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「おはようございます」

 不意打ちで頭のてっぺんから降ってきた声に、びくんと身体を強張らせる。食べていたお弁当から顔を上げれば、森さんが興味深そうに見下ろしていた。

「あ、おはようございます。えっと……この前は、ありがとうございました」

 後半は声をひそめて伝える。森さんは苦笑いを浮かべた。

「いやぁ。お昼休憩が今ってことは、今日は早番ですか?」
「うん、そう」
「タイミングが合ってよかった。ずっと言いたいことがあったんですよ」

 彼は隣の椅子に腰を下ろした。コンビニの白い袋を机上に置く。

「言いたいこと?」

 森さんは少しだけ肩を寄せてきて、ほとんど囁くように言った。

「社員名簿の件です。十五年前の。あれ、誰が持っていったか、わかりました」
「え? 本当?」
「あのあと、うちの上司に探りを入れてみたんですよ。あ、もちろん、横尾さんたちの名前は出していませんから」
「なんかごめんね」
「いやいや」

 あの時も散々迷惑かけたのに。ありがたいと言うより、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

「持ち出したのは、福永さんだそうです」
「え?」
「半年くらい前、少しの間借りたいと言って持っていったそうですよ。個人情報なんで上司も迷ったそうなんですが、他ならぬ福永さんの申し出なんでしかたなく、と」

 その可能性は予想していなかった。そうかと言って、他に持ち出しそうな人に、思い当たりがあったわけではないけど。

「理由は?」
「さあ」

 森さんは肩をすくめてみせた。彼のほうでも手札が少なく、それ以上は上司に突っ込むことができなかったのだろう。それでも、充分な成果だと言える。

「こう言っちゃなんですが、福永さんて、上司のウケだけはいいっすよね」
「はは」
「なんでなんすかね。理解不能ですよ。僕はどっちかって言うと、要領よくやりたいタイプなんで」

 苦笑するしかない。

「そっか……福永さんが」

 いったい何のために持ち出したのだろう。
 半年前。その頃と言うと、姉が遣史くんからプロポーズされた頃ではなかったか。
 姉の婚約が決まったタイミングと、福永さんが十五年前の名簿を持ち出したことは、何か関係があるのか。それとも、そこに意味があるだなんて、わたしが思いたいだけなのか。

「聞いてます?」

 呼びかけにはっとすると、森さんの顔がすぐ横にあった。

「わぁ、びっくりした!」

 息がかかりそうなほどの近さで、嫌悪というほどではないけど、思わず身を退いてしまった。

「あ、ごめん。考え事してた。何でしたっけ?」
「飯でも食いにいきません? て言ったんですよ。今日の夜とか」
「え? ご飯?」
「だって、横尾さん、悩みが解決していないっぽいから。もう少し詳しい話を聞けたら、もっと上司から情報を引き出せるんじゃないかと思って」

「えっと」

 困った。森さんがこんなに世話焼きなタイプだと思わなかった。
 気持ちは嬉しいけど、事故のことを話すつもりはない。あまり接したことのない相手との食事も気が進まなかった。どう言ったら、彼の気を悪くさせずに断れるだろうか。

「業務に関係のない話は、退勤後にしてくれないか」

 唐突な上に、聞き覚えのある声だったものだから、瞬間的に背筋が伸びた。

 右隣、森さんから見てわたしを追い越した向こう側に、福永さんが立っていた。
 いつの間に休憩室に入ってきていたのか。足音にも気がつかなかった。
 噂の当人がいきなり現われるなんて、心の準備ができていない。ただ口を開けたまま見上げるばかりだ。森さんも同じ思いなのか、隣からは呼吸する音さえ聞こえてこない。

 こちらに注がれた視線には、怒りが満ちている。まさか話を聞かれてしまったのだろうか。

「横尾さんには、仕事を頼んでいたはずだ」
「え?」
「早く終わらせてもらわないと困る。ついてきなさい」

 福永さんはきびすを返し、出入り口へと歩いていった。
 仕事なんて頼まれた覚えがない。
 訳がわからないままに、足をもつれさせながら立ち上がる。ランチボックスを手に、慌ててスタッフジャンパーの背中を追いかけた。うつむいて固まってしまっている森さんに、言葉をかける余裕もなかった。

「あの、仕事って……?」
「君は隙だらけなんだな」

 階段を下りながら、こちらを振り返ることなく、福永さんは言った。

「え?」
「男が女性のために何か手を尽くすのは、下心があるからだ」

 ぽかんとする。シタゴコロ。聞いたことのない和製英語を耳にしたような気分だった。
 森さんがわたしに協力してくれるのは、わたしに対して下心があるからで、つまり、それをダシにわたしとどうにかなろうとしている。そういうこと?
 顔が熱くなった。

