20 / 60
【5】
2
しおりを挟む
予測できる福永さんのルートは二択だ。
倉庫でブッキングした時のように、駐車場から建物をぐるりと回って裏手のドアから入ってくるか、正面の自動ドアから直でくるか。
相馬さんのあとを追うようにして、のろのろとバックルームを進んでいたわたしの前に、後者を選んだ福永さんが姿を見せた。
濃いグレーのスーツに、「BEYOK」のロゴが入れられた紺色のスタッフジャンパー。いつもと変わらない出で立ちで、正面から歩いてくる。バックルームは少し暗いからか、わたしを見てわずかに首をかしげた。
「お、お疲れさまです」
「ああ」
福永さんは目の前までくると、手を差し出した。
指の長い、大きな手のひらをぼーっと眺めてしまう。
倉庫の中であの時、この手が温もりを携えてわたしの背中に添えられた。さすってくれた。
「出張届だね。受領印を押そう」
「あ、はい」
ぼんやりしている場合ではない。福永さんは忙しいのに、わざわざわたしのために売り場に回ってくれたのだ。急いで用紙を手渡す。
手に取って眺めながら、胸ポケットを探っていた福永さんは、すぐに「これ」と用紙をこちらに戻してきた。
「何も記入していないじゃないか」
「あ、すみません!」
そうだ。必要事項を書いてから受領印を、と言われていた。
「すみません、あの、とりあえず印鑑だけください。あとから書きます……」
言ってしまってから、やばいと青くなる。気を遣ったつもりが、これでは堂々とした不正宣言だ。
福永さんは鼻から息を抜く。蔑むような雰囲気だったことが、わたしを傷つけた。
「それは本来の手順ではない。今書きなさい」
「はい……」
またやってしまった。
すぐそばに、片づけ忘れか、使用中なのか、キャスター付きの作業台が放置されていた。福永さんはそれを引き寄せて、この上で書けばいい、と寄越した。
書き終えたら持っていきます、とはもう言い出せなかった。
書き始めるとすぐ、狭い台上に、福永さんは片方の肘を引っかけた。
ノートパソコンが一台置ける程度のスペース。用紙に向かっていても、頭のてっぺんがジャンパーの袖に触れそうで気が気ではない。
香水なのかシャンプーなのか、爽やかなマリン系の香りが漂う。すれ違った時にたびたび鼻に届いた、福永さんの香り。前からずっと、嫌いではなかった。
「体調はもういいのか」
頭の上から、低い声が降ってくる。
「え? あ、はい」
「ああいうことは、よくあるのか」
一瞬、ぼんやりする。
倉庫でのことを言っているとは、すぐにわかった。水に濡れて倒れ込むことは、あれが初めて。即座にそう答えられなかったのは、単純に答え慣れていなかったからだ。
「あ、いえ……あそこまで激しいことは」
「そうか。子供の頃に、溺れかけたと言ったな」
「あ、はい。えっと……」
「いや、いい。他人にベラベラと話したいことでもないだろう」
確かに、誰彼かまわず話して聞かせたい内容ではない。
でも、不思議だけど、福永さんに今話そうと思えば、それはできる気がした。
これまでにも、水を異常に怖がるわたしと居合わせた人はいた。大抵が驚いて、それから、遠巻きになった。腫れ物に触るかのようになったり、影で笑いものにしたりする人もいた。
だけど、福永さんはそのどれでもない。
わたしは、それを嬉しいと感じているのかもしれない。
「手が止まっている」
「あ、すみません、すみません」
「謝るのは一度でいい」
「すみません、あ……」
「君は本当に」
ため息が吐き出される。自分が愚かすぎて、顔も上げられない。
「一人にしておけないな」
福永さんはぼそりと言うと、作業台から身体を離した。
「え……」
「当日、新店まで何で向かうつもりでいる?」
書き終えたこともあって、ようやく顔を上げる。質問の意味が飲み込めず、瞬きを繰り返した。間を置いて、応援の日の足を訊かれているのだと気づいたけど、やっぱりすぐには答えられない。琴音と二人で向かうことは間違いない。でも、まだ先のことだからと、交通手段なんて話し合っていなかった。
「できれば、自家用車できてもらいたいのだが」
「自家用車、ですか?」
「開店時刻に間に合う電車はなかったはずだ。しかも、新店は駅から離れている。タクシーを使わなければならない」
そこまで聞くと、福永さんの意図がわかった。
「高速を使っても二時間半程度かかる距離だが、そっちのほうが交通費を抑えられるんだ。経営者の身内に、こんなことを言うのは心苦しいが」
