友朝倉義景の密書に心が千々に乱れそうになる。無表情だが頬を薄紅色に染め口元を固く引き結んでいるお市の心情を慮ると、何も言い出せなくなる。
「儂は、織田どのに弓引きとうはない。だが、公方さまの命令に逆らえぬ」
絞り出すような、苦渋に満ちた声だった。お市が嫁いでまだ二年だが、夫がこれほどに悩む姿を見たことがない。妻の実家を取るか、長年の交誼を取るか――どちらを選んでも心が晴れぬ二者択一を迫られ、浅井家当主として決めねばならぬ刻が近付いている。明朝、久政をはじめ重臣たちの前でこのことをどうするかの評定があるのだから。その席では、お市の処遇をどうするかも話し合われる。
そのことは既に、お市にも伝えてある。場合によっては妻は実家に帰されるか、人質として幽閉されるか。どちらにせよ長政の正妻としての立場は、なくなる可能性が大きいのだ。
「殿」
ずっと黙っていたお市が、ようやく口を開いた。じっと長政の目を見つめ、決意に満ちた表情である。長政も覚悟を決め、妻の言葉を待つ。
「この縁組が整いましたときより、わたくしは浅井のおなごとなりました。殿がお決めになったことに、わたくしは従います。わたくしは浅井の、長政公の正室にございます」
お市はそう言うと両手を付き、深々と頭を下げた。それは長政が仮に信長と袂を分かつことになろうと、浅井家の人間として運命を共にするという宣言であった。
「お方、そなたはそれで良いのか? 兄君を敵に回すやもしれぬのだぞ?」
「覚悟の上でございます。先ほども申し上げました通り、わたくしは浅井家のおなごでございます。例え兄であろうとこの乱世。争わねばならぬなら、殿に従います」
お市の脳裏には、かつて二人の兄が家督争いをした光景がよみがえっていた。信長と信行が、父の死後に他の親族と家臣団を巻き込み争った。結果、信行は信長の病気見舞いに訪れたところを暗殺された。その病気も仮病であったのだが。
また義姉の帰蝶も、婚家と実家の争いを経験している。彼女は婚家に残り、今もなお、信長の正室として奥向きの一切を取り仕切っている。幼い頃より兄夫婦を手本としていたお市はおなごとしての幸せを与えてくれる夫に、どこまでもついていく覚悟を決めていた。
政略結婚とはいえ、愛情が育つことはある。この時代の女は政略の道具として扱われ、さぞ不幸であったと思われがちだが、その中でも絆を結びその生涯を全うしていった者も多い。お市のひたむきさに心を打たれた長政は、愛する妻の肩をそっと抱き寄せ、その柔らかな身体を掻き抱いた。
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