始まりの猫

朋藤チルヲ

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始まりの猫

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 あたしは、元々暮らしていた公園に戻ってきていた。

 連れてきたのは、息子。彼はあたしをバスケットから出して、「堪忍してくれよ」と短く言った。

 去っていくずんぐりむっくりの背中は、やっぱりおばあさんに似ているなって思った。




 あたしは悲しくなんかない。寂しくもない。最初は独りだったんだもの。元に戻っただけ。

 寝そべっていても勝手に出てくる美味しいご飯と、野犬に襲われる不安のない安全な寝床を取り上げられてしまったのは、残念だけど。人間に関わるわずらわしさからは、解放された。あたしは自由。




 それからは、公園の土管の上で好きなだけお昼寝したり、魚屋の商品を拝借して怒鳴られたりしながら、毎日を過ごした。

 いつ寝ても、いつ食べても自由。いきなりタオルでゴシゴシされることもない。くだらないお喋りに付き合う必要もない。

 あたしは自由。

 おばあさんのことは考えなかった。

 だけど、時々あの悩みのなさそうなフワフワした笑顔を夢に見ては、「ボンジュール! エスト」っていうあたしを呼ぶ声に、ハッと目が覚めるのだった。




 それから、さらに時が過ぎて。あたしは、魚屋を襲撃するのも体力的に困難になってきた。

 コンビニの裏のゴミ箱を漁りながら、身体がなかなか意思に追いついてこない歯がゆさに歯を食いしばる。

 終わりの時が近づいているのかもしれない。

 日光を浴びてじんわりと温かい土管の上で、あたしは漠然と思った。

 その頃になってから、ようやくおばあさんと暮らした日々を思い返すようになった。

「独りぼっちじゃない」と言って、あたしを強く抱きしめたおばあさんの手の熱さ。「いつか一緒にフランスに行きましょうね」と笑った、どこか寂しそうな顔。

 何よ。結局はあたしを捨てたじゃない。理由すら教えてくれず、さよならも言えなかった。




「ボンジュール! エスト」




 その声にあたしは驚いて、揃えた前足の上から顎を持ち上げた。

 そこには、ニコニコとこちらに笑いかけているおばあさんがいた。不思議なことに空中に浮いていて、キラキラとした光を身体中にまとっている。まぶしい。

 でも、とてもきれいで、あたしは思わずうっとりと目を細めた。

「待たせたね、エスト」

 そう言って、おばあさんは膝を折る。その笑顔も、優しい声も、間違いなくおばあさん。

「独りぼっちにしちゃって、ごめんねぇ。寂しかったねぇ」

 ピンク色に染まった頬っぺたのお肉が、こんもりと盛り上がってはち切れんばかり。おばあさんはあたしに向かって、両手を広げた。

「さぁ、約束だよ。一緒にフランスへ行きましょう」




 ……泣いていないわ。

 そんなこと、あるはずない。あたしは独りきりでも、ぜんぜん寂しくなんかなかったもの。捨てられたって、悲しくなんかなかったもの。




 でも。

 いいわ。




 この頃はあまり動きたくなくて、寝てばかりだからひどく退屈だったの。壊れたレコーダーみたいなおばあさんのお喋りだって、ないよりはマシね。

 ここでの生活も、ちょうど飽きていたところなの。

 行きましょうか。フランスへ。一緒に。




 きっと、おじいさんもそこで待っているわ。









(始まりの猫~fin~)
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