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君と出会うハンバーグ
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意識した途端、肩に妙な力が入った。芽衣はがちがちになりながら、きゅうりを切る。
叶恵が不安そうに尋ねた。
「もしかしてその包丁、切りにくいですか? 一応昨日研いだばっかりなんですけど……」
「ううん。わたし料理って普段まったくしないから、包丁慣れてなくて」
芽衣はそう言ってごまかした。嘘ではない。芽衣は十六年間食べるの専門で通してきたため、作るほうは苦手なのだ。
叶恵が芽衣の手元を見下ろす。
「大原先輩はまず、包丁の持ち方からですね」
そして、芽衣の背後に回った。
「え……?」
芽衣の右手を、後ろから叶恵の手が包んだ。
背中に、熱を感じる。
「こんなにぎゅっと握ったらだめです。指はもっと自然に、軽く押さえる感じで……」
芽衣の耳元で、叶恵の声が響いた。叶恵の息が、頬にかかる。
頭が真っ白になった。
芽衣はさらにがちがちになって、包丁を動かす。一秒一秒がとても長く感じた。
突然、玄関のほうで、物音がした。
「あ、妹が帰ってきたのかも」
叶恵は芽衣の傍から離れた。
「俺、ちょっと見てきますね」
叶恵が玄関に向かい、芽衣はひとりキッチンに残された。
(ああ、やっと普通に息ができる……)
芽衣は肩の力を抜き、深く息を吐いた。心臓のドキドキが、いくらかおさまってきた気がする。
右手を見つめた。まだ、叶恵の手の感触が、そこに残っている。
叶恵の妹は明るく礼儀正しかった。
「柴村葵です。七歳です。こんにちは」
はきはきと挨拶し、しかし兄の目がないところでは、少しませた部分も覗かせた。
「ねえお姉ちゃん? お姉ちゃんは葵のお兄ちゃんと、付き合ってるの?」
芽衣はこそりと耳打ちされた。
「違うよ。ただのお友達だよ」
芽衣が答えると、葵はほっとした顔をみせた。
「良かった。お兄ちゃんは葵のお兄ちゃんだから、誰のものにもなってほしくないんだ」
葵は料理中の兄にまとわりついて、尋ねる。
「お兄ちゃん、今日の夕ごはん何ー?」
「ハンバーグだよ」
「げえ」
「大丈夫。葵のハンバーグには玉ねぎしか入れてないから」
それでも昨日の野菜たっぷりハンバーグが思い出されるのか、葵は複雑な表情を浮かべていた。
「ごめんね葵ちゃん。わたしが来たせいで、二日続けて同じ献立になっちゃって……」
「お姉ちゃんは、ハンバーグが好きなの?」
「うん、大好き」
「えへへ、葵もハンバーグ好き。でも昨日お兄ちゃんが作ったハンバーグは嫌いなの。ピーマンが入っているんだもん」
「ピーマン入ってても、すごくおいしかったよ」
「ええ? お姉ちゃん、あのハンバーグ食べたことあるの?」
「実は昨日、葵ちゃんが食べなかったハンバーグ、わたしがもらって食べたんだ」
「すごいね。よく食べられたね」
「わたし食べ物の好き嫌いってあんまりないんだよ」
芽衣が葵と話しこんでいるうちに、ハンバーグが焼き上がった。
三人で食卓を囲む。芽衣は葵の隣の席に着いた。
「いただきます」
芽衣は最初に、ハンバーグの皿へと箸を伸ばした。箸の先でちょっと押すと、ハンバーグの表面にはじゅわりと肉汁がにじむ。そのまま切り分けると、ごろごろとした野菜の感触が箸先に伝わった。甘やかな香りが立ち上る。
一口齧った瞬間、頬がゆるんだ。
「おいしーい」
芽衣は夢中になってハンバーグを口に運んだ。
