KANNAメンタルクリニック時間外診療日報

朋藤チルヲ

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8 バトル! 否、神名流カウンセリング!

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 正面玄関のガラス戸の向こうには、黒いペンキをブチまけたみたいな濃い夜が訪れていた。

 狭い駐車場の先へ目を向ければ、神名神社へと続く細い一本道を包み込んだ小さな森。駐車場をうっすらと照らす外灯は一つしかなくて、森は黒いこんもりとした丘みたいに見える。

 LEDライトを持ってきておいてよかったとほっとするけど、それでも、帰り道を一人で歩くのは心細い。明るさなんて、何の頼りにもならないってわたしはもう知ったから。ハンバーガー店の照明に照らされていたって、そばを車がバンバン通り過ぎていたって、オバケは出る時には出るんだ。

 どうしよう。またあのサラリーマンが現れたら。そう何度も都合よく、誠先生が助けにきてくれるわけじゃない。

 それに、こういうことを考え出すと悲しくなるけど、邪霊に取り込まれている人が、あの男性だけとも限らないって思う。

 この世の中は生きづらい。まだ十六年ほどしか人生をやっていないわたしでも、そう感じる。世間の冷たい風にさらされて、心が弱ってしまう人はきっとたくさんいる。だけど、メンタルクリニックはここだけじゃない。

 誠先生たちが働いているここなら、おかしな兆候のある人をすぐに発見して対処できる。他では野放しの状態に近くて、ひょっとしたら、誠先生が出張することもあるのかもしれないけど、それだって限界があると思うんだ。

 邪霊に取り込まれた人は、欲望に支配されて、白目の化け物になって、『気』を吸い取られて、放っておけば確実に死んでしまう。

 じゃあ、邪霊に取り込まれた人と接触した場合は?

 誠先生たちに訊いてみないと、詳しいことはわからない。でも、遭遇すれば怖いことには変わりないし、誠先生たちが躍起になって退治するからには、たぶん悪い影響があるんだ。

 この世界は、わたしたちが思っている以上に、悲しいだけでなく、危険な世界なのかも。

 誠先生のお母さんは、邪霊に取り込まれて死んでしまった。悲しすぎる事実に、胸の中が鉛の玉を放り込まれたみたいにずしんと重くなる。

 誠先生がいつもバカなことを言ったり笑ったりするから、院長先生から話を聞いて理解したつもりでも、つい忘れてしまう。

 本当は、ものすごく辛い痛みを耐えているんだって。

 そう考えると、わたしにできることがあるならって、お手伝いしたい気持ちが湧いてこないわけじゃない。ただ、方法が問題で。わたしのキスを、まるでタイムセール商品みたいに投げ売りするのだけは、勘弁してもらいたい。

 さて、いつまでも玄関でウダウダしているわけにいかないし、とガラス戸を押す。すると、外の柱に、誠先生が背中からもたれて立っていた。黒いロングジレと黒いスラックスという格好のせいで、夜に溶け込んでいてわからなかった。

 誠先生はわたしが出てきたことに気づいて、柱から背中を離す。

「遅いぞ。支払いするだけで何分かかってんだよ」

「先生? どうしたの?」

 てっきりまだ院内で仕事中だと思っていたから、純粋に驚いてしまった。

「甘奈を待ってたに決まってんじゃんかよ。家まで送っていくよ」

「え? 忙しいんじゃなかったの?」

 慌ただしく診察室を出ていったのに。

 誠先生は眉間にクシャッとシワを寄せた。

「だから、急いで残務を片づけたんだろーがって。甘奈を送っていくために」

「え?」

 それは、独りぼっちで夜道を歩くことにビビっていたわたしにとっては、正直嬉しい申し出だったのだけど。

「……べ、別に一人で帰れるよ」

 わたしは胸ポケットからLEDライトを取り出す。スイッチを押して明かりを照らすと、わざと肩がぶつかりかねない、スレスレの距離で誠先生を追い越して駐車場に出た。

 急に思い出してしまったのだ。誠先生が方波見さんといやらしいことをしていたこと。ザッ、ザッ、と砂利を踏み潰しながら、クリニックの敷地を出ていくわたしを、誠先生がのんびりと追ってくる。

「嘘つけぇ。オレの姿見て、めっちゃホッとした顔したくせに」

「そ、そんなことないもん」

 二人が何をしようと、まったくもってわたしには関係ない。方波見さんに言った通り、誠先生を自分のモノだなんて思ったこともないし、自分のモノにしようと思ったことだってない。だから、好きにしたらいいって思う。そう思うのに、なぜかムカムカする。きっと、方波見さんが美人だけど高圧的で、そんでもって性格が悪いからだ。

「待てって。一人は危ない。もしかしたら、甘奈は狙われてるのかもしれない」

 その言葉には、足を止めずにいられなかった。バイパスへと続く通りに出たところで、わたしは立ち止まり、振り返る。

「狙われてるって……まさか、あのサラリーマンのお兄さん?」

 誠先生のほうを向いたわたしの怯える横顔を、車のヘッドライトが照らして、通り過ぎていった。

 邪霊を祓う天命がある誠先生が、狙うものがいると言うなら、それはやっぱり邪霊に他ならないと思う。わたしが知っている邪霊は、今のところ一人だ。

「あのお兄さん……あの夜バス停でわたしと会ったのは、偶然じゃなかったってこと?」

 誠先生はすぐに答えず、わたしに近づきライトを奪う。自分が道路を照らしながら、先へ進み始めた。わたしはそのあとを追う。

「ずっと気になってた」

「ずっとって、あの、バス停で会ってから?」

「彼はクリニックの患者だ」

「うん、知ってる」

 初めてクリニックにやってきた日。お兄さんの隣に、わたしは座った。

「たぶん、クリニックで甘奈を見かけて、興味を持ったんだろうな」

「興味?」

 誠先生は歩みを止めると、後ろを振り返り、わたしの頭のてっぺんからローファーの爪先までをライトで舐めるように照らした。

「別に取り立てて美人でもないし、チビだし、胸もペタンなのに、何で興味を持ったのかはわからんけど」

「ほぉ。その暴言は、わたしと金輪際関わりたくないという意思と取ってよろしいですネ?」

 わたしが目を半月にして睨んだのを見ると、誠先生は慌ててフォローする。

「いやぁ、でも、ちっちゃくて可愛いからなぁ。見る目あるわぁ、あのサラリーマン」

「白々しい」

「甘奈は、何か思い当たることはないか?」

「思い当たること?」

 誠先生がまた前を向いて歩き出したので、わたしは目をしばたたきながら、その後ろをついて歩いた。

「邪霊に取り込まれた人間が、何かに執着を見せることは珍しくない。でも、それまで接点がなかった甘奈にっていうのが、腑に落ちないんだ」

「美人でもないし、チビだし、ペタンだもんね」

 根に持ってそう言うと、誠先生はウンザリしたような横顔で下唇を突き出した。

 でも、本当にわたしに執着しているのなら厄介だ。その理由がわかれば避けることもできそう。気を取り直して、わたしは真面目に考える。

「うーん……」

 だけど、やっぱり思い当たることなんて、何もない。わたしは初診の日に、クリニックの待合室で初めてあのお兄さんに会って、それだけだ。会話どころか、目さえ合っていない。

 ため息をついた。

「こんなことになるなら、隣になんて座らなければよかった。あのお兄さん、最初からなんか普通じゃなかったもん……」

 隣に座らずに、離れたところに立っていただけだとしたって、同じ空間にいたのなら、ターゲットに選ばれてしまった可能性は否定できない。でも、逆もまたしかりだと思う。

「最初から?」

 誠先生が驚いたように目をみはった。また歩くのをストップしてしまったので、わたしはその横に並ぶ形に。

「気づいてたのか? 彼が普通じゃないって? そりゃあ、メンタルクリニックにくるくらいだ。多少元気はなかっただろうけど、見た目にはどこもおかしくなかっただろ?」

 後悔を吐き出しただけに過ぎない言葉に、そんなに食いついてこられると思わなかった。少し戸惑いながら答える。

「外見的にっていうか……なんとなくだよ。目つきも怖かったし、オーラも重くて」

「オーラ? 甘奈、そんなもん見えんの?」

 誠先生はさらに前のめりだ。

「オーラっていうか、雰囲気だよ。空気? そういうの、誰も感じたりするじゃん」

 わたしのほうこそおかしいって言われているみたいで、思わずムキになって言い返してしまった。

 誠先生は顎に手を当てて考え込む。

「……たぶん、それだな」

「それって!?」

「邪霊に取り込まれたか人間かどうか、オレやお父さんにはわかる。でも、オレたち以外の人間は、他の患者との違いを見つけられないんだ」

「え?」

 誠先生たち以外の、クリニックで働くスタッフさんたち。方波見さんとか、花井先生とか。患者さんたちも。彼らの目には、あのお兄さんのことも他の患者さんと同じに見えるってこと?

「見つけてもらえる、わかってもらえるっていうのが嬉しい邪霊もいる」

「だ、だって、白目だよ? 明らかに変じゃん!」

「完全に取り込まれたら常にそういう状態になるけど、大抵はその前に祓う。よほど接触しない限りは、目の当たりにしないからな」

 よほどの接触って……好きでしたわけじゃないのに。そこで小さな疑問が湧いた。

「あの、花井先生とか、方波見さんとかは……邪霊のことって知ってるの?」

 誠先生はあっさりとうなずいた。

「知ってる。二人はオレより前にクリニックにいたんだけど、採用が決まった時点で院長が話すことにしてるんだ。二人の他に、岩崎先生も知ってる」

「岩崎先生?」

 初めて聞く名前に、当たり前のように訊き返すと、誠先生は目を丸くした。

「知らねぇの? うちは薬剤師の花井先生の他に、三人のカウンセラーで回してるんだよ。オレと院長、あと岩崎先生」

「へぇ」

 驚かれても、まだ通院歴浅いし、会ったことがないからなぁ。あ、だから診察室が三つあるのか。どうでもいいことではあるけど、その岩崎先生とやらも変人なんだろうか。

「まぁ、最初に大方説明しておかねぇと、こんな奇抜なヘアスタイルしたオレと対面して、速攻で辞められたら困るからな」

 自分の青い前髪をつまみながら、そう苦笑いする誠先生。医療従事者にしては髪色が衝撃的すぎる、という自覚があったんだと驚く。それと同時に、胸がザワザワし出した。

 誠先生は気づいているんだ。院長先生から修行の話を聞いたわたしが、その髪の色に込められた悲しい理由まで知っているって。

「だから、訊いてみたことがあるんだ。邪霊がまぎれている待合室を見てもらって、気になる患者はいるかって。当てられた人はいないよ」

「そうなんだ……」

 わたしは神妙になる。ふと、子供の頃のことを思い出した。関係があるかどうか微妙だけど、話しておこうって気分になった。

「えっと、そういえばわたし……幼稚園くらいの時から、変に敏感だったんだよね」

「敏感!?」

 誠先生は飛び退きそうな勢いで、なぜか大きく驚く。

「そ、そんな子供の頃から感じやすかったなんて……! お子ちゃまな顔と体型だとばかり思っていたのに、実はすっごいいやらしいのか……」

「ちっがーう!!」

「……いや待てよ。感じやすいくらいのほうが、あんなことしてもこんなことしても楽しそうだ」

「その煩悩だらけの頭を、神銃とやらで吹き飛ばしてもいいかな」

 その腰には、どうせ今もあの金ピカの銃が装備されているのだろうから。ちゃんと本物で人の命を奪えるっておばあさんが教えてくれたこと、忘れていないからね。

 わたしは深く息を吐き出す。

「……なんかね、同じ園の子とかと話して、あ、この子は今わたしのことが嫌いになった、とかわかっちゃうことがけっこうあって」

 誠先生は何も言わず、ただわずかに首をかしげた。意味が通じていないと言うよりは、言いたいことの全容を知るために、先を促す仕草に見えた。

「今思えば、メンタルが弱すぎるせいかも。誰だって機嫌が悪い時はあるし、他の人だったら気にならない程度の素っ気ない態度とかも、嫌われたくないっていつもビクビクしてるわたしは、すごくダメージ受けちゃう」

 幼い頃から、他人の顔色ばかり気にしていた。会う人会う人、嫌われたくなくて。嫌われたら、わたしっていう人間の価値がなくなっちゃう気がして。

 好かれようと頑張れば頑張るほど、空回りして、失敗する。そして、結局は嫌われる。わたしの心の奥にある鍵は、そうやって堅くなっていったのかもしれない。

「もしかしたら、そういうのの延長で、邪霊に取り込まれている人間がわかるのかもって?」

 頭の良い誠先生は、わたしの話を先回りして言った。わたしはうなずく。

「なるほど」

 たぶんそうだ、とも、いやそれは考え過ぎだ、とも言わない。曖昧な相槌を打って、誠先生はバイパスへ向かうのを再開した。

 ハンバーガー店前のバス停を目指して、二人で無言で歩く。

 わたしの三歩ほど先に、誠先生の白っぽい髪が揺れている。誠先生は急に静か。さっきまで、こっちで口を塞いでやりたいくらいにお喋りだったくせに。考えごとでもしているんだろうか。

 かと思ったら、誠先生は突然、左手でガッツポーズをしてみせた。

「……甘奈はもう、オレんちに住み込むしかないな」

 真剣なトーンで何を言い出すかと思えば、突拍子もない上に、塵ほどの悲壮感もない。取っかかりのない平らなアスファルトでつまずきそうになるとか、初めての経験だ。

「それなら、いつでも甘奈を守ってやれるし、カウンセリングだって好きな時にしてやれる」

「ざっくり言って、院長先生の勧誘と変わらないよね」

「そして何より、甘奈がオレの家で暮らせば、オレはパワーを注入してもらい放題! いや、なんなら合体しほ……ぴぎゃ!」

 その先を言わせてたまるかと、わたしはその顔面にスクールバッグを殴りつけた。

「なんだよぉ……名案だと思ったのに」

 誠先生はライトを持っていない左手で顔をこすりながらも、痛みを堪えてなんとか前へ。

「却下です。そうそうしょっちゅうチューされてたまるか。女子高生の唇を何だと思っているんだ」

「何も、キッスだけがパワーを増強する方法じゃないって」

 まだ不埒なことを言うのか、とわたしはまたおもむろにバッグを振り上げる。誠先生は歩きながら『構え』の姿勢。

「違う違う! キッス以上とかじゃなくて、むしろ逆」

「逆?」

 わたしは眉をひそめながらも、とりあえず手を下ろした。

「最近わかったんだけど、甘奈がそばにいるだけでも、オレのHPは回復する」

「え? そうなの?」

 驚きつつも、納得できる部分はあった。今日だって、会った時はすごくお腹が痛そうだったのに、いつのまにかケロッとしている。

「なぁんだ。じゃあ、別にチューする必要ないじゃん。よかった」

 それなら、邪霊退治のその場にいなくても、離れたホームベースに待機していて、そこに誠先生が回復しにやってくるっていうので手伝えそう。

 誠先生はしかめ面。

「キッスほどの威力と即効性はない」

「いや、充分あると思う」

 途中で倒れることもあったけど、それでも回復スピードはかなり速い。

「わたしを待っていたのは、その話をしたかったからなんだ」

「それだけじゃねぇって。さっきも言ったじゃんかよ」

 誠先生はとたんに不機嫌になって、手に持ったライトをブンブン振り回す。

「え?」

「心配なんだっつーの。一人で帰したら、危ないだろ。また襲われるかもしれない」

 その可能性については、正直不安を覚えてしまう。

「……ふうん。もしかして、最終の予約を取ったのもそのため?」

 悔しいけど、こうして今も、怖いと思う隙間もなく平然といられるのは、やっぱり誠先生のおかげだ。

「まぁな」

 素直に認めてくれる時、誠先生は大体こっちを見ていない。




 バス停に到着すると、今夜も利用者はわたし一人だと判明した。田舎町だからしかたない。バイパスを走る車の数は、一日中通してあまり変わらないけど、公共交通機関を利用する人は夜になるとめっきり減る。

 やっぱり誠先生がいてくれてよかった、と改めて思う。言わないけど。

 バスがくるまで、まだ少し時間がある。さも自分が日常的に利用しているかのように、わたしを差し置いて時刻表の横に立った誠先生は、また口をつぐんでしまった。そのせいで沈黙の間ができる。

 気まずい。男子と付き合った経験がないわたしは、男の人がすぐ隣に立っているってだけで、妙に緊張してしまう。しかも、誠先生は見た目だけなら超絶イケメンなのだ。

 誠先生がいつものようにふざけてくれるなら、こっちも遠慮なく突っ込めるのに。どうせ、またくだらないことを考えているに決まっている。

「甘奈」

 不意に、誠先生が呼びかけてきた。

「なに?」

 つっけんどんに返事してみせるけど、内心はホッと身体がゆるむ。

「気をつけろ」

「きをつけろ?」

 隣の誠先生を見上げると、背後のハンバーガー店からの明かりを被って、横顔には影が落ちていた。

「さっきの話。甘奈はメンタルが弱いからって言ってたけど、そうじゃなくて」

「うん」

「優しいんだよ」

 誠先生の口から、わたしを褒める言葉が出てくるとは思わなくて、不覚にもドキリとしてしまった。

「すげぇ優しいの。だから、傷つきやすい。邪霊は、特にそういう人間が大好物なんだ」

「それは……困る」

「な。オレのお母さんもさ、すげぇ優しかった」

 その言葉に、わたしはまた心臓が跳ねる。院長先生が、誠先生の過去について話してくれたセリフが、ポップコーンが弾けるみたいに、ポンポンと断片的に耳に蘇った。

「聞いたんだろ? オレのお母さんは邪霊に取り込まれた」

 誠先生の横顔は、それまでとぜんぜん変わらない。お母さんを邪霊に奪われて、憎くて悲しくてたまらないはずなのに。それが余計に悲しくて、わたしのほうがしゅんとしてしまった。

「うん……」

 嘘をついたってしかたない。誠先生は噴き出した。

「何で甘奈がしょげてんだよ」

「だって」

 むしろ、どうして誠先生がそんなに平常心でいられるのかがわからない。

「……その髪、染めないと真っ白なんでしょ?」

「そうそう。ガキの頃はどうでも、思春期に入るとなぁ。白髪じゃ女の子にモテねーもん」

 誠先生はようやくこっちを向いて、ニカッと笑った。

 そうやっておどけたって、誠先生がいじめられていたことだって、わたしは知っているのに。

 事情を知らない同級生たちにいじめられて、口もきけなくなるほどに心が傷ついて。だけど、誠先生は自分の運命に打ち勝つ決心をしたんだ。その表れが、きっとその髪の色だ。

 ただ白髪を隠すためだけなら、黒とか茶色の自然な色でいい。グレーに染めて、しかも青くメッシュなんて入れたら目立ってしまって、逆にいじめはエスカレートする。普通に考えたら、そう。今だって、仕事が仕事なんだし、白い目で見てくる人だっているはず。だけど、貫き通している。

 奇抜なカラーは、誠先生の信念みたいなものなのかもしれない。壊れそうになる時だってきっとあるはずで、その信念が誠先生を支えている。

 胸がチクチクする。アンポンタンな誠先生のことなのに。

「邪霊に完全に取り込まれると、人間らしい心はもう戻らないんだ。邪悪な存在になり果てて、最期は『気』を吸い尽くされる」

「人間らしい心……」

 それは、普段から意識しているものじゃない。意識しなくても当たり前にあるもので、それって、本当はすごいことなんだ。

「オレのお母さんは巫女さんだったんだ。おかげで、精神力は一般の人より強くてさ。最期まで人間らしい心までは奪われずに踏ん張れた」

「すごい」

 この褒め言葉は合っているのかな。

「オレはさ、もう一人だって、そういう悲しい思いをする人を出したくないの。本人も辛いけど、大切な存在を失った周りの人間だって辛い」

「うん」

「だから……オレは今でもあのデザートイーグルを持ってる」

「うん……」

『今でも』って、誠先生は言った。

 誠先生がデザートイーグルを引き継いだのは、お母さんを救うため。でも、それは叶わなかった。

 辞めようって、きっと何度も思ったんだ。最初に失敗すると、自信ってなかなか取り戻せない。そのたびに誠先生をもう一度奮い立たせたのは、大切な人を失った時の悲しみ。心がバラバラになりそうな辛さ。

 そんな思いをもう誰にもさせたくない、なんて。そう願う誠先生こそ、すごく優しい人なんじゃないのかな。

「お母さんみたいに強くたって、邪霊に取り込まれる。普通の人ならなおさらで、優しすぎる甘奈なら、もっと可能性は高いと思う」

 誠先生はこっちを見る。




「だからさ、そばにいて欲しいんだ。オレがいつでも守れるように」




 なぜだろう。相手は誠先生なのに。ただ邪霊から守りたいって言われただけなのに。

 ドキドキが止まらなくて、それなのに、その形のいい目から視線をそらせない。時間が止まったみたい。




「……て、このハイパーイケメンのオレが言うとさ、ぐっとくるだろ」

 誠先生はこぶしを握り、してやったりな表情で言う。

「はぁ?」

「これで甘奈はオレにメロメロ。キッスに隙あらばドッキング」

「ドあほ」

 ちょっと見直すと、コレだよ。純情を返せ。

 タイミングを見計らったみたいに、オンボロバスが巨体の動物みたいな、やや暢気さを携えて近づいてきた。

 誠先生はわたしの手首を掴んだ。そのまま早足で歩き出し、バス停から離れる。バスのやってくるほうへ向かっていく。

「え? え?」

 バスはあっという間にわたしたちとすれ違って、バス停も通り過ぎた。降りる人がいなかったらしい。バス停に待つ人もいないとなれば、止まらないのは当然のこと。

「ちょ、ちょっと! どこ行くの? 家まで送ってくれるんじゃなかった?」

「心配すんな。ちゃんと送るって」

「え? だって」

 我が家はバスの進行方向。こっちじゃない。

「送るけど、どこも経由しないとは言ってない」

 誠先生は横顔でニヤリと笑った。




 ……は、はぁあああああ!!?




「甘奈は、オレやお父さんから何を聞いていたんだ」

「は? なに、何って」

 唐突な展開に足がもつれるけど、頭ももつれる。

「あのサラリーマン。早く対処しないと、完全に取り込まれちまうだろ」

「サラリーマン? え、あ、あぁ」

 そのキーワードに、ようやく脳ミソが働き始めた。

 そうだ。あのお兄さんも、現在進行形で邪霊に取り込まれている。つまり、放っておく時間が長ければ長いほど、それだけ『気』を吸い取られる時間も長くなるってこと。着々と生命の終わりへ近づいているんだ。

「え? でも、もしかして今から退治しに行くの?」

「彼はあの日からクリニックにきていない」

「え、あ、そうなんだ」

 一瞬意外な事実だと思ったけど、よく考えたら、そうでもない。取り込まれて人間らしい心が減っていってしまうんだったら、自主的に心の健康を取り戻そうとする行動をしなくなるなんて、当然のことだ。

「だから、祓う機会がなかった」

「うん」

「でも、もし本当に甘奈を狙ってるんだったら、彼は匂いを嗅ぎつけて、もうこの近辺にきている可能性が高い。チャンスだ」

「ぇえ!?」

 怖いと思う気持ちと、匂いを嗅ぎつけるっていう表現の気味悪さに、身体を震わせた。わたしの身体から悪いものを引きつける、どんな匂いが放出されているんだろう、なんて自分の腕をクンクン嗅いでしまう。

「だ、だけどわたし、まだバディを組むなんて言ってな……」

 拒むセリフを全部言い終わらないうちに、掴まれた手首を強く引っ張られた。

 戸惑っている暇もなく、あっという間に誠先生の腕の中に抱えられ、長い睫毛の瞳が近づいたかと思うと、キスされていた。

 柔らかい感触。穏やかな温もり。そして、なぜなのかやっぱり甘い匂いがふわりと鼻をかすめる。その匂いは遠い昔から知っているようで、懐かしさすら感じる。そんなわけないのに。

 そのどこかセンチメンタルな香りに、心臓がぎゅっとする。急激に排出された血流は、全身の血管を巡ってドクドクと激しく脈を打つ。身体中が燃えるみたいに熱くなる。足が震える。ううん、全身が震えてきた。

 初めての感覚。

 唇が離されると、わたしはその場にへなへなと崩れ落ちてしまった。

「よっしゃ! 充電完了!」

 誠先生は両方のこぶしを力強く握る。まさしくモンスターを討伐しに行く勇者のように、目をキラキラ輝かせた。

「集中力がメキメキ上がってきた! さすがだよ、甘奈! これで、大体の位置の目星がつく!」

「め、目星……?」

 わたしは息切れが治まらない。

 パワーを新しく生み出して増強しているんじゃなくて、わたしの生体エネルギーが、唇を介して誠先生に移動しているだけなのではないだろうか。それが真実なら、邪霊に吸い取られているのと大差ない。

 なんだか、いろいろ本当にショック。誠先生とのキスに慣れてきていることも、命が搾取されていることも、この息切れが、ドキドキが、まるで誠先生にときめているみたいだってことも。

 いやいやそんなはずがない。わたしはツインテールを振り乱す。

 誠先生は、再びわたしの手首を取った。

「この前の路地、ネットカフェの近くだ! 急げ、甘奈!」

「ぅええ、やっぱりわたしも行くのぉ? で、でも、そしたら逆方向だよ……」

 わたしが寝落ちたインターネットカフェがある繁華街は、我が家から見れば、ハンバーガー店前のバス停よりも手前だ。

 眉毛のお尻をピンと凜々しく吊り上げる誠先生。

「いーの! 遠回りして裏から行くの! 正面から行って鉢合わせしちゃったら、また逃げられちゃうでしょ!」

「まさか、また徒歩なんて言わないよね……?」

「笑止!」

「ああ……」




 バイパスを大きく迂回して目的地に着いた頃には、例のごとくわたしはヘトヘト。

 学校の全校集会で、教室から体育館まで歩いていくのさえ疲れる、現代の十六歳を三十分以上も競歩させれば、当然の結果。

 いい匂い、と思ったら、フライドチキンのお店の近くまできていた。表の道ではなくずっと路地を進んでいたから、位置感覚がよく掴めていなかった。つまり、インターネットカフェもすぐそば。

「フライドチキン食べたい……」

 魅惑の香りにお腹の虫が騒ぎ出す。今すぐにも邪霊に取り込まれたお兄さんに遭遇するかもしれないって時に、緊張感がないと思われてもしかたない。クリニックから直でここまできたわたしは、夕ご飯がまだなのだ。

「はいはい。終わったら、油吐くほど食わせてやるって。とりあえず今は、邪霊討伐に集中しようね」

「集中って……わたし、その場に必要かなぁ?」

 パワーを増強するだけなら、さっきのキスでもうその役目は果たした。他に何もできないわたしがそばにいても、足手まといだ。

「何言ってくれちゃってんだよ。甘奈がいなかったら、バトルですり減ったオレの『気』を誰が復活させるんだ」

 誠先生はジレをめくって、腰を見せた。男の人のわりには華奢な腰に、黒い革製のベルト。デザートイーグルが差し込まれていた。月がその銃身を瞬かせる。

「え? またするの? てか、バトル?」

「今さらかよ。それがオレの裏の仕事だわい。何のためにここまできたんだ」

 誠先生は呆れたように口を曲げる。

「それはわかるけど……その銃でバーン! て撃って終わりじゃないの?」

「そう簡単に済めばありがたいよ」

 吐き捨てられたセリフに、わたしは愕然とする。

 ヒーローものの映画さながらの展開を想像していたから、幕切れは爽快であっけないものだと思い込んでいた。そうじゃないんだ。

「今まではスタミナが切れることが唯一怖かったけど、これからは甘奈がいる。百人力だ」

 そう口角を上げる誠先生は本当に嬉しそうで、人の助けになること自体は嬉しいけど、乙女にとってはそう簡単な問題じゃない。

「またするのって何だよ。愛するオレとのキッスだぞ。もっと喜べ」

「喜べない喜べない。愛してない愛してない」

 わたしは首をブンブン振る。いつのまにわたしたちは相思相愛になったんだ。

「またまたぁ。照れちゃってぇ」

「なぜにそんなにスーパーポジティブなの。羨ましい」

「方波見さんにだって、ヤキモチ妬いてたくせにぃ」

 誠先生はドングリの目をくし形にカットされたオレンジみたいにして、ニタニタ笑う。

「ち、違うよ! あれは、えっと」

 何に腹が立つのかって訊かれると、うまく答えられない。

 とにかく悔しくて、本当にポジティブだな! と反抗と言う名の尊敬を始めようとしたわたしを、誠先生は手のひらで制した。目尻を尖らせる。

「近い」

「何が……え? まさか」

 わたしは思わず身体を硬直させた。

 近くにいる。それが何かなんて、誠先生から答えを聞くまでもなく、簡単に察することができた。くるんと回転した白目を思い出して、不気味さに身震いする。

「わ、わかるの?」

 できる限り声のボリュームを絞って、わたしは尋ねる。声をひそめたところで、向こうはわたしの匂いを嗅ぎつけるらしいし、あんまり意味はない。

「だてに血が滲むような修行してねーからな。オレは匂いじゃなくて、波長を感じ取れるんだけど」

「そ、そなんだ……」

 辛い思いをして身につけたすべては、今の誠先生の自信に繋がっている。

 二週間前、ここで誠先生に会った時。誠先生はわたしを捜す途中で、邪霊の波長を感じてここまでやってきたんだ。邪霊に取り込まれたお兄さんもまた、わたしを捜していた。

 ひょっとしなくてもわたし、ものすごく危険な状況だったのでは?

 普通に一人でバスに乗ってクリニックまできたけど、その道中でお兄さんに待ち構えていられる可能性は充分にあったってこと。何事もなくここにこうやっていられるのって、奇跡的なことなんじゃ。

「よし」

 誠先生は自分に気合いを入れて、わたしの両方の手を取った。

「え?」

 嫌な予感に背中が冷たく濡れた瞬間。案の定、唇をチクワみたいにして迫ってきた。

「さぁ、甘奈の出番だ! 熱いキッスでオレの『気』をビンビンに高めるのだ!」

「にぎゃあああ!」

 わたしが逃げようと背中を反らしたから、誠先生は腰から上を折り曲げるようにして、上から覆い被さってくる形になる。

「ついさっきもしたよぉ!」

「何度したっていいのだ! その分強力になる! あえて限定的な部分だけとは言わないが!」

「ぶぅえええ! 待って、なんか! なんか別の方法で協力する!」

「コレ以外に甘奈ができることは一つもなし!」

「さくっと無能確定!」

「協力するなんて言葉が甘奈の口から聞けるとは! ようやく素直にオレの愛を受け入れる気になったんだな! 子供はつくれるだけつくるぞ! オレもでっかいダディと呼ばれるのだ!」

「ぎぃやぁあああ! 果てしないポジティブっぷりがイケメンだとより怖い! て、待って待って! 本当に! 下腹部に何か当たってるぅ!」

「だから場所を限定しないってば。うんもう、密着しただけなのに。甘奈の力がすごすぎて、いろんなトコが元気になっちゃう」

「いやぁあああ!!」

 見つからないようにと声をひそめている場合ではない。わたしの貞操の危機! また蹴り飛ばしてやろうかと、右足を浮かしかけた時。

 誠先生の肩の向こうの薄暗がりに、ひときわ濃い闇が立ち上ったのが見えた。




「せんせ……!?」




 至近距離にあった瞳が力を持った、と思ってからは速かった。

 誠先生はジレの裾を翻す。腰のベルト、ややお尻寄りのところに装着されていたデザートイーグルを抜き取り、身体を大きくひねった。グレーの髪が扇状に広がる。

 月光の下、金色の光を放つ神銃。掲げられたその銃口の先で、影が漆黒の宇宙に向かって高く跳ね上がった。

 影は、数メートル後ろの建物の屋根に着地。個人で営業しているレストランだろうか。それほど大きくない建物はひっそりしている。屋根は路地に向けて斜めに下がっていた。屋根の上に片膝をついた格好で、白く光る瞳が見下ろしている。




 ……で、出た!!




「……せっ、先生、先生!」

 わたしは後ろから、誠先生の腰に腕を回してしがみついた。

「ったく、せっかく甘奈がオレとの明るい家族計画に前向きになったのに。邪魔しやがって。このオトシマエは高くつくからな」

「あああああ明るい家族計画が何なのか、よくわからないけど、どうせロクでもないことに決まってるから、そんなことよりこの場を何とかしてぇ!」

 屋根の上から、フン、と見下したような鼻息が降ってきた。

「そんな胸ペッタンコのガキがいいんだ。地位も金もあるお医者様って、意外と物好きなんだな」

 わたしは頭を横からハンマーで殴られたような衝撃を受ける。

「邪霊も悪口言うんだ! いや、まだ完全に取り込まれてないから、本体のお兄さんのほうなの!? どっちにしても傷つくことに変わりない!」

 そりゃあ、確かにわたしは豊満とは到底言えないですけど。寂しい胸元に目を落とすわたしの腕に、誠先生がそっと触れた。

「……バカヤロウ。女の子の魅力は胸の大きさじゃない」

「先生……」

 いや、さっきアナタも似たようなこと言いましたけど。他の人に言われると腹が立つってやつなのかな? わたしへの心ない暴言に腹を立てて、かばってくれるの?

「胸の大きさなんか関係ない……女の子の魅力はなぁ」

 誠先生の手がプルプル震えている。

「女の子の魅力は……」

 誠先生がガッとデザートイーグルを月に掲げ上げた。




「――――感度だ!!」




 二週間くらい消えない靴底の跡を、その背中に残してもよろしいでしょうか。さっきの勘違いをめちゃくちゃ引きずっているじゃないか。




「……なるほどね。仲がよろしくてけっこうだよ」

 お兄さんはそう言うと、屋根から高く飛び上がった。仲はよくないです! て訂正したかったけど、間に合わなかった。

 黒い服を着ているのだろうか。全身黒ずくめってことはないだろうと思うのに、どんなに目を凝らしても影にしか見えないのが不思議で、怖い。目だけが、白いビームを放っているかのように光っている。

 お兄さんの形をした影は、一瞬だけ月に穴を開け、あっと思った時には道路に着地していた。さっきよりも近い。アスファルトを蹴る。突進してくる。

 わたしの頭の中は真っ白。逃げようなんて浮かばない。誠先生にしがみついたまま動けないでいると、誠先生がサッとわたしの腕を取って、ひょいと抱きかかえた。その場でジャンプする。

 わたしもろとも、ビックリするほど高く舞い上がる。驚いた素振りで見上げるお兄さんを眼下に、斜め後ろの屋根の上へ着地した。さっきとは真逆の構図。誠先生はニカッと笑ってみせる。

「忘れてた? アクロバティックが得意なのは、君だけじゃないんだよね」

 誠先生の身体は、傍目には決して日頃から鍛えているように見えない。どちらかと言うと、軟弱そう。女子高生を抱いたまま軽々と高く飛び上がれることに、わたしだって目を白黒させてしまう。

 でも、触れるとちゃんとわかる。普段は白衣の下の細い腕も、Tシャツの中の華奢そうなお腹も、筋肉の塊だ。嘘でしょ? てくらいカチカチ。

 これが修行の成果。誠先生は邪霊から人々を救う、スーパーヒーローなんだ。

 誠先生は、わたしだけに聞こえる囁き声で早口に言った。

「いいか。邪霊を祓うには、神弾を眉間に撃ち込まないとならない。隙を作るために、彼を疲れさせる必要がある」

「う、うん」

「オレは少しお相手してくるから。甘奈はここにいて。動いちゃだめよ」

 わたしを安心させるためなのか、ちょっとふざけた感じでそう言うと、誠先生はわたしから離れる。ゆるやかな勾配のある屋根の中ほどにわたしを残して、自分は落ちそうなギリギリのところに立った。

「……先生」

 大丈夫かな。

 ううん、きっと大丈夫。誠先生のあの自信はだてじゃないんだから。ちゃんと裏付けされた根拠がある。あっという間に邪霊を、お兄さんの身体から祓ってくれる。救ってくれる。




「――――と思ったら、また急にお腹痛い!! イダダダ!! なんだよもうこんな時に!! オレは呪われているのかぁ!?」




 誠先生は真っ青になって、お腹を押さえてそこにうずくまった。

 わたしはと言えば、引っくり返るしかない。

「何やってんの、もぉ!」

 ガッカリ感が半端ないけど、その呪いの元に若干とも言いがたいくらい思い当たりがあるので、そう強くののしることもできない。

 わたしはスクールバッグの中を漁った。スマホを探す。

「ちょ、ちょっと待ってね、先生! 今パパに電話してみるから!」

「ぱ、パパ……?」

「パパに電話したら、お腹痛いの治まるかも! わたしの理想の旦那さま像はパパだから、一生愛してるって言ってみる!」

 それで呪うのをやめてくれるはず、とは言えない。

「……ぬ、ぬぁんだと? 理想がパパ……甘奈のパパさんってどんなだっけ? ち、近づくから!」

 額に脂汗を滲ませながら、こっちに手のひらを向ける誠先生。

「なんで今、そういうとこに引っかかるの!」

「……愛してる……甘奈からの愛してる……オレもまだ貰ったことない言葉。オレはいっそ甘奈のパパになりた……ぐふぁあ!」

 ブツブツつぶやいていた誠先生から、胃液でも噴き出したような声が上がった。

「先生!?」

 やっと探り当てたスマホを掴んだわたしが、声のしたほうに顔を向けて見たものは。

 なんと、屋根と同じ高さにまで浮かんだ、いくつもの板状のコンクリート。道路の両側にある側溝の蓋だ。誠先生は、屋根の上で両腕を投げ出して伸びている。どうやら、その中の一つの直撃を食らったらしい。

「……あ、あっけないな! ヒーロー!」

 思わず心の声が漏れてしまうけど、よく考えなくても、突っ込んでいる場合じゃない。

 お兄さんは誠先生の跳躍を嘲笑うかのように、ヒラリと高くジャンプ。わたしたちがいる建物の向かいのビル、その屋上に飛び乗った。雑居ビルといった感じのその建物は、周囲の建物より頭一個分抜きん出ていて、道路を挟んでこちらを見下ろす形になる。

「お前ら、人を無視してイチャイチャしてんじゃねぇよ」

 暗い声を出すお兄さん。黒い服を着ているんじゃないんだって、そこでわかった。影だ。靄みたいな黒い影が、お兄さんの身体にまとわりついている。

 瞳孔のない白目。避けた口。化け物そのもの。明らかに、二週間前より悪化している。

 わたしは腰を抜かした。手も足も力が入らない。奥歯がカチカチと音を立て始める。

 打ちどころが悪かったのか、誠先生はピクリとも動かない。このままじゃ、わたしも同じ目に遭わされてしまう。どうしたら?

 誰か。周りを見渡しても、路地に用がある人なんていない。まだ午後の九時頃のはずなのに、この辺りだけ切り取られたみたいに、何の気配もなかった。

 あぁ、こんなことに付き合うの、なんでもっと嫌だって突っぱねなかったんだろう。ただの女子高生で、おまけにメンタルも弱っているわたしに、できることなんて何もない。

 怖い。逃げ出したい。ママ。パパ。わたしはぎゅっと目をつむった。

 だけど。放っておいたら、お兄さんは邪霊に『気』を吸い取られて死んでしまう。

 わたしはたまたま同じクリニックに通っていたってだけで、助ける義理なんてない。だけど、ここであっさり諦めたら。

 きっと誠先生が、あとで死にたくなるほど悔やんでしまうだろう。




 つむった目の端に涙の粒が膨らむ。それを手の甲でぐいっとぬぐった。

「……そ、そこから近寄らないでぇ!」

 声はかすれたし、震えている。牽制になったかどうか微妙以前だけど、お兄さんは攻撃を仕掛けてこなかった。

 恐る恐る見ると、ニヤニヤとしている。顔に表情らしいものはないのに、口角だけが上がっていた。絶体絶命のピンチに立ったわたしが、どう切り抜けようとするのか、高みの見物といった気分なんだろう。下唇を噛む。

 次に誠先生を見た。夜空に仰向けになって、目を閉じている。コンクリートの板をどこにどうぶつけられたのか、鼻血が出ていた。デザートイーグルが、その隣に横たわっている。

 銃の中には、氷の弾が入っているはず。溶けないように『気』を集中していた誠先生が意識を失ってしまったら、氷の弾はどうなるの……?

 悩んでいる時間なんてない。

 わたしは弾けるみたいに立ち上がった。立ち上がれた。わたしができることは、一つしかない。そして、それはわたしにしかできないのだ。

「先生! お願い、目を覚まして!」

 誠先生に駆け寄る。首の下に手を差し込むと、顎を持ち上げる。キスをした。

 体育の授業で、人工呼吸のやり方を教わっておいてよかった。うっすらと開かれた誠先生の唇。そこに、わたしの中の生体エネルギーを注ぎ込むことを意識する。まっすぐ食道まで息を落とし込んだ。

 わたしのエネルギーやカロリーが移動しているんだって、この際かまうもんか。わたしがヘロヘロになって倒れても、誠先生さえ復活すれば問題ないのだ。

「お前ら……何やってんだ!」

 業火みたいな怒りを含んだ、お兄さんの声が飛んできた。だからって、やめるわけにはいかない。

 その時、スカートから露わになっている左の太ももに、ピリピリとかすかな刺激を感じた。白いもやもやした煙が視界に入ってきて、え? と顔を上げる。

 その煙は、デザートイーグルから立ち上っていた。それはちょうど、冷凍庫から出したドライアイスが溶け出していくよう。

「……え? いや」

 そんな。

 瞬間。真空の中に投げ出されたみたいな圧迫感を、耳の奥に覚えた。振り返ると、すぐ目と鼻の先にまで、一枚のコンクリートの板が差し迫っていた。

 あ、やばい。わたし、死ぬかも。

 目をつむる。その間際は、想い出が走馬灯のように蘇るって聞く。だけど、わたしのまぶたの裏は真っ暗だった。

 この世からの別れを覚悟したわたしだったけど、どっこい生きていた。

 数秒経っても、自分の身に何も異変が起こらない。痛くもないし、痒くもない。痛みも感じないうちにお陀仏かとも思ったけど、そうじゃなかった。

 目は開いた。そこにあったものは、見覚えのある手の甲。

 指が長い、少しだけ筋張った、でも、どちらかと言うと女性的な手が、わたしの睫毛に触れるギリギリのところで大きく広げられていた。

 誠先生だ。バッタリ倒れていたはずなのに、いつのまにか上半身を起こして、わたしに向かってピンと腕を伸ばしている。ギチギチと音がしそうなくらい歯を食い縛って、こめかみには青い筋が浮かび上がっていた。手のひらには、しっかりとコンクリートの板がキャッチされている。

「……せ、せんせぇ」

 わたしはヘロヘロとその場にお尻をつけて座り込んだ。気が抜けた。

「……う――――っらぁあああ!!」

 全体重をかけるようにして、誠先生はコンクリートをお兄さんに向かって押し返した。

 お兄さんはそれを寸でのところで避ける。他の板に当たって、バラバラに砕けて下に落ちた。舌打ちしたのは、あの状態から反撃されるとは思わなかったからに違いない。

「せんせぇ、せんせぇ」

 わたしはうわぁんと泣き出して、うわごとみたいに何度も呼んだ。

 額に汗を浮かべながらも、誠先生はいつも通りの暢気な顔に戻って、頬を真っ赤に染めながら、嬉しそうに後ろ頭を掻いた。

「もぉう、甘奈ってばなんて情熱的なキッス。あんなんされたら、元気にならずにいられないでしょうがぁ」

「だ、大丈夫なの? どこ当たったのか知らないけど。あ、お腹は?」

 前のめりになって問いかける。誠先生はニッと笑って親指を立てた。

「ぜぇんぜん平気!」

 わたしは弱々しいため息を吐き出した。よかった。

「さぁて。無様な姿を見せたが、オレの真骨頂はここからなのよ。今すぐ気持ちよく昇天させてやるぜ。覚悟しな」

 お兄さんを見据えて、誠先生は不敵な笑み。せっかく決めているところ、水を差すようで悪いのだけど、まずは鼻血を拭いて欲しい。

「……あ、そうだ!」

 わたしは誠先生が転がっていた辺りを振り返る。邪霊を祓うためには銃がいる。金色のデザートイーグルからは、まだしゅうしゅうと白い煙が立ち上り続けていた。

「先生! 大変だよ、氷が……」

 溶けてしまう。

「あぁ、それね」

 不思議なことに、誠先生に慌てる様子は見られない。おもむろに銃に手を伸ばし、拾い上げた。顔の前に掲げると、向かい側の屋上に向かって、自信たっぷりな笑みを見せた。

「増大したオレの『気』が、収まり切れずに溢れ出しちゃってる。こうなると神弾の威力は、オレでも想像つかねぇな。当たったら、オシッコちびっちゃうくらいじゃ済まないかもよ?」

 ポカンとするわたし。

『気』が溢れ出している? 溶けているわけじゃないの?

「甘奈! ボッとしてんな!」

 誠先生はその場で跳ねる。ピョンと一瞬で立ち上がって屋根のへりに留まると、左足を軸にしてクルッと回転。革靴の甲でコンクリートの板を蹴り崩した。

 交通事故の現場かと思うようなクラッシュ音がして、バッと目の前に灰色の粉塵が上がる。粉々になったコンクリートのカケラが、パラパラとわたしの頬にかかって、初めて次の一投が迫ってきていたことを知った。

 今さらながら、わたしは顔色を青くした。

「改めて大したもんだよ、甘奈」

「え?」

 わたしは唇をブルブル震わせながら、誠先生を見上げる。

「甘奈が渾身の『気』を注入してくれたおかげで、オレは今、かつてないくらいにパワーが満ち溢れてる状態なの。それが、デザートイーグルからはみ出ちゃってるってわけ」

「よ、よくわからないけど……役に立ったってこと?」

 誠先生はふはっと噴き出すように笑う。

「立ったも立った、大立ちだって。あのままだったら、マジやばかった。神弾が使いものにならなくなってた」

「よ、よかった……」

 なんだか、今度はわたしが気を失いそうな気分。

「甘奈ってば、よっぽどオレが心配だったのね。気持ちはとっても嬉しいけど、あまりに愛が激しいと余計なトコまで起き上がっちゃうので、そういうのは今後オレの寝室で!」

「ぶぁ……!」

 股間を押さえてでへでへと締まりなく笑う誠先生に、スクールバッグでの一撃を食らわせてやろうかと思った、その時。

 残りのコンクリートの板が、数個まとめて誠先生に向かってきた。

「先生……!」

 たった今、自分でボッとしているなって言ったばかりなのに!

 しかしそう思っただけで、あいかわらず屋根にペタンと座ったままのわたしができることなんて、必死に呼びかけることくらい。

 誠先生は素早く片膝を折ってしゃがみこむ。うなりを上げて空気を切りながら飛んだコンクリートの板は、その上に覆い被さった。豚肉の筋を切るみたいな音が響く。風圧で、わたしのツインテールが浮き上がった。

「先生……!」

 ぶつかった、って思った。さすがに数個をいっぺんには無理だったんだ。

 しかし、しかし。わたしはまだまだ、誠先生の力を甘く見ていた。

 誠先生は、デザートイーグルを持ったほうとそうじゃないほうの手を、揃えて顔の前に掲げていた。ぶつかったと思われたコンクリートは、その手の数センチ手前で止まっていたのだ。

 まるで誠先生を透明なバリアが包み、それにコンクリートの板が吸いついているみたい。でも、たぶんそうじゃなくて、誠先生から溢れ出す『気』が、異物が身体に触れるのを阻止しているんじゃないかって思う。

「――――はっ!!」

 お腹の底から響かせたような声を、誠先生が出すと、コンクリートはすべてその場で爆発した。バンッ、とものすごい音を立てて、こぶし大の塊になって落下するものもあれば、砂場の砂みたいにサラサラと砕けて落ちていくものもあった。

 わたしは、それをあんぐりと口を開けて見ているしかなかった。

 人間って、修行するとそんなこともできるようになるの?

 ううん、違う。巫女だったお母さんの血を引いて、神社の跡取りとして生まれた誠先生は、元々能力を備えていた。それが開花しただけ。

「心配すんな、甘奈。こちとら踏んでる場数が違うんだ。昨日今日で邪霊の影響を受けただけのやつにやられるわけねーだろ」

 誠先生はこちらに笑いかけた。その表情には、確かに余裕がある。

「おまけに、今回はオレにとっての女神がついてるしな」

「は、恥ずかしいこと言う」

 わたしが眉をひそめると、誠先生はケタケタと笑って道路に降り立った。急いで屋根のへりに移動して、頭だけを飛び出させるようにして下を覗く。

 誠先生は顎を上げていて、白い煙をもうもうと出し続けているデザートイーグルをビルの屋上へ構えたまま、わたしに言った。

「甘奈はそこにいて、無闇に動くなよ。攻撃は、そっちに行かないように全部オレが受け止めるから」

 コクコクとわたしはうなずく。言われなくても、動きたくない。

 誠先生はウインクした。キザッたらしい仕草も、イケメンがやるとそれなりに様になるから不思議だ。

「さぁ、カルテナンバー2467番。その心に溜まった悩みや痛み、このオレがすべて聞くぜ。洗いざらい吐き出してスッキリして、明日から元気に社会復帰と行こうじゃんか?」

「お前なんかに話したってしかたない」

 お兄さんの返事は素っ気ない。

「おっやぁ? じゃあ、なんでクリニックにきたんだよ。話したかったはずだ。誰にも言えずにいたことを聞いて欲しかった」

 屋上から見下ろすお兄さんの影が、気のせいかな、ほんの少しだけ揺れたように見えた。

「お前みたいなチャラチャラしたやつに、オレの苦しみがわかってたまるか」

「あっそ。だから、診察の間、ずっとむっつりだったのかよ」

 わたしが初めてお兄さんを見た時、様子がおかしいな、と思った。すでに邪霊に取り込まれていたからで、でも、完全に取り込まれていたわけじゃない。

 つまり、診察室で何も話さなかったのは、お兄さんの意思だったってことになる。それとも、少しでも邪霊の息がかかってしまったら、意思までコントロールされてしまうのか。

 誠先生に言わせれば、今もまだ完全に取り込まれていないってことで、わたしもそんな気がするのだけど、お兄さんはやっぱり何も答えない。白く光る二つの目からは、何の感情も読み取れない。

 お兄さんは右手を挙げた。まるで背後に浮かぶ月を支えるように広げられた手のひらに、黒い影が渦を巻き始める。キウイフルーツほどのサイズだったソレは、みるみるうちに大きくなって、スイカほどにまでなった。

「なに……? あれ」

 わたしは思わず恐怖を漏らしてしまう。

「……お前みたいなやつに、オレの気持ちがわかるわけがない。いつも、人の中心にいるようなお前には」

 お兄さんは振りかぶり、ソレを誠先生に投げつけた。

「――――先生!」

 わたしが呼びかけるのとほとんど同時、誠先生はジャンプして後ろへ退く。

 闇を千切って丸めたみたいな黒い渦は、誠先生がいた場所で一度バウンド。四方八方に飛び散り、そのうちのいくつかが誠先生の腕と靴へ跳ねた。

 誠先生がとっさに手で払いのけたから、ソレはデザートイーグルの銃口に触れる寸前で弾き飛ばされる。すぐ横の電柱に当たって、ドロリと溶けた。

 だけど、靴のほうには手が回らず、当たった靴の甲部分を溶かす。わたしがいる屋根の上からでも、革が溶けて中の黄色いソックスが露になるのが見えた。

「くっそ……!」

「先生……!」

 アレはたぶん、憎悪の塊。邪霊に取り込まれると、そんなものまで出せるようになるなんて。泣きそうな声を上げたわたしを見上げて、誠先生は笑った。

「大丈夫だって。外側だけだ。中までは溶かせない」

「そうなの?」

「まぁ、ちょいとただれるくらいかな」

「えぇえええ!?」

 それ、ぜんぜん大丈夫じゃないよ!

 青くなっている暇もなく、お兄さんから二投目が放たれる。誠先生は身体をひねって、ソレを避けた。

 お兄さんは手の中にどんどん黒い渦を生み出して、連続で放り投げてくる。ひょいひょいとかわす誠先生は、まるで曲芸師みたい。でも、いつ当たってしまうかと、見ているわたしはハラハラだ。

 心拍数を上昇させるわたし目がけて、そのうちの一投が飛んできた。たまたま軌道がそれたのか、故意になのかわからないけど、とっさのことで逃げる間もない。

 誠先生は攻撃を全部受け止めるという宣言通りに、高く飛び上がって、デザートイーグルを卓球のラケットみたいにして、ソレを弾き飛ばした。

 わたしはクタッと力が抜ける。まるでジェットコースターに乗っている気分。

 地面に着地すると、誠先生は空いているほうの手でビシッとお兄さんを指さした。

「おい、ドッジボールか? オレの身体能力を舐めんなって言ってんだろが! 修行なんて関係なく、小学校の低学年までは『ドッジのまこっちゃん』って呼ばれてたんだぞ!」

 その言葉に、お兄さんの片方の眉毛お尻がピクリと上がる。

「……低学年まで?」

 誠先生はブワッと泣き出した。

「ソコに反応すんじゃねー! しょうがねーだろ、そこから先はいじめられてたんだからよ! 今でこそハイスペックなオレだって、ずっと順風満帆だったわけじゃねーぞ!」

 大粒の涙を腕でぬぐって、その雫が月明かりの下でキラキラと飛ぶ。

「自分だけが辛いとか思ってんだったら、驕りすぎなんだっつーの! オレは白髪をさんざんバカにされて、高校でカラー入れるまで女子は寄りついてもくれなかった! 女の子大好きなのにひでぇよ!」

 共感を呼んで取り入ろうとしたんだろうけど、最後はもうただの感情の吐露じゃん。わたしは呆れてしまう。

 どうやら誠先生にとって、女子にモテるかモテないかは、人生をハッピーに過ごせるかどうかに大きく関わる重要ポイントらしい。

 でも、おかげで、返す言葉もないといった空気を漂わせ始めたお兄さんが、怒濤の攻撃を一旦ストップさせたのは、棚からぼた餅な功績と言っていいかも。

「オレだけじゃねーぞ! この甘奈なんかな、クラスメイトに告って玉砕して、それがショックで学校に行けなくなったんだぞ!」

 突如、誠先生はわたしを指さした。思いもしないご指名に、わたしはギョッとする。

「人生でいちばん楽しい時なのに、彼氏作りに失敗して、それが情けなくて友達にも会えない。オレがしてやらなければ、ドッキングどころかキッスの味さえ知らないままにハイスクールララバイだったんだからな!」

「人を巻き込んだ上に、こっちに追い打ちをかけるなー!!」

 わたしは屋根をバンバン叩く。こんなところにいるのでなければ、今すぐあのアンポンタンな頭をバッグで張り倒すのに。

「うるさい! 結局イチャイチャじゃねぇか!」

 お兄さんが声を荒らげた。

 さっきからイチャイチャって、ものすごく心外だけど、そう暢気なことも言っていられない。お兄さんがまた黒い渦を手の中に巻き起こし始めたからだ。

 今度はすごく大きい。スイカなんてもんじゃない。お兄さんの上半身を飲み込みそう。

 わたしは顔から血の気が引くのを感じた。あんなの投げつけられたら、とても避け切れない。わたしだって巻き添えだ。

「バッカヤロウ!!」

 周りの空気までビリビリと振動させるかのような大声で、誠先生が怒鳴った。

「イチャイチャが羨ましいんなら、話せよ全部! 辛い胸の内をゲロするってことはな、社会復帰への第一歩を踏み出したも同然なんだ! すぐに元気を取り戻せるし、恋人だってすぐできる! イチャイチャし放題!」

 それ本当に効果ある? とわたしは疑問だったけど、なんと効果はあった。お兄さんの手の中の渦の成長が止まった。

「なぁ、本当はこんなことしたくねーんだろ? 君、すげぇ優しいじゃん。甘奈への攻撃だって、どっちもオレが止められる程度にしてくれた」

 え? そうなの? わたしには、とてもそうは感じられなかったけど。

 でも、確かに誠先生は、メンタルクリニックに訪れるのは、心が優しい人だって言った。院長先生も。優しすぎるから、傷つきやすいって。

 わたしはお兄さんを見上げた。屋上で立ち尽くすその瞳に、一瞬だけどキラリと黒曜石の瞬きが戻って、ハッとする。

「君に力を与えてるのは、神様だとでも思ってるのか? そうじゃない。その辺に浮遊してる低級霊だ。そんなのと仲良くしたって得しない。それどころか、それ以上身体を好きにさせたら、元に戻れなくなるぞ。まだ間に合う!」

 誠先生が珍しくふざけていない。

 邪霊を銃で祓うって、いきなり眉間に銃口を突きつけるのかとわたしは思っていたけど、違った。こうやって残っている人間の心に訴えて、説得してって、とても地道な作業だった。

 ちゃんと対等に接するんだ。相手が、もうどのくらい人間らしい心を失っているのか、わからないのに。

 だけど、そうだよね。それがどんなにわずかだって、人間らしい心が残っているなら、人間同士の対話をするのが当たり前。わたしがもし邪霊に取り込まれてしまったとしたら、そうして欲しい。

 向かい合う相手が誰だろうと、真剣に言葉を選びつつ、懸命に説き伏せようとする誠先生の横顔は、確かに有能なカウンセラーに見えた。カッコよかった。

「そっか、君、もしかして甘奈が気になるのか?」

「へ?」

 意外な言葉が耳に飛び込んできた。

 その問いかけに、お兄さんは口をつぐんだままだけど、誠先生はウンウンとうなずいた。

「なるほどな。そりゃあそうだ。甘奈はとびきり優しいし、クリニックの患者でもある。君の言葉にしっかり耳を傾けて、気持ちをわかってくれる」

 動揺の表れか、お兄さんの手の中の渦がゆらゆらとブレ始めた。所々かすれて、向こう側の星空がチラチラと覗く。

 わたしのことが気になっているっていうのは、こじつけに近い気がするけど、これは行けるかもしれない。

「……せ、先生! その調子!」

 興奮したわたしはほとんど落っこちそうになりながら、屋根から身を乗り出して誠先生にエールを囁く。

「いよっしゃあ! 任せろぉ!」

 誠先生は気合いを入れ直し、デザートイーグルをさらに高く掲げ上げた。

「でも、残念だったな! 甘奈はオレのもんだ! ベロをベロベロ絡め合った仲だ! 悪いとは思わないぜ! 恋愛は弱肉強食! 雌はどうしたって強い雄に本能的に惹かれちまうんだよ!」

 わたしは屋根の上でずっこけた。

「誰がキサマのもんじゃあ! 押すのはソコじゃないでしょお!」

 前言撤回!

 ブゥン……と風がうなるような不気味な音に、ハッとして屋上に視線をやる。お兄さんの生み出す憎悪の渦が、再び増大を始めた。一回り以上大きくなる。

「……お前、オレを説得したいのかコケにしたいのか、どっちなんだ」

「お、やべぇな」

 誠先生がちょっぴり声のトーンを変えた理由は、わたしにもわかった。

 声。お兄さんの声は、さっきまで普通だった。ところが、急にノイズが走って聞こえるように。これは、相当怒っているってことでは?

 やべぇな、なんて軽く言っている場合じゃない! 逆上させてどうするの!? 先生のバカ! 大バカ!

 人間を一人まるごと飲み込んでしまえるビッグサイズの黒い渦が、またブゥン、とうなる。まるでブラックホール。当たったら、吸い込まれてしまいそう。

 お兄さんは大きく後ろに振りかぶった。

「ま、待てって! 大人なんだから、話せばわかる!」

 両腕を前に突き出して、誠先生は引きつった笑い。パワーが漲りまくっているはずだけど、巨大な黒い渦にさすがに腰が引けているようだ。

 そして、事件が起きた。




「うるっさいんだよ! 能書きはもう聞き飽きた! このチビ!」




 男性が放ったその言葉に、誠先生の両方の膝がカクン、と折れた。

「チ……? い、言っては、ならぬことを……」

 へにゃん、と背中側に首が倒されると、その目が空洞。まるで埴輪だ。デザートイーグルも、しぃんと静まり返ってしまった。

 わたしは驚愕せずにいられない。

「……そ、それ、キラーワードだったの!? そこまで背が低いことを気にしてるとは思わなかった!」

 アホとかバカとかうるさいとか、そんなものは誠先生にとってこれっぽっちも悪口ではなかった。顔も頭もいい、運動神経もいい、人が羨む高給職に就いている誠先生にとって、背が低いことが唯一のコンプレックスだったんだ。

 今まで、滑っても口にしなくてよかった。

 しかしながら、ラッキーだったのは、お兄さんの動きがまたもや止まったこと。

 ダメージを与える気はあったんだろうけど、お気楽な誠先生がそんな言葉でノックアウトされるとは思わなかったのだ。え? そんなんで? と逆に驚かされている。地震で例えるならこれからが本震だったのに、といった具合だ。

「……チビ」

 わたしは確認するかのように、その言葉をポツリとつぶやいてみた。

 誠先生は「どぅふわぁ!」とうめいて、身体に電流でも走ったみたいに背筋をそらし、すぐにうずくまってメソメソ泣き出した。

 マジか。意外にメンタル豆腐だった。なんて、呆れている場合じゃないのだ。

「せ、先生、先生。聞こえてる? しっかりしてよ」

 わたしは四つん這い状態で屋根から顔だけをせり出し、下で背中を丸めている誠先生に声をかける。

「そこまで気にするほど小さくないよ。わたしのほうがぜんぜんチ……小さいし」

 最初こそ、望月くんより背が低いじゃん、なんて多少バカにしていたけど。そのうち意識しなくなっていた。だって、わたしこそ一般的な女子高生の中ではチビッコだから。

「い、いいじゃん。ちょっとくらい背が低くたって。そんなのカバーできるくらい、ムダに顔面偏差値が高いし。ほら、頭だっていいじゃん。たぶん」

 おかしいな。誠先生は社会人で、わたしよりずっと年上のはずなのに。鍋を頭に被ってヒーローごっこする園児を引率している、保育士さんみたいな気分になってきたよ?

 誠先生は泣き止むどころか、輪をかけてしくしく言い始めた。

「えぇ? なんで? フォローしてるのに」

 お兄さんが呆然と戦意喪失している今が、復活するチャンスなのに。

 しかし、悪いことは重なるものなのだ。おろおろするわたしの視界にチラリと入る、白いもの。嘘でしょ? と血圧が下がった。このタイミングで?

 ソレは誠先生の背後からトテトテと近寄ってきて、お尻の後ろで無邪気に「にゃあ」と鳴いた。

 怖いもの見たさ? パンドラの箱? 鶴の機織り? 玉手箱? 覗いたそこには良くない結果が待っていると薄々感じながら、なぜ人は誘惑に勝てないのだろうか。

 振り返らなければ、幻聴だって思い込むことができたかもしれない。だけど、誠先生だって、結局は振り返ってしまうのだ。

 屋根の上から、わたしは声を殺して見守っていた。この界隈に住み着いているのだろう、二週間前に出会ったあの白猫ちゃんが、誠先生の涙でビショビショに濡れた顔を見て、「にゃあ~ん」と愛らしい声でアピールするのを。




「――――どぅ……っふわぁあああああ!!!」




 真っ青な顔でわめきながら、誠先生は十メートルほど後ろ向きのまま後ずさった。お兄さんが屋上に立つビルまできて、そこの壁に背中を激しく打ちつける。

「ねねねねね」

 猫って言いたいんだけど、その名前を口にするのも怖いんだろうな。本当に嫌いなんだ。

 そんな誠先生の気持ちを、猫が知るよしもなく。せっかく距離を取った誠先生を追いかけて、歩み寄っていく。なんて無垢な瞳。

「……おば、おば、おばぁちゃあああん!! 助けてぇえええ!!」

 誠先生はもはや意識を失う手前だ。

 わたしは屋根の上でバタ足。

「あぁもぉ、なんでぇ? こんな時に」

 だけど、またしても幸いなことに、誠先生がビルの足元に移動してくれたから、屋上にいるお兄さんからは攻撃しづらくなった。運のいい星のもとに生まれた人だ。

 なんとかするなら、今のうちだ。

 距離ができてしまったので、わたしは少し声を張って先生に呼びかける。

「先生、先生、ダイジョブ! 猫は可愛いだけで何もしないよ」

 誠先生は、すでに背中が行き止まりってだっていうのに、なおもバックしようとする。もちろん無理な話で、両方の足がむなしく地面をかくだけ。

「嘘だぁ! 騙されるかぁ! オレは子供の頃、うっかり野良猫に手を出したせいで噛みつかれて、傷口から細菌が入って顔がパンパンになり、あげく高熱に三日うなされたんだからなぁ!」

 なるほど。誠先生の猫嫌いには、そんな理由があったのか。納得はするけど、諦めるわけにはいかない。

「そ、それはたまたまだって! 猫がみんな、そんな凶暴じゃないよ! その猫はすっごくおとなしい。触ってみなよ。強くてカッコいい先生なら、へっちゃらでしょ。ね、せっかくだから猫嫌い克服しようよ!」

「もーいー……」

 誠先生は鼻水を垂らしながら、えぐえぐと一向に聞き分けがない。

「オレ、強くないもん。メンタル豆腐で、頭がいいのはたぶんで、顔だけムダにいいチビなんだもん……」

 わたしは口をあんぐりだ。いつもの傍迷惑なほどのポジティブっぷりは、いったいどこへ行ってしまったんだ。改めて、あの二文字は相当な破壊力があったことを知る。

 これまでは、邪霊に取り込まれた人から、そのNGワードを放たれたことがなかったってことだ。そんなことが過去にあったんだったら、誠先生はたぶん、今この場にいない。

 白猫ちゃんは誠先生の前でのんびりと毛繕い。前にも後ろにも行けない誠先生は、今にも失神しそう。

 こんなこと考えたくないけど、もしも誠先生が完全に再起不能になってしまったら、誰がこの事態を収拾するの?

 わたしはビルの屋上を見上げる。大型の黒い台風でも背負っているかのようなお兄さんは、やっぱり攻撃をしかけてこない。誠先生のヘタレぶりに呆気に取られたことは事実で、位置的にも攻撃しづらいのだろうけど、それにしたって、こんな隙だらけのチャンスをみすみすやり過ごすなんて、どう考えてもおかしい。

 さっき誠先生が言っていたこと。お兄さんが、わたしへの攻撃に手を抜いた、とかいうやつ。それが真実なら。本当は優しいお兄さんを、邪霊に取り込まれたまま、もう二度と逃がしたらいけないって強く思う。絶対に助けたい。

 誠先生が後悔するから、だけじゃなくて。わたしがきっと一生悔やむ。

 でも、わたしは今屋根の上。そうなると、打破策は一つしかない。他にあるのかもしれないけど、今わたしの頭の中に、それ以外の方法を考える余裕がない。でも、それを実行するためには、今まで振り絞ったことがないような大きな勇気が必要。

 失敗したら、どうしよう。無事では済まない。考えたら、足がすくんでしまう。

 怖い。涙が出る。心臓がバクバクする。わたしは優しいんじゃなくて、やっぱりメンタル極弱のヘタレなんだろう。

 ふと、以前に誠先生が言っていた言葉を思い出した。人生を楽しむコツは、結果を焦らないこと。

 今のこの状況に当てはまる言葉かというと、ちょっと違うとは思う。でも、結果を考えているうちは、何も行動を起こせないよねって思った。

 行動を起こさなければ、当然だけど、結果は出ない。悪い結果を思い描いて何もしないより、とりあえず何か行動を起こしてみたほうが、ずっといいはず。

「――――うわぁん!! もぉお!!」

 わたしは立ち上がった。夜空を見据えたまま、後退する。肩から提げていたスクールバッグをぽいと放り投げると、屋根のへりまで一気に駆け抜けた。全力で。




「先生……!! 受け止めてぇ……!!」

 目をぎゅっと閉じて、わたしはジャンプした。




 何がどうなったのか、暗闇の中にいたわたしにはわからない。

 誠先生もお兄さんも猫も、驚いて目を見はったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。

 ただ、ドォン! と派手な効果音つきで誠先生に体当たりした時、誠先生の両腕はしっかりとわたしを抱き留めたし、その手にデザートイーグルは持っていなかった。なんなら、誠先生は立ち上がっていた。

 だから、わたしが屋根から飛び上がって、自分のところへまっすぐ落ちてくるのを見て、誠先生はとっさに立ち上がり、銃を腰のベルトに差したってこと。

 でも、衝撃がすごすぎたものだから、誠先生はまた引っくり返って、後ろの壁に後頭部をぶつけた。その瞬間、誠先生は「うぐっ」とくぐもった声しか出せなかった。

 わたしが唇を重ねていたから。

 わたしができる唯一のこと。誠先生にキスして、力を回復させてあげること。

 でも、正直言って、キスなんて生易しいものじゃなかった。ほとんど衝突。まぁ、屋根の上からダイレクトにだから、しかたがないのだけど。

 ぶつかった時にお互いの歯が当たって、ガツッてなったし、唇も切れた。鉄臭さがじんわりと口の中に広がる。

 わたしはボロボロ泣いていた。自ら唇を差し出してしまった悲しさではなく、痛みのせいでもなく、怖かったのだ。ひたすらに怖かった。




 でも、信じていた。誠先生なら、絶対にわたしを受け止めてくれるって。




 誠先生はわたしを強く抱き寄せた。胸と胸がくっついて、それに合わせてキスは深くなる。自分のパワーを増大させようと、わたしの力を求めているのとは、なんだか少し違う気がした。

 誠先生の唇は、まるでわたしを食べ尽くそうとしているみたい。空気が入る隙なんてないくらい、しっかりと覆ったかと思うと、少し強引なくらいに舌を侵入させてきた。

 わたしの中に溢れた血液を、残さず舐め取るようにして、優しく口の中を撫でる。

 不思議。ナメクジみたいで気持ち悪いと思っていたはずの誠先生の舌が、嫌じゃなかった。あまりに優しい。そして、甘い。

 唇が離される。目を開くと、目の前には誠先生の優しい眼差しがあった。

「よく頑張ったな。偉い偉い」

 誠先生は、わたしの頭をポンポンと叩く。

「甘奈はカステラメンタルでも、ヘタレでもねーよ。周りの人間がピンチに立たされれば、助けに行けるでっかい勇気持ってる。それを、自分で引っ張り出せた」

「……わ、わたし、無我夢中で」

「うん。いいじゃん、それで」

「いいの……?」

 タイミングを見計らったみたいに、ポロリと頬をこぼれる涙を、誠先生は指でぬぐってくれてから言った。

「いいか、甘奈。もう自分を卑下するな」

「卑下……?」

「他人より敏感って、何も悪いことじゃない。相手に嫌な思いをさせたくなくて、自分の思いより相手を優先させたいっていう、優しい頭の働きだから」

 誠先生の指は、次にわたしの唇を撫でた。切れた箇所がピリリと痛みを放つ。

 だけど、その他の部分はどこも痛くなかった。屋根から落ちて誠先生にぶつかっていったわたしは、ちょっとした交通事故を起こしたようなものなのに。

 回復させられたのは、本当に誠先生のほうだけなの?

 じっとその瞳を見つめるわたしに、誠先生はニコッと笑いかけると、首を左右に傾けてパキパキと音を鳴らした。

「さぁて、甘奈にあんなド根性見せつけられたら、オレも頑張らないわけにいかねーな」

「も、もう大丈夫……?」

 問いかけて、あ、そういえば! と後ろを振り返る。元凶の一匹は、いつのまにか姿を消していた。まぁ、人間が屋根から自分の目の前に落下してくれば、猫じゃなくたって驚くか。

「大丈夫!」

 誠先生はニッと余裕の笑みで、親指を突き出す。わたしの脇に手を差し込んで、そのまま跳ねた勢いで一緒に立ち上がった。

 デザートイーグルを抜く。靴のかかとを軸にクルッと反転して、わたしをかばうように立ち、屋上に向かって構えた。

「リ・カムバック、神名 誠! 三度目の正直だ!」

 デザートイーグルがまた白い煙を吹き出し始めた。煙と言うより、炎だ。

 わたしは目をしばたたく。毎度、その回復の早さには驚かされてしまう。そして、安堵する。それでこそ誠先生。

 屋上のへりでは、お兄さんが立ってこちらを見下ろしていた。手前にフェンスがある。大きな黒い渦を支える手のひらがゆらゆら揺れるから、渦も揺れていた。

 誠先生は、なぜかいきなり靴を片方脱いだ。

「はい、コレは君に穴を開けられたお気に入りの革靴デス。高かったのに、これではもう履けません。じゃあ、ドウシマショウ?」

 あの黒い渦のカケラが当たって、甲の部分が溶けてしまった茶色い革靴。顔の横に持ってくると、誠先生はソレにふっと息を吹きかけた。すると、穴あきの靴がボワッと白く燃え出した。

「ええ!?」

 わたしはビックリしてしまう。

「はい、では、コウシマショウ!」

 白い炎に包まれた靴を、誠先生は屋上に向かってブン投げた。

 人力で投げられたとは思えないマッハなスピードで、一直線にお兄さんに飛んでいく靴。燃える白い炎が後ろに長く尾を引いて、それはまるでほうき星。

 ハッと目を見開いたお兄さんが、とっさにしゃがんで避ける。靴は黒い渦のちょうど真ん中に当たった。

 吸い込まれた、と思ったとたん、中央でまばゆい光が放たれ、無敵のブラックホールのように見えていた黒い渦は、その瞬間、ズバン! と激しい音を轟かせて弾けた。破片があちこちに散る。

 夜空の中でもひときわ濃い闇だったソレは、爆発する時には、線状の触手をいくつも伸ばした。その一本一本を、キラキラとした膜が覆っている。屋根の上や遠くのお店の看板の頭に降り注ぐその先端は、チラチラと光の屑となって、やがてかすれて消えた。

