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誓いのキャンディ

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 調理室では、食材を並べた調理台の前で、忍が腕組みしていた。
「彼は、土壇場で怖気づいたのかもな……」
 と、難しい顔でつぶやく。

 耳ざといギャラリーが、騒ぎ出した。
「このまま柴村くんが来なかったらどうなるの?」
「あの人の不戦勝?」
「えー、柴村くん負けちゃうの?」

 ギャラリーをかき分け、征太郎が葉子の元へ近づいた。
「俺が柴村探しに行ってくる。葉子はその間、うまいこと進行しておけよ」

 葉子は助かったという顔をして、征太郎に大きくうなずき返した。
 ギャラリーのほうへ向き直る。
「それでは、柴村くんは遅刻ということで、渡部さんには先に調理に入っていただきたいと思います」

 調理室に集まった面々のうち、半数は叶恵目当ての女子生徒だった。彼女らは叶恵が遅刻しているとわかり、露骨に冷めた空気を放った。そのため、予定よりだいぶ盛り上がりに欠けた状態で、料理対決はスタートすることになった。
 しかし忍は、そんなことなどお構いなしといった顔で、淡々と調理を進めた。

 生地をこね、冷蔵庫で休ませる。かぼちゃを茹でる。肉の下処理をし、食材をミキサーにかける。生クリームを攪拌する。茹であがったかぼちゃをザルを使って濾し、アボカドにはレモンを絞っておく。ほぐした茸をじっくり炒めていく。鱈に塩をふっておく。玉ねぎを刻む――流れるような忍の手つきに、いつしかギャラリーの目はくぎ付けとなっていく。

 葉子は調理の状況に応じて、料理番組のアシスタントさながら、合いの手や解説を入れるなど、場を盛り上げようと励んでいた。
 その様子を廊下から眺め、芽衣は調理室へ戻ることにした。
 叶恵とはまだ連絡がつかない。さっき征太郎が、探しに行くと言って出ていったが、心配だ。
 だけどそれを理由に、ジャッジ役の自分が忍の調理を見届けないのは、フェアじゃないと思った。

 ――わたしにはわたしの役目がある。今はそれを務めないと。

 調理室に入ってきた芽衣を見て、葉子が手招きした。
「忍さん、調理と同時進行でサーブしていくって言ってたから、芽衣はそろそろこの審査員席に着いておいて」

 そう言われて、芽衣は調理室の前方に作られた、テーブル席に着く。対決を見物していた女子生徒の何人かが、芽衣の存在に気付いた。

「なんであの子が、審査員なの?」
「わかんない」
「噂で聞いたんだけど、あの今料理してる人と柴村くんが、あの子のこと取り合ったらしいよ。それで料理で勝敗を決めようってことになったとか……」
「えー? それ絶対デマでしょ。だってあの子、普通じゃん」
「普通っていうか、むしろ地味?」
「言えてる。あの子と柴村くんがつり合うわけないじゃんね」

 悪意と好奇心とがないまぜとなった視線。
 思わず俯いてしまいそうになる自分を、奮い立たせる。
 芽衣は堂々と前を向いた。

 忍が料理を運んでくる。瑞々しく光る蛸と、アボカドのこっくりとした緑色が美しい一皿だった。
「真蛸とアボカドのセビーチェです」
 忍が言う。

「い、いただきます」
 セビーチェってなんだろうと思いながら、芽衣はフォークを取った。一口食べて、
「うわあ、何これ! 蛸がぷりぷりしてて、甘い! アボカドが濃いのに、さっぱりしてる! 不思議!」
 そのおいしさに打たれ、疑問は吹き飛んだ。
 忍は小さくうなずいただけで、再び調理へと戻っていった。




 叶恵は、藤代の飴細工店にいた。
 昨夜、芽衣と別れてから、叶恵はここで飴細工に取り組んでいた。そして今やっと、納得のいくものを完成させたのだった。

「対決時刻、過ぎてるんだろう?」
 藤代が言う。

「うん。今から調理室に向かう」
「今からって……そんな恰好で? 大丈夫なのか?」
「着替えている時間ないから、もういいよ」
「わかった。じゃあ後は俺が包んでおくから、叶恵は顔だけでも洗ってきな」
「ありがとう、陽太にい」
 
 洗面台の前に立つ。鏡に、ひどい顔をした自分が映る。
 この一週間、藤代から飴細工の手ほどきを受けていた。睡眠時間を削って練習した。そのツケが今表れたのだろう。顔色が悪い。頬は削げ落ち、目の下にはくっきりとした隈が残っていた。一睡もしないまま朝を迎えたので、目がしょぼしょぼする。これではコンタクトも装着できないだろう。

