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2 嵐を叩き起こして呼ぶ男
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交通量の多い国道のバイパスを、市営のオンボロバスで南下すること、約十分。某有名チェーンのハンバーガー店前のバス停で降りる。
この地方都市でいちばん大きなターミナル駅からは、ちょっとだけ離れたところにある繁華街。中学生の頃からよく遊びにきていたけど、この近くにそういった類いのクリニックがあるなんて、今まで知らなかった。
でも、道に迷うことはない。スマホのナビ様が、わたしを導いてくれる。
ママの言うことも、一理あるかもしれない。
わたしが学校に行けないのは、望月くんの目や、周りのみんなの目が怖いことが大きな理由。
だけど、同じ学校に通う同級生や先輩に告白して、無事両想いになれなかった子なんて、わたし以外にもきっといる。それでも、みんなちゃんと学校に通ってきている。何日かは休んだとしたって、何週間も失恋のせいで休んでいるなんて、そんな話は聞いたことない。
もちろん、誰だって、恥ずかしいことは恥ずかしいんだと思う。
でも、一生懸命に笑い話にしたり、何か別のことに打ち込んだりして、できるだけ人の目を意識しないように頑張るんだ。恋が破れてしまったことへの悲しみも、そうやって一緒に乗り越えようとする。
そのうちに段々と、実際にどうでもいいことにシフトして行っちゃうって、本当はわたしだってわかっている。だけど、できない。
物心ついた頃から、そうだった。失敗するたびに外の世界から逃げ出して。
きっと、わたしの身体のどこかには、小さな鉄筋コンクリートの部屋があって、その中に、人並み程度には強いわたしが閉じ込められているんじゃないかなぁって思う。
だけど、ソコにはビックリするくらい、頑丈な鍵がかかっているんだ。
その鍵を、ひと思いに壊してしまいたい気持ちはある。このままじゃいけないってわかっている。でも、やっぱり怖い。ママの言う通り、わたしは人一倍メンタルが弱い子なんだ。
だけど、心療内科のカウンセラーさんなら、きっと、その鍵をするんって簡単に外しちゃえるんじゃないかな。わたしを怖がらせることなんてなく、精神的な痛みをともなうこともなく。
ママも言っていたけど、その道のプロなんだもん。
わたしなんかが想像もできないくらい、巧みな話術ってヤツで、わたしの中の奥の奥にいるわたしを、えい! って引きずり出してくれちゃうかも。
そうしたら、この重い心も、羽根が生えたみたいにふんわりするかも。すぐにでも学校に行きたくなるかも。
メンタル極弱な人間なりに考える。
これは、今まで甘々だったわたしが自分を変えられる、最初で最後のチャンスなのかもしれない。
目的のクリニックは、道を挟んでホテルの真向かいにあった。バス停から歩いて五分くらいのところ。
バイパスから一本奥に入った、片側一車線の道路沿いに建つ立派なホテルは、三階建てで、結婚式場を兼ねている。
毎週末に開催されるウェディング・フェアを垂れ幕や看板で前面に押し出した、白いお城みたいな建物。広い敷地をぐるっと細い鉄の柵が囲んでいて、緑色のツタのような植物が絡まっている。後ろには、チャペルのとんがった屋根がのぞいている。
オシャレなホテルとは真逆の雰囲気で、地味にひっそりとソレは建っていた。
一度スルーした。
おナビ様に従順な態度でいたので、わたしが向かっていた場所がソコだってことは、もちろんわかっていた。
あまつさえ、その建物を横目に眺めて、あまりにもオーラがなかったために(そもそもメンタルクリニックのオーラがどんなもんか知らない)、なるほど、これでは今まで気づかなかったはずだわい、と納得すらしていた。
それなのに、なぜ素直に門を叩かなかったのかというと。
ホテルの敷地の入り口、鉄柵の途切れたところに、いかにも仕事ができますふうの、パンツスーツスタイルのお姉さんが立っていたから。
今日そこで挙式予定の、新郎新婦の到着を待っていたのかもしれない。
仕事中であるわけだし、わたしのことなんか眼中からアウトだとは思う。自意識過剰だってこともわかっている。でも、恥ずかしかった。
女子高生が一人でメンタルクリニックを訪ねてくるなんて、思い切り不登校児感。しかも、こんな朝早くからなんて、相当切羽詰まって見えるんじゃないかな。
おまけに、今はゴールデンウィーク真っ只中だ。
誰もがウキウキ浮かれている最中だっていうのに、アナタは一人暗い気持ちでいるのね、なんて同情の目で見られたら、わたしがかわいそうすぎる。
一旦通り過ぎて、十メートルほど先に行ってUターンしてくる。余計に怪しい。
それでも踏ん切りがつかず、もう一度スルーしかけた時、脳裏にハッとママの鬼顔が浮かんだ。
もしこのまま断念して帰ったら、わたし、本気でママに殺されるかもしれない。バックレたら許さないって、すごい形相で言っていたもん。
嫌だそんなの。せめて、チューの味くらいは知ってから死にたい。
一時の恥より自分の命。旅は道連れ、恥はかき捨て。それはなんか違う気がするけども。
わたしは心を決めて、お姉さんの視線から逃れるようにして、クリニックの敷地に足を踏み入れた。
今時珍しい、舗装されていない、茶色い土がむき出しの地面。踏みしめるたびに乾いた土煙が立って、ローファーの爪先を汚す。ちらほらと雑草が目立つ狭い駐車場には、乗用車が三台停まっている。それだけで半分埋まってしまっている。
確かママの話では、クリニックの診療自体は午前九時からだったはず。スマホの画面に表示された時計を確認すると、まだ三十分以上早い。ということは、ココにある車の持ち主はみんな、わたしと同じ初診ということなのかな?