「あ、いえ。それはいいんですが……」
はっきり言えば、会社はそれほど利益が出ているわけではなかった。
しかたがないと思う。世の中は不景気だ。衣食住のうちの「衣」はどうしたって後回しになってしまう。
ただ、わたしも琴音も、運転免許を取得したのは短大を卒業してから。車を走らせるのはもっぱら近隣だけで、高速道路を走ることにそこまで自信がなかった。
わたしの不安が伝わったのだろう、福永さんが提案してくれた。
「朝は早くなるが、それでもいいなら乗せていくが」
「え」
「どうせセール中は毎日、自分も行く。慣れない高速の運転で、事故を起こされるよりマシだ」
思いがけない提案に、口を開けて目をしばたたいてしまう。
「もう一度念を押すが、朝は早い。それで了承するなら、藤井さんも一緒に行きも帰りも乗せていってやろう」
「え、え、でも」
「ああ、それと」
福永さんはかがんで、胸ポケットからボールペンを取り出し、お尻に付いたシャチハタを出張届に押した。部長受領印の欄に残る、赤い「福永」。用紙を差し出しながら、冷たい顔と声で言った。
「底意地悪くて優しくない、大っ嫌いな上司の運転でよければ。それも確認しておくといい」
出張届を握りしめたまま、卒倒しそうになった。
やっぱりわたしたちが話していた内容は全部、丸聞こえだったのだ。
倉庫でブッキングした時のように、駐車場から建物をぐるりと回って裏手のドアから入ってくるか、正面の自動ドアから直でくるか。
相馬さんのあとを追うようにして、のろのろとバックルームを進んでいたわたしの前に、後者を選んだ福永さんが姿を見せた。
濃いグレーのスーツに、「BEYOK」のロゴが入れられた紺色のスタッフジャンパー。いつもと変わらない出で立ちで、正面から歩いてくる。バックルームは少し暗いからか、わたしを見てわずかに首をかしげた。
「お、お疲れさまです」
「ああ」
福永さんは目の前までくると、手を差し出した。
指の長い、大きな手のひらをぼーっと眺めてしまう。
倉庫の中であの時、この手が温もりを携えてわたしの背中に添えられた。さすってくれた。
「出張届だね。受領印を押そう」
「あ、はい」
ぼんやりしている場合ではない。福永さんは忙しいのに、わざわざわたしのために売り場に回ってくれたのだ。急いで用紙を手渡す。
手に取って眺めながら、胸ポケットを探っていた福永さんは、すぐに「これ」と用紙をこちらに戻してきた。
「何も記入していないじゃないか」
「あ、すみません!」
そうだ。必要事項を書いてから受領印を、と言われていた。
「すみません、あの、とりあえず印鑑だけください。あとから書きます……」
言ってしまってから、やばいと青くなる。気を遣ったつもりが、これでは堂々とした不正宣言だ。
福永さんは鼻から息を抜く。蔑むような雰囲気だったことが、わたしを傷つけた。
「それは本来の手順ではない。今書きなさい」
「はい……」
またやってしまった。
すぐそばに、片づけ忘れか、使用中なのか、キャスター付きの作業台が放置されていた。福永さんはそれを引き寄せて、この上で書けばいい、と寄越した。
書き終えたら持っていきます、とはもう言い出せなかった。
書き始めるとすぐ、狭い台上に、福永さんは片方の肘を引っかけた。
ノートパソコンが一台置ける程度のスペース。用紙に向かっていても、頭のてっぺんがジャンパーの袖に触れそうで気が気ではない。
香水なのかシャンプーなのか、爽やかなマリン系の香りが漂う。すれ違った時にたびたび鼻に届いた、福永さんの香り。前からずっと、嫌いではなかった。
「体調はもういいのか」
頭の上から、低い声が降ってくる。
「え? あ、はい」
「ああいうことは、よくあるのか」
一瞬、ぼんやりする。
倉庫でのことを言っているとは、すぐにわかった。水に濡れて倒れ込むことは、あれが初めて。即座にそう答えられなかったのは、単純に答え慣れていなかったからだ。
「あ、いえ……あそこまで激しいことは」
「そうか。子供の頃に、溺れかけたと言ったな」
「あ、はい。えっと……」
「いや、いい。他人にベラベラと話したいことでもないだろう」
確かに、誰彼かまわず話して聞かせたい内容ではない。
でも、不思議だけど、福永さんに今話そうと思えば、それはできる気がした。
