KANNAメンタルクリニック時間外診療日報

朋藤チルヲ

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9 ド根性カンナ

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「ふぅ。終わった」

 誠先生は小さくため息。構えていた腕を銃ごと下ろした。かと思うと、その場にへにゃへにゃ、と座り込んだ。

「……づ、づがれだ……ボクはもう、一歩も動けないじょ……」

 可愛い自覚のある女の子があざとく座るみたいに膝を折って、ペタンと地面にお尻をつける。なんなら、上半身まで倒して頬をつける。

「アレレ!? つい今の今まで頼りがいのあるイケメンだったのに、みんな幻かな!?」

 思わず心の声を張ってしまうわたしだけど、内心はホッとしていた。

 カッコいいままだと、普段通りに絡むのも照れてしまうし。ここまで途方もない精神力を使ったはずで、いろいろな消耗が心配だったから、ふざける力が残っているのなら大丈夫だ、と安堵した。

 わたしは誠先生のそばへ近寄る。倒れ伏したお兄さんの様子を窺った。

「お兄さん……大丈夫?」

 銃弾を受けて、アスファルトの上に仰向けに寝転んだお兄さんは、ピクリとも動かない。

 邪霊を祓うことはできたのだろうか。取り込まれた人間に、後遺症みたいなものは残らないんだろうか。心配ごとは尽きない。

 誠先生は突っ伏した姿勢のままで答えた。

「あー、平気。神弾は本体には何の影響も及ぼさないんだ。そもそも形のないものだし」

「ふぅん」

「邪霊はきれいに消滅した。邪霊が消えて、取り込まれていた間の彼の記憶も消えた。目が覚めた時には、長い夢でも見ていたような気分さ」

「そうなんだ……」

「たぶん、すぐに目覚める。オレたちがここにいたら面倒だ。帰ろうぜ」

 誠先生はそう言うと、ひょいと身体を起こした。動けないなんて嘘じゃないか、と口を尖らせるけど、よく考えたら、わたしがそばにいるからか。

 気がつけば、すでに夜中と言っていい時間。お腹を空かせたわたしたちは、フライドチキンのお店に寄り道をした。約束通り、ご馳走してもらった。

 お店を出て、以前わたしが途中下車の旅をしたバス停に、誠先生と並んで立った。そこまではよかった。空腹が満たされると、人間って余計なことを考える余裕ができてしまうもの。バスを待つうちに、わたしはガタガタと震え出した。

「な、なんだよ。どした? チキン、足らなかったのか?」

 わたしはとうとうべぇべぇと泣き出してしまって、驚いた誠先生がわたしの顔を覗き込んで訊いてくる。

「胃液が油になるほど食べたってばぁ」

 そうじゃない。今さら怖くなってしまったのだ。

 今日起きた出来事を思い返せば、ずっと恐怖の連続。オバケと対峙したこともそうだし、屋根から飛び降りたし。飛び降りた時に多少膝を擦りむいたけど、ケガと言えばそれくらいで、わたしよく無事だったなって思う。

 今日一日だけで、わたしはすっかり疲れ切ってしまった。もう懲り懲りだとも思っている。だけど、誠先生はこんなことを何度も繰り返してきているんだ。

 邪霊の存在がなくならない限り、これからも続くんだろうし、きっと誠先生は、そのたびにお母さんのことを思い出す。

「先生、かわいそう」

 わたしは子供みたいにしゃくり上げながら言う。

「はぁ?」

「わたし、すごく怖かった。あんな怖くて辛い仕事、先生はこれからもずっとやっていくんだよね?」

 その間、ずっと『気』を集中させて過ごしていくしかないんだ。

 邪霊って、いつかいなくなる時がくるんだろうか。第一、どうやって生まれてきたんだろう。ユーレイの一種なら、元は人間で、人間がこの世界から一人もいなくならない限り、邪霊もずっと存在し続けるのかな。

