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3 運命の輪は当人を置いてけぼりで回り出す

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「やだやだやだやだやだぁあああああ!!!」

 ベッドにうつ伏せ。にゃんこプリント柄枕に顔をうずめて、両足をバタバタ。プールの中じゃないので、バタ足しても当然先には進めず。

「やだじゃないわよ、甘奈」

 部屋の入り口で、ママはため息。帰ってくるなり部屋に閉じこもって、お昼ご飯も食べようとしないわたしに辟易しているのだ。

「診察してもらっておいて、お金を払ってこないなんてダメじゃないの。電話口で受付の方、怒ってない様子だったから、余計に申し訳なくなっちゃったわ」

「だってェエエエエエ」

 ショックすぎて、診察料のことなんて吹き飛んでしまっていた。第一、アレは診察なんてものじゃない。

「明日もう一度行って、診察料を払ってらっしゃい」

「やだよぉおおおおお」

「あと、次の予約も取ってくるのよ。ママが行ってもいいけど、それだと甘奈が恥ずかしい思いするんだからね。高校生にもなって甘えん坊だなって思われて」

「高校生にもなって……?」




 十六にもなって。情けないねぇ。




 グレーに青いメッシュが入った髪の、やたらめったらキレイな顔をしたあの男のセリフが、耳に反響する。

 とたんに、口の中に突っ込まれた、温めたナメクジみたいな感触がまざまざと蘇り、ゾワゾワゾワ! と全身に鳥肌が立った。

「いやだぁあああああ!! もう二度と行かないぃいいいいい!!」

「行かないでどうするのよ。このままずっと学校に行けないでいいの?」

 ママが核心を突いてくる。

 いいわけない。そんなことわかっている。高校くらいはちゃんと卒業しておかないと、この先の未来は暗い。そのためには出席しないといけない。

 でも、わたしは恥辱されてしまった。穢れてしまった。こんな薄汚れた身で、望月くんの横に並べない。

 それもこれも、みんなあの男が悪い。もう二度と会いたくない。なんだアノ髪。アノ態度。あんなので、どうしてカウンセラーなんかになれるんだ!

「うわぁあああああ!! 死にたいぃいいいいい!!」

 顔を上げて吠える。アオーン。

「なんてこと言うの!」

 ママがズカズカと中に入ってきて、後ろから頭を殴ってきた。グーで。反動で顔が枕にバウンド。

「じゃあ、ママが殺してあげる! そんなことを言うような子にしちゃったのは、ママにも責任があるから! そしてママも死ぬわ!」

「うぅう……うぇえええん」

 大粒の涙がボロンボロン。顎を埋めた枕に染み込んでいく。頭もズキズキ痛いけど、心もイタイ。

 ママが二回目のため息をつく。

「キスなんて、たかだか口と口がぶつかっただけのことでしょうが。大した問題じゃないわよ」

「大問題だよぉ。初めてなのにぃいいい」

 しかも、ぶつかっただけじゃないし。舌まで入れられたし。おぞましすぎる。

「その前にさぁ、カウンセラーが患者にいきなりそんなことするのってどうなのぉおおお!? 犯罪だと思うんだけどぉおおお」

 至極アタリマエの主張をしたつもりだったのに。ベッドの横に立ったママは、しれっとのたまった。

「イケメンにしてもらったんだから、ラッキーって思っておきなさいよ」

「ウルトラポジティブ!? てか、何でママ、ヤツがイケメンだって知ってるのぉ!?」

 思わず背中を反って、上半身をひねる。芸をするアシカみたいな格好でママを見る。

 家の玄関に飛び込むと同時に、堤防の決壊さながらに、ワーッとママに吐き出した。だけど、何を口走ったかまでは記憶にない。悔しいけどイケメンなのは認めているから、無意識に口から出ていたのかな。