建物は、そばに寄れば寄るほど、ここは病院だよっていう主張がなかった。
看板もない。正面玄関の大きなガラスの扉に、自分の姿が映るまで近づいて、そこに小さく書かれた文字を読んで、ようやく目指していた病院だって確信が持てた。
クリニックの前の道路をただ通り過ぎただけでは、たぶん、そういう施設だって誰も気づかないと思う。
メンタル系の病院の特徴なのかな。わたしみたいに、人目を気にして入るのをためらってしまう患者は多そう。そのために、わざと察しにくい配慮がされているのかもしれない。
規模は、町の個人経営のクリニックと変わらないくらい。外壁は全体的に白いコンクリート。柱は淡いグリーン。駐車場は手入れが行き届いているとは言いづらいけど、建物自体はきちんと掃除されている印象。
玄関を入ってすぐの壁の右側には、靴箱が備えつけてある。小学校で使っていた靴箱と似た、蓋のない開放的なタイプ。シンプルな傘立て。
優しいピンク色の仕切りで、それ以上の室内の様子は、外から窺えない造りになっていた。
『神名メンタルクリニック』
磨き込まれたガラスの表面には、クリニックの名前だけで、他には何も記されていない。
「か、……かみ、な?」
読み方わかんない。ママが受付時間やらを書いておいてくれたメモにも、フリガナなんか振っていなかった。
握ったスマホに視線を落として、もう一度時間をチェック。八時二十分。
心臓がバクバクし始めてきた。風邪を引いた時に行くかかりつけの病院でさえ、毎回ドキドキしちゃうのに、初めて訪れる場所なんてなおさら怖い。
しかも、メンタルクリニックなんて。自分が、そういった場所に関わることになろうとは思ってもみなかった。
逃げ出したいけど、ここまできたら、もう覚悟を決めなくちゃ。震える手でスマホをスクールバッグにしまう。こぶしを握った。
大丈夫。ここは、心が弱った人のための病院。怖いことも痛いこともされるわけがない。
ガラスの扉をえいっと押す。内科の病院に入った時とそっくりの消毒臭い空気が、低い鼻先にブワッとぶつかった。
靴箱に入っていたピンク色のスリッパと、自分のローファーを交換する。学校指定の紺色のハイソックスの爪先が出る、ツルツルした素材のスリッパに履き替えて、いざ仕切りの内側へ。
入って右側に受付。小さな窓口に、医療事務の人がスタンバイしている。お金を置くトレイ。卓上カレンダー。一般的な病院と変わったところはない。
ただ、何のBGMもない。無音だ。これがメンタルクリニックのデフォルトなのかな? 有線を流すっていうムードでもないだろうけど、せめて歯医者さんの待合室みたいに、オルゴールのインストでもかけたらいいのに、と思う。
受付の正面には三列、横長の椅子が並んでいる。黒っぽくて、たぶん合成皮革。奥にも細長く室内が広がっていて、そっちにも同じ長椅子があるのが見える。診察室は、きっとそっちにあるんだ。
見た感じ、そんなに新しい病院ではないみたい。長椅子の革は破れている箇所があるし、部屋の角に置かれたイミテーションの花がくすんでいる。
受付前には、見事な等間隔で五人、患者さんが座っていた。わたしよりは年上だと思うけど、若い女性と男性が二人ずつ。白髪のオジサンが一人。
空気が重い。無反応。わたしが入ってきても、誰一人顔を上げない。みんな手元のスマホを凝視。精神的な方面の病院なんだから、当然と言えば当然か。自分のことで精一杯で、他人のことどころじゃないよね。
その中でも、けっこう重症っぽいな、と感じられたのは、最後列の椅子の端っこに座っている男の人。
視線はスマホの画面に注がれているんだけど、ちゃんと見えているのかな? って感じがする。
うまく説明できないけど、表面ではなくもっと、ずっと奥の深いところを覗き込んでいるみたいな。覗くと言うより、睨んでいるに近いかもしれない。まとっている空気も、どことなく暗い。
就活が終わったばかりっぽい雰囲気だし、社会に出て、辛いことでもあったのだろうか。大人になるって、大変だ。
とりあえず受付を済ませないと。恐る恐るすり足で窓口に近づく。
桃色の水彩絵の具を水で溶かしたみたいな、白ではないから白衣と呼ぶべきなのか迷うところだけど、医療の従事者が着るオーソドックスな制服を身につけたお姉さんが、手元の書類らしきものから目線を上げた。
ロングの髪を後ろで一本にまとめた、キレイ系の美人さんだ。
「アノ、あの、あの、た、橘です、ケド……」
出だし、声が裏返った。受付のお姉さんが顔色一つ変えないから、それはそれで余計に顔が火照る。
「あァ、橘 甘奈さんですねェ? 保険証ゥオ、お願いしますゥ」
キリリとした顔つきから出た言葉は、語尾がやたら上がっていた。
待って。こっちが噴き出しそうになるってば。でも、おかげで緊張が解けた。
「ほ、保険証」
肩に引っかけたスクールバッグ。そのファスナーを開けて、中からデニム地のお財布を引っ張り出す。ママから預かってきた国民保険証を取り出した。
「はいィ、確かにィ。紹介状はァ、ありますかァ?」
受付前の青いトレイに乗せた保険証を確認してから、お姉さんは言葉のお尻をキンキン響かせながら言う。
この声、というか喋り方、わたしはものすっごく気になるけど、他の患者さんはへっちゃらなんだろうか。背後の様子を確かめたいところだけど、無理だ。
「しょ、紹介状? え、えと、ないですが……」
アワアワと答える。
紹介状って何? ないと診察してもらえないの? 聞いていない。ここにくることだって今朝いきなり宣告されたわけで、いろんな準備が間に合っていない。
「わかりましたァ。ではァ、お声をおかけするまでェ、座ってお待ちくださいィ」
「は、はい……」
切り抜けた……でも、なんだかすでに疲労が。
ややぐったりとする身体を引きずり、いちばん後ろの長椅子に座る。例の、目つきがなんとなく怖い、新卒のサラリーマン的な男性の右隣だ。
進んで座りたいわけではないけど、しかたない。どの長椅子も人が左右の端を陣取っていて、その真ん中に押し入っていく勇気は、ミジンコの心臓をしたわたしにはない。
でも、それから五分もしないうちに、先程のお姉さんに名前を呼ばれた。再び受付へ。プリントを渡される。問診票だ。
「こちらにご記入くださいィ。終わりましたらァ、受付へお持ちくださいィ」
なるほど。種類は違っても、病院はやっぱり病院。診察のプロセスに、それほど違いはないらしい。受付担当者の喋り方は別にして。
クリップボードごと受け取ったソレを持って、長椅子に戻る。根が真面目なので、努めて正直に質問に答えていった。
氏名。生年月日。満年齢。身体の不調はありますか。それはどのような症状ですか。いつ頃からですか。思い当たる原因はありますか……
症状。朝、学校に行こうとすると足がすくんでしまう。前の日の夜から、翌日のことを考えると気分が重い。眠れないことも。始まったのは四月の始め。二年生に進級してすぐ。片想いしていたクラスの男子に告白して、フラれて、それから学校が怖い。
書いているうちに、恥ずかしいを通り越して、泣きたくなってきた。
なんてバカらしい原因。文字にすると、より際立つ。そのバカらしいことに深刻な自分が情けない。
自覚はしていたつもりだけど、わたしって本当にメンタルが軟弱すぎる。こんなの、カウンセラーさんも呆れちゃわないかな。
鼻をスンとすする。あいかわらず、わたしの動作に周りは身じろぎ一つしない。そのほうがラクだ。
問診票の空欄をすべて埋め終えると、受付へ持っていった。
それから三十分はかからなかったと思う。その間に、わたしより先にきていた人たちが、次々呼ばれて立ったり座ったりを繰り返した。
緊張、プラス自分の情けなさへの落ち込み。気をいくらかでも紛らせようと、スマホでエンタメニュースを読む。でも、文字はすべて頭を上滑りだ。
「橘 甘奈さん」
受付とはまったく別の方向から呼ばれて、頭を上げる。
座った左側の奥には、廊下が長く伸びていて、小さな部屋が四つある。その中の一つのドアが開いていた。
そこから、受付の語尾上がりお姉さんと同じ白衣を着た、別の女の人が顔を出しているのが、うつむいた男性の頭の向こうに見えた。
「こちらへどうぞ」
優しそうな笑顔。心臓が、ひときわ大きくドキンと弾んだ。いよいよだ。
あの女の人が、わたしの担当のカウンセラーさんなのかな。どんなことを言われるんだろう。どんなふうに、わたしの弱った心を治してくれるんだろう。
「はい」
慌てて立ち上がり、通り越していく時に、男性が笑った気がした。気のせいかな。
『問診室』。白いドアの表に貼られたプレートには、そう書かれていた。
中は窮屈な事務所みたい。窓がなくて、机が壁側に向いている。キャスター付きのオフィスチェアに、さっきの女性が座っていた。その背後には奥の部屋に続く扉と本棚が並んでいて、難しいタイトルの本がぎっしりと詰まっている。
診察室って書かれた部屋は、別にあった。ということは、ここではまだ診察はしないってことなのかな。そもそも、メンタルクリニックの診察ってどういうものなんだろう。
「橘 甘奈さん。はじめまして。カウンセラーの花井です。よろしくね」
ゆるくパーマのかかった長い髪を、後ろで一つに束ねた花井先生は、わたしが部屋に入ると、そう言ってにこやかに笑ってくれた。わたしもペコリとおじぎをする。
「よ、よろしくお願いシマス……」
「緊張しなくていいからね」
「は、はい。……カウンセラー」
「うん、そう。初めて聞くかな? こういう心療内科の病院とか、最近では会社とか、学校とかにも常駐しているんだけど。話を聞いて、悩みからくる身体の不調だとかを解決するお手伝いをする人のことを言うの」
「あ、いいえ……」
もちろん、初めて聞くわけじゃない。わたしが通う学校にはいないけど、そういう職業の人がいるってことは、知識として前からあった。
でも、実際に会うのは初めてだ。なんだか芸能人と会う時のような、不思議な興奮がある。
「じゃあ、そこに座ってください」
促されて、花井先生が座る隣の丸椅子に腰を下ろした。こっちもキャスター付き。くるくる動かしたい衝動に駆られるけど、子供っぽいから我慢しなきゃ。
花井先生と向かい合うと、学校の二者面談より断然近い。女同士だけど、妙にドギマギしてしまう。花井先生の胸元にぶら下がったプラスチック製のネームカードが、蛍光灯の明かりにキラリと光った。
「うふふ。制服。ゴールデンウィークなのに?」
「あ、エヘ……変です、よね? いつも着てないクセに」
花井先生の手には、わたしがさっき書いた問診票。わたしがずっと登校拒否をしていることは、すでにわかっているはず。
「いいんじゃない? 似合っていて可愛いわ。こういうところにくるの緊張しちゃうだろうから、気合いを入れるのにもよさそうよね」
「そ、そなんデス!」
「うふふ。じゃあ、早速、いろいろ確認をさせてもらっていいかな?」
花井先生は、たぶんママより少し若い。うっすらとナチュラルな感じのメイクが似合っていて、フワフワと甘い匂いがする。目の下にホクロが一つ。笑うとソレがきゅっと上に持ち上がるのが、なんとなく可愛いらしかった。
不登校なの、ぜんぜん怒られなかった。こんな安心感のあるカウンセラーさんにだったら、何でも話せそう。
きっと何度かここに通って、花井先生とお喋りしながら、少しずつ気持ちを前向きにしていくんだ。ビビって損しちゃった。
ところがどっこい。違った。花井先生は、本当に確認しただけ。
わたしが書いた問診票を見ながら、その内容について、一つ一つ間違いがないか確かめただけ。その工程って必要? ってあとから思ったけど、シロートにはわからない重要な目的があるのかもしれない。
全部の項目をチェックし終えると、花井先生は名前の通り、花のような笑顔で言った。
「わかりました。ありがとうございます。では、担当の先生によく伝えておきますね」
「エ?」
思わず顔がはにわになる。
「橘さんはね、院長先生のご子息先生が直々にお話を聞いてくださいますから。あ、でも、緊張しなくて大丈夫よ? とても優秀で、とてもステキな先生だから。リラックスして、たくさんお話してくださいね」
そして、わたしはまたもや待合室にいた。
問診室には、時間にしたら十分もいなかったと思う。その間に、待合室には座るスペースがないほど、患者さんがドッと増えていた。
しかたなく、今度は受付の前じゃなくて、廊下に設置された長椅子のそばで立って待つ。二十分くらいボンヤリしていたかも。ショックでスマホを手に取る気も起こらなかった。
……ご子息って言った?
それって、男のカウンセラーってことだよね? しかも、院長の息子? そういうステイタスのある人って、なんかめちゃくちゃプライドが高そうなイメージ。
そんな人相手に、リラックスなんてできるかな。でも、花井先生はステキな先生だって言っていたし……え、でも、男の人に失恋の話するの?
花井先生の和やかスマイルで、せっかく一安心したところだったのに。またグルグル不安になる。
逃げ出したい気持ちが復活しかけた時、絶妙なタイミングで受付のお姉さんが廊下まで出てきて、角からこちらに顔をのぞかせた。
「橘 甘奈さン。第三診察室へェ、お入りくださいィ」
もう逃げられない。この時の心臓の引っくり返り具合。たぶん予感だったんだと、あとになって思った。
『第三診察室』。
さっき入った問診室の一つ奥。つまり、長椅子の端に立ったわたしから見ると、建物のいちばん左の端に、ソレは位置した。
わたしはリノリウムの床をスリッパの底で擦るようにして、ちょっとずつ近づき、重い腕を持ち上げて、その部屋の扉をノック。
「どうぞ」
わかってはいたけど、男の人の声だ。低い。いや、女性でも低い声やハスキーな声の人はいるけれども。それは、はっきりとわかる男性特有の声質。
聴いた限りでは張りがあって、若者っぽい雰囲気だ。そもそも院長先生を知らないから、その息子って言われても、いったい何歳くらいの先生なのか、サッパリ見当がつかない。
年齢はともかく、花井先生みたいな優しい人だといいな。
「……シ、失礼します」
また声が裏返っちゃった。メンタルへなちょこすぎ。
一歩室内に足を踏み入れたとたん、ド肝を抜かれた。
これまでわたしが出会った、『先生』って呼ばれる人たち。病院の先生、学校の先生、塾の講師も然り。その人たちは大抵黒髪だった。たまに白髪のおじいちゃん先生がいて、髪の毛自体がない人もいたけど。
ところが、目の前で横顔を向けている『ご子息先生』は、なんとグレー! どっちかって言うと、シルバーに近い。おまけに、前髪に青いメッシュ。
ファンキーすぎる髪の色に、目がチカチカしてしまう。何かしらの原因があって髪色が抜けちゃったとか、そんなんじゃないのは一目瞭然。加齢のせいでもないと思う。
だって、どう老けて見積もったって、そこに座っている彼は、せいぜい二十代の前半にしか見えない。なんたってメッシュ。絶対的に人工でしょ。
ド肝を抜くポイントは、それだけじゃなかった。
超絶イケメン!
まだ正面から拝見していないのに、その目鼻の整い方が尋常じゃないことがすでにわかる。
こんなウルトラ美形がこんな地方の街にいたなんて。いや、この辺の出身とは限らないか。院長先生ともども、都会から通ってきているって可能性もある。
見れば見るほど、モデルが泣いて逃げ出しそうなルックス。
難を挙げるとすれば、背が少し低いところかな。椅子に座っているから正確な身長はわからないけど、パッと見た感じ、百七十センチまではなさそう。愛しの君、望月くんのほうがぜんぜん高い。
その部屋も、問診室とほとんど同じ造りだった。若干こっちが広いくらい。机が壁のほうを向いて置かれていて、椅子は二個。イケメンご子息が座っているオフィスチェアと、隣に丸椅子。彼を通り越して奥には、別の部屋へ続く扉があって、本棚がある。やっぱりこ難しい書籍がぎっちり。
ただ、机が向いた先に、大きな窓があるところだけが違っていた。ブラインドが上がっていて、朝の太陽光に青メッシュがピカピカ光っている。
花井先生はわたしが部屋に入ったことがわかると、自分から挨拶してくれた。でも、彼の場合はそうじゃなかった。
「なに」
机に向かったままでボツッと言われたから、本気で聞き取れなかった。
「え?」
わたしが目を丸くしていると、やっと椅子を回転させて、こっちを向いた。
薄いピンク色の白衣からのぞくスラッと細い足を、偉そうに組んでいる。不機嫌に上がった眉尻。への字口。
「なに突っ立ってんだっつーの。問診受けただろ? 同じように座れよ。イチイチ指図受けねーと動けねーのかよ。園児か」
「……フ」
――――フェエエエエエ~!!???
