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すれ違いクッキー
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征太郎が初めて芽衣の存在を意識したのは、小四のときだった。芽衣とは掃除の班が一緒だったが、これまでまともに言葉をかわしたことはなかった。芽衣は目立たない、おとなしい生徒だった。
その日、征太郎たちの班が掃除を任されたのは、理科室だった。理科室は四年生の教室から遠いところにあるため、先生の監視の目が届きにくい。
これをチャンスと思い、掃除がはじまるとすぐ、征太郎はふざけだした。同じ班の男子とともに、投げた雑巾を箒の柄で打ち、遠くまで飛ばせた者が勝ちという、他愛ない遊びに興じた。
一方、同じ班の女子たちは理科室の机の一つを占領し、何やらひそひそと話しこんでいた。女子の間からは、時々笑い声が上がった。あまりいい感じのしない笑い声だった。
征太郎がふと視線をやると、芽衣がひとりで床に屈みこんでいた。拭き掃除をしているようだった。
真面目に掃除なんかして、ひとりだけいい子ぶってんじゃねえよ。
征太郎は思った。
そのとき、征太郎の心の声と同じ言葉を、女子のひとりが放った。
「大原さんて、いい子ぶってるよね」
女子たちは、雑巾がけする芽衣の背中を見て、くすくすと笑った。彼女らの言葉が聞こえていなかったのか、芽衣に動じた様子はなく、さっきと変わらぬ調子で床を掃除している。
「あ、やべっ」
男子のひとりが、短く叫んだ。彼の打った雑巾が、思わぬ勢いをつけて飛んでいく。
雑巾は、芽衣の頭に当たった。
瞬間、女子たちが手を叩いて笑った。「やだあ、大原さん頭に雑巾ついちゃったじゃん。汚ーい」
それまで絶えず床を拭いていた芽衣の手が、ピタリと止まった。征太郎は、芽衣の肩が小刻みに震えるのを見た。何かを堪えて、だけど堪え切れずにあふれ出してしまった。そんなふうに、芽衣が小さく声を上げた。
「うぅ……。くうっ……」
その場の空気が、一瞬で凍り付いた。
誰も、泣いている芽衣に声をかけようとしなかった。かけられなかった。ここで変に声をかけて、芽衣を刺激してしまうのを恐れた。それほど、芽衣の泣き方には鬼気迫るものがあった。
「あ、あのさぁ……」
征太郎は恐る恐る、口を開いた。
「掃除しようぜ、掃除」
誰へともなく、声をかける。
征太郎の言葉をきっかけに、全員がそろそろと動き出した。芽衣の動向を気にしながらも、掃除にとりかかる。芽衣は少しの間その場でしゃくり上げていたが、やがて何事もなかったように床掃除を再開させた。
芽衣から声をかけられたのは、その日の放課後だった。
帰り際、昇降口の前で芽衣と出くわした。雰囲気から見て、芽衣は征太郎が校舎から出てくるのを、待っていたようだった。
「あのっ、伊崎くん!」
芽衣が言った。
授業中や休み時間にこれまで何度も、芽衣の声を耳にしている。しかし征太郎は今初めて、芽衣の声を知ったように錯覚した。
芽衣は今、他の誰でもない自分だけに、声をかけてきている。
「何?」
征太郎は不愛想に答えた。
「今日はありがとう」
「は?」
「掃除のとき。班のみんなに掃除しようって声かけてくれて」
「……」
「わたしがみんなに言いたかったこと、伊崎くんが代わりに言ってくれた。すごく嬉しかった。ありがとう」
何言ってんだ、こいつ。
征太郎は思った。
あの場で誰かが発言しなければ、何も動かなかった。気まずい空気をどうにかしたかった。だから自分が言っただけ。別に芽衣のために、掃除しようと言ったわけじゃない。
だけど――、
「別にいいよ。俺もいい加減そろそろ掃除しないとやべえかなって思ってたところだったし」
征太郎は嘘をついた。
あの場でひとり掃除をする芽衣を、白けた目で見ていた。いい子ぶっていると勘ぐった。そのことを今、芽衣に悟られたくないと思った。
自分だけは他の奴らと違う。芽衣にそう評価されたかった。
「ていうかさ、遠慮しないで、大原もみんなに言いたいこと言えばいいよ」
「わたしが言っても、誰も聞いてくれないよ。今日のは、伊崎くんの言葉だから、みんな動いたんだよ」
「は? 別に俺、大原が思うほど発言力ないぜ? クラスでもチビのほうだし、俺なんかより菊池や須藤のほうがよっぽど――」
「ううん、伊崎くんはすごいよ。伊崎くんが喋ると、教室の空気が一瞬で変わるの。どんなに騒がしい教室の中でも、伊崎くんの声はみんなに届く。それってきっと、伊崎くんがみんなから信頼されてるって証拠だよね」
そう言って、芽衣はにっこりと微笑んだ。
昇降口の前は陰り、遠く夕方のチャイムが鳴っていた。
「それじゃあこれからも、大原の言いたいこと、俺が代弁してやるよ。だから困ったことがあったら、真っ先に俺に言えよな」
自分だけは、芽衣の心情を理解してあげられていた。
そんなふりをした。
自分は芽衣に、嘘をついたのだ。