これまでにも、水を異常に怖がるわたしと居合わせた人はいた。大抵が驚いて、それから、遠巻きになった。腫れ物に触るかのようになったり、影で笑いものにしたりする人もいた。
だけど、福永さんはそのどれでもない。
わたしは、それを嬉しいと感じているのかもしれない。
「手が止まっている」
「あ、すみません、すみません」
「謝るのは一度でいい」
「すみません、あ……」
「君は本当に」
ため息が吐き出される。自分が愚かすぎて、顔も上げられない。
「一人にしておけないな」
福永さんはぼそりと言うと、作業台から身体を離した。
「え……」
「当日、新店まで何で向かうつもりでいる?」
書き終えたこともあって、ようやく顔を上げる。質問の意味が飲み込めず、瞬きを繰り返した。間を置いて、応援の日の足を訊かれているのだと気づいたけど、やっぱりすぐには答えられない。琴音と二人で向かうことは間違いない。でも、まだ先のことだからと、交通手段なんて話し合っていなかった。
「できれば、自家用車できてもらいたいのだが」
「自家用車、ですか?」
「開店時刻に間に合う電車はなかったはずだ。しかも、新店は駅から離れている。タクシーを使わなければならない」
そこまで聞くと、福永さんの意図がわかった。
「高速を使っても二時間半程度かかる距離だが、そっちのほうが交通費を抑えられるんだ。経営者の身内に、こんなことを言うのは心苦しいが」
「あ、いえ。それはいいんですが……」
はっきり言えば、会社はそれほど利益が出ているわけではなかった。
しかたがないと思う。世の中は不景気だ。衣食住のうちの「衣」はどうしたって後回しになってしまう。
ただ、わたしも琴音も、運転免許を取得したのは短大を卒業してから。車を走らせるのはもっぱら近隣だけで、高速道路を走ることにそこまで自信がなかった。
わたしの不安が伝わったのだろう、福永さんが提案してくれた。
「朝は早くなるが、それでもいいなら乗せていくが」
「え」
「どうせセール中は毎日、自分も行く。慣れない高速の運転で、事故を起こされるよりマシだ」
思いがけない提案に、口を開けて目をしばたたいてしまう。
「もう一度念を押すが、朝は早い。それで了承するなら、藤井さんも一緒に行きも帰りも乗せていってやろう」
「え、え、でも」
「ああ、それと」
福永さんはかがんで、胸ポケットからボールペンを取り出し、お尻に付いたシャチハタを出張届に押した。部長受領印の欄に残る、赤い「福永」。用紙を差し出しながら、冷たい顔と声で言った。
「底意地悪くて優しくない、大っ嫌いな上司の運転でよければ。それも確認しておくといい」
出張届を握りしめたまま、卒倒しそうになった。
やっぱりわたしたちが話していた内容は全部、丸聞こえだったのだ。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
2番目の1番【完】
綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。
騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。
それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。
王女様には私は勝てない。
結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。
※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです
自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。
批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】
remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。
干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。
と思っていたら、
初めての相手に再会した。
柚木 紘弥。
忘れられない、初めての1度だけの彼。
【完結】ありがとうございました‼
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる