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【人間界8】

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 乾いたアスファルトに、男は顔からスライディングしていた。
 そこに甲子園球児のような疾走感はなく、天井から外れたサンドバッグが床に落ちたかのような、鈍い重量感だけが響き渡った。

「大丈夫ですか!」

 転ぶとなった際、普通はとっさに腕が出て、身体を支えるものだろう。それもままならないのは、ほとほと消耗しきっているからに他ならない。
 伏せられたままの顔がうめくように言った。

「ぐう……痛くはないけど、なんかこう、別の痛みを感じるよな」
「別のって何ですか」
「自尊心? プライドが傷ついたみたいな? 大人になるとよ、顔から派手にすっ転ぶことって、そうそうないからな」

 減らず口が健在であることにほっとしつつ、胸に不安が広がるのを覚える。
 男が立ち上がらない。地面に突っ伏したままだ。いよいよタイムリミットか。

「そんな顔するなよ。癒やしのもふもふフェイスが台無しだぞ」

 男はちょっとだけ顔をずらして、口をもそもそと動かした。その息に吹き飛ばされた細かな砂利が、生きもののように跳ねる。すでに焼けただれていた横顔は、擦り傷が加わって、さらに目をそむけたくなるような無惨な状態になった。

「……そんな顔とは、どんな顔ですか。第一、癒やし目的でもふもふしているわけではありません」
「へえ? じゃあ、何のためだよ」
「知りませんよ。生まれつきです」
「そっか。連れていく時に、人間の怖さとかを和らげるための、その姿なのかなと思っていたけど、よく考えたら、普通はあんたと会うことはないんだもんな」
「そうです」
「そう考えると、俺ってラッキーだな。あと、あのガキもな」

 男が無理やりに口角を引き上げる。
 希少動物や、愛玩動物扱いだとしても、会えて幸運だなどと言われて、嬉しくないと言えば嘘だった。

「悪いけど、ちょい手を貸してくれねぇか」
「……はい」

 しかし、気分は晴れない。
 元気そうに見えても、男はもう自力では起き上がれないのだ。その事実を目の当たりにすると、なんとも表現しえない脱力感が襲ってきた。

「歩けますか?」

 こちらの補助で、歯を食いしばりながら、どうにか立ち膝の状態になった男に尋ねる。酷だとわかっているが、確認しないわけにもいかない。

「歩くよ」

 それは、意志だ。

「もう、すぐそこだからな。歩きたい。だけど」

 男の瞳孔が、縮んだり広がったりを繰り返しはじめた。身体が前後に揺れ出す。

「歩けませんよね」

 見ないふりはできない。先程はなかった死斑が、ワイシャツの襟から覗く胸元にまで、急速に広がってきていた。
 男は何も言わない。自分の身体が、もはや限界だということをわかって絶望しているのか、それとも、呼びかけに応える余裕すらないのか。後者だとしても、納得はできる。なぜなら。

「魂が……出かかっています」

 目に見えるのではなく、肌に感じる。ごく弱い静電気が、不規則に刺激を与えてくるような感覚だ。これまでにも、魂が出てくるのを待ったことがある。だから、わかる。
 もちろん、その時には新刊の側の意識などなく、出てくるまで冗談の応酬をすることも、仕事の話をすることもなかったけれども。

 だからだ。
 そんな都合のいいことがと思いつつ、心のどこかで期待してしまった。花束を届けない限りは、男の魂は外に出てこないのでは、と。
 そんなことはないのだ。肉体に限界が訪れれば、やはり魂は体外に押し出される。
 脇に挟んだ書籍の背表紙を、ぎゅっと握った。

「諦めてしまうのですか?」

 頭の上に砂袋でも乗せているかのように、男がようやっと頭を持ち上げる。ゆらゆらと定まらない頭の位置は、まるで高濃度のアルコールで酩酊しているかのようだ。

「……諦めたくねぇよ。でも」

 それでも、まだ言葉を発する気力がある。そのことに、自分で思う以上に安堵した。

「見損ないました」
「なに……?」
「あなたは、やっぱり、諦めの早いお人なのですね」

 男の頬に、ピクピクと細かな筋が走る。

「そんなでは、奥様に呆れられるどころか、あっという間に忘れ去られてしまいますよ」
「ふざ、けんなよ」
「じゃあ、根性を見せてください」
「……ド根性は、さすがにもう、打ち止めだろ」

 その情けない言葉に知らず知らず、こぶしを握った。

「立ってください! 諦めてはいけません」

「あんた……」

 男の目は出会ってから今が一番、信じられないものを見るようだ。

「すぐそこなのでしょう? もう一踏ん張りではないですか」

 腹が立った。
 ここまで呆気に取らされるほどの精神力で、強引に突き進んできたくせに。
 ちょっと転んだくらいで何なのだ。今さらちょっと身体の融通がきかなくなったくらいで、何なのだ。

 最初はその場しのぎに過ぎなかった。でも、いつのまにか、その願いに寄り添ってやりたいと思うようになっていた。ここまできたら、花束を適した場所に置くまでを、きちんと見届けてやりたいのだ。

 しばらく茫然としていた男だが、やがて笑った。

「……だよな」

 それは、ふっ、とか弱い息を吐き出しただけに過ぎない。だけど、胸の中に喜びが、花の蕾が音もなく開くかのように広がった。

「目前まできて、諦める、はないよな」
「その通りですとも。わたくしが介添えいたします」

 男の脇腹から入り、下から持ち上げるようにして腕を掴む。

「まさか、もふもふにシッターされる日がこようとは」

 身体はあいかわらずだるそうで、動くごとに息を切らすが、男の語気には力が戻ってきたように思えた。改めて、とんでもない精神力だと感心する。

「わかるか? シッターと叱咤を、掛けてるんだぜ」

 得意そうに言ってくるが、それは無視しておく。

「なんでしたら、この顔でよければ、眺めて癒やされてくださってけっこうですよ」
「俺、実は犬派なんだ」
「今お言いになりますか、それ」
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