だったらこれから、その嘘を本当にしていこう。
ずっと芽衣の味方でいよう。俺が芽衣を守るんだ。
十歳の征太郎は、そう心に誓ったのだった。
その日、征太郎たちの班が掃除を任されたのは、理科室だった。理科室は四年生の教室から遠いところにあるため、先生の監視の目が届きにくい。
これをチャンスと思い、掃除がはじまるとすぐ、征太郎はふざけだした。同じ班の男子とともに、投げた雑巾を箒の柄で打ち、遠くまで飛ばせた者が勝ちという、他愛ない遊びに興じた。
一方、同じ班の女子たちは理科室の机の一つを占領し、何やらひそひそと話しこんでいた。女子の間からは、時々笑い声が上がった。あまりいい感じのしない笑い声だった。
征太郎がふと視線をやると、芽衣がひとりで床に屈みこんでいた。拭き掃除をしているようだった。
真面目に掃除なんかして、ひとりだけいい子ぶってんじゃねえよ。
征太郎は思った。
そのとき、征太郎の心の声と同じ言葉を、女子のひとりが放った。
「大原さんて、いい子ぶってるよね」
女子たちは、雑巾がけする芽衣の背中を見て、くすくすと笑った。彼女らの言葉が聞こえていなかったのか、芽衣に動じた様子はなく、さっきと変わらぬ調子で床を掃除している。
「あ、やべっ」
男子のひとりが、短く叫んだ。彼の打った雑巾が、思わぬ勢いをつけて飛んでいく。
雑巾は、芽衣の頭に当たった。
瞬間、女子たちが手を叩いて笑った。「やだあ、大原さん頭に雑巾ついちゃったじゃん。汚ーい」
それまで絶えず床を拭いていた芽衣の手が、ピタリと止まった。征太郎は、芽衣の肩が小刻みに震えるのを見た。何かを堪えて、だけど堪え切れずにあふれ出してしまった。そんなふうに、芽衣が小さく声を上げた。
「うぅ……。くうっ……」
その場の空気が、一瞬で凍り付いた。
誰も、泣いている芽衣に声をかけようとしなかった。かけられなかった。ここで変に声をかけて、芽衣を刺激してしまうのを恐れた。それほど、芽衣の泣き方には鬼気迫るものがあった。
「あ、あのさぁ……」
征太郎は恐る恐る、口を開いた。
「掃除しようぜ、掃除」
誰へともなく、声をかける。
征太郎の言葉をきっかけに、全員がそろそろと動き出した。芽衣の動向を気にしながらも、掃除にとりかかる。芽衣は少しの間その場でしゃくり上げていたが、やがて何事もなかったように床掃除を再開させた。
芽衣から声をかけられたのは、その日の放課後だった。
帰り際、昇降口の前で芽衣と出くわした。雰囲気から見て、芽衣は征太郎が校舎から出てくるのを、待っていたようだった。
「あのっ、伊崎くん!」
芽衣が言った。
授業中や休み時間にこれまで何度も、芽衣の声を耳にしている。しかし征太郎は今初めて、芽衣の声を知ったように錯覚した。
芽衣は今、他の誰でもない自分だけに、声をかけてきている。
「何?」
征太郎は不愛想に答えた。
「今日はありがとう」
「は?」
「掃除のとき。班のみんなに掃除しようって声かけてくれて」
「……」
「わたしがみんなに言いたかったこと、伊崎くんが代わりに言ってくれた。すごく嬉しかった。ありがとう」
何言ってんだ、こいつ。
征太郎は思った。
あの場で誰かが発言しなければ、何も動かなかった。気まずい空気をどうにかしたかった。だから自分が言っただけ。別に芽衣のために、掃除しようと言ったわけじゃない。
だけど――、
「別にいいよ。俺もいい加減そろそろ掃除しないとやべえかなって思ってたところだったし」
征太郎は嘘をついた。
あの場でひとり掃除をする芽衣を、白けた目で見ていた。いい子ぶっていると勘ぐった。そのことを今、芽衣に悟られたくないと思った。
自分だけは他の奴らと違う。芽衣にそう評価されたかった。
「ていうかさ、遠慮しないで、大原もみんなに言いたいこと言えばいいよ」
「わたしが言っても、誰も聞いてくれないよ。今日のは、伊崎くんの言葉だから、みんな動いたんだよ」
「は? 別に俺、大原が思うほど発言力ないぜ? クラスでもチビのほうだし、俺なんかより菊池や須藤のほうがよっぽど――」
「ううん、伊崎くんはすごいよ。伊崎くんが喋ると、教室の空気が一瞬で変わるの。どんなに騒がしい教室の中でも、伊崎くんの声はみんなに届く。それってきっと、伊崎くんがみんなから信頼されてるって証拠だよね」
そう言って、芽衣はにっこりと微笑んだ。
昇降口の前は陰り、遠く夕方のチャイムが鳴っていた。
「それじゃあこれからも、大原の言いたいこと、俺が代弁してやるよ。だから困ったことがあったら、真っ先に俺に言えよな」
自分だけは、芽衣の心情を理解してあげられていた。
そんなふりをした。
自分は芽衣に、嘘をついたのだ。
だったらこれから、その嘘を本当にしていこう。
ずっと芽衣の味方でいよう。俺が芽衣を守るんだ。
十歳の征太郎は、そう心に誓ったのだった。
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