KANNAメンタルクリニック時間外診療日報

朋藤チルヲ

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4 嫁入り!?

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『神名メンタルクリニック』の駐車場がある位置は、正面玄関の前。ハンバーガー店前のバス停から向かってくると、建物の左隣、病院を通り越した先にある感じ。

 さらに先へ進むと、小さな森がある。枝が道路にしなだれかかってくるような桜の木が一本植わっていて、あとは常緑樹みたいだ。

 森の中には、細いまっすぐな道が一本通っていた。

 普通車が一台やっと進めるくらいの細さ。砂利が敷かれているだけで、舗装はされていない。先細りな印象で、どう見ても開けた場所に出るような雰囲気ではない。そのまま奥深くに迷い込んで、神様専用の湯屋にでも到着してしまいそうだ。

 昨日、一度病院を通り越した際に、その存在に気づいてはいたけど、それだけ。行ってみようとも思わなかったし、そもそも興味も湧かなかった。

 道を進んでいった先にあったのは、湯屋じゃなかった。真っ赤な鳥居と神社だった。

 とても大きな、立派な神社。苔の生えた祠と賽銭箱がポツンとあるだけの、地元の人にさえ存在を忘れ去られていそうな、そんな規模の小さな神社じゃない。

 社は横に長くて、見事な屋根は天に向かって反っている。太いしめ縄。賽銭箱の装飾もピカピカで豪華。鳥居は見上げれば首が疲れてしまうほど高い。

 森はそこでいきなり開けていて、夜空に煌々と光る月がそれらを照らしているから、神々しさが尋常じゃない。すごく厳かで、威圧感もあった。

 建物の奥には、ほのかな明かりが点いているのが見えた。

 こんな場所に、こんな絢爛な神社があったんだ。これだけ立派だったら、初詣にお参りにくる人もけっこうな数いそうなのに、噂にも聞いたことがない。

 でも、今は、その見事さにしみじみ感心するどころじゃなかった。あの路地からココまで歩かされたことで、わたしはすっかりヘトヘトになって参ってしまっていた。

 たぶん、一時間近く歩いた。バスだったらあっという間の距離だったことを思うと、文明の利器ってすごいなって思う。

 バスは、まだ最終まで本数がある。なぜ使わなかったのかと言うと、ヤツが一円もお金を持っていなかったから。財布もスマホも忘れてきたらしい。

 わたしは定期を持っていたし、昨日の診察料も預かっていた。少しくらい貸してやってもよかったのに、ヤツが頑としてうなずかなかったのだ。女子に借りるのは、男が廃るそう。そんなつまらないプライド、捨てちまえばいいのに。

 おかげで、二人仲良くバイパスを徒歩で南下。手首をがっちり掴まれてしまっていて、逃げようにも逃げられなかった。

 普段歩き慣れていない現代っ子なのに、なんてひどい仕打ち。しかも、こちとら昨日からロクに食べていない。身体はふらふらだ。おまけに、ヤツの歩くスピードが、競歩か! ってくらい速かった。

