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【人間界5】
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「……な、なんだ?」
男が手でふさいでいた耳を解き放った時、そこは元の浴室に戻っていた。明かり取りの窓からは、燦々と明るい太陽光が降りそそぎ、カロンはいない。
「うまく行きましたね」
「え? なに? あれは何を投げたの?」
うろたえる清花の声を背中で聞きながら、床に落ちた小ぶりなそれを拾い上げた。
「鰹です」
「かつお?」清花と男の声が揃った。
「ええ。悪魔というものは、銀を恐れるそうですよ」
「ぎ、銀て……それ、魚だよな。色が銀色なだけじゃねぇか」
そう突っこむ男は、銀でつくられた弾丸や剣に聖なる力が宿るという話を、映画か何かで耳にしたことがあるのかもしれない。
「そうなんですよ。実は、いちかばちかの賭けでした。カロンが単純でよかったです」
「光りものに撃退される悪魔……」
男はなぜかガッカリしている。
「ていうか、なんでネコちゃんは、そんなものポケットに入れてるの?」
清花は鼻をつまんでいる。生魚のにおいが苦手なのだろう。
「わたくしのおやつです」
「まさかのおやつ!」
「ええ。また今回も長丁場になるようなら、お腹が空いた時にいただこうかと思っていましたのに」
てろんてろんと身を揺らせた鰹を、また元のポケットに戻す。
「いやあんた、それ食ったら、絶対腹を壊すって……」
「そりゃそうですよ。カロンの毒気にあてられているやもしれませんし。食べません」
「そういうことじゃなくてさ」
マントの中のスマートフォンが鳴る。まだ何か言いたそうな男だったが、口を閉じた。
「そろそろ連絡がくる頃かと思っていました」
スマートフォンを頭の上にかざして、相手が話しはじめる前に言った。その様子を指さす男と清花が、何やら文句がありそうな顔つきだが、無視だ。
「わたくしの運の悪さは、天下一品です」
その言葉で、こちらがどんな状況になっているのか、同僚はだいたい掴めたようだ。
しかしながら、かえって好都合だという。記録保管庫ではあいかわらず人の手が足りず、新しい白紙の書を届けることもままならないらしい。
「了解しました。こちらはこちらで、最善を尽くします」
通話を終える。根本的な問題は何も片づいていないが、清々しい気分だ。
このくらいの壁など、なんてことはないと思えた。
根拠なき自信だ。しかし、そういうものが意外と物を言うことがある。同僚が余計なことを言わなかったのは、それを感じ取ったからかもしれない。
男に向き直った。
「行きましょう」
「うん?」
「花を届けに行きたいのでしょう? わたくしがお供いたします」
「え」
男は目を輝かせる。
「い、いいのかよ」
「しかたありません。心残りを解消させない限りは、おとなしく生まれ変わっていただけそうにありませんし」
「でも、こっちの仕事が完了してからって」
「いいのですか? 彼女の件が完了するのを待っていたら、身体が腐って悪臭を放ち出すのは、あなたのほうが早いかもしれません」
男はううむ、とうなる
「それは、確かに困るな」
「それに、約束ですから」
「約束……条件、とは違うのか」
「約束です」
そう言いきると、男は嬉しそうに口角を引き上げた。スキップを踏みながら、とはもちろん行かないけども、いくぶん足取り軽く花束のもとへ戻る。その背中に、釘を刺す。
「ただし、急がなければなりません」
男が振り返った。その瞳に覚悟が滲んでいる。
「俺の身体が腐りはじめているからか」
「ええ。しかも、カロンの炎に飛びこんだことで、あなたはかなりの痛手を負いました。身体が劣化するスピードは、さらに加速するものと思われます。のんびりしていたら間に合いません」
男は黙って睫毛をふせた。
自分でしでかしたこと。誰に文句を言えるでもないことが、よくわかっているのだろう。