「お店で食べるハンバーグもおいしいけど、やっぱりわたしはおうちで作るハンバーグの、ほっとする味が好きだな」
ふと視線を感じて隣を見ると、葵と目が合った。葵はずっと芽衣の食べっぷりに目を奪われていたのだった。
「……本当に、そんなにおいしいの? そのハンバーグ」
「うん。おいしいよ」
芽衣は大きくうなずいてみせた。
「葵も同じハンバーグ、食べてみるか?」
叶恵が訊いた。
「でもさっきお兄ちゃん、葵のハンバーグには玉ねぎしか入れてないって……」
「気が変わるかもしれないって思って、実は葵用にもう一個、焼いておいたのがあるんだ。どうする?」
葵はちょっと考える仕草を見せてから、小さくつぶやいた。「た、食べてみる……」
「よし、すぐ持ってくるよ」
叶恵は嬉しそうに席を立つと、キッチンに入っていった。
叶恵がハンバーグを温め直すのを待つ間、葵は絶えずそわそわしていた。そんな葵に、芽衣は目だけで問いかけてみた。すると葵はキッチンにいる兄のほうを気にしながら、芽衣に素早く耳打ちした。
「ピーマン食べてみるって言ったのに、やっぱり食べられなかったら、お兄ちゃん怒るかな? 悲しむかな?」
――ああ、この子は今不安なんだ。
芽衣は上体を屈め、葵の目線の高さに合わせた。葵の手を握り、優しく語りかける。
「大丈夫だよ。お兄さんはきっと怒ったり悲しんだりしないよ。葵ちゃんは今、自分から苦手なピーマンに挑戦しようとしている。その気持ちが、一番大事なんだから」
芽衣の言葉に、葵は安堵の息をついた。
叶恵がハンバーグの皿を持って、食卓に戻って来る。
「さあ、召し上がれ」
目の前に置かれた皿を、葵はしげしげと覗きこんだ。それから芽衣のほうに視線を寄越した。
大丈夫だよ、という意味で、芽衣は深くうなずく。
葵は恐る恐るといった手つきで、ハンバーグを口に運んだ。
「……うえっ」
一口食べ、葵はしかめ面をした。実際、ハンバーグはピーマンの味や触感はわかりにくい仕上がりになっている。おそらく葵は苦手なピーマンを意識しすぎて、舌が敏感になっているのだろう。
「無理しなくていいぞ、葵。出すか?」
叶恵がティッシュの箱を、葵に差し出した。
しかし葵は首を横に振り、それを受け取らなかった。そして――
「っはぁ……」
とうとう葵はピーマン入りのハンバーグを飲みこんだのだった。
「お兄ちゃん、見てた? 葵、ピーマン食べられたよ」
テーブル越しに、叶恵の手が伸びた。葵の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「うん。すごいぞ、葵」
「お姉ちゃんが応援してくれたお陰だよ。ありがとう」
葵は今度、芽衣のほうに顔を向け、可愛らしい笑みを浮かべた。
心の奥のほうが、こそばゆかった。芽衣はひとりっ子だ。もし自分に妹がいたら、こんなふうに「お姉ちゃん」と呼びかけられたりしたのだろうか。一緒に食卓を囲み、笑い合ったりしていたのだろうか。
その後も三人でおしゃべりをしながら、楽しく食事を続けた。
結局葵は最初の一口しかピーマン入りのハンバーグを食べられなかったけれど、これまでまったくピーマンを口にしようとしなかった彼女には、大進歩だ。
食後はソファに並んで、葵が最近ハマっているというアニメ映画を一緒に観た。
芽衣は、帰りたくないと思った。
明りのついていない自宅に帰るときの寂しさは、何年経っても慣れることがない。共働きの両親は忙しく、この時間はまだ職場にいる。家に帰っても、芽衣はひとりきりなのだ。
明るい夢の世界から、暗く寂しい現実に引き戻されるようで、芽衣はなかなかソファから立てなかった。
だけど、夢はいつか終わる。
そろそろ現実に帰らなければ――。
「じゃあわたし、そろそろ帰るね。お邪魔しました」
芽衣がそう言うと、すぐさま叶恵が、
「送っていきます」
と立ち上がった。
「ううん、大丈夫だよ。葵ちゃん眠そうだし」
ソファの上で、葵はうつらうつらしながら、テレビの画面を見ている。
「じゃあ、門の外まで一緒に」
「うん、ありがとう」
名残惜しい気持ちで、芽衣は葵に別れを告げた。
「えー? 芽衣ちゃんもう帰っちゃうの?」
と葵は不満そうだ。いつの間にかお姉ちゃんから、芽衣ちゃん呼びへと変わっている。
叶恵と一緒に、表に出た。
アパートの前の路上で、芽衣は叶恵と向かい合う。
「今日はありがとう。ハンバーグ、ごちそうさまでした」
「いえ、お礼を言うのはこっちですよ。大原先輩のお陰で、葵にピーマンを食べさせることができました」
「ええ? わたし何もしてないよ」
「先輩がおいしそうにハンバーグを食べてくれたからですよ。先輩の食べっぷりを見て、葵はハンバーグを食べる気になったんだと思います」
「なんか、ごめんね……。ガツガツしてて、みっともないよね、わたし」
「全然ですよ。俺、おいしそうにごはんを食べる人、好きです!」
「すっ……」
叶恵の発した「好き」という一言に、芽衣の心臓がどきりとはねる。
「ああ、好きってそういう意味じゃなくて……」
すぐさま叶恵が訂正したのが、ちょっと悲しい。
「ううん、わかってる。大丈夫、わかってるから」
「あ、そうですよね。変に慌てちゃってすみません」
なんだか気まずい空気になってしまった。
芽衣は流れを変えようと、口を開いた。
「わたし、夜ごはんはひとりで食べてて……」
「ひとり?」
「両親は仕事が忙しく、小学生の頃から夜ごはんの時間はひとり。ひとりで食べるごはんって、すっごく味気ないんだよね。それで昔は、隣の家のお兄さんにごはん作ってもらったこともあったんだけど、そのお兄さんが引っ越しちゃってからは、またひとり。だから今日柴村くんと葵ちゃん、三人で賑やかにごはんが食べられて、すごく楽しかった。どうもありがとう」
芽衣が言葉を切ると、叶恵は何やら難しい顔で黙りこんだ。
(うわあ、わたし喋りすぎたかも。柴村くんとは昨日知り合ったばかりなのに、こんな個人的な話……)
芽衣の胸に、後悔の念がよぎる。
「ご、ごめんね、長々と。じゃあ、またね。おやすみなさい」
芽衣は叶恵の前から立ち去ろうとした。慌ただしく言って、背中を向ける。
そのとき――
「待ってください!」
叶恵の声が飛んできた。
振り返ると、叶恵が言った。
「それなら……ひとりで夜ごはん食べるのが嫌なら、これからも俺んちで、一緒に食べませんか?」
「一緒に?」
「はい。うちは夜、俺と葵の二人きりで、今日は賑やかだったけど、普段はもっと静かな食卓なんです。だからもしこれからも大原先輩が来てくれたら嬉しいです。きっと葵も喜びます。俺、料理するの好きだから、先輩には色々作ったもの食べてもらいたいし」
「でも……」
芽衣が迷っていると、叶恵は畳みかけるように言った。
「毎日じゃなくていいんです。たとえば日を決めて、週一回とか、うちで一緒にごはんを食べる会、しませんか?」
外灯のあかりに照らされて、芽衣の前には叶恵の真剣な顔があった。
芽衣はすぐ横の、柴村家のある扉を見上げた。
ついさっきまで、自分はこの家の中にいた。明るくて温かくて、本当に夢の中で過ごしているみたいだった。
「はい」芽衣は答えた。「ごはん会、だね」
「そうです、ごはん会」
叶恵がぱっと顔を輝かせる。
「えっと、じゃあ、そういうことで……」
「はい、よろしくお願いします」
こうして、芽衣と叶恵のごはん会ははじまった。
叶恵が不安そうに尋ねた。
「もしかしてその包丁、切りにくいですか? 一応昨日研いだばっかりなんですけど……」
「ううん。わたし料理って普段まったくしないから、包丁慣れてなくて」
芽衣はそう言ってごまかした。嘘ではない。芽衣は十六年間食べるの専門で通してきたため、作るほうは苦手なのだ。
叶恵が芽衣の手元を見下ろす。
「大原先輩はまず、包丁の持ち方からですね」
そして、芽衣の背後に回った。
「え……?」
芽衣の右手を、後ろから叶恵の手が包んだ。
背中に、熱を感じる。
「こんなにぎゅっと握ったらだめです。指はもっと自然に、軽く押さえる感じで……」
芽衣の耳元で、叶恵の声が響いた。叶恵の息が、頬にかかる。
頭が真っ白になった。
芽衣はさらにがちがちになって、包丁を動かす。一秒一秒がとても長く感じた。
突然、玄関のほうで、物音がした。
「あ、妹が帰ってきたのかも」
叶恵は芽衣の傍から離れた。
「俺、ちょっと見てきますね」
叶恵が玄関に向かい、芽衣はひとりキッチンに残された。
(ああ、やっと普通に息ができる……)
芽衣は肩の力を抜き、深く息を吐いた。心臓のドキドキが、いくらかおさまってきた気がする。
右手を見つめた。まだ、叶恵の手の感触が、そこに残っている。
叶恵の妹は明るく礼儀正しかった。
「柴村葵です。七歳です。こんにちは」
はきはきと挨拶し、しかし兄の目がないところでは、少しませた部分も覗かせた。
「ねえお姉ちゃん? お姉ちゃんは葵のお兄ちゃんと、付き合ってるの?」
芽衣はこそりと耳打ちされた。
「違うよ。ただのお友達だよ」
芽衣が答えると、葵はほっとした顔をみせた。
「良かった。お兄ちゃんは葵のお兄ちゃんだから、誰のものにもなってほしくないんだ」
葵は料理中の兄にまとわりついて、尋ねる。
「お兄ちゃん、今日の夕ごはん何ー?」
「ハンバーグだよ」
「げえ」
「大丈夫。葵のハンバーグには玉ねぎしか入れてないから」
それでも昨日の野菜たっぷりハンバーグが思い出されるのか、葵は複雑な表情を浮かべていた。
「ごめんね葵ちゃん。わたしが来たせいで、二日続けて同じ献立になっちゃって……」
「お姉ちゃんは、ハンバーグが好きなの?」
「うん、大好き」
「えへへ、葵もハンバーグ好き。でも昨日お兄ちゃんが作ったハンバーグは嫌いなの。ピーマンが入っているんだもん」
「ピーマン入ってても、すごくおいしかったよ」
「ええ? お姉ちゃん、あのハンバーグ食べたことあるの?」
「実は昨日、葵ちゃんが食べなかったハンバーグ、わたしがもらって食べたんだ」
「すごいね。よく食べられたね」
「わたし食べ物の好き嫌いってあんまりないんだよ」
芽衣が葵と話しこんでいるうちに、ハンバーグが焼き上がった。
三人で食卓を囲む。芽衣は葵の隣の席に着いた。
「いただきます」
芽衣は最初に、ハンバーグの皿へと箸を伸ばした。箸の先でちょっと押すと、ハンバーグの表面にはじゅわりと肉汁がにじむ。そのまま切り分けると、ごろごろとした野菜の感触が箸先に伝わった。甘やかな香りが立ち上る。
一口齧った瞬間、頬がゆるんだ。
「おいしーい」
芽衣は夢中になってハンバーグを口に運んだ。
「お店で食べるハンバーグもおいしいけど、やっぱりわたしはおうちで作るハンバーグの、ほっとする味が好きだな」
ふと視線を感じて隣を見ると、葵と目が合った。葵はずっと芽衣の食べっぷりに目を奪われていたのだった。
