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第1章 戦国の大海原 1567年7月~
第十六話 影が動く
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「ここは......其方の屋敷ではないか。」
氏家、安藤が案内されたのは、城下に建つ稲葉の屋敷。普段自分から客を招き入れることのない男の行為は、疑いの目を持ってしまう程に珍しいものだっだ。
(何かあったのだろうか。)と心配にさえなった二人は屋敷に入る。何も言うことのない稲葉に続いて、氏家と安藤は長い廊下を進み、立ち止まったのは大広間の前。稲葉はゆっくりと障子を開ける。そこに広がった光景に、二人は目を疑った。
「おぉ、お待ちしておりましたぞ。」
一人の男が座ってこちらに笑みを浮かべている。その後ろには並んで座る若者が二人。会ったこともない人達に安藤は眉間にしわを寄せ、露骨な不信顔を見せる。稲葉は男の目の前に座り、視線で合図を送る。氏家、安藤は訳が分からずにいたが、仕方なく稲葉の後ろに座った。
(誰だ......この者達は......?)
安藤は安藤に耳打ちをするが、美濃国の者達をよく把握している筈の氏家も、同じく知らぬと返答した。
「さてと、皆集まりましたな。では早速……おっと失礼、申し遅れました。拙者は織田家家臣、名を木下藤吉郎秀吉と申しまする。」
「織田!?」その名を聞いた瞬間、安藤は立ち上がり稲葉を見る。
「稲葉!此れはどういう事じゃ!?何故織田の者がここにおる!?」
稲葉は目を閉じたまま、何も語らない。氏家は宥なだめる様に安藤に声をかける。安藤は納得のいかない表情をしていたが、何か理由があるのだろうと割り切って、その場に座った。
秀吉の後ろに座る二人(俺と遠藤)は俯いていた。他国からやって来たという見知らぬ人が三人もこんな場所に居れば、誰だって怒るに決まっていると、内心そう思っていた。
「いやはや、申し訳ござらぬ。我等が此処に参ったのは、其方らにある《申し出》をするためにございます。」
「申し出だと?」
稲葉はゆっくりと目を開ける。秀吉はその様子に笑顔を浮かべた。
「其方らには是非、我等織田の下に来てもらいたい。」
「......っ!」三人は秀吉の一言に目を丸くする。
「西美濃三人衆と呼ばれる其方らの活躍は、我らの耳にも届いておりまする。当然、我らの主君、織田信長様の元へも。」
「まてまてっ......そ、それは、我らに織田方へ寝返ろと申しておるのか......?」
「その通り。殿は其方らのその才に惚れ、〈是非とも味方につけたいものだ〉と話しておられまする。もし来てくれるのであれば、それなりの見返りを用意すると。」
そう言って秀吉は懐から紙を取り出した。
「これを読んでいただければ分かりまする。」
稲葉はそれを手に取り、開く。そこに書いてあったのは、彼らにとって驚くべきものだった。
「これらを全て......もらえるのか......?」
秀吉は頷く。そこに書いてあったものは、今まで龍興から貰ったものとは比べ物にならない。三人は唾をのむ。
「いやっ、しかし......我らは龍興殿に忠義を誓って......」
「それは誠にございますか?」
三人は固まる。
「近年斎藤家は城を奪われたりと、家臣の離反が多いと聞きまするが。」
その言葉に俺は気づいた。秀吉は仕掛けている。ここから一気に畳みかけるつもりだと。
「このままでは其方らも浮かばれまい。思うことがある内に我らに寝返れば、未練も無い筈ですぞ。」
氏家と安藤は顔を見合わせている。
「......良いのでは......ないか?のぉ。」
安藤の言葉に、氏家は賛同する。
「そうじゃな......儂も斎藤家に思う所は多い。なあ稲葉殿。」
「儂はお断りじゃ。」
稲葉は秀吉を睨む。秀吉の表情が変わる。
「確かに織田方につけば、我らはもっと恵まれるのかもしれぬ。しかし儂はそれでも斎藤家に忠義を誓っておるのだ。忠義のない織田の元に来いと我らを金で釣るというのか......?若造が!ふざけたことを抜かすな!!」
「稲葉殿......」
俺と遠藤は稲葉の言葉に言葉を失った。それほどまでに忠義を貫く姿勢に、敬意を覚えるほどだった。
「稲葉殿。其方も幾年ほど前に、城を乗っ取ったのではありませぬか?」