「そして、それだけではありません」
「それだけではない?」
男が手でふさいでいた耳を解き放った時、そこは元の浴室に戻っていた。明かり取りの窓からは、燦々と明るい太陽光が降りそそぎ、カロンはいない。
「うまく行きましたね」
「え? なに? あれは何を投げたの?」
うろたえる清花の声を背中で聞きながら、床に落ちた小ぶりなそれを拾い上げた。
「鰹です」
「かつお?」清花と男の声が揃った。
「ええ。悪魔というものは、銀を恐れるそうですよ」
「ぎ、銀て……それ、魚だよな。色が銀色なだけじゃねぇか」
そう突っこむ男は、銀でつくられた弾丸や剣に聖なる力が宿るという話を、映画か何かで耳にしたことがあるのかもしれない。
「そうなんですよ。実は、いちかばちかの賭けでした。カロンが単純でよかったです」
「光りものに撃退される悪魔……」
男はなぜかガッカリしている。
「ていうか、なんでネコちゃんは、そんなものポケットに入れてるの?」
清花は鼻をつまんでいる。生魚のにおいが苦手なのだろう。
「わたくしのおやつです」
「まさかのおやつ!」
「ええ。また今回も長丁場になるようなら、お腹が空いた時にいただこうかと思っていましたのに」
てろんてろんと身を揺らせた鰹を、また元のポケットに戻す。
「いやあんた、それ食ったら、絶対腹を壊すって……」
「そりゃそうですよ。カロンの毒気にあてられているやもしれませんし。食べません」
「そういうことじゃなくてさ」
マントの中のスマートフォンが鳴る。まだ何か言いたそうな男だったが、口を閉じた。
「そろそろ連絡がくる頃かと思っていました」
スマートフォンを頭の上にかざして、相手が話しはじめる前に言った。その様子を指さす男と清花が、何やら文句がありそうな顔つきだが、無視だ。
「わたくしの運の悪さは、天下一品です」
その言葉で、こちらがどんな状況になっているのか、同僚はだいたい掴めたようだ。
しかしながら、かえって好都合だという。記録保管庫ではあいかわらず人の手が足りず、新しい白紙の書を届けることもままならないらしい。
「了解しました。こちらはこちらで、最善を尽くします」
通話を終える。根本的な問題は何も片づいていないが、清々しい気分だ。
このくらいの壁など、なんてことはないと思えた。
根拠なき自信だ。しかし、そういうものが意外と物を言うことがある。同僚が余計なことを言わなかったのは、それを感じ取ったからかもしれない。
男に向き直った。
「行きましょう」
「うん?」
「花を届けに行きたいのでしょう? わたくしがお供いたします」
「え」
男は目を輝かせる。
「い、いいのかよ」
「しかたありません。心残りを解消させない限りは、おとなしく生まれ変わっていただけそうにありませんし」
「でも、こっちの仕事が完了してからって」
「いいのですか? 彼女の件が完了するのを待っていたら、身体が腐って悪臭を放ち出すのは、あなたのほうが早いかもしれません」
男はううむ、とうなる
「それは、確かに困るな」
「それに、約束ですから」
「約束……条件、とは違うのか」
「約束です」
そう言いきると、男は嬉しそうに口角を引き上げた。スキップを踏みながら、とはもちろん行かないけども、いくぶん足取り軽く花束のもとへ戻る。その背中に、釘を刺す。
「ただし、急がなければなりません」
男が振り返った。その瞳に覚悟が滲んでいる。
「俺の身体が腐りはじめているからか」
「ええ。しかも、カロンの炎に飛びこんだことで、あなたはかなりの痛手を負いました。身体が劣化するスピードは、さらに加速するものと思われます。のんびりしていたら間に合いません」
男は黙って睫毛をふせた。
自分でしでかしたこと。誰に文句を言えるでもないことが、よくわかっているのだろう。
「そして、それだけではありません」
「それだけではない?」
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