なになになに!? 超怖い!! ものすごく逃げ出したい!!
だけど、身体がカチンと凍りついたみたいに固くなってしまって、とても無理。足がすくんで無理。アワアワとたちまち顔が青くなる。心拍数上昇。
「座れ」
彼は顎で自分の目の前の椅子を指す。
言う通りにしないと、ブン殴られそうで怖い。でも、そんな至近距離に近づくのも怖すぎる。ドアに背をつけたまま、わたしは動けない。
「す・わ・れ」
こちらを吸い込みそうに大きな目をさらに見開いて、彼はすごんできた。
足をガクガクさせながら、まるでロボットみたいな動きで、やっとの思いでわたしは椅子に座る。美しすぎる顔面がすぐ近くに。でも、感動とか見惚れるとかより何より、とにかく怖い。身体のブルブルが止まらない。ヤバイ。涙が出そう。
椅子の上で、猛獣に狙われた小動物のように、身体を振動させるわたし。その腕を、彼が取った。ガシッと。そのまま顔を近づけてくる。もうだめ、チビる。
「お前、バカか」
「……え? え?」
なになに。意味がわからない。パーフェクトな顔面が目に馴染みなさすぎて、クラクラと眩暈までしてきた。
「なんだ? フラれて心が傷つきました、学校が怖いですって」
「……え? だってだって」
唇が震える。だって本当のことなのに。
彼は机の上にあった一枚の紙を、ペラリと反対側の手に取る。わたしが書いた問診票だ。ソレに目を落とす。そらさないままに言う。
「橘 甘奈。十六歳。ふーん、甘奈っていうのか。オレと結婚したらお前、カンナカンナじゃん」
「エ?」
怯えて身も心も縮み上がっていたのだけど、イケメンから思いがけず食らった『ケッコン』なんてときめきワードに、図らずも頬が真っ赤に。
彼の胸元、透明なネームカードに目線をダウンさせる。黒い紐でぶら下がったソレには、目の前にいる彼の顔写真と名前。『神名 誠』。そっか。アレ、『カンナ』って読むんだ。
「ぶぁーか。赤くなってんじゃねーよ。冗談に決まってんだろ、ガキンチョが」
突き放すみたいにして、彼はわたしから手を離した。
怖くて泣きたい気持ちに、悔しい気持ちもプラスされる。
自分だって、どっちかって言うとガキンチョみたいな童顔のクセに。背も低いクセに。言えないけど。
彼はホイッと問診票をデスクに放り投げると、腕を組んだ。
「お前、もしかして処女か? まだ貫通してねーのか」
今度は、鼻血を噴いて後ろに倒れそうになった。
先程から、とてもカウンセラー様とは思えないような語彙が、その歯並びも美しい口から飛び出してきていますけど。
態度は偉そうだし、何が言いたいのかワケわからない。とにかく、まずはもうちょっと言葉を選んでいただきたいデス。
「なるほどな。お前、キッスもしたことねーだろ」
「キキキキキキ……!!」
この動揺かげんで、答えるまでもなく、未経験であることが明白に。
瞬間的に頭の熱が沸騰寸前にまで上昇したせいで、彼の吐いた単語の若干の違和感をスルーしてしまった。
彼は机にもたれかかって、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「情けないねぇ、十六にもなって。そんなだから、フラれたくらいでこんなトコに通うはめになるんだっつーの」
「ななななななな」
質問。わたしが受けているコレは、心療内科の診察、すなわちカウンセリングというものなのでしょうか?
誰が優秀? 誰がステキ?
いや、確かに顔は一級品。
だけど、花井先生。ソレを本気で言っているんだとしたら、先生が一度、誰か著名な方のカウンセリングを受けたほうがよろしいかと思います!
「しょうがねーな。こういうのはな、なまじヤンワリ対応してもムダなんだよ。時間ばかり食って、効果は小さじ一杯分ほどしかない」
彼は身を乗り出す。顔だけじゃなく、膝の上に置いた指先まで、本当に嫌味なくらいキレイ。その手で、もう一度わたしの腕を掴んだ。ゾクリ。嫌な予感。
「ショック療法がいちばん」
そして。
こちらに逃げる隙どころか、考える間も与えない素早さで。ぶちゅう。
……わたしの人格が、一瞬宇宙に旅立ちマシタ。
乙女の淡い憧れと、清純を奪ったヤツのお腹に、全身全霊を込めた蹴りをぶちかまし、わたしは泣きながら家へと逃げ帰ったのでした。
この地方都市でいちばん大きなターミナル駅からは、ちょっとだけ離れたところにある繁華街。中学生の頃からよく遊びにきていたけど、この近くにそういった類いのクリニックがあるなんて、今まで知らなかった。
でも、道に迷うことはない。スマホのナビ様が、わたしを導いてくれる。
ママの言うことも、一理あるかもしれない。
わたしが学校に行けないのは、望月くんの目や、周りのみんなの目が怖いことが大きな理由。
だけど、同じ学校に通う同級生や先輩に告白して、無事両想いになれなかった子なんて、わたし以外にもきっといる。それでも、みんなちゃんと学校に通ってきている。何日かは休んだとしたって、何週間も失恋のせいで休んでいるなんて、そんな話は聞いたことない。
もちろん、誰だって、恥ずかしいことは恥ずかしいんだと思う。
でも、一生懸命に笑い話にしたり、何か別のことに打ち込んだりして、できるだけ人の目を意識しないように頑張るんだ。恋が破れてしまったことへの悲しみも、そうやって一緒に乗り越えようとする。
そのうちに段々と、実際にどうでもいいことにシフトして行っちゃうって、本当はわたしだってわかっている。だけど、できない。
物心ついた頃から、そうだった。失敗するたびに外の世界から逃げ出して。
きっと、わたしの身体のどこかには、小さな鉄筋コンクリートの部屋があって、その中に、人並み程度には強いわたしが閉じ込められているんじゃないかなぁって思う。
だけど、ソコにはビックリするくらい、頑丈な鍵がかかっているんだ。
その鍵を、ひと思いに壊してしまいたい気持ちはある。このままじゃいけないってわかっている。でも、やっぱり怖い。ママの言う通り、わたしは人一倍メンタルが弱い子なんだ。
だけど、心療内科のカウンセラーさんなら、きっと、その鍵をするんって簡単に外しちゃえるんじゃないかな。わたしを怖がらせることなんてなく、精神的な痛みをともなうこともなく。
ママも言っていたけど、その道のプロなんだもん。
わたしなんかが想像もできないくらい、巧みな話術ってヤツで、わたしの中の奥の奥にいるわたしを、えい! って引きずり出してくれちゃうかも。
そうしたら、この重い心も、羽根が生えたみたいにふんわりするかも。すぐにでも学校に行きたくなるかも。
メンタル極弱な人間なりに考える。
これは、今まで甘々だったわたしが自分を変えられる、最初で最後のチャンスなのかもしれない。
目的のクリニックは、道を挟んでホテルの真向かいにあった。バス停から歩いて五分くらいのところ。
バイパスから一本奥に入った、片側一車線の道路沿いに建つ立派なホテルは、三階建てで、結婚式場を兼ねている。
毎週末に開催されるウェディング・フェアを垂れ幕や看板で前面に押し出した、白いお城みたいな建物。広い敷地をぐるっと細い鉄の柵が囲んでいて、緑色のツタのような植物が絡まっている。後ろには、チャペルのとんがった屋根がのぞいている。
オシャレなホテルとは真逆の雰囲気で、地味にひっそりとソレは建っていた。
一度スルーした。
おナビ様に従順な態度でいたので、わたしが向かっていた場所がソコだってことは、もちろんわかっていた。
あまつさえ、その建物を横目に眺めて、あまりにもオーラがなかったために(そもそもメンタルクリニックのオーラがどんなもんか知らない)、なるほど、これでは今まで気づかなかったはずだわい、と納得すらしていた。
それなのに、なぜ素直に門を叩かなかったのかというと。
ホテルの敷地の入り口、鉄柵の途切れたところに、いかにも仕事ができますふうの、パンツスーツスタイルのお姉さんが立っていたから。
今日そこで挙式予定の、新郎新婦の到着を待っていたのかもしれない。
仕事中であるわけだし、わたしのことなんか眼中からアウトだとは思う。自意識過剰だってこともわかっている。でも、恥ずかしかった。
女子高生が一人でメンタルクリニックを訪ねてくるなんて、思い切り不登校児感。しかも、こんな朝早くからなんて、相当切羽詰まって見えるんじゃないかな。
おまけに、今はゴールデンウィーク真っ只中だ。
誰もがウキウキ浮かれている最中だっていうのに、アナタは一人暗い気持ちでいるのね、なんて同情の目で見られたら、わたしがかわいそうすぎる。
一旦通り過ぎて、十メートルほど先に行ってUターンしてくる。余計に怪しい。
それでも踏ん切りがつかず、もう一度スルーしかけた時、脳裏にハッとママの鬼顔が浮かんだ。
もしこのまま断念して帰ったら、わたし、本気でママに殺されるかもしれない。バックレたら許さないって、すごい形相で言っていたもん。
嫌だそんなの。せめて、チューの味くらいは知ってから死にたい。
一時の恥より自分の命。旅は道連れ、恥はかき捨て。それはなんか違う気がするけども。
わたしは心を決めて、お姉さんの視線から逃れるようにして、クリニックの敷地に足を踏み入れた。
今時珍しい、舗装されていない、茶色い土がむき出しの地面。踏みしめるたびに乾いた土煙が立って、ローファーの爪先を汚す。ちらほらと雑草が目立つ狭い駐車場には、乗用車が三台停まっている。それだけで半分埋まってしまっている。
確かママの話では、クリニックの診療自体は午前九時からだったはず。スマホの画面に表示された時計を確認すると、まだ三十分以上早い。ということは、ココにある車の持ち主はみんな、わたしと同じ初診ということなのかな?
