上 下
32 / 56
【人間界5】

4

しおりを挟む
「……な、なんだ?」

 男が手でふさいでいた耳を解き放った時、そこは元の浴室に戻っていた。明かり取りの窓からは、燦々と明るい太陽光が降りそそぎ、カロンはいない。

「うまく行きましたね」
「え? なに? あれは何を投げたの?」

 うろたえる清花の声を背中で聞きながら、床に落ちた小ぶりなそれを拾い上げた。

「鰹です」
「かつお?」清花と男の声が揃った。
「ええ。悪魔というものは、銀を恐れるそうですよ」
「ぎ、銀て……それ、魚だよな。色が銀色なだけじゃねぇか」

 そう突っこむ男は、銀でつくられた弾丸や剣に聖なる力が宿るという話を、映画か何かで耳にしたことがあるのかもしれない。

「そうなんですよ。実は、いちかばちかの賭けでした。カロンが単純でよかったです」
「光りものに撃退される悪魔……」

 男はなぜかガッカリしている。

「ていうか、なんでネコちゃんは、そんなものポケットに入れてるの?」

 清花は鼻をつまんでいる。生魚のにおいが苦手なのだろう。

「わたくしのおやつです」
「まさかのおやつ!」
「ええ。また今回も長丁場になるようなら、お腹が空いた時にいただこうかと思っていましたのに」

 てろんてろんと身を揺らせた鰹を、また元のポケットに戻す。

「いやあんた、それ食ったら、絶対腹を壊すって……」
「そりゃそうですよ。カロンの毒気にあてられているやもしれませんし。食べません」
「そういうことじゃなくてさ」

 マントの中のスマートフォンが鳴る。まだ何か言いたそうな男だったが、口を閉じた。

「そろそろ連絡がくる頃かと思っていました」

 スマートフォンを頭の上にかざして、相手が話しはじめる前に言った。その様子を指さす男と清花が、何やら文句がありそうな顔つきだが、無視だ。

「わたくしの運の悪さは、天下一品です」

 その言葉で、こちらがどんな状況になっているのか、同僚はだいたい掴めたようだ。
 しかしながら、かえって好都合だという。記録保管庫ではあいかわらず人の手が足りず、新しい白紙の書を届けることもままならないらしい。

「了解しました。こちらはこちらで、最善を尽くします」

 通話を終える。根本的な問題は何も片づいていないが、清々しい気分だ。
 このくらいの壁など、なんてことはないと思えた。
 根拠なき自信だ。しかし、そういうものが意外と物を言うことがある。同僚が余計なことを言わなかったのは、それを感じ取ったからかもしれない。
 男に向き直った。

「行きましょう」
「うん?」
「花を届けに行きたいのでしょう? わたくしがお供いたします」
「え」

 男は目を輝かせる。

「い、いいのかよ」
「しかたありません。心残りを解消させない限りは、おとなしく生まれ変わっていただけそうにありませんし」
「でも、こっちの仕事が完了してからって」
「いいのですか? 彼女の件が完了するのを待っていたら、身体が腐って悪臭を放ち出すのは、あなたのほうが早いかもしれません」

 男はううむ、とうなる

「それは、確かに困るな」
「それに、約束ですから」
「約束……条件、とは違うのか」
「約束です」

 そう言いきると、男は嬉しそうに口角を引き上げた。スキップを踏みながら、とはもちろん行かないけども、いくぶん足取り軽く花束のもとへ戻る。その背中に、釘を刺す。

「ただし、急がなければなりません」

 男が振り返った。その瞳に覚悟が滲んでいる。

「俺の身体が腐りはじめているからか」
「ええ。しかも、カロンの炎に飛びこんだことで、あなたはかなりの痛手を負いました。身体が劣化するスピードは、さらに加速するものと思われます。のんびりしていたら間に合いません」

 男は黙って睫毛をふせた。
 自分でしでかしたこと。誰に文句を言えるでもないことが、よくわかっているのだろう。

「そして、それだけではありません」
「それだけではない?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

Husband's secret (夫の秘密)

設樂理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! 夫のカノジョ / 垣谷 美雨 さま(著) を読んで  Another Storyを考えてみました。 むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

ニート生活5年、俺の人生、あと半年。

桜庭 葉菜
ライト文芸
 27歳、男、大卒、なのに無職、そして独身、挙句に童貞。  家賃4万、1Rのボロアパート。  コンビニでバイトか家で過ごすだけの毎日。 「俺の人生、どこで狂ったんだろう……」    そんな俺がある日医者に告げられた。 「余命半年」  だから俺は決めたんだ。 「どうせ死ぬなら好き勝手生きてみよう」  その決断が俺の残り少ない人生を大きく変えた。  死を代償に得た、たった半年の本当の人生。 「生きるのってこんなに楽しくて、案外簡単だったんだな……」

君が残してくれたものに、私は何を返せるだろう。

加藤やま
恋愛
高校に入学したばかりの森野つばめは、ヤンチャな見た目の陣と出会う。初めはその見た目から陣のことを怖がっていたが、その人柄を知っていくにつれてだんだんと魅かれていく。しかし、陣には人に言っていない秘密があり…

ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり

柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日―― 東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。 中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。 彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。 無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。 政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。 「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」 ただ、一人を除いて―― これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、 たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。

時空モノガタリ

風宮 秤
ライト文芸
この短編集は「時空モノガタリ」に投稿するために書いた作品群です。毎回テーマに合わせて二千文字以内の物語を創作し投稿していました。 ここ、アルファポリスに投稿するのは2017年2月から2019年9月の間で時空モノガタリに投稿した入賞作を含む全作品と未投稿作品など関連作品合わせて65話程度の予定です。カテゴリーはライト文芸にしてありますがカテゴリーは多岐にわたります。 話のタイトルは 「テーマ」 作品名 としてあります。

【完結】病院なんていきたくない

仲 奈華 (nakanaka)
児童書・童話
病院なんていきたくない。 4歳のリナは涙を流しながら、なんとかお母さんへ伝えようとした。 お母さんはいつも忙しそう。 だから、言う通りにしないといけない。 お父さんは仕事で家にいない。 だから迷惑をかけたらいけない。 お婆さんはいつもイライラしている。 仕事で忙しい両親に変わって育児と家事をしているからだ。 苦しくて苦しくて息ができない。 周囲は真っ暗なのに咳がひどくて眠れない。 リナは暗闇の中、洗面器を持って座っている。 目の前の布団には、お母さんと弟が眠っている。 起こしたらダメだと、出来るだけ咳を抑えようとする。 だけど激しくむせ込み、吐いてしまった。 晩御飯で食べたお粥が全部出る。 だけど、咳は治らない。 涙を流しながら、喉の痛みが少しでも減るようにむせ続ける。

The change~入れ替わった魂~

紫苑
ファンタジー
登場人物 主人公...遠藤 加奈子(エンドウ カナコ) 加奈子が入れ替わった女性... 榊原 愛瑠(サカキバラ アイル) 榊原家の執事... 鏑木 耕三(カブラギ コウゾウ) 榊原家のメイド... 一之瀬 胡桃(イチノセ クルミ) カコジョのkiraraのファン... 西園寺 貴彦(サイオンジ タカヒコ) 不遇の人生を送っていた加奈子だったが、ある出来事をきっかけに彼女の人生は一変した... 不定期更新です。

ミヨの、大好きなおなかのお友だち

早稲 アカ
ライト文芸
お母さんのおなかが大好きなミヨちゃんなのですが、お友だちのママと出会ったことで大ピンチに・・・ほのぼの、ほんわかするお話です。

処理中です...