 誠先生は、いつになったら髪色が戻るんだろう。考えたら、果てしなく悲しい。

「そんなこと、甘奈が心配することじゃねーだろ」

 誠先生は呆れたふうに言った。

「大丈夫。これからは甘奈も、この怖くて辛い仕事を一緒に続けていくのだ」

「嫌だぁあああ!」

「全力で拒否するなよ……」

 本気で嫌がるわたしの様子に、誠先生は口を曲げる。

「いいんだって。オレは好きでこの仕事やってんだよ。好きで、誰かの力になりたいの」

 わたしは泣くのを止めて、隣に立つ誠先生の整った顔を見つめた。

「クリニックに訪れる患者はみんな、自分は欠陥品だって思い込んでる。他の人と同じように上手に生きていけない自分は、どこかおかしいんだって」

「うん……」

 わたしも、そう思っていた部分はある。

「心が疲れやすい人間は、他の誰かを悪者にするくらいなら、自分を悪者にしちゃおうとするんだよ。弱さだって言う人もいるけど、オレは優しさだと思うわけ。オレはさ、そういう人たちに、自分のいいところにちゃんと気がついて欲しいし、元気になって欲しい」

 どこか先のほうを見つめる誠先生の瞳は、優しく細められていた。

「甘奈にも」

「わたし?」

「甘奈はすごく優しいし、本当はちゃんと大きな勇気を持ってる。現に、持ってただろ?」

「……わたし、今なら学校行ける気がする」

 誠先生に気を遣ったわけじゃなかった。強がりでもない。

 誠先生はわたしがそばにいることで、力を回復させてもらえるって言うけど。わたしこそ、誠先生のそばでその笑顔や言葉に触れることで、力を分け与えてもらっていたんじゃないかなって、今は思う。