 ママの答えは予想外だった。年甲斐もなく、頬をポッと染めて言う。

「だって、病院調べてる時にホームページ見たも~ん。息子の画像はなかったけど、院長の画像はあった。あんなロマンスグレーの息子なら、イケメンで間違いないじゃない」

「……ロマンスグレーってなに?」

「え? 定義はママにもよくわかんないけど。要するに、ステキなオジサマってことよ」

 語尾にハートマークが付いている。この親。口コミがよかったなんてうそぶいて、さては院長の顔で病院をセレクトしたな。

「……言っとくけどママ。ママが診察されるわけじゃないんだからね」

「わかってるわよ。でも、もしかしたらママがお叱りに呼ばれるかも」

 叱られるのに、どうしてそんなに嬉しそうなのさ。

 まぁ。あれだけ完成度の高い顔面の子供が生まれるんだから、その遺伝子のモトは相当だって想像はつく。ママはメンクイだし。その娘のわたしだから、どうせならイケメン親子を拝んでみたいとミーハーなことを思ってしまう気持ちはわからなくない。

 だけどだけど。

 そんなんで納得なんかできない。イケメンだからって、初対面でチューが許されるわけじゃない。ポジティブに割り切れない!

 初めては、もっとロマンチックにしたかった。

 夕暮れの公園とか。二、三回目のデートの帰りがちょうどいいかな。ベンチに二人で座るけど、まだ恥ずかしくて、ちょっとスペース空けちゃうんだ。それで望月くんが、「僕、運命の相手と巡り会えたかも」って言って、そして……

 まさにいいところの瞬間、脳内にボンッとヤツの顔が浮かぶ。憎らしいくらいに整った顔面が、こちらに向いて暴言を吐く。ぶぁーか。ガキンチョが。

「――――ぎぃあああああ!! わたしはもう、妄想さえもできない身体なのかぁあああああ!!」

「うるさい。近所迷惑。黙りなさい」

 またママが握りこぶしで後頭部を殴った。顔から枕に沈没。

「とにかく。明日、午後からでいいから行くのよ。神名先生、普段は午後からの診察担当なんですって。だから、この先の予約はたぶん、ずっと午後からになるわね。朝、バタバタしなくてちょうどいいじゃない」

「……うぅううう」

「あ、それと。先生にキスされたことは、パパには黙っておいたほうがいいかも。そんなこと聞いたら、笑顔で先生を殺しに行きかねないし」

 わたしもそう思います。いや、なんならいっそ処理しに行って欲しいカモ。




 何だかんだ言って、わたしって素直だなぁと思う。

 いや、意思を貫く強さがないだけか。相手にトコトンたてつく度胸がない。だって、ママ怖い。

 そんなことを考えて落ち込みながら、のろのろと歩いて、市営のバスに乗るためバス停へ。家からいちばん近いバス停は、青い看板のコンビニの前。玄関を出てから、大体百メートル。

 結局ママに逆らえずに、翌日の金曜日もクリニックへと向かっているわたし。午後の容赦ない陽射しが、小さな身体にまんべんなく降りそそぐ。暑い。

 またヤツに会うしかないのかと思ったら、昨夜からご飯もロクに喉を通らない。それなのに、なぜかパンパンに膨らんだ胃。おまけに、よく眠れなかったせいでダルい。制服に着替えてみても、一向に気分は締まらない。

 一晩でやつれたわたしを見て、パパはすごく心配していた。

 理由を正直には言えないので、担当の先生と合わないみたいとか言ってはぐらかした。だって、パパが犯罪者になってしまうのはやっぱり困る。

 五分ほど待って、やってきたバスに乗り込む。ゴールデンウィークは、みんな活動が早い。ランチの時間を少し過ぎたくらいという、ハンパな時間のバスは空いていた。真ん中辺りの席に座る。

 意識するより先にため息が出た。息は窓にぶつかっても、そこに白くこびりつくことはない。

 パパはわたしのデマカセを信じ切っていて、担当の先生を替えてもらえるように言ってあげようかって提案してくれた。

 その手があったか! と勇んでガッツポーズで食卓の椅子から立ち上がりそうになったけど。同じクリニックに通い続けるなら、あまり意味はないなってすぐに気づいた。

 同じ建物の中にいれば、きっとまた顔を合わせちゃう。その時、五割増しで気まずいことになる。だからって、パパの隣からこっちをめっちゃ睨んでいたママが、病院自体を変えてくれっこない。

 とりあえず行くことは行って、受付で昨日の診察分のお金を払ったら、予約なんて取らずに、お姉さんに何か言われる前に、突風のように帰ってしまおうかな。ヤツに見つからないようにピュッと。

 ママは帰ってきたわたしに、予約取れた? って必ず確認するに決まっている。そしたら、適当にうなずいておこう。

 何日かしたら外出して、クリニックには行かずにその辺で時間をつぶすのはどう? 突然のリストラを、家族に打ち明けられない父親感が否めないけども。

 何回かそれを続けて、もうこなくて大丈夫って言われたって、ある日晴れ晴れとした顔で言ったら、ママも騙されてくれないだろうか。

 その頃、学校に行きたい気分が戻っているかどうかは、わからない。でも、そんなのその時に考えればいい。

 コレ、行けそうな気がする。メンタルの強化は、ひとまず置いておく。わたしの貞操のほうが大事だもん。

 でも、だけど。本当に、無事会わないで逃げ切れる?

 ヤツは午後の担当だって、ママは言っていた。何時からか詳しく知らないけど、この時間なら、もうクリニックにいる可能性は高い。受付にわたしが現れたら、そのことを誰もヤツに伝えないなんてことあるかな。一応、担当だし。

 悪いのは向こうとはいえ、蹴りを食らわして逃げたわたしを、ヤツが逆恨みしていることは充分あり得る。わたしが顔を出したら自分を呼んでくれって、あそこで働いている全員に頼んであってもおかしくない。

 車窓の外の景色は、着々とクリニックに近づいている。汗がこめかみをタラタラ流れ始めてきた。

 無理だ。行ったら、ヤツに会うことは避けられない。う、胃痛が。

 目の端に、降車ボタンが目に入る。怒るママの顔が浮かんだのに。困惑する受付のお姉さんの顔も浮かんだのに。

 弱いわたしを許して欲しい。わたしの震える手は、お釈迦さまが遣わしたクモの糸を掴むみたいにして、ソレに伸びていた。




 バスがわたしを降ろしたのは、ハンバーガーのチェーン店前のバス停まで、あと五分ほどというところ。まっすぐなバイパスが真ん中を突っ切る街の中。

 大型連休中の片側二車線の道路は、ひっきりなしに車が行き交う。両脇には、家電量販店とか、ホームセンターとか、広大な駐車場を完備した規模の大きなお店が連なっている。

 バイパスから一本中に入れば、道幅は極端に狭くなる。

 古着屋さんとか、雑貨屋さんとか、洋楽のポップスが一日中流れているドーナツ屋さんとかが並んでいて、週末にはたくさんの人が歩いている。きっと今日も多いはず。学校の帰りとか、休みの日には、それらのお店によく友達と入り浸っていた。

 そういえば、友達との連絡を断ってしばらく経つ。

 不登校を始めたばかりの頃は、スマホのトークアプリが、新しいメッセージを受信したことをしょっちゅう知らせていた。

 わたしは、その全部をシカトした。

 だって、怖かった。望月くんにフラれたことをあざ笑う内容のメッセージだったら、耐えられない。泣いてしまう。

 そうして気がつけば、スマホはぱったりと静かになっていた。ほとんど鳴らない。鳴るのは、しつこく機種変更を勧めてくる、ケータイショップのメルマガくらい。

 今になって寂しい。

 自業自得だってわかっている。でも、その程度で離れて行っちゃうってことは、何かあるごとにすぐにヘコむわたしを、みんな内心ではうっとうしかったのかもしれない。今頃せいせいしたって笑っているかも。

 キリキリ。音を立てて痛むのは、胃か胸か。

 いや、しっかりと胃の痛みだった。おへそより少し上の辺り。わたしのギザギザハート、もといフニャフニャハートはそんなところについていない。

 なんだかトイレまでもよおしてきたな。脂汗がおでこに滲む。

 どこかのお店に入ろう。入って出すもの出して、少し休もう。このままクリニックへ向かうのも、家に戻るのも、とにかく今は体調的に絶対ムリ。

 お腹の痛みに、ヒョットコのお面ばりに顔を歪ませて、目線を上げる。

 新規オープンしたインターネットカフェの、意味もなくシックな看板が目に飛び込んできた。中の道を五十メートル行ったところにできたらしい。

 そこなら、かなりゆっくりできる。個室だもん。

 知り合いの誰かと鉢合わせしてしまう危険性も低い。痛みが治まるのを、寝て待っていても問題ない。今後の作戦をじっくり練るのにもちょうどいい。

 そう考え出すと、その看板の後ろから、まぶしい後光が射しているかのように見え始める。誘われるように、わたしはヨロヨロと歩き出した。




 新品のノートみたいな匂いのする店内で、一生懸命何でもない顔を作って、メンバー登録を済ませた。個室の鍵を預かると、すぐさまトイレへゴー。スッキリとしてから、ゆっくりと飲み物を吟味した。

 身体の中に溜まっていたものを出し切って、お腹は落ち着いたけど、胃のほうの不調はまだ治らない。念のため、温かいココアをチョイスした。

 真新しい匂いはちょっと鼻につくけど、ウリである最新式のリクライニングシートはさすがに上等だ。座り心地がバツグン。甘いココアを一口飲むと、背もたれを目一杯倒し、アラブの偉い王様みたいにして沈み込んだ。

 BGMはヒーリング系で、耳に優しい。目を閉じると、ゆったりとした気分になる。胃痛もやわらぐ。あんなアッパッパーなカウンセラーがいるクリニックなんかより、ココのほうがよっぽどメンタルによさそう。

 記憶にあったのは、ソコまで。

 次に目を開けた時、ココアはすっかり冷え切って、外は真っ暗だった。




 スマホの時計を確認して、一瞬顔がはにわに。

 デジタルな数字は、午後の八時二十五分を指している。

 故障!? ウイルスにでもヤラれた!? と思い、慌てて個室内にあったノートパソコンを立ち上げる。同じ時間を表示した。再び、はにわ。

 わたしは時を超えたのかと、わりと本気で思った。

 何のことはない。わたしが時に置いてけぼりを食らっただけだった。

 それにしたって。

 チェックインした時刻は、確か二時のちょっと手前。いくら寝心地がよかったからって。寝不足だったからって。六時間以上も爆睡しちゃう!?

 ココアを持って入ったきり、一回も個室から出てこないわたしを、店員さんは変だと思わなかったのだろうか。忙しくて、お客さんの一人一人をいちいち気にかける余裕がないとはいったって、万が一わたしが中で泡でも吹いて倒れていたら、どうするつもり?

 とりあえず、オープン記念の特別フリータイム中で、延長料金が発生する心配はなくてホッとした。

 もう一度スマホの画面に目を落として、戦慄が走った。

 不在着信のアイコンが立っている!

 履歴なんか見なくてもわかる。いや、見ないほうがいい。十中八九、怒涛のママからの帰れコールが並んでいるに違いないから。どこにいやがるんだアンポンタンコールの可能性もある。

 マナーモードにしておいたから、他のお客さんの迷惑にならずに済んだことは幸い。グッジョブ、わたし。

 連絡もなく帰宅が遅いわたしを、心配する気持ちも少なからずあるとは思う。思いたい。でも、ママのことだ。絶対に先にクリニックに一報を入れている。

 わたしのバックレを知ったママは、鬼のように怒っているに決まっている。折り返しなんて、怖くてとてもできない。手が震える。

 なぜ寝た! せめて一時間程度の仮眠でなぜ起きなかったわたし!

 そのくらいで電話に気づいていれば、クリニックに行っていなくても、診察して今から帰るトコだよ~って、いけしゃあしゃあと答えられたカモなのに!

 天国な夢見心地でスヤスヤ眠っている場合じゃないってば!

 でも、後悔したからって、何を取り返せるわけでもない。

 とにかく出よう。胃のムカムカは、いつのまにかなくなっている。元気になったとはいえ、ネットサーフィンする気も、マンガを読む気もさらさらない。あと一時間半ほどで、フリータイムも終わっちゃう。

 この時間なら、とっくにパパも帰っている。パパはすごく心配しているだろうな。ごめんねパパ。

 ひとまず今日のところは家へ帰ろう。ママへの言い訳は、向かいながら考えるとしよう。

 もったいないからと喉に流し込んだ冷たいココアは、粉っぽくて、とんでもなく甘かった。




 インターネットカフェを出る。

 黒というより濃いグレーに近い色の空に、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。夜なのに、あちこちのお店のライトや看板のネオンで、通りはぜんぜん明るい。

 人もまだたくさん歩いている。制服姿のわたしは、ひときわ浮いている。知っている人に会ってもバレないように、うつむきかげんで踏み出した。

 隣はフライドチキンのお店。瀕死寸前だった来店時には気づかなかったけど、認識すると、揚げもののかぐわしい香りが鼻をくすぐる。クリニックに行かなくて済んだと思うと、キャッシュなわたしのお腹がグゥと鳴った。

 でも、誘惑に負けて食べてしまってはいけないのだ。なんたって、わたしにはまだママという、ラスボスと対峙するステージが控えている。

 ここで胃の中に油ものなんて投入してしまったら、家が見えてきた時点でストレスマックスになって、胃の不調がカムバックしてしまうかもしれない。たちまちフライドチキンがカムバックだ。

 イカンイカン。かぶりを振る。

 その時、そのアメリカンな色彩の建物と、対照的なモノトーンのインターネットカフェの建物との間の細い路地に、モゾモゾと動く小さなものを、ふと目の端っこが捕らえた。立ち止まる。

 猫だ。白い毛並みの大人猫。ぐんと長く胴を伸ばして、フライドチキン店のゴミ箱を漁っている。裏口があそこにあるんだろう。

 一心不乱に食べ物を探していて、路地の入り口から視線を送るわたしに、まるで気づかない。ノラちゃんなんだろうか。

 可愛いな。小学生の低学年の頃、捨てられていた仔猫を連れて帰って、ママにすごい剣幕で怒られたことがあったっけ。

 猫は好き。動物は全般的に好きだけど、猫は特に大好き。でも、今の一軒家に引っ越す前は、家族でアパートに暮らしていたから、一緒に暮らすことは叶わなかった。

 連れて帰りたいなぁ。でも、ママはまた怒るんだろうな。まだローンの残っている家を傷つける気? とか言って。

 わたしの不登校問題が片付いていない今回は、なおさらだ。

 でもさ、よく考えたら。

 あの家は、ゆくゆくはわたしと、わたしの旦那さまのものになる。ママは専業主婦だし、パパがリタイアしたら、残りのローンもそれ以降の維持費も、わたしたちが払っていくことになる。

 だったら、もう少しわたしのワガママが通ってもいいような気がするんだけどなぁ。

 路地は、大人が二人すれ違うのには狭い。それがチンピラだったら、肩がぶつかり合って、きっとケンカになる。

 だけど、わたしはチビで、一人だ。忍び足で奥へと進んでいくのに、何の支障もなかった。

 ソロ~ッと後ろから、そのふわふわとした胴を掴んだ時、猫はさすがにビクッと身体を強張らせた。でも、すぐに自分を支えるわたしの手を舐め始める。

 ザラザラした、温かい舌。柔らかい体温。とても人懐こいし、ノラちゃんにしてはキレイな毛並み。もしかしたら、この辺に暮らす人たちが、みんなで協力してお世話している猫なのかも? 地域猫ってやつ。

 本当に可愛い。触っちゃったら、ますます連れて帰りたくなってしまった。でも無理だし。それに、早く帰らないと。でも、もう五分だけ。

 その時。

 どうしてか、わたしは路地の奥に目線を向けてしまった。

 理由はよくわからない。霊感なんてないし、鋭くもない。どっちかって言ったら鈍感なほう。だけど、何かに導かれるようにして、わたしは顔を上げて、ほの暗い路地の先を見た。

 一瞬ほどのこの動作を、あとになって、死ぬほど後悔することになろうとは。

 狭い路地の突き当たりには、壁があった。白っぽい壁。他のお店のものなのか、誰かの家のものなのか、ここからでは判然としない。左右には、また路地が分かれて伸びているのがわかる。

 距離は、目で測った感じ、たぶん十メートルまではない。だから、はっきりと見えた。白い壁の前を、右から左へ横切っていく黒い人影が。




 神名先生だった。




 神名 誠。忘れたくても、忘れられない名前。

 見間違えっこない。アノ奇抜な髪。カウンセラーや病院に勤務する人の中どころか、普通にその辺を歩いている人の中にだって、あんな髪色をした人は、この地方の田舎町ではそうそういないのだ。

 着ていたのは、昨日見た淡いピンク色の白衣じゃなくて、黒のロングジレ。

 だけど、断言できる。絶対にアレは、クリニックのアホ息子だ。

 回れ右して逃げ帰ればよかったのに、わたしはそうしなかった。追いかけた。

 猫を抱きかかえたまま、路地の奥へ向かって走る。心に反した身体の動きに、自分でもビックリだ。たぶん、猫がいちばんビックリ。

 だって、ヤツは右手に銃を持っていた。これも見間違いなんかじゃない。

 満月に照らされて、金色に光っていた。チラッと見た限りでは、手の先から肘くらいまで長さのある、大きな銃だった。

 オモチャなんだとは思う。本物のわけがないもの。でも、ソレはソレで相当アブナイ。人がいない路地裏とはいえ、そんなモノを堂々と持って歩いている大人には、絶対に近寄りたくない。それでも、とっさに追いかけてしまった。

 軽蔑していても、わたしの中で、神名先生はやっぱり『先生』だったんだと思う。

 曲がりなりにも病院に勤務しているわけで、もしかしたら、わたし以外の別の患者さんにとっては、いい先生なのかもしれない。信じたくないけど、そういうことも可能性としてはゼロではないって話。

 先生っていうものは、大抵の場合、他人から敬われているものだし。そんな立場の人が、失望される妙な行いなんかしないで欲しいって気持ちが、わたしの中に強く湧き起こったんだと思う。それが追いかけた理由。

 自分がヤツに蹴りをお見舞いしたことや、その上、無銭診察をしでかしたことは、すっかり頭から吹き飛んでしまっていた。

 壁に行き当たると、急いでヤツが消えていった左側を見た。

 そこは、いかにも裏道といった雰囲気。でも、今までいた路地よりは広い。様々な色の建物の壁と、裏口のドアばかりが連なっていた。ドアの上には外灯があって、路地にほんのりと明かりを灯している。横倒しにしたジュースの自販機二つ分くらい先に、ヤツのあまり広くない背中があった。




「神名先生?」




 ヤツは、バッと空気を切るみたいにして振り返った。ほとんどシルバーに見える髪の毛と、長いジレの裾がひるがえる。

 外灯の明かりは頼りない。でも、月が大きく明るいおかげで、視界が悪いというほどじゃない。こっちを見てギョッと目を見開いた、ヤツの表情もちゃんとわかった。

「お前、甘奈……! ……ぅあ、しまった!」

 一旦、ヤツは振り返って路地の先を見る。わたしも同じように目を向けると、何かが去っていく気配がした。

 気配だ。ソレはまるで闇のようで、正体がよく掴めない。人なの?

