ゆずとはちみつ

朋藤チルヲ

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そして名前のない僕らの関係は終幕を迎える

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 一睡もしていない僕の頭に、彼女がカーテンを引く音、顔を洗う音、スリッパでキッチンを歩き回る音が反響する。

 どうしたもんかと思ったけど、卵が割れる音がすると、えいやっと重ダルい上半身を起こした。

 考えていたって、正解なんて出てきやしないのだ。




「寝ててよかったのに」

 湯気の立つカフェオレを手に、いつも通りの無表情で、いつもと同じセリフを彼女は吐いた。

 僕の目の下の真っ黒なクマには触れてこない。

 柚子先輩の目の下も黒くくぼんでいた。

「柚子先輩が作った朝ご飯がおいしすぎてさ」

 僕も、ソファーに腰かけながら、至って普通に軽口を返す。

 少々ためらったけど、これもいつものことと大あくびをしてみせた。

 このまま、何事もなかったようにまた日々が続けばいいと願った。

 ぎこちないのは今のうちだけで、乗り越えてしまうまでの胸に湧く苦い感じさえ我慢すれば、きっと元通りになれるだろうと考えていた。

 なのに。




「同居を解消しよう」

 柚子先輩は言った。




 マグカップに手を伸ばしかけて止まったままの、僕の正面に座る。

「え?」

「ゲームはわたしの負けでいい」

 あまりに唐突だったので、その言葉を噛み砕いて整理する時間が、僕には必要だった。

 それはつまり、と言い出すまでに、たぶん一分半はかかった。

「……僕のことが好きになったってことなの?」

 彼女は静かに首を振る。

 まつ毛をふせたままで、言った。

「違う。忘れてなかったの。十年間、ずっと」

 僕はもう一度驚いて、「え?」と小さく漏らした。




「高校が廃校になるって知って、まさかそんな偶然はと思いながら校舎を見に行ったの。会えて本当にビックリしたけど、本当に嬉しかった。少しでも一緒にいたくて、バカなゲームを言い出したけど、それに蜜成はのってくれたから。もしかしたら、これってチャンスなんじゃないかって思った」




 彼女は嘘を言っていない。

 別れてから十年間、本当に僕のことを忘れていなくて、この部屋で一緒に暮らす間も、ずっと僕に想いを寄せてくれていた。




 だけど、僕は昨夜、彼女を拒んでしまった。




 こちらに背中を向けていた彼女が、一晩中どんな思いで呼吸をしていたのだろうかと思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。

「気持ちが自分に向いていない人と暮らすのって、嫌いな人と暮らすのより辛いんだね。だから、もう無理。勝手でごめん。もう出て行って」

 機械的な口調で彼女はそう言うと、一回も口をつけていないカフェオレのカップを手に持って、立ち上がった。

 シンクに向かって歩いていく背中に、僕は言う。




「――――ゲームしよう!」




 彼女は立ち止まったけど、こちらを振り返ることはしなかった。

「簡単なゲームだよ。そして、たぶん柚子先輩が言い出したゲームより、ずっと健全で当たり前なゲームだ」

 まだ振り返らない。

 歩き出さないのは、続きをうながしている証拠だと、僕は受け取った。




「このまま一緒に暮らして、どちらかが相手を嫌いになったら、負け。そのときは同居を解消して、もう二度と会わない」




 それでもなお何も言わず、振り返りもしないのは、呆れているとか、戸惑っているとかいうよりも、単純に意味がわからないのだろう。

 当然だろうなと思いつつ、ダメ押しに僕は言う。

「どうする? 僕は自信があるよ。僕は負けたりしない。生きている間は、絶対に柚子先輩を嫌いにならない」

 彼女はゆっくりと振り返った。

 黒い瞳孔が揺れている。

 僕はやわらかく目尻を下げた。

「おかしなことを言ってるって思ってる? 僕は思ってるよ。女性を抱けないはずの僕が、柚子先輩のことを好きだなんてね」

「好き……?」

 つぶやいた彼女の声がさほど震えていないことに、僕はほっとした。

 できれば、いつも通りでいて欲しい。

 僕の好きな、凛とした彼女のままで。

「うん。気づいたんだ」

「何を……」




「きっと僕は、十年前も今と同じく柚子先輩を好きだったって。僕はずっと柚子先輩に惹かれてた。本気で好きすぎて、だから気持ちが高ぶりすぎて、あのときできなかったんじゃないかな。何しろ、僕は初めてだったし。情けない話だけど。それを、僕は女性とはできないって思い込んだんだ。でも、今なら大人になったし、きっと大丈夫」