「先生のおかげかも」

「そりゃ、嬉しいね。カウンセラー冥利に尽きる」

 誠先生は目をほとんど線みたいにして、本当に満足そうに笑った。

「そういう人が一人でも増えて欲しいよ。自分の本来の魅力を知らないまま、世間に潰されちまう人間は意外に多いんだ」

「そうなの……」

 そういう世界が、少しでも変わってくれたらいいのに。

「オレはそれが悔しくて。だから、これからもデザートイーグルをブッ放し続ける。辛いどころか、感謝してるよ。この天命をオレに授けてくれた神様にね」

「でも……」

 落ち着いていた悲しみがまた込み上げてきて、わたしは睫毛をふせる。熱い涙の粒がこぼれた。

「お母さんは、助けられなかった……」

 空気が張り詰めたのを感じて、余計なことを言ってしまった、と後悔する。

 もう口をきいてくれなかったらどうしよう、と誠先生を窺うと、こちらに笑顔を向けてくれていた。泣きそうな笑顔。

「まぁ、それは悔しいけど。しかたない。オレの力が足りなかったんだから」

「でも……」

 涙を止めようとぎゅっと目をつむったのに、止まるどころか押し出されるみたいにして、涙はまぶたからどんどんこぼれ落ちる。

 本当に泣きたいのは、誠先生だ。誠先生は何の悪いこともしていないんだもの。お母さんが大好きだっただけ。

 邪霊に取り込まれたということは、誠先生のお母さんも、悩みを抱えて心を疲れさせていたってこと。その悩みが何なのか、そんなことは関係ない。

 ただ、きっと毅然としながらも、とても優しい人だったんだってことはわかる。自分が悪者になって、悪いものをすべて自身で受け止めてしまうくらいに。

 わたしが泣いたってしかたないのに。そう思いながらも、止められない。

 鼻水まで垂らして泣くわたしの頭に、誠先生がふわりと温かい手のひらを乗せた。

「親は、遅かれ早かれ、いつかいなくなるものだよ。例外はもちろんあるけど、通常は子供より先に逝くもんだ。悲しいけど、割り切らなきゃいけないことが、世の中にはある」

「うぐ……だって、それとは違うよ……やだよ、先生、かわいそう……」

 誠先生は小さく噴き出した。

「あんまりオレを哀れな男にするなよ」

「うぅ……ごめん」

「確かに、オレの心には消えない傷が残ってる。でも、傷はただ痛いだけのものじゃねーんだって」

 わたしは目を開けて、誠先生のいつも通りの笑顔を見上げた。

「痛みを知ってる人間は、他人の痛みも理解できるだろ? ちょっとくらい傷があるほうが、カウンセラーとしてはいいんだよ」

「……でも」

 そんなの、悲しい。

「そしたら、先生の痛みは誰がわかってくれるの? 和らげてくれるの? わたし、先生から元気もらったのに……その痛みから救ってあげられない。先生に、元気になってもらいたいのに……」

 自分の中の大きな勇気をわたしは自分で引っ張り出せたって、誠先生は言った。でも、きっとわたし一人の力じゃ無理だった。誠先生がわたしの心の鍵を壊して、強いわたしを解放するきっかけをくれたんだ。わたしもそんなふうに、誠先生の心の奥に巣くっている、大きな悲しみを溶かしてあげられたらいいのに。

 この想いって、いったい何なんだろう?

 その時、ふっと正面が陰る。

 誠先生の唇が、わたしの唇に触れていた。

 温かくて、柔らかい。甘い香り。悲しくてたまらないせいか、胸がきゅんと痛くなる。

 そっと重ね合わせて離れていく、これまでのものとはぜんぜん違うキスだった。いきなりではあったけど、強引でもなければ、いやらしさもない。

 すごく近い距離にある、誠先生の大きな瞳。黒っぽいガラス玉みたい。バイパスを通り過ぎる車の白いヘッドライトや、赤いテールランプが、その中でキラキラ瞬いていた。

「……え?」

 誠先生は、お兄さんを説得していた時みたいな真剣な表情をしている。

「……あ、もしかして、わたしとチューして『気』が高まったら、その傷も少しは楽になるとか?」

 そういう使い方もあるのかって感心したのに、とたんに誠先生は不機嫌になった。ぷいっと顔をそむける。

「んなわけねーだろ」

「え? な、なんで怒ってんの?」

「別に怒ってない。アレだよ、甘奈がちゃんと学校行けるように。おまじない」

「ふぅん」

 怒ってるじゃん。なんだか納得がいかない。

 しかし、誠先生とのチューに、わたしもずいぶん慣れてしまったものだ。このまま行くと、そのうち、誠先生が手を差し伸べてきただけで、自ら唇を差し出すようになるんじゃないか、なんて考えて、我ながら怖くなる。

 そもそも、どうして誠先生は、初対面でわたしにキスなんてしてきたのか。確かショック療法だなんて言っていたけど、その行動ってカウンセラーとして問題ありすぎでしょ。

「何怒ってんだよ」

「怒ってないよ」

 ついさっきとは真逆になった。

 駅のある方角から月を引き連れて、本日最終のバスがやってきた。




「……よし!」

 昨日の夜のうちに磨いておいた、ワイン色がかった茶色のローファーに足を入れて、わたしはこぶしを握りしめた。

 スクールバッグの肩紐を整えて振り返る。玄関マットの上で、うさん臭い学者でも眺めるみたいな細い目をしたママが、腰に手を当ててわたしを見ていた。

「もぉお、何その顔! 二ヶ月も不登校だった娘が、やっと学校行く気になったんだから、もうちょっと喜んでよね」

「それはそうなんだけど」

「何の文句があるの」

「どんなに行けってやいやい言っても、まったく腰を上げなかった甘奈がねぇ。さすがメンタルクリニックねぇ。感心しているの」

「それ、感心してる顔じゃない」

 どう見ても疑っている。心配しなくても、やっぱり無理! とか言い出さないってば。

 誠先生の裏の仕事、一緒に冒険まがいのことをしたことは、さすがにママたちには言えていない。ママもパパも、誠先生が遅くまでカウンセリングしてくれていただけだって思っている。

 ある意味、カウンセリングかな。かなり強烈ではあったけど。

 クリニックで処方されたお薬が効果抜群で、夜はぐっすり眠れている。おかげで頭はスッキリしているし、足も震えていない。

 正直、心には多少の重みを感じる。

 久しぶりに教室に現れたわたしを、クラスのみんなはどんな目で見るだろう。望月くんは居心地が悪くなってしまわないだろうか。

 でも、長引かせたって気まずい思いは同じ。なら、ここで勇気を出さなければ。わたしが見つけ出した、わたしの中の勇気。

「今日の晩ご飯は焼肉にしよっか。奮発してA4ランクのいいお肉買っておくから。踏ん張って行ってらっしゃい」

 ママはにっこり笑って言った。わたしは満面の笑みになる。

「うん! ……あ、ちょっと待って」

 わたしはドアに向きかけて、また身体を元の位置に戻した。向かい合った不思議顔のママに、ぎゅうっと抱きついた。

 親は子供より先にいなくなる。

 わたしだって、漠然とは理解していた。でも、リアルなこととして感じられるようになったのは、誠先生と出会ったから。

 いつか必ずその日は訪れる。それは明日かもしれないし、下手したら数分後かもしれない。それは、神様以外、誰にもわからない。

 ママ。大好き。できるだけ長生きして。いつまでもわたしを元気に叱って欲しい。あんまり早く、わたしを置いていかないで。

 パパにも同じくするつもりだったのに、今朝は気持ちよすぎる睡眠にうっかり寝過ぎてしまって、その間に出勤されてしまった。

 帰ってきたら、してあげるんだ。パパは号泣してしまうかもしれないな。

 わたしに抱きしめられたまま、ママがポツリと言う。

「機嫌を取っても、A5ランクに格上げしないわよ」

「……だよね。庶民的サラリーマンの家庭だもんね、うち」




 ホームルームが始まるギリギリだったから、バス停から正門までの途中でクラスメイトと出くわせることはなかった。でも、他のクラスの見た顔が自転車で追い越していくことはあって、振り返ってチラリと視線を送られた。