その言葉に稲葉は固まる。秀吉も鋭い目つきで稲葉の目を捉える。
「そのようなもの、単なる綺麗事に過ぎぬ。其方は〈忠義〉という言葉に縛られておるだけじゃ。」
「黙れっ!!!」
稲葉は立ち上がり、秀吉を睨む。それは先ほどとは違った、まるで鬼の様な形相だった。
「......よぉく分かった。秀吉といったか。儂はな、貴様の様な生意気な小童が一番好かんのだ!信長に伝えろ!たとえ二人が寝返ろうとも、儂だけは其方の見返りは受けぬと!良いか!二度と儂の前に顔を見せるな!!」
「お......おい!稲葉!!」
稲葉は障子をばっと開け、早足で部屋を出てしまった。安藤は彼を追いかける様に部屋を飛び出す。氏家はため息を吐き、笑みを浮かべる。
「......済まなかったな。あの者は少しばかり頑固すぎるところがあるのだ。そうか。其方らは我らの為に尾張から此処へ来てくれたのだな。」
氏家は秀吉に向けて謝る。秀吉はふうと息を吐き、頭を掻く。
「いえ、拙者も少しばかり熱が入ってしまいました。確かに斎藤家にとって織田は敵。当然のことにございます。もし良ければ稲葉殿にその忠義を我々に、忠誠を織田家に誓ってくださらぬかとだけでも、伝えてくだされ。」
そう言い残して、秀吉は立ち上がり、一礼して部屋を出る。俺と遠藤は戸惑ってしまっていたが、氏家に向けて深く一礼し、秀吉の後をついて行った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「いなば......っ!」
追いついた安藤は稲葉の肩を掴む。稲葉は歩みを止め、俯いた。
「......分かっておる......儂とて分かっておるのだ……織田に仕えることが最善の路みちだと......だが......儂は......っ......」
息を切らした安藤は、言葉を詰まらせた稲葉の気持ちを察する。
「......ああ、分かっておった。其方も、儂も。」
稲葉はゆっくりと振り向く。安藤の顔は笑っていた。
「稲葉、どちらにせよ斎藤家はもうじき織田に取られる。織田の力は日を追うにつれて強く、大きくなっておる。もう、斎藤家には何も残らぬ。ならば、織田信長という男の下でもう一度、夢を見てみぬか?」
「......夢......?」
「あぁ、決して金や名誉などではない。我らが夢見て奔走した、道三殿のときの様に。」
稲葉は目を見開く。そして脳裏に浮かぶのは、《美濃のマムシ》と恐れられた、斎藤道三の後姿。
〈儂が見せてやろう。主らに飛び切りの夢をな。〉
「頑固さは其方の取柄とりえじゃ。しかし、今は少しくらい甘えても良いのではないか?」
稲葉は肩に背負っていた重荷が取れたように、力が抜けた。
儂は、我慢していたのだろうか。
稲葉は息を吐き、ふと微笑み、安藤の横を通って元の路を引き返し始めた。
安藤は彼の後姿を見ていた。どこか吹っ切れたような、しかしどこか寂しそうな、そんな背中を。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「秀吉はぁん......いくらなんでもありゃ言いすぎですよぉ......ヒッ」
「そうじゃなぁ......ヒッ、でぇもぉあれぐらぃ言わにゃ聞いてくれんだろうがぁ......ヒィック」
「......」
その夜、三人は美濃の宿を借りる。秀吉と遠藤は酒を飲み、酔いつぶれてしまった。俺はその様子を呆れたように見ていたが、ふとあの時の稲葉の顔が脳裏に浮かんだ。
〈信長に伝えろ!たとえ二人が寝返ろうとも、儂だけは其方の見返りは受けぬと!〉
あの言葉、何処か無理をしているようにも聞こえた。もしかして彼は、忠義を誓っている《ふりをしているだけ》なのではないか。
いくら考えたところで答えは出ない。俺は疲れ切ってしまっていたのか、秀吉と遠藤の様に床に寝転ぶ。すると途端に眠気に襲われ、そのまま眠りこんでしまった。
目を開けると、そこは学校の廊下。
俺は目の前を歩いている集団を見る。彼らは別のクラスの剣道部。俺は笑顔を浮かべ、彼らの元へ走り寄る。彼らの肩を掴もうとした瞬間、透き通ったかのように彼らの身体を貫通する。触さわれない。集団は俺の存在に気づくことなく歩き続ける。頭が真っ白になった俺は気づいた。自分が着ていた筈の制服が、徐々に着物に変化している。腰には刀が現れ、髪が結ばれてゆく。
(おい......!まってくれ......っ!!)