「……本当に、そんなにおいしいの? そのハンバーグ」
「うん。おいしいよ」
芽衣は大きくうなずいてみせた。
「葵も同じハンバーグ、食べてみるか?」
叶恵が訊いた。
「でもさっきお兄ちゃん、葵のハンバーグには玉ねぎしか入れてないって……」
「気が変わるかもしれないって思って、実は葵用にもう一個、焼いておいたのがあるんだ。どうする?」
葵はちょっと考える仕草を見せてから、小さくつぶやいた。「た、食べてみる……」
「よし、すぐ持ってくるよ」
叶恵は嬉しそうに席を立つと、キッチンに入っていった。
叶恵がハンバーグを温め直すのを待つ間、葵は絶えずそわそわしていた。そんな葵に、芽衣は目だけで問いかけてみた。すると葵はキッチンにいる兄のほうを気にしながら、芽衣に素早く耳打ちした。
「ピーマン食べてみるって言ったのに、やっぱり食べられなかったら、お兄ちゃん怒るかな? 悲しむかな?」
――ああ、この子は今不安なんだ。
芽衣は上体を屈め、葵の目線の高さに合わせた。葵の手を握り、優しく語りかける。
「大丈夫だよ。お兄さんはきっと怒ったり悲しんだりしないよ。葵ちゃんは今、自分から苦手なピーマンに挑戦しようとしている。その気持ちが、一番大事なんだから」
芽衣の言葉に、葵は安堵の息をついた。
叶恵がハンバーグの皿を持って、食卓に戻って来る。
「さあ、召し上がれ」
目の前に置かれた皿を、葵はしげしげと覗きこんだ。それから芽衣のほうに視線を寄越した。
大丈夫だよ、という意味で、芽衣は深くうなずく。
葵は恐る恐るといった手つきで、ハンバーグを口に運んだ。
「……うえっ」
一口食べ、葵はしかめ面をした。実際、ハンバーグはピーマンの味や触感はわかりにくい仕上がりになっている。おそらく葵は苦手なピーマンを意識しすぎて、舌が敏感になっているのだろう。
「無理しなくていいぞ、葵。出すか?」
叶恵がティッシュの箱を、葵に差し出した。
しかし葵は首を横に振り、それを受け取らなかった。そして――
「っはぁ……」
とうとう葵はピーマン入りのハンバーグを飲みこんだのだった。
「お兄ちゃん、見てた? 葵、ピーマン食べられたよ」
テーブル越しに、叶恵の手が伸びた。葵の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「うん。すごいぞ、葵」
「お姉ちゃんが応援してくれたお陰だよ。ありがとう」
葵は今度、芽衣のほうに顔を向け、可愛らしい笑みを浮かべた。
心の奥のほうが、こそばゆかった。芽衣はひとりっ子だ。もし自分に妹がいたら、こんなふうに「お姉ちゃん」と呼びかけられたりしたのだろうか。一緒に食卓を囲み、笑い合ったりしていたのだろうか。
その後も三人でおしゃべりをしながら、楽しく食事を続けた。
結局葵は最初の一口しかピーマン入りのハンバーグを食べられなかったけれど、これまでまったくピーマンを口にしようとしなかった彼女には、大進歩だ。
食後はソファに並んで、葵が最近ハマっているというアニメ映画を一緒に観た。
芽衣は、帰りたくないと思った。
明りのついていない自宅に帰るときの寂しさは、何年経っても慣れることがない。共働きの両親は忙しく、この時間はまだ職場にいる。家に帰っても、芽衣はひとりきりなのだ。
明るい夢の世界から、暗く寂しい現実に引き戻されるようで、芽衣はなかなかソファから立てなかった。
だけど、夢はいつか終わる。
そろそろ現実に帰らなければ――。
「じゃあわたし、そろそろ帰るね。お邪魔しました」
芽衣がそう言うと、すぐさま叶恵が、
「送っていきます」