 そういうことにドキリとするたび、わたしはわたしを応援する。

 頑張れ。ここで断念したら、誠先生に申し訳なさすぎる。

 教室の扉に近づく。開け放たれたそこから、クラスメイトたちの明るいはしゃいだ声が届いてきた。足が止まる。

 二ヶ月ぶりの教室。懐かしいと言うより、まるでよく似た異世界みたい。

 フラれて学校にこなくなってしまったわたしを、みんなは笑うかな。送ってくれたメッセージをスルーしてしまったから、怒るかな。それとも、誰も反応してくれないかも。

 急に怖くなる。勇気がしゅるしゅると音を立てて萎み始める。

 どうしよう。逃げ出したい。誠先生。




「甘奈?」




 後ろから、聞き覚えのある声に呼びかけられた。

 ビクン、と背中を反らしたあと、恐る恐る振り返る。

 そこにいたのは、目を真ん丸く見開いた女子。さっぱりとしたショートボブがよく似合っている。斜めに分けた前髪の間から、意思の強い眉毛が覗いていた。

 一年生の時に同じクラスになって仲良くなった、瑞希ちゃん。二年生に進級しても嬉しいことにクラスメイトで、不登校になるまではいつも一緒にお弁当を食べていた。

「瑞希ちゃん……」

 瑞希ちゃんは明らかに驚いている。白い猫のキャラクターのハンカチを手にしているから、おそらくトイレ帰り。

 わたしが不登校を始めたその日に、瑞希ちゃんはいちばん最初にメッセージをくれた。わたしはそれをスルーしてしまった。

 ごめんなさいって、わたしから言わなければいけない。わかっているのに出てこない。

 瑞希ちゃんはふっと睫毛を伏せた。まるで何も見なかったみたいに、何も言わずにわたしの横を通り過ぎる。

 胸がズキンと痛んだ。

 でも、自業自得だ。わたしは瑞希ちゃんの優しさをないがしろにしてしまった。文句なんか言えない。

 ううん、だめだ。自分を納得させちゃだめ。勇気は、今絞り出さないと意味がない。

「ごめんね、瑞希ちゃん!」

 瑞希ちゃんの姿を追いかけるように振り返って、その背中にわたしは謝った。

 教室の前の扉から中に入ろうとしていた瑞希ちゃんは、そこで足を止めた。でも、こっちを向いてくれない。横顔は冷たい無表情。

「許さない」

 低い声で、瑞希ちゃんがつぶやいた。

 その声は、わたしの耳ではなく直接胸から飛び込んで、心臓に風穴を開ける。鋭利なまま背中を突き抜けていった。

「……ごめん」

 わたしは泣きべそをかいた。

「わたし、本当にひどいことしちゃったって思ってる。自分のことしか考えてなかった」

「本当。わたし、甘奈とは友達だと思ってた。それなのに、何も話してくれないなんて」

「ごめん……ごめんね、瑞希ちゃん。わたし、どうしたら……」

 視線を落とす。ワックスをかけたばかりらしく、廊下は鏡のようにピカピカだ。わたしの情けない泣き顔が、そこに映っている。

「だから……辛い時は辛いって、今日からはちゃんと言ってくれないと許さないから!」

 瑞希ちゃんの、聞き慣れた勝ち気な声。

 顔を上げると、こっちに向けられた瑞希ちゃんの顔が照れ臭そうに歪んでいた。

 噴水が湧き上がるみたいに、うわっとわたしの目から涙が溢れる。そばに駆け寄ろうとしたら、それより先に教室の中から、クラスメイトたちがどわっと顔やら手やらを押し出してきた。まるでタイミングを見計らっていたみたいに。

「うぉお、本当だ甘奈だ!」

「あいかわらずチビッコだねぇ」

「え、なに、休んでた間にプロテイン飲んで、幼児なバディを発達させてたんじゃねーのかよ」

「なかなか成果が出ないもんだから、恥ずかしくて顔出せなかったのね!」

「あ、じゃあもう諦めたんだ!」

「別に、そのお子ちゃま体型見慣れてるしなぁ。急に変わったら逆に怖いわ」

「身に覚えのない目標に挫折したことになってる! そして、久しぶりなのに遠慮のカケラもない!」

 言いたいことを気兼ねなく口々に発する、クラスメイトたちに衝撃。でも、おかげですんなりと入っていける。

 たぶん、心配していたことや怒っていたことは確かで。それでも、そうやって意気地なしのわたしを迎え入れてくれるみんなの優しさが、嬉しかった。

 わたし、今まで何を怖がっていたんだろう。みんながとても優しいことなんて、ずっと前から知っていたはずなのに。

「あ~、甘奈泣いてる~。泣き顔マジ園児」

「ほんとに遠慮ないな!」

 そこへ、担任の君和田先生がツカツカとやってきた。出席簿を片手に、ホイッスルをくわえている。

「おら、チャイム鳴ったぞ! 早く着席!」

 気づかないうちに、ホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴っていたらしい。わたしを含めて、生徒たちはドタバタと教室に引っ込んだ。

「お? なんだ、今日は久しぶりに全員が揃ってるじゃないか。これは気分がいい。ホームルームなんてやめて、みんなで校庭十周しちゃうかぁ?」

 教室中をぐるっと見渡して、君和田先生は満足そうに言った。いつも赤ジャージ姿の君和田先生は、体育教師じゃない。実は音楽教師で、ブラスバンド部の顧問でもある。こさっぱりとした性格が人気の、未婚女性だ。

 わたしたちが抗議の意思を込めて一斉に机をバンバンと叩き出すと、君和田先生は口を尖らせて「わかったよ」とつぶやいた。

 席替えはされていなかった。わたしの隣は二ヶ月前と同じ、望月くんが座っていた。

 ガッツリ気まずい。わたしは首を固定したまま隣を向けない。

「橘さん」

 ホームルームが終わると、望月くんのほうから声をかけてきて、わたしは椅子の上から十五センチくらい浮き上がった。

「……は、はい」

 そろそろと横を向く。

 自分が振った女子が、その翌日から不登校になった。望月くんは相当責任を感じたはず。もしかしたら、望月くんを非難する人だっていたかもしれない。

 望月くんがわたしを怒っていたとしたって、不思議なことじゃないし、責め立てるならそれを甘んじて受け入れる覚悟は、一応ある。

 望月くんと目が合う。あぁ、あいかわらずなんてカッコいいんだろう。

「よかった」

 恨み言の一つも言わないどころか、望月くんはにっこりと微笑んだ。

「ずっと隣がカラッポで寂しかったよ」

「え……え?」

 怒っていないの?

「心配してた。ほら、その……あの直後だったから」

 望月くんは声をひそめてそう言って、申し訳なさそうに目を伏せた。

 裏庭で告白したシーンが脳内にありありと蘇る。自分でやったことなのだけど、恥ずかしさがマグマになって全身を駆け巡った。フラれた瞬間に、この世から昇天したような気分に陥ったけど、また死んだ。少女は失恋で二度でも三度でも死ぬらしい。

 だけど、どうしようもなく恥ずかしいし、落ち込むけど、それでまた不登校になろうとは、不思議と思わなかった。

「ずっと気にしていたんだ……その」

 口をモゴモゴさせて、とても言いづらそうな望月くん。

 怒ったっていいのに、望月くんはわたしを心配してくれていた。自分のせいだってずっと気にしてくれていたんだ。カッコいい上に、なんて優しいの。好きな人の胸を悩ませてしまったいたたまれなさが、失恋の恥ずかしさやショックを上回る。

「あの……本当に」

 いいんだよ、いいんだよ、望月くん。もういいの。

 その優しさに自惚れて、勝てない勝負に出てしまったわたしが悪い。いろいろあったけど、こうやってまた登校できるようになった。もう望月くんが気に病むことはこれっぽっちもないんだよ。

「……妖精さんが、君に危害を加えたんじゃないかって」




 ……ん?

 ごく一般的なティーンエイジャーの日常では、あまり聞かないワードが耳に入ってきたような。




 顔が埴輪になるわたしをよそに、望月くんはあたかもソコに何かが浮遊しているかのように、手のひらを空中で上げたり下げたりした。

「僕の妖精さんはヤキモチ妬きなんだ。今も、プンプンしてる。可愛いけど、時々ちょっと怖いんだ。愛されすぎて」

 その表情が恍惚としていて、わたしは若干震えてくる。

「……妖精って、妖精? え、望月くん、見えるの……?」

 その問いかけに、望月くんはキラキラした笑顔で答えた。

「うん。見えるよ。見えないって人は多いけど。きっと僕の心は清らかなんだと思う」

 それは、見えないわたしの心が汚れていると、暗に言っていると取っていいのかな。

「……そ、そかぁ。まぁ、ユーレイさんがいるくらいだし、きっと妖精さんもいるんだろうねぇ。見えないだけで」

 知らなかった。望月くんて、こういうキャラだったのか。

 一年生の頃から片想いしていたはずなのに、わたし、彼のどこを見ていたんだろう? あ、そういえば、こんなにイケメンなのに彼女の話とか聞いたことない。もしかして、コレが原因? みんな知っていたとか? それが真実なのだとしたら、恋は盲目とは言うけど、盲目も甚だしいわ。

 わたしの返答に、予想外に望月くんが食いついた。

「えっ、橘さん、信じてくれるんだ」

「え? あ、まぁ……可能性の話としてね」

 望月くんはますます嬉しそうな顔をして、身を乗り出してくる。

「嬉しいなぁ! 僕、そういう女の子を待ってたんだよ! ……えっと、あの時はひどいことをしちゃったけど、もし許してくれるんだったら」

「え?」

「僕は、橘さんとちゃんと付き合うこと、真剣に考えたいんだけど」




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