「よーしよし。きれいに吹き飛んだ。あそこまで細かくなっちゃえば、当たって溶けたもんもないだろ」

 誠先生はデザートイーグルを額にかざして、ご満悦。

 わたしは言葉も出ない。ド肝を抜かれたのは、これで何度目だろう。

「……な、何今の」

「ん? オレの足を飾るという、崇高な役目を失ってしまったかわいそうな革靴ちゃんに、ラストミッションを与えたんだよ。オレの『気』を移した」

「き、『気』を移したって……そんなことまでできるの?」

 事もなげに言ってくれるけど。CGじゃないよね。

「甘奈の愛情たっぷりのキッスを貰った今のオレに、不可能はない!」

「愛情なんか……!」

 そんなものないし! と反論している暇はなかった。ダン! と重量感のある音に肩が弾む。誠先生の正面、数メートル先の道路上にお兄さんが降り立った。

 口惜しそうに下唇を噛んでいる。今度は接近戦かと思いきや、こちらに背中を向けた。またもや逃げ出そうとしているのだ。

「おい、逃げんな! 逃げっぱなしで、悔しくないのか?」

 お兄さんは足を止めた。背中で言う。

「……逃げるんじゃない。オレにはこの力がある。もう怖いものなんかない。こんなオレでも、やっと自信を身につけられるんだ」

「あのなぁ、オレの話聞いてたのかよ。そうやって自分の意識があるのも、今のうちなんだ。徐々に命を吸い取られて、最後は低級霊に身体も意識も乗っ取られたままお陀仏だぞ。それでも、本当にいいって言うのか?」

「お前なんかに、わかるわけがないんだ!」

 お兄さんは身体ごとこちらを振り向いた。腰の横で、両方のこぶしを強く握りしめている。

「初めて社会に出たオレに、周りは優しくなかった」

 吐き出されたその声は、ひどく窮屈そうだった。

「好きな仕事がしたいと、そのために寝る間を惜しんで資格を取った。でも、希望の仕事には就けなかった」

「そういうこともあるよな。気の毒だ」

「手探りの作業で、わからないことを訊けば面倒臭そうにため息をつかれた。厄介な人間が入ってきたよ、と陰口を叩かれた。いつしか、オレの声に誰も反応しなくなった。オレは息を殺して就業時間を終えなければならなかった。そのうち、朝スーツを着るだけで身体が震えるようになった」

 一度堰を切ってしまうと、ダムの水のようにお兄さんの口は止まらない。今まで堪えていた分、あとからあとから溢れ出すみたいだ。たぶん、誠先生の言う通り、本当は誰かに聞いて欲しかったんだ。

「誰かに相談は」

「したよ。友達に弱音を吐くと、お前だけが辛いんじゃないって言われた。そりゃあそうだ。就活が済んだばかりで、誰もが正念場。オレに頑張りが足りないのかもしれないと思った」

 お兄さんの話に、誠先生たちが言った、患者さんはみんな優しい人ばかり、という話が重なる。優しいと気弱は少し似ている。

「でも、頑張れば頑張るほど、周りはオレに冷たかった。どんなに頑張っても、オレは会社からつまはじきだ。別の会社に移ったって、うまくやれっこない。生きていく自信さえ失くした」

 お兄さんはボロボロと涙をこぼしながら、ほとんど叫んでいる。それを聞いているわたしも、辛くて辛くて、涙が込み上げてきた。

 わたしはまだ高校生で、バイトの経験もない。社会を知らないから、お兄さんの本当の辛さは理解できていないのかもしれない。それでも、辛い。悲しすぎる。

 初めての仕事で、右も左もわからないのは当たり前で、教えて欲しいと思ったってぜんぜん変じゃないと思うのに、それって社会では許されないことなの? だったら、わたしは一生社会でうまく生きていけそうにない。

「だから、オレはバカにされない力が欲しい。一時だっていい。お前みたいに、若くして医者になって、患者からチヤホヤされて、そんな人生の勝ち組のお前に、オレの辛さなんてわかるわけないだろう!」

 お兄さんの声は、夜空を切り裂くようだった。

 言い分はすごくわかる。でも、ぜんぜんわからない。バカにされて辛かったからって、どうしてわかりきっている悲劇を選ぶの? 一時的に力を得て、すぐに自分が何者かもわからなくなってしまうのに、それで幸せ?

 それに、誠先生は、楽して今の自分を手に入れたわけじゃない。それどころか、髪色が戻る暇もないほど、常にとんでもなく精神を集中させている誠先生は、現在進行形で楽なんてしていない。

 そんな誠先生を勝ち組なんて、簡単に言わないで欲しい。あなたこそ、誠先生を見下して、バカにしている。

 悲しみと憤りで胸が張り裂けそうになるわたしの前で、誠先生が言った。

「やっと吐き出せたな」

 ふわっと柔らかく、微笑んでいた。

「頑張ったな。スッキリしたろ? ここからはオレの仕事だ。任せろ」

 お兄さんは何も言わずにじっと誠先生を見る。驚いているのか、何を言い出す気だと訝しんでいるのか。

 わたしはビックリしていた。

「……先生、怒らないの?」

 あんなこと言われて、悔しくないの?

 誠先生は首だけをくりんとこちらに向けた。

「あ? 悔しいけど本当のことだし。しゃーねーじゃん」

「しゃーねーじゃん、て……」

 そんなに簡単に割り切れるものなの?

「まぁ、多少暗い青春時代を送ったけどさ。その後は特に苦労もなく、ストレートで今の身分を手に入れたわけだしなぁ。勝ち組って言われたって、反論はできねーよ」

「で、でも」

 多少じゃないでしょ。辛かったのは、いじめのことだけじゃない。お母さんのことも。

「でも」

 誠先生はお兄さんに向き直った。

「君にだって、会いにいけば話を聞いてくれる友達がいるじゃん。欲しかった言葉を言ってはくれなかったかもしれない。でも、一緒に今を乗り越えようって気持ちは、彼らの中にきっとあったよ。いい友達だ。羨ましい」

 お兄さんはハッとして、またすぐに打ち消すように顔を振った。

「……だ、黙れよ」

「両親は? 相談したのか? 仕事に行けなくなった君を心配したはずだ。あ、でも、そうか。優しい君のことだから、毎朝ちゃんとスーツ着て家を出ていたのかな。心配かけたくなくて」

 あぁ。わたしはとりわけ甘えん坊で、パパとママの前で堂々と不登校をさらけ出しているけど。お兄さんのように成人した責任感ある大人なら、そういうものかもしれないね。

 お兄さんは目線をアスファルトに落とす。誠先生はふっと笑った。

「君は本当に優しい。そうやって優しい人間ほど、自分を追い込みやすいんだ。そして、気がつけば身体も心もすり減っている。腹立たしいことに、邪霊はそこに目をつける」

 自分の足下を凝視したまま、お兄さんは眉間に指で触れた。

「逃げていいんだ」

 誠先生は穏やかな声でそう言って、スッと腕を伸ばした。その先で金色に光る、デザートイーグル。

「辛いことに無理して立ち向かう必要なんてない。人生の試練? そんなものクソクラエだよ。自分がダメになったら意味はない」

 額を指で押し上げるようにしながら、お兄さんはゆっくりと顔を上げた。首を振る。

「仕事なんて辞めちまえ。それでも、案外生きていけるぜ。とりあえず休職制度を利用しろ。会社から書類を送ってもらって、必要事項を記入。それだけで最長一年半、月給の三分の二が支給される」

 ほぉ、とわたしは感心する。初めてメンタルクリニックの先生らしい知識。

「意外と一年半って長いぞ。それだけの時間があれば、ゆっくりと身体と心を休ませながら、君に合った生き方を見つけられるよ」

「そんなの……!」

 お兄さんの心は頑なだ。

「そういうものに頼るのは、恥ずかしいか? 自分勝手に先立って、遺された大切な誰かを悲しませるなら、オレはそっちのほうがずっと恥ずかしいけどな」

 そうだ。わたしもそう思う。誠先生が、おそらくこの世でいちばん大切だった人を、邪霊に奪われたと知ってから、余計に。

「……黙れ。黙れ黙れ黙れ!」

 お兄さんは激しく頭を振り乱す。それでも、誠先生は言葉を途切れさせない。

「どこへ行ってもうまくやれないなんて、そんなことない。君には君の生き方が必ずある。それを一緒に見つけようぜ」

「うるさい、黙れ――――!!」

 お兄さんの右手に、また黒い渦が巻き起こり始めた。ソレを振りかぶろうとして上げられた腕が、半分も持ち上がらずに止まった。そのことに、お兄さん自身が驚いている。

「う、動かない……?」

 腕だけじゃない、足も、顔も動かせなくなったみたいだ。誠先生が何かしたようには見えなかった。お兄さんの身体に、いったい何が起こったのだろう?

「な、なんで……!」

 お兄さんはなおももがき、怒りをたぎらせて眉毛を吊り上げる。

 だけど、わたしにはよく見えていた。誠先生にも見えているはず。その眉毛の下で、瞳が完全に本来の色を取り戻すのを。

「わかんねーの?」

 誠先生のまっすぐ前を見据えた瞳に、これまでにない強さが宿った気がした。

「本当の君が、君の中から、周りの人間を誰一人悲しませたくないって、愛しているんだって叫んでいる声が、オレには聞こえる」

 トリガーにかけられた指に、ゆっくりと力が込められる。

「本当の君が、中で懸命に踏ん張ってんじゃねーか」

 それを聞くと、お兄さんはぐっと眉間に深いシワを刻んだ。なんだか泣きそうに見える。

「自分の中の声に耳を澄ませ。本当は死にたくないって言ってるだろ。だって、君は何も悪くないじゃんか。殺伐とした現代の、心を捨てなきゃ生きられない人間たちの毒気に当てられただけ。毒を抜けばまた生きられる」

 お兄さんの瞳が見開かれる。また大粒の涙がこぼれ落ちる。




 助けて――――声にならない叫びが、わたしの耳にも届いた気がした。




「この世の中を大きく変える力は、残念ながらオレにはない。でも、一緒にそれを嘆くことはできるよ。なぁ、一緒に、なんとか生きていこうぜ」




 微笑んだ誠先生がトリガーを引く。音はしなかった。

 派手な爆発音がするのかと身構えて手で耳をふさいだのに、肩すかしだ。でも、それでよかった。銃の発砲音なんて、表通りにまで聞こえたら大変。

 空気を切り裂いて、氷の弾は突き進んだ。その軌跡が、白く長く残像のようにまっすぐな線を描いた。そして、お兄さんの眉間を見事に撃ち抜いた。

 穴が開くことも、スプラッタなことにもならなかった。氷が溶けて、『気』の塊となった弾は、当たった瞬間にスッと額に吸い込まれる。そのまま、跡形もなく消えた。

 お兄さんはゆったりと後ろへ倒れる。崩れるようにして道路に横たわった。

 この一角だけスポットライトに照らされていたわけでもないし、元々暗い裏路地なのに、しゅん、と照明が陰ったみたいに感じられた。音響のボリュームが、ぐっと下げられたような静けさに包まれた。

 あんなに手こずったことが嘘みたいに、それは瞬く間の出来事。




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