 神社に到着した頃にはすっかり息が上がり、吐き気までもよおしてきたわたしは、そばの鳥居にもたれかかった。




「ここ、オレの家」




 同じ距離を同じ速度で歩いてきたはずなのに、疲れを一切感じさせない涼しい顔でヤツはそう言って、わたしが抱きつく鳥居を指さした。

 促されるままに見る。

『神名神社』。力強い明朝体で、太い柱にはそう彫られていた。

 マジか。

 ヤツのハイセンスな顔の作り、こんな田舎の風土で培われたものだったのか。いや、驚くべきところはそこじゃないな。

「……い、家にわたしを連れてきて、いったい何を」

 明かりが点いているとはいえ、神社はシーンと静まり返っている。本当に自宅? 嘘じゃないとしたって、家族も一緒に住んでいるとは限らない。だって、静かすぎる。

 いろいろと衝撃的な光景を目の当たりにしすぎたせいで、すっかり忘れていた。この人、わたしにチューしたんだった。思い出して、背筋がゾワッとなる。




 もしや。

 ココで、わたしに口では言えないコトをするのでは。




 運動したからとは別の動悸息切れを覚える。

 ここに着くまでの間に、バッグの中のスマホがブルブル振動した感じはない。ママは怒り狂っているのかな。それとも、もう呆れているのだろうか。

 ママ。ひょっとしたら、わたし、乙女のピンチなのかもしれないデス。

 ヤツに捕獲された時、どうして家に電話しなかったんだろう。助けを求めなかったんだろう。

 ママはイケメンの味方だけど、娘がキス以上のものを奪われそうとなると、さすがに慌てるはず。パパはきっとスプリンター走りで駆けつけてくれたはずだ。

 眩暈まで覚え始めたわたしの背中に、ヤツがピトッと貼りつく。ジレの中に隠した銃の硬い感触を、わざとらしく腰に押しつけてきた。そっと耳元でささやく。

「タダでは帰さないって言っただろ。お前はオレの秘密を知った。それなりに覚悟を決めてもらわないとな」




 ――――ヒョ、ヒョエェエエエエエ~!!!




 違う!! コレ、この世から抹殺されるパターンのやつだ!! ド派手な銃は本物なんだぁあああああ!!!




 きっと、ヤツは社会の裏で暗躍する殺し屋なんだ!!

 わたしはヤツに数々の無礼を働いているし、秘密を知ってしまった。コレでわたしの脳ミソをブチ抜くつもりなんだぁあああああ!!!




「――――わたし、誰にも言わない!! さっき見たことは全部忘れる!! 蹴ったこともお金を払わなかったことも、謝るからぁあああ!!」

 嫌だ。まだ死にたくない。あんなチューを冥土の土産にしたくない。

 みんな忘れる。金色に輝く銃。猫に怯えて泣いていたことも。わたしの切なる叫びが神社の立派な屋根を駆け上がり、宇宙に吸い込まれていく。

 鳥居の柱にすがりつくわたしの後ろから、ヤツがヘッドロックふうに首に腕を回してくる。

 ベリッ。抵抗むなしく、あっさりと鳥居から引き剥がされてしまった。

「もうジタバタすんな」

 そのまま非情な笑みで、わたしを建物まで引きずっていく。

 遠ざかる、穏やかな日常へ戻る道。近づく社。わたしの嗚咽まじりの悲鳴が、細く長く境内に響いたのデシタ。




 玄関は引き戸。ヤツがガラガラと開けて、中に入る。わたしはと言えば、めいっぱい叫んだせいで、残っていたわずかなエネルギーをすべて使い切り、白目をむいて死体のように運ばれるだけ。

 ふと、鼻先にホンワカとお出汁の良きかほりがかすめて、おかげで正気に戻る。辺りを見回した。

 歴史ある外観にはマッチしているけど、和風の造りは今時珍しい。障子に襖。木の匂い。靴箱の上には、北の観光地からやってきたと思われる、いかつい木彫りの熊。並べられた数枚のお札。

 こういうタイプの自宅には初めてお邪魔するのに、どこか懐かしく感じられるのが不思議。

 なんて、暢気に観察している場合ではない。

「ただいま戻りました!」

 ヤツが建物の奥に向かって声を張り上げる。

 すると、いくらも経たないうちに、奥の部屋からミシミシと畳を踏む足音がして、すぐに和服の男性が現れた。

 他に人がいた……! 全身から不安がスルスル蒸発する。

 いや、でも、まだ安心できない。ヤツの一味かもしれない。

 白い髪。白い口ヒゲ。顎の下にもたっぷりの白いヒゲ。サンタクロースみたい。でも、おじいちゃんて呼ぶほど歳は取っていない。ヘッドロックな姿勢で引っくり返ったままのせいで、それが逆さまに目に映る。

 なぜだろう。初対面ていう感じがしない。どこかで見たような?

 優しそうな笑みを浮かべて、白ヒゲのオジサンは言った。

「あぁ、ケモノの雄叫びかと思ったら、甘奈ちゃんだったのか。見つかってよかった」

 初めて会うはずの人が自分の名前を呼んだから、わたしは心底ビックリした。その前後にくっついていたセリフについては、完全に聞き逃してしまった。

「おかげで仕損じた。さらに注意深く観察しなきゃいけないかもな」

 わたしの首を締め上げた状態のまま、不機嫌そうに口を尖らせてヤツは言う。白ヒゲのオジサンは目を見開いた。

「遭遇したのか?」

「たまたまね。でも、コイツは見てない。そんなこともあろうかと、神弾ごと持っておいてよかった。ま、結局は使えずじまいだったんだけど」

 ヤツはもう片方の手で、わたしの頭頂部をポンポンと叩く。

 話がチンプンカンプンだ。でも、どうやら、わたしが何かの邪魔をしてしまったらしいことだけは、わかる。会った時も、そんなことを言っていたような。

「……あのぅ、こちらの方は?」

 無理な体勢を続けていたせいで、そろそろ腰がキツい。フィギュアスケートの振り付けだって、こんなに長く反っていない。

 身体をブルブルさせ始めたわたしが不憫になったのか、もう逃げないだろうと踏んだのか。ようやくヤツがわたしを解放したので、大理石でできたみたいなツルツルの冷たい床に、へろへろと座り込んだ。お尻がヒンヤリする。

 ヤツは眉間にシワを寄せて言った。

「お前、自分が通うクリニックの院長の顔も知らないのかよ」

「エ」

 その場に正座で座り直す。マジマジとオジサンの顔を見上げてしまった。

 院長先生? ということは、神名先生のお父さん? あ、院長先生も神名先生か。で、わたしは甘奈。ややこしいな。でも、なるほど。言われてみれば似ているし、確かにカッコいい部類のオジサンだ。いや、オジサマだ。ママの目は正しい。

 横に立った息子先生の、クリクリの大きな目がこちらを見下ろして訊いてきた。

「ところでお前、晩飯食ったのか?」

「え?」

 意識したとたんに、お腹がゴジラの咆哮かと思うような豪快な音を鳴らす。どわっと押さえ込むけど、完全にあとの祭りだ。院長先生は笑うし、ヤツも噴き出した。

 恥ずかしいと思う一方で、思いがけない無邪気なスマイルを初めて目の当たりにして、驚く。いや、人間なんだから笑うのは当たり前なんだけど。普通の時の顔が破格の美形だと、笑った時は本当に天使みたいなんだなって。

「なんだよ、食ってねーのか。じゃあ、歩かせて悪いことしたな。オレもまだなんだ。一緒に食おうぜ。ほら、ンなトコに座ってねーで上がれよ」

 ヤツがわたしの手首を取りつつ、革靴を脱ぐ。そのまま、一段高い木目模様の床の上に片足をかけた。引っ張られて腰を浮かすわたし。

「エ? え? ご飯? わたしを殺す気だったんじゃ……?」

 ヤツと院長先生が顔を見合わせて、そのあと二人の視線が一身にわたしに注がれた。何をアホなこと言っているんだ? とでも言いたげな視線。

 そしたら、路地裏で銃を突きつけてすごんできたことや、ついさっき脅してきたことは何だったの? タダじゃ帰さないって言っていたのに。

「だ、だって、わたし、神名先生の秘密を知って……」

「あぁ」

 やっと合点がいったという感じの声をヤツが出す。

「ソレはアレだよ」

「アレはドレ!?」

「お前をココまで連れてくる方便みたいなもん」

「ほ、方便!? それ、嘘ってこと!?」

「嘘って人聞き悪いな。方便だって」

 何がどう違うのだろう。

「まぁ、詳しい話はあとだ。まずは腹に入れろよ。腹減って動けねーんだろ?」

「う」

 正直、食べたい。お腹はペコペコだし、さっきから漂ってきているお出汁の匂いが、わたしの胃袋をこれでもかと誘惑してくる。

 この誘いを拒んでバス停まで歩いて、そこからまた約十分間、バスに揺られて帰るだけのエネルギーは、はっきり言ってもうない。

 嘘をついてまで、わたしを無理やりここに連れてきた理由だって、気になる。

 でも、間違いなく、今頃ママは怒り狂っている。パパは心配で痩せ細って、ひょろひょろのチンアナゴと化しているに違いない。早く帰らないと。

 考えたくないけど、これ以上連絡をつかない状態を続けたら、捜索願が出されてしまう可能性だってある。

 わたしの不安は、まるごと顔に出てしまっていたらしい。ヤツが思い出したように付け加えた。

「あぁ、自分の家のことだったら、心配いらねーからな」

「エ?」

「お前のママさんから、クリニックに電話があったんだ。その時、オレが特別に指導するから時間がかかるって、受付に説明しといてもらった」

「エ? エ? どういうこと?」

「だから、遅くなるけど心配いらないからって、伝えといてもらったんだって。院長含めクリニックのみんなで責任持って預かってるからって」

 脳に栄養が足りていないわたしはすぐに状況を飲み込めず、そんなわたしにイラ立ったのか、ヤツはとうとう腕組みをし始めた。

「甘奈がまだ帰ってこないって言うからさ。そもそも診察にもきてなかったけどな。これはおそらくクリニックに行きたくなくて、その辺で油売ってたんだろーなと思ったわけ。甘奈のことだから、いざとなったらサボって悪いことしたって帰りづらくなったんだろうと。だから、とりあえず病院にいるって思わせて安心させて、オレが捜しに出たんだよ」

「ぇえ!?」

 なんと! 裏でそんな工作が進行していたとは露知らず、あまりの驚きにシュバッと立ち上がってしまう。そして、たった一度会っただけのわたしの性格を、そこまで把握しているとは。

 実際には寝落ちていただけだけど。でも、ヘタレのわたしが考えそうなこと。さすがカウンセラーと言うべきか。

「ママさん、どういうわけかめちゃめちゃ喜んでたそうだぞ。きっとこの有能なオレに、娘が親身に診てもらえるのが嬉しいんだな」

 ヤツはそう言って、自慢げに顎を上げる。

 それはアレだ。わたしをダシにイケメンと、さらにはそのお父様のロマンスグレーと、接点が持てそうだと喜んでいたに他ならない。

「え、えっと、じゃあ、わたしのスマホにあった着信は? ママじゃない?」

 慌ててスクールバッグの中に手を突っ込む。漁る。財布。定期。タオル。エチケットなポーチ。求めるものって、大抵すぐに手に掴めない。

 ようやく引き当てた時には、ヤツがすでに種明かしを口にしていた。

「それ、オレだな」

 着信のアイコンをタップする。あ、本当だ。登録したばかりの『神名メンタルクリニック』の名前が出てきた。しかもずらっと。

 そういえば、問診票に、自宅の固定電話の番号と、自宅に連絡がつかない場合として、わたしのスマホの番号も書き込んだ。

「最初の五つくらいかな。あとは、受付で何度かかけたんだと思うぜ」

 わたしは顔を上げる。なんてはた迷惑なことをしてしまったんだろう。わたしのヘタレさと、壮大な居眠りのせいで、いろんな人の手をわずらわせていた。

 先生だって、夜だけど病院にいたってことは、まだ仕事中だったんだよね?

「ごめんなさい……」

 わたしがうなだれると、ヤツはニッと口角を上げて笑った。

「ひとまずメシ食おーぜ。すべてはそれから。オレもう腹ペコペコリン」

 もしかして、そこまで悪い人じゃないのかな、と思いかけたのも束の間。

 いい大人が口にしたら、罰金を徴収されてもしかたないような言葉を吐いて、ヤツは強引にわたしを引きずり、板の間を上がった。ローファーだけは急いで脱いだものの、揃えるどころか、抵抗する気力も体力もない。

「なんだい、歩いて戻ってきたって本当なのかい? 何でまた」

 院長先生もさすがに驚いた様子。

 息子がどこでわたしを確保したのか、説明しなくてもわかっているようだ。まぁ、クリニックの近辺で時間をつぶすとなったら、あの繁華街以外にない。

「財布とスマホ、持って出るの忘れた」

「ハハ。よっぽど心配だったんだなぁ」

 院長先生とヤツのそんな会話は、疲労と空腹がピークに達したわたしの耳には入ってこなかった。




 リビング、と言うより、居間と呼んだほうがしっくりくるその和室は、玄関を入ってすぐのところにあった。

 奥行きのある畳敷き。い草の爽やかな香り。広い。我が家のリビングがすっぽり収まって余りあるくらい。とにかくバカ広い。

 障子に貼られている紙は雪のように白く、光が透けて見えるからか、そのものが発光しているかのようにさえ見えた。床の間にまた熊。大きな長方形のテーブル。テーブルの表面も四隅の立派な柱も、渦を巻いた木目模様が荒々しい。

 わたしの正面には院長先生。左隣には、息子があぐらをかいて座っている。お昼過ぎに家を出た時には、想像もしなかった光景だ。

 神名先生はジレだけを脱いで、ハッと目が覚めるようなブルーのTシャツ姿だ。下は黒っぽいスラックス。たぶん、仕事着のままなんだろう。わたしを捜していた、という話を思い出して、また申し訳ない気持ちになる。

 気がつけば、あの銃を持っていない。脱いだジレを自室かどこかに置きに一旦下がった時に、一緒に片づけてきたのかもしれない。

 バイパスを二人で歩き始めてからついさっきまで、銃は手に持たないで、腰に巻いたベルトに差していた。今にして思えば、あの長いジレは、銃を隠すために着ていたんじゃないかって思う。

 仕事中に外に出たのなら、白衣を脱ぐだけでいい。Tシャツにスラックスだって、別におかしな格好じゃない。わざわざジレを羽織る意味はない気がする。寒くもないし。

 そうまでして人目につかないようにしているとなると、本物なんじゃないか、なんて思えてしまう。そんなバカな。

 一瞬、本物だ、殺される、なんて怯えたけど、冷静になって考えれば、そんなわけがないのだ。

 座って少しすると、シャッと障子が開いた。

 ニコニコと笑顔のおばあさんが立っていた。院長先生が着ているのと少し似た、緑がかった着物。朱色の帯に、白い足袋。真っ白な長い髪を、後ろでまとめていた。

 手に持ったお盆には、大皿に入った料理。そこから流れてくる素晴らしい香りは、誘惑のお出汁の正体で間違いない。

 もしかして、件のおばあさん? それはそれで、納得だ。笑っているけど芯の強そうな表情は、とても頼りになりそうな印象。

 そして、やっぱり先生に似ている。むしろ、先生の小柄な身体つきとか女性的な顔つきは、院長先生よりもおばあさんの血を濃く受け継いでいる感じがした。

「――――お、お邪魔してま」

 初対面は挨拶がカンジンなのだ。院長先生の時はミスったし、とわずかな体力をかき集めて腰を浮かしかけたら。

「――――ぃやったぁあああ!! オレの好きな大根と厚揚げの煮物!! おばあちゃん、大好きぃいいい!!」

 いきなりバンザイをぶちかましてきた隣のアホのせいで、心臓が止まりそうになって飛びのく。

 お願いだから、好物が出てきたくらいでテンションをバカ上げしないで。ハンバーグを目にした小学生だって、今時そんな反応しないと思うの。

 でも、本当においしそう。黄金色に照る大根。ホクホク厚揚げ。絵面と匂いだけで、ご飯一膳分行けそうデス。我が家では登場したことのないメニューで、舌の記憶にはないはずなのに、ヨダレが勝手に滲み出てくる。

 おばあさんは嬉しそうに顔中をしわくちゃにした。ホカホカと湯気の上がる大皿をテーブルの真ん中に置く。取り皿も置いた。

「小さい頃から変わらないねぇ、誠は」

 なるほどな。この先生、脳ミソの発達が幼少期でストップしているんだ。納得納得。横でウンウンうなずくわたしを、おばあさんはチラリと見る。

「甘奈ちゃんも遠慮なくお食べ。お腹が空いているんだろう? パブロフの犬みたいになっているじゃないか」

「ふぉ!」

 またもや初見の人に自分の名前を呼ばれたっていうのに、気にするどころじゃない。

 焦げるかと思うほど顔が熱くなって、わたしは慌てて口元をぐいっとぬぐった。ぐっちょりと濡れた手の甲のあまりの濁流ぶりに驚愕してから、タオルを持っていたことを思い出す。自分の横に置いたバッグを開ける。

 隣と正面から、ぐふっと同時に笑いが漏れた。

 笑い方とタイミングが一緒。親子だな。どうせなら、口の中で抑えておかないで思いきり笑っちゃってよもう。逆に恥ずかしい。

 おばあさんは三回に分けて、たくさんの料理を運んできた。焼き魚とか和え物とか、昔ながらの和食がメインだけど、焼きそばとかケチャップが乗ったオムレツもあって、おもしろい。どれも色合いがキレイで、テーブルは華やかになった。

 最後に、それぞれの前にツヤツヤの白米をよそったお茶碗を置くと、おばあさんはパンパン、と両手を叩きつける。「さぁ、お食べ!」の掛け声を号令にして、わたしたちは一斉に箸を持って食べ始めた。

 どれもそれも、なんておいしい。旨みが胃袋に染み渡り、身体中に力がみなぎる。あれ? わたし、何で食欲なかったんだっけ?




「――――で、甘奈ちゃんは、いつ誠のところにお嫁にきてくれるんだい?」




 プラスチック製の水筒から麦茶をコップに注ぎながら、おばあさんが言った。

 食道までおさめた大根が、ロケットさながらに口から逆噴射しそうになった。

「もぉう、おばあちゃんたら気が早い」

 箸を置いたヤツがポッと両頬を染める。待て待て。どうして受け入れている。

 激しくむせるわたし。おばあさんがテーブルにセットした麦茶のコップを、院長先生が素早い動きでわたしの前へ移動させた。ありがたく手に取る。

「まだ高校生だからさ。やっぱ卒業してからじゃねーと、向こうの親御さんがいいとは言わねーと思うんだよね。あ、不登校で出席日数が足らないと卒業できねーじゃん。というわけで学校行け、甘奈」

 幸せそうな顔でつらつらと述べていたかと思ったら、突如キリッと眉毛を上げてこっちを向くものだから、危うくその眉目秀麗な顔面に麦茶をスプラッシュするところだった。

 何なの!? 何がどうしてそんな話になっているの!? コレはアレなのかな。家族総出の、ドッキリか何かですか!?

 不可解な先生の行動や銃への疑問なんて、宇宙の彼方へ吹き飛んでしまう。

「なんだよ、甘奈。なに青くなってんだよ」

 ヤツが口をへの字に曲げた。不服そうだ。唇の端のすぐ下に、米粒がついている。食いしん坊か。いろいろ不服なのはこっちのほうだ。

「照れてるんじゃないか?」

 院長先生がご飯で頬をパンパンにして、これまたあり得ないことを嬉しそうに言う。もちろん照れてなんていないし、そもそも照れて青くなる人を、生まれてこの方わたしはお目にかかったことがない。

「そりゃそうだよなぁ。オレほどのオトコマエと結婚できるなんて」

 ヤツは顔を真っ赤にしながら、ブンブン髪を振り乱した。米粒が飛ぶ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくらさい……」

 手に持ったコップをプルプル震わせながら、わたしは言う。理解できない話が、わたしを置き去りに勝手に進んでいくことが恐ろしい。

 初めて診察室で会った時、神名先生はわたしをものすごくバカにしていた。マトモに診察する素振りすらなかった。わたしのこと、毛嫌いしているようでもあったのに。

「……か、神名先生、わたしのこと嫌いじゃ……」

 わたし以外のみんなが、パチパチと瞬きを繰り返す。すぐに、ヤツが当たり前みたいな顔でサラッと言った。

「まぁ、最初はなー。心療内科をナメてやがんなこのガキ、と思った」

「ふぉ!? 予想以上にヒドイ答え返ってきた!! じゃあなんで!?」

「それはお前、キッスしたら意外に良か」

 ヤツが言い終わる前に。

 瞬間的にわたし、声なき悲鳴と滝のような涙を排出させて、掴んでいたコップをヤツの眉間にクリーンヒットさせていた。

 硬いガラスの衝撃で、鼻から血を噴き出しながらグラリと後ろに傾くヤツ。

「ぅわぁあああああん!! 忘れたいよぉおおおおお!!」

 お茶碗とお味噌汁の入ったお椀、取り皿には罪はない。一旦丁重にどいてもらうと、わたしはテーブルの上に顔から突っ伏した。

 鮮烈に蘇ってきた。あの感触。温度と湿度。

 甘くて胸がキュンキュンする瞬間を、ずっと憧れていたのに。それは、一生忘れられない甘酸っぱい思い出となって、思い返すたびにわたしを泣いちゃうくらい幸せな気分にさせる。はずだった。

 一瞬で無惨に打ち砕かれた夢。

 脳にこびりついたのは、ビーム砲で頭を打ち抜かれたんじゃないかってくらいの衝撃と、ナメクジの思い出だ。別の意味で泣いちゃいたくなる。できることなら、記憶がこびりついた部分の脳を、スプーンでガリガリ削り取りたい。

「な、なんだと!?」

 ヤツは持ち直した。そのまま地獄に沈み込んでしまえばよかったのに、しぶとい。そして、わたしのかたわらでギャンギャンわめき始めた。

「よくなかったのか!?」

「いいわけあるかぁあああ!! バカぁあああ!!」

 両の手のひらをテーブルに叩きつけようとして、思いとどまる。ここは他人様の家。自宅ではないのだから、無作法に食事中のテーブルを叩いてはだめだ。

 いいわけがない。ムードもクソもない診察室で。優しい囁きもなく突然。ムードや囁きがあったからって、いいわけでもない。そういうことじゃない。

 わたしの王子さまは望月くんなのだ。フラれたけど。でも、もしかしたら、いつか考え直して、わたしの想いに応えてくれる日がくるかもなんて、淡い期待を抱いていたのに。

「嘘だ!! オレはめっちゃよかったぞ!! 唇はフワフワ柔らかくヒナ鳥の羽毛のようで、唾液は禁断の果実のように甘」

「どぅわぁあああああ!! やめてぇえええええ!! キモイ!!」

「キモ……!? これだけのルックスで、これだけのステイタス。家柄もいい。このオレにキッスされて、喜びこそすれ嫌がるとはどういうことだ!!」

「キッスとか言うなぁあああ!! 間にちっちゃい『ッ』を挟むなぁあああ!! つくづく死にたくなるぅ!! そういうトコが嫌だぁあ!!」

「はぁあああ!? キッスはキッスだろうがぁ! 英語のスペルを思い出してみろ! K・I・S・S! キッスだろうがぁ!!」

「うわぁもぉ、バカだぁあああ! 最初から薄々そんな気がしていたけど、ホンモノのバカぁあああ!!」

「バカじゃない!! オレは医師免許も持ってるカウンセラーだっつーの! 医者! これスーパー頭脳の代名詞!!」

「はぁあああ!? 嘘でしょお!? 詐称してんじゃないのぉおおお!? だって若いしバカすぎるよぉおおお!!」

「おま……! バカってどれだけ言うつもりなんだ! いくらなんでも傷つくぞ! 若いのは当たり前だっつーの! ストレートで医者になってんだから! メチャクチャ頭がいい証拠だろーが!!」

「甘奈ちゃん、甘奈ちゃん」

 息子があまりにバカの砲火を浴びるのが、親として我慢ならなくなったのか。もしくは、息子のバカさ加減が改めて不憫に思えてきたのか。院長先生が仲裁に入ってきた。

 顔を上げると、ちょいちょいと手で招くような仕草をしている。

「誠は医大に入るのに浪人していないし、留年もせずに卒業している。それは本当なんだ。しかも、医大は一般の大学と違って六年制なんだよ。医師の資格を取得する国家試験も、一発で合格している。親が言うのもなんだが、優秀ではあるんだ」