「そ、そんなんじゃないと思います」
「なぜ言い切れる」
「なぜって……」

 それを責めるなら、福永さんだって同じだ。誰だって他人の心の中は覗けない。森さんが純粋な親切心からではないなんて、どうして福永さんにわかるのか。
 だけど、腹立たしさを感じる一方で、ほっとしている自分もいた。
 連れ出してもらえなかったら、たぶん誘いを断り切れなかった。わたしは確かに隙だらけで、弱気でもある。森さんだって最初はそんなつもりがなくても、仮にも若い男女なのだ。二人でいるうちに妙な空気になる可能性は否めず、そうなればわたしは強く拒めなかっただろう。

「助けてくれたんですか……?」

 嫌っているわたしのことなのに。
 どうでもいいと無視できないくらい、鈍臭さが目に余ったのだろうか。ああ、違う。きっとわたしが社長の娘だからだ。

 まっすぐ先を目指していた背中が、階段の中ほどの位置で立ち止まり、振り返った。その顔はいつもとまったく変わらない。冷ややかで、動揺のかけらもない。

「用事があるのは本当だ」

 よどみなく、福永さんは言った。

「用事、ですか?」
「送迎の件。藤井さんの了承は得られたのか」
「あ」

 どうしよう。まだ言い訳を用意していない。
 焦りが顔に出ていたらしく、福永さんは小さくため息を吐き出しながら、手をひらひらと振った。

「あぁ、いい。断られることは予想していたから、気を遣う必要はない。大方、嫌いな上司と一緒では息が詰まるといったところだろう」
「すみません……」

 そこまで言い当てられてしまっては、もう弁解できない。

「悪くない時は謝る必要はないと言ったはずだ」
「すみませ……あぁ、す、じゃなくて、あの」

 福永さんは、今度は大きくため息をついた。

 もはや物理的に小さくなってしまいたい。
 仕事も頭の回転も速い福永さんから見たら、わたしという人間はほとほと鈍臭くて嫌になることだろう。
 そうか。だから嫌われているのだ。生理的に受け付けられない、というやつだ。
 ようやくわかってすっきりする反面、どっしりと落ち込む。

「では、どちらかの運転でくるということだな」
「……はい。えっと、運転は藤井さんが」
「新店までの道順はわかるのか」
「たぶん。ナビがありますし」

 頼りないと呆れられそうで、もじもじとしながら答えた。
 福永さんは指を尖った顎に添えて、少し考え込む素振りをした。

「あの……?」
「高速のジャンクションが、少々複雑だ。初めてでも、ナビを見ながら通過できるとは思うが」
「複雑、ですか?」
「車に備え付けにしろスマホにしろ、ナビに注意を取られたら、かえって危険かもしれない」
「はぁ」

 腑抜けのような返しをするわたしにかまわず、福永さんはまた考え込む。

「今日は、早番だな」
「はい」
「君が良ければ、今夜にでも道案内してやれるが。むしろ、今夜くらいしか時間が取れそうにない。どうする?」
「え! 道案内ですか? 福永さんが?」

 急に覚醒した気分になる。

「自家用車で来てほしいとお願いしたのは、自分だからな。それで事故を起こされるよりは、ずっといい」
「えっと、わたしに案内するってことですか?」
「藤井さんは、自分と車に乗るのが嫌なのだろう?」

 福永さんは不機嫌そうに目を細めた。

 だって、琴音がそう言うのだから。
 どのみち琴音は休みで、福永さんと顔を合わせるために、わざわざ出てきてくれるはずもない。

「今夜は、何か予定があるか」
「いえ、何も」

 森さんの誘いはなくなったし。

「でも、あの」
「自分はこれから問屋に向かう用事がある。それが済んで戻ってこられるのは、おそらく夕方だ」

 自身の腕時計を確認する福永さんの中で、今夜の道案内はもう決定事項のようだ。

「退勤時間を少し過ぎるかもしれないな。休憩室で待っているといい。タイムカードは切る必要ない。残業扱いにする」
「……わかりました」

 もう断れない。やっぱりわたしは押しに弱い。

 階段を下り切ったところで、深々とお辞儀して上司の背中を送った。
 道案内。退勤後に福永さんの運転で。こんな展開になるとは思わなかった。どうしよう。
 福永さんのことだから、下心うんぬんなんてものは間違ってもない。そんな心配はしない。緊張がピークに達して、より福永さんを怒らせてしまわないかが不安なのだ。

 でも、いい機会なのかもしれない。
 二人きりなら、他人の目を気にせず訊きたいことを訊ける。
 持ち出した社員名簿のこと。姉と同じ大学に通っていたこと。出身地のこと。わたしが気になる事柄の中には、福永さんにとっても他人に聞かれたくない内容があるかもしれないのだし。

 だけど、福永さんはどうして自ら行くことにしたのだろう。
 自分が言い出したからと言っていたけど、他の社員に頼むことはできる。嫌いな相手で、社長の娘なんて面倒な立場でもあるわたしとの長距離ドライブなんて、忙しいことにかけつけて誰かにバトンタッチすればよかったのだ。

 でも。でも、だ。そもそも、新店に行ったことのある本部社員は福永さんだけではない。それなのに、誰一人わたしたちを気にかけなかった。福永さん以外は。

 はっと顔を上げる。背の高い後ろ姿はもう、売り場のどこにも見つからなかった。 
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