建物は、そばに寄れば寄るほど、ここは病院だよっていう主張がなかった。
看板もない。正面玄関の大きなガラスの扉に、自分の姿が映るまで近づいて、そこに小さく書かれた文字を読んで、ようやく目指していた病院だって確信が持てた。
クリニックの前の道路をただ通り過ぎただけでは、たぶん、そういう施設だって誰も気づかないと思う。
メンタル系の病院の特徴なのかな。わたしみたいに、人目を気にして入るのをためらってしまう患者は多そう。そのために、わざと察しにくい配慮がされているのかもしれない。
規模は、町の個人経営のクリニックと変わらないくらい。外壁は全体的に白いコンクリート。柱は淡いグリーン。駐車場は手入れが行き届いているとは言いづらいけど、建物自体はきちんと掃除されている印象。
玄関を入ってすぐの壁の右側には、靴箱が備えつけてある。小学校で使っていた靴箱と似た、蓋のない開放的なタイプ。シンプルな傘立て。
優しいピンク色の仕切りで、それ以上の室内の様子は、外から窺えない造りになっていた。
『神名メンタルクリニック』
磨き込まれたガラスの表面には、クリニックの名前だけで、他には何も記されていない。
「か、……かみ、な?」
読み方わかんない。ママが受付時間やらを書いておいてくれたメモにも、フリガナなんか振っていなかった。
握ったスマホに視線を落として、もう一度時間をチェック。八時二十分。
心臓がバクバクし始めてきた。風邪を引いた時に行くかかりつけの病院でさえ、毎回ドキドキしちゃうのに、初めて訪れる場所なんてなおさら怖い。
しかも、メンタルクリニックなんて。自分が、そういった場所に関わることになろうとは思ってもみなかった。
逃げ出したいけど、ここまできたら、もう覚悟を決めなくちゃ。震える手でスマホをスクールバッグにしまう。こぶしを握った。
大丈夫。ここは、心が弱った人のための病院。怖いことも痛いこともされるわけがない。
ガラスの扉をえいっと押す。内科の病院に入った時とそっくりの消毒臭い空気が、低い鼻先にブワッとぶつかった。
靴箱に入っていたピンク色のスリッパと、自分のローファーを交換する。学校指定の紺色のハイソックスの爪先が出る、ツルツルした素材のスリッパに履き替えて、いざ仕切りの内側へ。
入って右側に受付。小さな窓口に、医療事務の人がスタンバイしている。お金を置くトレイ。卓上カレンダー。一般的な病院と変わったところはない。
ただ、何のBGMもない。無音だ。これがメンタルクリニックのデフォルトなのかな? 有線を流すっていうムードでもないだろうけど、せめて歯医者さんの待合室みたいに、オルゴールのインストでもかけたらいいのに、と思う。
受付の正面には三列、横長の椅子が並んでいる。黒っぽくて、たぶん合成皮革。奥にも細長く室内が広がっていて、そっちにも同じ長椅子があるのが見える。診察室は、きっとそっちにあるんだ。
見た感じ、そんなに新しい病院ではないみたい。長椅子の革は破れている箇所があるし、部屋の角に置かれたイミテーションの花がくすんでいる。
受付前には、見事な等間隔で五人、患者さんが座っていた。わたしよりは年上だと思うけど、若い女性と男性が二人ずつ。白髪のオジサンが一人。
空気が重い。無反応。わたしが入ってきても、誰一人顔を上げない。みんな手元のスマホを凝視。精神的な方面の病院なんだから、当然と言えば当然か。自分のことで精一杯で、他人のことどころじゃないよね。
その中でも、けっこう重症っぽいな、と感じられたのは、最後列の椅子の端っこに座っている男の人。
視線はスマホの画面に注がれているんだけど、ちゃんと見えているのかな? って感じがする。
うまく説明できないけど、表面ではなくもっと、ずっと奥の深いところを覗き込んでいるみたいな。覗くと言うより、睨んでいるに近いかもしれない。まとっている空気も、どことなく暗い。
就活が終わったばかりっぽい雰囲気だし、社会に出て、辛いことでもあったのだろうか。大人になるって、大変だ。
とりあえず受付を済ませないと。恐る恐るすり足で窓口に近づく。
桃色の水彩絵の具を水で溶かしたみたいな、白ではないから白衣と呼ぶべきなのか迷うところだけど、医療の従事者が着るオーソドックスな制服を身につけたお姉さんが、手元の書類らしきものから目線を上げた。
ロングの髪を後ろで一本にまとめた、キレイ系の美人さんだ。
「アノ、あの、あの、た、橘です、ケド……」
出だし、声が裏返った。受付のお姉さんが顔色一つ変えないから、それはそれで余計に顔が火照る。
「あァ、橘 甘奈さんですねェ? 保険証ゥオ、お願いしますゥ」
キリリとした顔つきから出た言葉は、語尾がやたら上がっていた。
待って。こっちが噴き出しそうになるってば。でも、おかげで緊張が解けた。
「ほ、保険証」
肩に引っかけたスクールバッグ。そのファスナーを開けて、中からデニム地のお財布を引っ張り出す。ママから預かってきた国民保険証を取り出した。
「はいィ、確かにィ。紹介状はァ、ありますかァ?」
受付前の青いトレイに乗せた保険証を確認してから、お姉さんは言葉のお尻をキンキン響かせながら言う。
この声、というか喋り方、わたしはものすっごく気になるけど、他の患者さんはへっちゃらなんだろうか。背後の様子を確かめたいところだけど、無理だ。
「しょ、紹介状? え、えと、ないですが……」
アワアワと答える。
紹介状って何? ないと診察してもらえないの? 聞いていない。ここにくることだって今朝いきなり宣告されたわけで、いろんな準備が間に合っていない。
「わかりましたァ。ではァ、お声をおかけするまでェ、座ってお待ちくださいィ」
「は、はい……」
切り抜けた……でも、なんだかすでに疲労が。
ややぐったりとする身体を引きずり、いちばん後ろの長椅子に座る。例の、目つきがなんとなく怖い、新卒のサラリーマン的な男性の右隣だ。
進んで座りたいわけではないけど、しかたない。どの長椅子も人が左右の端を陣取っていて、その真ん中に押し入っていく勇気は、ミジンコの心臓をしたわたしにはない。