「優秀……」

 花井先生も同じようなことを言っていたのを思い出した。

 医大に現役で合格することが、とても難しいってことくらいは、わたしだって知っている。実際に病院で働いている以上、本当に頭脳だけは優秀なんだろう。

 でも、人間って、それだけがすべてではないと思うの。

「もちろん、成績の善し悪しだけが人間の質を計る物差しではない。誠は根性も度胸も、見かけによらずある。自慢の息子なんだ」

 さすがメンタルクリニックを経営しているだけあって、わたしの心の内を察知したのか、院長先生はそう言った。

「ちょっと言動がアレではあるけども、結婚相手として申し分ないと思うのだが」

「無理デス」

 秒でノーの答えを返したわたしの声は耳に入らなかったのか、ヤツが立ち上がって、バタバタと院長先生のもとへ走り出した。

「お父さん――――!!」

 ヤツはテーブルと、涼しい顔で麦茶をすするおばあさんを迂回して、辿り着いた院長先生に抱きついた。ホームドラマよろしくすがりついて泣いている。

「お力添え、誠に感謝します! 誠だけにね! お父さんこそ、年齢を重ねてなお光り輝く男の魅力! ダンディー! 自慢の父親です!」

「おおお!! まこっちゃあああああん!! 愛してるぞぉうぅううう!!」

 こっちも泣いている。そして、熱い抱擁。

「お父さん!!!」

「まこっちゃぁあああああん!!!」

 さては院長先生も正常じゃない。この親にしてこの子ありを、リアルに体感する日がくるとは思わなかった。

 そんな光景に少しも動じないおばあさんの様子からすると、こんなことは日常的なのかもしれない。なおさら、こんなところにお嫁になんてくるものか。

「……ん? 六年制?」

 高校を卒業する歳って、何事もなければ一般的に十八歳。院長先生たちの主張が本当だとして、そこから一度もダブらず、六年で医大の全過程を終えたとしても、二十四歳。

 そう、卒業した時点で二十四歳なのだ。

「……え? 待って。神名先生って今何歳? メチャメチャ若く見える」

 テーブルに身を乗り出して訊くと、二人は抱き合ったままキョトンとした。

「まもなく還暦」

「そっちの神名先生じゃない」

「二十四。もうすぐ二十五」

「エ? 国家試験に受かったからって、そんなすぐにお医者ってなれるの?」

 そこで、ようやくわたしの疑問の意味がわかったらしい。ヤツは抱擁を解いて、少し不機嫌な顔をした。

「なれるよ。研修医になれる」

「は!? 研修医ぃいいい!? それってまだお医者さんじゃないじゃん!」

 ヤツは顔を真っ赤にして憤慨。

「ぶぁか! シロート呼ばわりすんな! 研修医だってやってることは他の先生と同じ! 立派に医者だっつーの!」

 グルグル眩暈がした。

 なるほど。研修医。どうりで若い。

 外見を含めてインパクトありすぎだろうが、診察室でのセクハラ暴挙のあとだって、許す許さないは別として、それでもれっきとした『先生』なんだと信じていたのに、裏切られた気分だ。

 いろいろ物騒な人だと思われたら、立場的に困るだろうなって心配して、あの路地裏でとっさに追いかけたっていうのに。わたしの勇気と労力を返却して欲しい。

「だ、大丈夫だ! 今は研修医という肩書きだけど、すぐに取れるから! だから結婚」

「するかバカ」

 なんだか気が遠くなる。

「もういいよ……あの銃だってオモチャなんでしょ? オモチャの銃を振り回して歩くおかしな先生だと思われようが、もうどうだっていい」

 わたしは、身体からふしゅふしゅと空気が抜けるみたいにして、テーブルの上に上半身を投げ出した。

 月明かりの下でピカピカ輝く、見るからに重そうな金色の銃。鼻のすぐ近くに突きつけられた時には、プンと鉄臭かった。でも、所詮はオモチャなのだ。

 神名先生はきっと、ママから連絡を貰ってしまって、一応担当のカウンセラーという責任からわたしを捜していたんだ。

 それで、いざ見つけたみたらお腹を空かせていたから、ご飯を食べさせてやろうとこの家に連れてきた。降って湧いたみたいな結婚の話は、わたしの意識を、自分の医者らしからぬ趣味からそらすためのものに違いない。

 家族には、わたしを捜しにクリニックを出る前に、そういう手はずでって示し合わせておいたのかもしれない。

 いろいろ順番がおかしいし、矛盾もあることはあとになって気づいたことで、この時は引っかき回されてとにかく疲れてしまって、考えるのが面倒だった。

 冷たくて硬いテーブルに頬をつけたまま、レトロな柱時計を見上げる。もう十時近い。どこにいるかがわかっているとしても、さすがにママたちも心配なはずだ。お腹も満たされたし、帰ろう。




「デザートイーグル」




 耳に飛び込んできた聞き慣れない単語に、思わず顔を上げる。

「デザートイーグル、十インチ。カスタムしてあるけどな。あのカラーリングだって特注だぜ」

 神名先生は、院長先生の隣であぐらをかいて、その顔はさっきまでのおふざけと違って真剣だ。でも、重ねて説明されたところで、重ねてポカンだ。

 ソレが銃の名称だなんて、銃器マニアでもない普通の女子高生であるわたしにわかるはずもない。わたしの頭の中には、羽根が生えたカタカナがいくつも飛び交った。カラフルでポップな『デザートイーグル』『カスタム』『インチ』。一匹も捕獲できない。

 見かねたおばあさんがフォローを入れてくれた。

「バカだねぇ、誠は。そんな言い方で、甘奈ちゃんにわかるわけがないじゃないか」

 コン、と澄んだ音を立ててコップを置いて、おばあさんがわたしを見る。まっすぐな目に、重大な言葉が吐かれる予感を覚える。わたしはサッと姿勢を正した。

「デザートイーグルっていうのは、あの銃の個体の名前さ。十インチっていうのは大きさ。そういうサイズの、神名家オリジナルのモデルってことだよ」

 そして、続けて言う。




「あれは、我が家に代々伝わる神聖な神銃しんじゅう。もちろん本物の銃で、人命を奪うこともできる。だが、神名家の人間はそんな馬鹿げたことには使わない。人を救うために使うのさ」




 ――――シンジュウ……? 人を救う……?







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