 一階から、藤代の声がした。
「叶恵、準備できたよ」

「はい」
 叶恵は振り切るように、洗面台を離れた。
 スニーカーをつっかけ、コートを羽織り、マフラーを巻く。店先で、藤代から飴細工を受け取った。

「健闘を祈る」藤代が親指を立てる。
 叶恵は力強くうなずいてみせた。
「いってきます!」




 同じ頃、征太郎は学校周辺の道を手当たり次第に駆け回り、叶恵を探していた。そうしながら、時々スマホをチェックして、協力を仰いだ友人たちから、叶恵の居所に関する情報が届いていないか確かめた。
 叶恵は見つからない。叶恵を見かけたという情報も入って来ない。

「くそっ、あの根性なしめ、どこ行きやがった……」
 征太郎は荒い息で、悪態をついた。
「料理対決、どうするつもりだよ……」

 そのとき、背後で声がした。
「料理対決?」

 振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。線の細い、か弱そうな人だ。

「今、料理対決って言いました?」
 女性が尋ねてきた。

「あ、はい。言いましたけど」
「渡部忍が出るという……」
「はい、そうです」

「ああ、良かった」
 女性が安堵の表情を浮かべた。
「それで、料理対決が行われている会場は、どこかご存じじゃないかしら?」
「うちの高校の調理室です」
「あら、そうだったんですか。わたし今ちょうど会場を探して、道に迷っていたところなんです。もしよろしければ、連れて行ってはくれないかしら?」

 女性はそう言って、にっこり笑った。
 征太郎は思わず後ずさった。丁寧な物言い、柔和な笑顔、それでいて相手に有無を言わせない威圧感。この女性はきっと、他人に頼ることに慣れている。
(もしかして、どっかのお嬢様か何かか? 着ている服とかも高そうだし……)

「あ、あのお、お姉さんは……?」
「はい、わたしは――」

 続く女性の言葉を聞いて、征太郎は驚いた。
 瞬時に考えを巡らせた。
 この女性の言うことが本当ならば、叶恵を探すのは後回しでもいいだろう。




「なんか、ずりぃよな……」
 調理室では、ギャラリーのひとりが不満の声を上げていた。
 男子のグループがそれに賛同する。
「わかる。やり方が汚いよ。これじゃあ柴村が来たって、もう勝ち目ねえじゃん」
「だけど、遅刻してる柴村も柴村だし……」
「だからって、対戦相手が到着する前に、審査員にフルコース食わせることないだろう! 完全に嫌がせじゃねえか!」

 真蛸とアボカドのセビーチェを皮切りに、忍は次々と皿を仕上げ、芽衣に提供していった。
 玉ねぎとベーコンのキッシュ、茸のポタージュ、鱈とマッシュルームのソテー・クリームソース、仔牛ヒレ肉の香草焼き、苺のシャーベット――どの皿も通常の倍の量が盛りつけられていた。
 芽衣はすべての料理を腹におさめた。

 ここまで来ると、誰もが忍の思惑に気付いた。
 忍は芽衣にフルコースを食べさせることで、この後叶恵が提供する料理を、台無しにするつもりなのだ。

「先に審査員に食べさせたほうが、絶対有利じゃん? 空腹は最高のスパイスっていわれるくらい、腹減ってるときは何食ってもうまく感じるし」
「この後柴村は、満腹状態の審査員を相手にしなきゃなんねえんだろう? 分が悪いにもほどがあるよ」
「どんなにうまいものでも、腹いっぱいじゃ食べるきついし、自然と味に対する評価は厳しくなるからな……」

 調理室は叶恵の敗北ムードに満たされる。
 その中でちらほらと、芽衣の食べっぷりに気付く声が上がりはじめた。

「ていうかさ、審査員のあの子、よく食べ切ってるよな。男の俺でも、あの量平らげるのはきついぜ」
「胃袋、底なしじゃね?」
「俺、デートで彼女があんなふうに食ったら、引くかも」

 最後に芽衣の元へ運ばれてきたのは、かぼちゃのタルトだった。
 黄金色に輝くタルトは、さっくりとした生地にかぼちゃのやさしい甘さが重なり、素朴な味わいとなっていた。芽衣好みの味付けだ。だけど、芽衣の表情は冴えなかった。

 まだ満腹ではない。叶恵の料理を食べるだけの余裕は残っているだろう。しかしこってりとしたコース料理を食べたことで、胃は重く、息をするのもしんどい状態だった。

「さて、俺のほうはすべて提供し終えたわけだが、彼の出番はまだかな?」
 忍はこの場にいないとわかっている叶恵を探して、わざとらしく視線を動かしてみせる。

 ――叶恵くん、このまま来てくれないの……?

 芽衣の胸は、不安に押しつぶされそうだった。

 ――もしかして叶恵くんの身に何か不測の事態が起きて、来られなくなってるんじゃ……。

 芽衣が危惧したとき、勢いよく調理室の扉が開かれた。
「すみません、遅くなりました!」
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