俺は走り出す。しかし捕まえられない。何度追いついても俺の腕は、彼らの身体をすり抜けてしまう。そして、徐々に周りが田畑の広がる景観に変化していくにつれて、目の前の存在が薄くなり、消えてゆく。
(まて......!!おいてかないでくれ......っ!!)
おれをひとりにしないでくれ。
存在が消える直前、手を伸ばした俺の意識は、ふと途切れた。
そして、頭の中で響く、声。
キエタノハ、オマエジシンダ。
「はぁっ!!!!」
俺は飛び起きる。その声に気づいた遠藤も同じように飛び起きた。
「き......清重、大丈夫か?......うなされてたのか?」遠藤が心配そうに俺を見ている。
酸欠を起こしたのか、目の前がぐるぐると回っている。辺りを見回すと、そこは昨日の夜留まった宿。先ほどまでのことが全て夢だと気付くや否や、大きなため息を吐く。それは安堵か、恐怖からの解放か。俺自身にも分からなかったが、とにかく全身の力が抜けてしまった。
「清重!遠藤!起きたか!?」
秀吉の声に俺達は驚く。それと同時に遠藤は急な頭痛に襲われ頭を抑える。どうやら昨夜の酒のせいのようだ。
「喜べ!稲葉殿が我らに寝返ることを決めたらしい!」
「え......てことは......」
「恐らく寝返らせることが出来る!三人ともな!」
俺と遠藤は笑顔を浮かべるが、何かが心の奥に引っかかっていた。何か、嫌な予感が。
「かと言って、何時いつまでも浮かれているわけには行かぬ。ここからだ。」
俺達は口をつぐむ。
(そうだ、秀吉が自分たちをここに呼んだ理由。この人はどうして言ってくれないのだろうか。)
「......秀吉殿。」
弥助の小声での問いかけに、秀吉は不敵な笑みを浮かべ、こう呟いた。
「其方は直ぐに尾張へ戻れ。戦じゃ。」
続
氏家、安藤が案内されたのは、城下に建つ稲葉の屋敷。普段自分から客を招き入れることのない男の行為は、疑いの目を持ってしまう程に珍しいものだっだ。
(何かあったのだろうか。)と心配にさえなった二人は屋敷に入る。何も言うことのない稲葉に続いて、氏家と安藤は長い廊下を進み、立ち止まったのは大広間の前。稲葉はゆっくりと障子を開ける。そこに広がった光景に、二人は目を疑った。
「おぉ、お待ちしておりましたぞ。」
一人の男が座ってこちらに笑みを浮かべている。その後ろには並んで座る若者が二人。会ったこともない人達に安藤は眉間にしわを寄せ、露骨な不信顔を見せる。稲葉は男の目の前に座り、視線で合図を送る。氏家、安藤は訳が分からずにいたが、仕方なく稲葉の後ろに座った。
(誰だ......この者達は......?)