と立ち上がった。
「ううん、大丈夫だよ。葵ちゃん眠そうだし」
ソファの上で、葵はうつらうつらしながら、テレビの画面を見ている。
「じゃあ、門の外まで一緒に」
「うん、ありがとう」
名残惜しい気持ちで、芽衣は葵に別れを告げた。
「えー? 芽衣ちゃんもう帰っちゃうの?」
と葵は不満そうだ。いつの間にかお姉ちゃんから、芽衣ちゃん呼びへと変わっている。
叶恵と一緒に、表に出た。
アパートの前の路上で、芽衣は叶恵と向かい合う。
「今日はありがとう。ハンバーグ、ごちそうさまでした」
「いえ、お礼を言うのはこっちですよ。大原先輩のお陰で、葵にピーマンを食べさせることができました」
「ええ? わたし何もしてないよ」
「先輩がおいしそうにハンバーグを食べてくれたからですよ。先輩の食べっぷりを見て、葵はハンバーグを食べる気になったんだと思います」
「なんか、ごめんね……。ガツガツしてて、みっともないよね、わたし」
「全然ですよ。俺、おいしそうにごはんを食べる人、好きです!」
「すっ……」
叶恵の発した「好き」という一言に、芽衣の心臓がどきりとはねる。
「ああ、好きってそういう意味じゃなくて……」
すぐさま叶恵が訂正したのが、ちょっと悲しい。
「ううん、わかってる。大丈夫、わかってるから」
「あ、そうですよね。変に慌てちゃってすみません」
なんだか気まずい空気になってしまった。
芽衣は流れを変えようと、口を開いた。
「わたし、夜ごはんはひとりで食べてて……」
「ひとり?」
「両親は仕事が忙しく、小学生の頃から夜ごはんの時間はひとり。ひとりで食べるごはんって、すっごく味気ないんだよね。それで昔は、隣の家のお兄さんにごはん作ってもらったこともあったんだけど、そのお兄さんが引っ越しちゃってからは、またひとり。だから今日柴村くんと葵ちゃん、三人で賑やかにごはんが食べられて、すごく楽しかった。どうもありがとう」
芽衣が言葉を切ると、叶恵は何やら難しい顔で黙りこんだ。
(うわあ、わたし喋りすぎたかも。柴村くんとは昨日知り合ったばかりなのに、こんな個人的な話……)
芽衣の胸に、後悔の念がよぎる。
「ご、ごめんね、長々と。じゃあ、またね。おやすみなさい」
芽衣は叶恵の前から立ち去ろうとした。慌ただしく言って、背中を向ける。
そのとき――
「待ってください!」
叶恵の声が飛んできた。
振り返ると、叶恵が言った。
「それなら……ひとりで夜ごはん食べるのが嫌なら、これからも俺んちで、一緒に食べませんか?」
「一緒に?」
「はい。うちは夜、俺と葵の二人きりで、今日は賑やかだったけど、普段はもっと静かな食卓なんです。だからもしこれからも大原先輩が来てくれたら嬉しいです。きっと葵も喜びます。俺、料理するの好きだから、先輩には色々作ったもの食べてもらいたいし」
「でも……」
芽衣が迷っていると、叶恵は畳みかけるように言った。
「毎日じゃなくていいんです。たとえば日を決めて、週一回とか、うちで一緒にごはんを食べる会、しませんか?」
外灯のあかりに照らされて、芽衣の前には叶恵の真剣な顔があった。
芽衣はすぐ横の、柴村家のある扉を見上げた。
ついさっきまで、自分はこの家の中にいた。明るくて温かくて、本当に夢の中で過ごしているみたいだった。
「はい」芽衣は答えた。「ごはん会、だね」
「そうです、ごはん会」
叶恵がぱっと顔を輝かせる。
「えっと、じゃあ、そういうことで……」
「はい、よろしくお願いします」
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