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【人間界9】
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「おじさんは?」
清花の第一声は、それだった。
男とコンビでもなければ、保護者というわけでもない。男の状況を尋ねられても困る、と苦笑してしまうが、清花にしてみれば、スピーカーを背負っているかのようなかしましさだった男の不在は、あまりにも静かで、不自然さを感じるほどなのかもしれない。
言わないけども、実は、同感だった。
「ここです」
脇に抱えた書籍を指さす。
「魂が身体から離れ、ここに回収されました」
清花はじっと書籍を見つめて、言葉を忘れたかのように黙る。
回収の工程など知らないのだから、ピンとこないのは当然だ。それでも、男はもう元気に悪態をついてこないのだと悟ったようで、やがて「……そうなんだ」と睫毛をふせた。
「カロンは、戻ってこなかったようですね」
「うん」
「銀がフェイクであったと、気づいていないわけではないでしょうが。忙しいと言っていたのは、本当なのかもしれません」
明かり取りの窓を見上げる。
そこに不気味な少年が座っていたことなど、まるで嘘のように、窓ガラスの表面はまぶしく白い光に満ちていた。
「忙しい?」
「ええ。年々、自死する魂は増えていると聞きますから」
今までより格段に対応に追われる中で、面倒な天界の使者が付いた魂になど、いつまでもかまっていられないのだと思われる。もちろん、それを幸運だなどと、手放しで喜ぶことはしない。
自分もその中の一つである清花は、バツの悪さを感じたようだ。何も言わず、少しうつむく。そのままで暗い声を出した。
「ねえ」
「はい?」
「わたし、腐っていくの?」
死斑の範囲は、誰が見てもわかるくらいに拡大していた。このまま腐敗していく様を見ることになるのかと考えたら、大人であっても訊かずにいられないだろう。
「必要以上に恐れることはありません。肉体は朽ちるものです。ご安心ください。それまでには手を打ちます」
間を置かず言いきってやると、清花はいくぶん安堵の表情を浮かべた。
清花の家族は、おそらく夕方には戻ってくる。変色はするだろうが、腐るまでに至らずに見つけてもらえるはずだ。娘の変わり果てた姿を発見した時の、家族の胸の内を思うといたたまれないが、考えたところで、我々にはどうすることもできない。
我々がやるべきことは、その前に、できうる限り早く、きちんと魂を回収すること。
心配なのは、白紙の書だ。
すでに手配したということだが、手元にはいつ、どのようにして届くのか。
「ありがとうございました」
とりあえず両手を揃えて深く腰を曲げると、清花が驚いた。
「え? なに?」
「約束を、守っていただけましたから」
目線を上げれば、素直に喜んでいいのか、考えあぐねているような顔がある。
「守るもなにも、あのハサミの人、こなかったし」
「いえ。そうではありません」
「え?」
「またお会いしましょう、と言いました。あなたは約束をきちんと守れる方です。そう信じたわたくしを裏切りませんでした。そのことに感謝しているのです」
清花は、額に氷を押しつけられた時のように、はっと目を見開いた。
場をつくろうつもりもなければ、清花の機嫌を取るつもりもなかった。
カロンが脅威であったことはもちろんだが、到着の前に魂が身体から離れてしまうことも、こちらとしては困った事態だ。持ちこたえていたのは、清花が踏ん張ってくれていたおかげだ。
自分との約束を絶対に果たそうと、懸命に努めてくれたに違いない。
「ネコちゃんに、ガッカリされたくなかったし」
ふて腐れた口ぶりは、思春期真っ只中といった感じで微笑ましくもある。
「それに」
「それに?」
「信じてるって言われたら、守らないわけにいかないよ」
「そうですか」
「だって、わたしは、誰のことも裏切りたくないから」
それは、友達から裏切りを受けた彼女だからこその、悲しく優しい誓い。
「……おじさんには、最後まで信じてもらえなかったけど」
「そんなことはありませんよ。あの方の態度には、あの方なりの思いがあったからだと、わたくしは考えます」
「え?」
「あの方が、あのような厳しい物言いをされたのは、あなたに幸せになってほしいからです」
清花は眉と眉の間に、こまっしゃくれたシワをつくった。
「嘘」
「嘘をついたところで、わたくしに何か得がありますか」
「だって」
「まぁ、あなたに対してかなりひどい暴言を吐かれていましたし。てっきりわたくしも、憎くてのことかと思いこんでしまいましたが」
「そうなんでしょ?」
「でも、身をていしてあなたを守ったことが、その証拠だと思うのです」
「あれだって別に、わたしのことをどうとかじゃ」
「いいえ。あの方があなたを守ったのは、ただひとえに冥界に連れていかせたくなかったから」
「嘘だよ」
「あなたに辛く当たったのは、一人にさせたら、今度こそ誘惑に負けてしまうかもしれない、と親のように案じたから。あなたの魂が、ここで途切れてしまう可能性がわずかにでもあるならと、それが何より怖かったのです」
清花は反論するのをやめた。あまりにも驚いたからか、ただうっすらと唇を開いた。
「あの方は、あなたに次こそは幸せになっていただきたいと、そう強く願っていたのです」
「そんな……」
弱くつぶやいてから、清花は目線を下げる。黒目だけを上げて、書籍を見た。
「にわかには信じがたいでしょうが。粗雑ですが、とても愛情深い方でした」
最後まで、自分よりも、関わった人間たちのことばかり気にかけていた。
もっと素直な物言いができていたら。清花のことももちろんだが、義両親との関係も、きっと違っていただろうに。それだけが、少し残念だ。