 再びこちらを向き直ったヤツは、複雑な顔をしている。驚いたような、怒りたいような、すごく戸惑っているような。そこまではなんとなく理解できても、ちょっとだけ嬉しそうな理由がわからない。

 かと思うと、すぐさま顔面を派手に引きつらせた。

「――――ぶふぁっ、おま、なに持って……!」

 掲げた右腕で顔をガードするようにして、後ずさり。金ピカの銃が、わたしからよく観察できる手前にやってきた。

 色はなんだか軽薄だけど、その重厚感はすごい。本物なんてもちろん見たことない。それでも、もしかして本物じゃないの? と思えてしまうくらいの存在感があった。

「え。なに? あ、これ? 猫のこと?」

 両手で胴を掴んだままの猫を、ずいっと前に差し出す。特に思惑も、悪意もなかった。にゃあ、と猫が上機嫌に挨拶した。

「どふぁあぁあああああ!!! ちちちちち近づけんなバカ!!!」

「ふぇ? あ、もしかして猫、怖いの? うそ」

 ちょっと噴き出してしまう。意外。怖いものなんか何もないような、ものすごくビッグな態度していたクセに。

「ぶ、ぶわぁか! 怖いワケあるかい! す、好かんだけだ!!」

 そう言いながら、ヤツは腰を抜かしてアスファルトにへたり込んでいる。

 おもしろくなったわたしは近くまで寄って、その鼻先にブラリ、猫の白い後ろ足と尻尾を寄せてやった。ホレホレ。

 成層圏まで意識が吹っ飛んだんじゃないかって顔をしたあと、ヤツはとうとう地べたに丸くなって、顔を伏せてしまった。




「――――助けてぇえええ!! おばぁちゃあぁあああああん!!!」




 マジ泣きじゃんか。

 わたしもだけど、猫のほうも、まさか大の男の人を泣かすことになろうとは、夢にも思わなかったんだろうな。そんな表情だ。

 なに、おばあちゃんって……

 自分でやっておいてなんだけど……どうしよう。わたし、この人に、すっっっごく関わり合いたくなくなった……!

 帰ろう。ヤツが変質者として朝刊に載ろうが、それでカウンセラーの資格と信頼を失おうが、もうどうだっていいや。それで、ママにこのことを報告する。きちんと説明すれば、この先生、及びコイツを雇っているクリニックが相当危険だってことがわかって、通院を考え直してくれるはず。

 くるりときびすを返して、やってきた道を戻ろうとする。その足首を、ヤツが後ろからガッと掴んだ。

 思わず「ひえっ」と漏らす。うっかり手を放してしまうと、ヤバい人間と関わるのはゴメンだとばかりに、猫は一目散に走って逃げて行ってしまった。

 待って! わたしも逃げたいよぉ!!

 恐る恐る振り返る。ヤツが殺気を込めた濡れた目でわたしを睨み上げていた。遅ればせながら自分の立場を思い出し、腰から下がガクガクと震える。

「……ぢぐじょおぉ。オレの仕事の邪魔をしたばかりか、バカにしやがってぇ」

「ふ、ふぇえ。し、仕事……?」

 ヤツはゆっくりと身体を起こして、右腕を掲げ上げた。

 真っ黒い穴をのぞかせた金色の銃の先端が、わたしの鼻先にジリッと突きつけられる。

 月光が禍々しく跳ね返る。鉄の匂いが鼻をつく。思わずゴクリと息を飲む。

 ヤツが、涙目のままニヤリと不気味に笑った。




「こいつを見たからには、もうお前をタダでは帰せない」








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