安藤は安藤に耳打ちをするが、美濃国の者達をよく把握している筈の氏家も、同じく知らぬと返答した。
「さてと、皆集まりましたな。では早速……おっと失礼、申し遅れました。拙者は織田家家臣、名を木下藤吉郎秀吉と申しまする。」
「織田!?」その名を聞いた瞬間、安藤は立ち上がり稲葉を見る。
「稲葉!此れはどういう事じゃ!?何故織田の者がここにおる!?」
稲葉は目を閉じたまま、何も語らない。氏家は宥なだめる様に安藤に声をかける。安藤は納得のいかない表情をしていたが、何か理由があるのだろうと割り切って、その場に座った。
秀吉の後ろに座る二人(俺と遠藤)は俯いていた。他国からやって来たという見知らぬ人が三人もこんな場所に居れば、誰だって怒るに決まっていると、内心そう思っていた。
「いやはや、申し訳ござらぬ。我等が此処に参ったのは、其方らにある《申し出》をするためにございます。」
「申し出だと?」
稲葉はゆっくりと目を開ける。秀吉はその様子に笑顔を浮かべた。
「其方らには是非、我等織田の下に来てもらいたい。」
「......っ!」三人は秀吉の一言に目を丸くする。
「西美濃三人衆と呼ばれる其方らの活躍は、我らの耳にも届いておりまする。当然、我らの主君、織田信長様の元へも。」
「まてまてっ......そ、それは、我らに織田方へ寝返ろと申しておるのか......?」
「その通り。殿は其方らのその才に惚れ、〈是非とも味方につけたいものだ〉と話しておられまする。もし来てくれるのであれば、それなりの見返りを用意すると。」
そう言って秀吉は懐から紙を取り出した。
「これを読んでいただければ分かりまする。」
稲葉はそれを手に取り、開く。そこに書いてあったのは、彼らにとって驚くべきものだった。
「これらを全て......もらえるのか......?」
秀吉は頷く。そこに書いてあったものは、今まで龍興から貰ったものとは比べ物にならない。三人は唾をのむ。
「いやっ、しかし......我らは龍興殿に忠義を誓って......」
「それは誠にございますか?」
三人は固まる。
「近年斎藤家は城を奪われたりと、家臣の離反が多いと聞きまするが。」
その言葉に俺は気づいた。秀吉は仕掛けている。ここから一気に畳みかけるつもりだと。
「このままでは其方らも浮かばれまい。思うことがある内に我らに寝返れば、未練も無い筈ですぞ。」
氏家と安藤は顔を見合わせている。
「......良いのでは......ないか?のぉ。」
安藤の言葉に、氏家は賛同する。
「そうじゃな......儂も斎藤家に思う所は多い。なあ稲葉殿。」
「儂はお断りじゃ。」
稲葉は秀吉を睨む。秀吉の表情が変わる。
「確かに織田方につけば、我らはもっと恵まれるのかもしれぬ。しかし儂はそれでも斎藤家に忠義を誓っておるのだ。忠義のない織田の元に来いと我らを金で釣るというのか......?若造が!ふざけたことを抜かすな!!」
「稲葉殿......」
俺と遠藤は稲葉の言葉に言葉を失った。それほどまでに忠義を貫く姿勢に、敬意を覚えるほどだった。
「稲葉殿。其方も幾年ほど前に、城を乗っ取ったのではありませぬか?」
その言葉に稲葉は固まる。秀吉も鋭い目つきで稲葉の目を捉える。
「そのようなもの、単なる綺麗事に過ぎぬ。其方は〈忠義〉という言葉に縛られておるだけじゃ。」
「黙れっ!!!」
稲葉は立ち上がり、秀吉を睨む。それは先ほどとは違った、まるで鬼の様な形相だった。
「......よぉく分かった。秀吉といったか。儂はな、貴様の様な生意気な小童が一番好かんのだ!信長に伝えろ!たとえ二人が寝返ろうとも、儂だけは其方の見返りは受けぬと!良いか!二度と儂の前に顔を見せるな!!」
「お......おい!稲葉!!」
稲葉は障子をばっと開け、早足で部屋を出てしまった。安藤は彼を追いかける様に部屋を飛び出す。氏家はため息を吐き、笑みを浮かべる。
「......済まなかったな。あの者は少しばかり頑固すぎるところがあるのだ。そうか。其方らは我らの為に尾張から此処へ来てくれたのだな。」
氏家は秀吉に向けて謝る。秀吉はふうと息を吐き、頭を掻く。
「いえ、拙者も少しばかり熱が入ってしまいました。確かに斎藤家にとって織田は敵。当然のことにございます。もし良ければ稲葉殿にその忠義を我々に、忠誠を織田家に誓ってくださらぬかとだけでも、伝えてくだされ。」
そう言い残して、秀吉は立ち上がり、一礼して部屋を出る。俺と遠藤は戸惑ってしまっていたが、氏家に向けて深く一礼し、秀吉の後をついて行った。
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「いなば......っ!」