「でも、わたし……」
清花はぼそぼそと話し出した。
「生まれ変わって、幸せになれる、自信ない。怖い」
清花の第一声は、それだった。
男とコンビでもなければ、保護者というわけでもない。男の状況を尋ねられても困る、と苦笑してしまうが、清花にしてみれば、スピーカーを背負っているかのようなかしましさだった男の不在は、あまりにも静かで、不自然さを感じるほどなのかもしれない。
言わないけども、実は、同感だった。
「ここです」
脇に抱えた書籍を指さす。
「魂が身体から離れ、ここに回収されました」
清花はじっと書籍を見つめて、言葉を忘れたかのように黙る。
回収の工程など知らないのだから、ピンとこないのは当然だ。それでも、男はもう元気に悪態をついてこないのだと悟ったようで、やがて「……そうなんだ」と睫毛をふせた。
「カロンは、戻ってこなかったようですね」
「うん」
「銀がフェイクであったと、気づいていないわけではないでしょうが。忙しいと言っていたのは、本当なのかもしれません」
明かり取りの窓を見上げる。
そこに不気味な少年が座っていたことなど、まるで嘘のように、窓ガラスの表面はまぶしく白い光に満ちていた。
「忙しい?」
「ええ。年々、自死する魂は増えていると聞きますから」
今までより格段に対応に追われる中で、面倒な天界の使者が付いた魂になど、いつまでもかまっていられないのだと思われる。もちろん、それを幸運だなどと、手放しで喜ぶことはしない。
自分もその中の一つである清花は、バツの悪さを感じたようだ。何も言わず、少しうつむく。そのままで暗い声を出した。
「ねえ」
「はい?」
「わたし、腐っていくの?」
死斑の範囲は、誰が見てもわかるくらいに拡大していた。このまま腐敗していく様を見ることになるのかと考えたら、大人であっても訊かずにいられないだろう。
「必要以上に恐れることはありません。肉体は朽ちるものです。ご安心ください。それまでには手を打ちます」
間を置かず言いきってやると、清花はいくぶん安堵の表情を浮かべた。
清花の家族は、おそらく夕方には戻ってくる。変色はするだろうが、腐るまでに至らずに見つけてもらえるはずだ。娘の変わり果てた姿を発見した時の、家族の胸の内を思うといたたまれないが、考えたところで、我々にはどうすることもできない。
我々がやるべきことは、その前に、できうる限り早く、きちんと魂を回収すること。
心配なのは、白紙の書だ。
すでに手配したということだが、手元にはいつ、どのようにして届くのか。
「ありがとうございました」
とりあえず両手を揃えて深く腰を曲げると、清花が驚いた。
「え? なに?」
「約束を、守っていただけましたから」
目線を上げれば、素直に喜んでいいのか、考えあぐねているような顔がある。
「守るもなにも、あのハサミの人、こなかったし」
「いえ。そうではありません」
「え?」
「またお会いしましょう、と言いました。あなたは約束をきちんと守れる方です。そう信じたわたくしを裏切りませんでした。そのことに感謝しているのです」
清花は、額に氷を押しつけられた時のように、はっと目を見開いた。
場をつくろうつもりもなければ、清花の機嫌を取るつもりもなかった。
カロンが脅威であったことはもちろんだが、到着の前に魂が身体から離れてしまうことも、こちらとしては困った事態だ。持ちこたえていたのは、清花が踏ん張ってくれていたおかげだ。
自分との約束を絶対に果たそうと、懸命に努めてくれたに違いない。
「ネコちゃんに、ガッカリされたくなかったし」
ふて腐れた口ぶりは、思春期真っ只中といった感じで微笑ましくもある。
「それに」
「それに?」
「信じてるって言われたら、守らないわけにいかないよ」
「そうですか」
「だって、わたしは、誰のことも裏切りたくないから」
それは、友達から裏切りを受けた彼女だからこその、悲しく優しい誓い。
「……おじさんには、最後まで信じてもらえなかったけど」
「そんなことはありませんよ。あの方の態度には、あの方なりの思いがあったからだと、わたくしは考えます」
「え?」
「あの方が、あのような厳しい物言いをされたのは、あなたに幸せになってほしいからです」
清花は眉と眉の間に、こまっしゃくれたシワをつくった。
「嘘」
「嘘をついたところで、わたくしに何か得がありますか」
「だって」
「まぁ、あなたに対してかなりひどい暴言を吐かれていましたし。てっきりわたくしも、憎くてのことかと思いこんでしまいましたが」
「そうなんでしょ?」
「でも、身をていしてあなたを守ったことが、その証拠だと思うのです」
「あれだって別に、わたしのことをどうとかじゃ」
「いいえ。あの方があなたを守ったのは、ただひとえに冥界に連れていかせたくなかったから」
「嘘だよ」
「あなたに辛く当たったのは、一人にさせたら、今度こそ誘惑に負けてしまうかもしれない、と親のように案じたから。あなたの魂が、ここで途切れてしまう可能性がわずかにでもあるならと、それが何より怖かったのです」
清花は反論するのをやめた。あまりにも驚いたからか、ただうっすらと唇を開いた。
「あの方は、あなたに次こそは幸せになっていただきたいと、そう強く願っていたのです」
「そんな……」
弱くつぶやいてから、清花は目線を下げる。黒目だけを上げて、書籍を見た。
「にわかには信じがたいでしょうが。粗雑ですが、とても愛情深い方でした」
最後まで、自分よりも、関わった人間たちのことばかり気にかけていた。
もっと素直な物言いができていたら。清花のことももちろんだが、義両親との関係も、きっと違っていただろうに。それだけが、少し残念だ。
「でも、わたし……」
清花はぼそぼそと話し出した。
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