「嘘」

 彼女は声を荒らげないにしても、身体の正面を僕のほうに向けた。

 片方のこぶしをきゅっと握る様子を見て、僕は噴き出してしまう。

「嘘じゃないよ。冷静になってよ。いつもの柚子先輩だったら、僕が嘘をついてるかついてないかくらい、ちゃんとわかるでしょ」

 そしてソファーから立ち上がり、狼狽する彼女のそばへ歩み寄った。

「……だって、女性がだめって、好きにならないってことじゃないの?」

 彼女は頑なだ。

 頭一個分は大きい僕を見上げる彼女の瞳の光は強くて、こんなときなのに、僕はそれをとても愛らしいと思ってしまう。




 そう、ずっと、ずっと前から。

 僕は、こんな運命的な日を待っていた。

 自らの手で、僕はそれを拾い上げたんだ。




「よく思い返してみて。昨日、キスされただけで僕は勃ってたでしょ。本当に女性がだめなら、そのくらいで反応するわけないじゃない。もっと言えば、柚子先輩だったから反応したんだよ」

「……ずっと、嘘ついてたってこと? やっぱり嘘ついてたんじゃない」

「う~ん、そこはグレーにしておいてくれないかな。嘘ついたり、騙したりするつもりはなかったんだ。僕は本気でそう思っていたから。このゲームだって、最初は柚子先輩への同情心でしかないって思ってた。ただ、途中で本当の気持ちに気づいてからは、まぁ、確かに黙ってた」

 彼女は一時いっとき言葉を失くして、思い出したようにすぐに口をひらいた。

「……じょ、上京の話は? ここを出て行くつもりだったんじゃないの?」

 来た来た、と僕はほくそ笑む。

 それについての対応策だって、僕はきちんと準備済みなのだ。

「深読みしすぎだよ。上京を考えてるとは言ったけど、出て行くとは僕は一言も口にしていない。バンドの拠点や仕事を向こうに移したとしたって、柚子先輩さえよければ、僕はここから通うつもりだったし」

 とうとう彼女は口をポカンと開けてしまった。

「……詐欺じゃない」

「失礼だな。何度も言うけど、僕は本当に柚子先輩を騙すつもりなんかなかったんだからね」

「だって」

「まぁ、僕は柚子先輩が嘘をついてるのなんて、とっくにわかってたからね。僕が自分の気持ちをふせてることで、クールな柚子先輩が少しあせったらいいな、くらいの気持ちは確かにあった」

 正直にそれを白状すると、彼女はぐっと唇をへの字に曲げた。

「だってさ、柚子先輩は好きになったら一緒に暮らせないって言ったじゃない。あれは本心でしょ。だから、僕が柚子先輩をしっかり説き伏せられるまでは黙っておこうと思ったんだよ。途中でバレて、変なところで律儀な柚子先輩に追い出されたら困るし」

「そんなこと……」

 右手に持ったカップの中の液体を波打たせながら、彼女はうつむいた。

 光を放つ黒髪が揺れて、肩を撫で、彼女の表情を隠す。




「ねぇ、やっぱり、好きな人のそばにはずっといたいよね。僕は柚子先輩が大好きだ。こんな奇妙なゲームを思いつくくらいの僕たちだったら、きっといつまでも新鮮な気持ちのままで暮らせるよ。そう思わない?」




 次に顔を上げたとき、彼女の瞳は真っ赤だった。

 それが寝不足のせいだけじゃないことなんて、わかり切っている。

「とりあえず、今日は昼まで寝ちゃおうよ。二人で」

 僕が笑うと、彼女もゆるく微笑んだ。




 目が覚めたら、まずはファミレスにでも行ってランチを食べて、それから、僕のアパートの部屋の解約をしに行こう。

 もう別々に生活するための部屋は必要ない。

 このゲームに勝ち負けがつかないことだって、わかり切っている。




 僕たちは、一生、一緒だ。









(fin)
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