追いついた安藤は稲葉の肩を掴む。稲葉は歩みを止め、俯いた。
「......分かっておる......儂とて分かっておるのだ……織田に仕えることが最善の路みちだと......だが......儂は......っ......」
息を切らした安藤は、言葉を詰まらせた稲葉の気持ちを察する。
「......ああ、分かっておった。其方も、儂も。」
稲葉はゆっくりと振り向く。安藤の顔は笑っていた。
「稲葉、どちらにせよ斎藤家はもうじき織田に取られる。織田の力は日を追うにつれて強く、大きくなっておる。もう、斎藤家には何も残らぬ。ならば、織田信長という男の下でもう一度、夢を見てみぬか?」
「......夢......?」
「あぁ、決して金や名誉などではない。我らが夢見て奔走した、道三殿のときの様に。」
稲葉は目を見開く。そして脳裏に浮かぶのは、《美濃のマムシ》と恐れられた、斎藤道三の後姿。
〈儂が見せてやろう。主らに飛び切りの夢をな。〉
「頑固さは其方の取柄とりえじゃ。しかし、今は少しくらい甘えても良いのではないか?」
稲葉は肩に背負っていた重荷が取れたように、力が抜けた。
儂は、我慢していたのだろうか。
稲葉は息を吐き、ふと微笑み、安藤の横を通って元の路を引き返し始めた。
安藤は彼の後姿を見ていた。どこか吹っ切れたような、しかしどこか寂しそうな、そんな背中を。
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「秀吉はぁん......いくらなんでもありゃ言いすぎですよぉ......ヒッ」
「そうじゃなぁ......ヒッ、でぇもぉあれぐらぃ言わにゃ聞いてくれんだろうがぁ......ヒィック」
「......」
その夜、三人は美濃の宿を借りる。秀吉と遠藤は酒を飲み、酔いつぶれてしまった。俺はその様子を呆れたように見ていたが、ふとあの時の稲葉の顔が脳裏に浮かんだ。
〈信長に伝えろ!たとえ二人が寝返ろうとも、儂だけは其方の見返りは受けぬと!〉
あの言葉、何処か無理をしているようにも聞こえた。もしかして彼は、忠義を誓っている《ふりをしているだけ》なのではないか。
いくら考えたところで答えは出ない。俺は疲れ切ってしまっていたのか、秀吉と遠藤の様に床に寝転ぶ。すると途端に眠気に襲われ、そのまま眠りこんでしまった。
目を開けると、そこは学校の廊下。
俺は目の前を歩いている集団を見る。彼らは別のクラスの剣道部。俺は笑顔を浮かべ、彼らの元へ走り寄る。彼らの肩を掴もうとした瞬間、透き通ったかのように彼らの身体を貫通する。触さわれない。集団は俺の存在に気づくことなく歩き続ける。頭が真っ白になった俺は気づいた。自分が着ていた筈の制服が、徐々に着物に変化している。腰には刀が現れ、髪が結ばれてゆく。
(おい......!まってくれ......っ!!)
俺は走り出す。しかし捕まえられない。何度追いついても俺の腕は、彼らの身体をすり抜けてしまう。そして、徐々に周りが田畑の広がる景観に変化していくにつれて、目の前の存在が薄くなり、消えてゆく。
(まて......!!おいてかないでくれ......っ!!)
おれをひとりにしないでくれ。
存在が消える直前、手を伸ばした俺の意識は、ふと途切れた。
そして、頭の中で響く、声。
キエタノハ、オマエジシンダ。
「はぁっ!!!!」
俺は飛び起きる。その声に気づいた遠藤も同じように飛び起きた。
「き......清重、大丈夫か?......うなされてたのか?」遠藤が心配そうに俺を見ている。
酸欠を起こしたのか、目の前がぐるぐると回っている。辺りを見回すと、そこは昨日の夜留まった宿。先ほどまでのことが全て夢だと気付くや否や、大きなため息を吐く。それは安堵か、恐怖からの解放か。俺自身にも分からなかったが、とにかく全身の力が抜けてしまった。
「清重!遠藤!起きたか!?」
秀吉の声に俺達は驚く。それと同時に遠藤は急な頭痛に襲われ頭を抑える。どうやら昨夜の酒のせいのようだ。
「喜べ!稲葉殿が我らに寝返ることを決めたらしい!」
「え......てことは......」
「恐らく寝返らせることが出来る!三人ともな!」
俺と遠藤は笑顔を浮かべるが、何かが心の奥に引っかかっていた。何か、嫌な予感が。
「かと言って、何時いつまでも浮かれているわけには行かぬ。ここからだ。」
俺達は口をつぐむ。
(そうだ、秀吉が自分たちをここに呼んだ理由。この人はどうして言ってくれないのだろうか。)
「......秀吉殿。」
弥助の小声での問いかけに、秀吉は不敵な笑みを浮かべ、こう呟いた。
「其方は直ぐに尾張へ戻れ。戦じゃ。」
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