でも、それから五分もしないうちに、先程のお姉さんに名前を呼ばれた。再び受付へ。プリントを渡される。問診票だ。
「こちらにご記入くださいィ。終わりましたらァ、受付へお持ちくださいィ」
なるほど。種類は違っても、病院はやっぱり病院。診察のプロセスに、それほど違いはないらしい。受付担当者の喋り方は別にして。
クリップボードごと受け取ったソレを持って、長椅子に戻る。根が真面目なので、努めて正直に質問に答えていった。
氏名。生年月日。満年齢。身体の不調はありますか。それはどのような症状ですか。いつ頃からですか。思い当たる原因はありますか……
症状。朝、学校に行こうとすると足がすくんでしまう。前の日の夜から、翌日のことを考えると気分が重い。眠れないことも。始まったのは四月の始め。二年生に進級してすぐ。片想いしていたクラスの男子に告白して、フラれて、それから学校が怖い。
書いているうちに、恥ずかしいを通り越して、泣きたくなってきた。
なんてバカらしい原因。文字にすると、より際立つ。そのバカらしいことに深刻な自分が情けない。
自覚はしていたつもりだけど、わたしって本当にメンタルが軟弱すぎる。こんなの、カウンセラーさんも呆れちゃわないかな。
鼻をスンとすする。あいかわらず、わたしの動作に周りは身じろぎ一つしない。そのほうがラクだ。
問診票の空欄をすべて埋め終えると、受付へ持っていった。
それから三十分はかからなかったと思う。その間に、わたしより先にきていた人たちが、次々呼ばれて立ったり座ったりを繰り返した。
緊張、プラス自分の情けなさへの落ち込み。気をいくらかでも紛らせようと、スマホでエンタメニュースを読む。でも、文字はすべて頭を上滑りだ。
「橘 甘奈さん」
受付とはまったく別の方向から呼ばれて、頭を上げる。
座った左側の奥には、廊下が長く伸びていて、小さな部屋が四つある。その中の一つのドアが開いていた。
そこから、受付の語尾上がりお姉さんと同じ白衣を着た、別の女の人が顔を出しているのが、うつむいた男性の頭の向こうに見えた。
「こちらへどうぞ」
優しそうな笑顔。心臓が、ひときわ大きくドキンと弾んだ。いよいよだ。
あの女の人が、わたしの担当のカウンセラーさんなのかな。どんなことを言われるんだろう。どんなふうに、わたしの弱った心を治してくれるんだろう。
「はい」
慌てて立ち上がり、通り越していく時に、男性が笑った気がした。気のせいかな。
『問診室』。白いドアの表に貼られたプレートには、そう書かれていた。
中は窮屈な事務所みたい。窓がなくて、机が壁側に向いている。キャスター付きのオフィスチェアに、さっきの女性が座っていた。その背後には奥の部屋に続く扉と本棚が並んでいて、難しいタイトルの本がぎっしりと詰まっている。
診察室って書かれた部屋は、別にあった。ということは、ここではまだ診察はしないってことなのかな。そもそも、メンタルクリニックの診察ってどういうものなんだろう。
「橘 甘奈さん。はじめまして。カウンセラーの花井です。よろしくね」
ゆるくパーマのかかった長い髪を、後ろで一つに束ねた花井先生は、わたしが部屋に入ると、そう言ってにこやかに笑ってくれた。わたしもペコリとおじぎをする。
「よ、よろしくお願いシマス……」
「緊張しなくていいからね」
「は、はい。……カウンセラー」
「うん、そう。初めて聞くかな? こういう心療内科の病院とか、最近では会社とか、学校とかにも常駐しているんだけど。話を聞いて、悩みからくる身体の不調だとかを解決するお手伝いをする人のことを言うの」
「あ、いいえ……」
もちろん、初めて聞くわけじゃない。わたしが通う学校にはいないけど、そういう職業の人がいるってことは、知識として前からあった。
でも、実際に会うのは初めてだ。なんだか芸能人と会う時のような、不思議な興奮がある。
「じゃあ、そこに座ってください」
促されて、花井先生が座る隣の丸椅子に腰を下ろした。こっちもキャスター付き。くるくる動かしたい衝動に駆られるけど、子供っぽいから我慢しなきゃ。
花井先生と向かい合うと、学校の二者面談より断然近い。女同士だけど、妙にドギマギしてしまう。花井先生の胸元にぶら下がったプラスチック製のネームカードが、蛍光灯の明かりにキラリと光った。
「うふふ。制服。ゴールデンウィークなのに?」
「あ、エヘ……変です、よね? いつも着てないクセに」
花井先生の手には、わたしがさっき書いた問診票。わたしがずっと登校拒否をしていることは、すでにわかっているはず。
「いいんじゃない? 似合っていて可愛いわ。こういうところにくるの緊張しちゃうだろうから、気合いを入れるのにもよさそうよね」
「そ、そなんデス!」
「うふふ。じゃあ、早速、いろいろ確認をさせてもらっていいかな?」
花井先生は、たぶんママより少し若い。うっすらとナチュラルな感じのメイクが似合っていて、フワフワと甘い匂いがする。目の下にホクロが一つ。笑うとソレがきゅっと上に持ち上がるのが、なんとなく可愛いらしかった。
不登校なの、ぜんぜん怒られなかった。こんな安心感のあるカウンセラーさんにだったら、何でも話せそう。
きっと何度かここに通って、花井先生とお喋りしながら、少しずつ気持ちを前向きにしていくんだ。ビビって損しちゃった。
ところがどっこい。違った。花井先生は、本当に確認しただけ。
わたしが書いた問診票を見ながら、その内容について、一つ一つ間違いがないか確かめただけ。その工程って必要? ってあとから思ったけど、シロートにはわからない重要な目的があるのかもしれない。
全部の項目をチェックし終えると、花井先生は名前の通り、花のような笑顔で言った。
「わかりました。ありがとうございます。では、担当の先生によく伝えておきますね」
「エ?」
思わず顔がはにわになる。
「橘さんはね、院長先生のご子息先生が直々にお話を聞いてくださいますから。あ、でも、緊張しなくて大丈夫よ? とても優秀で、とてもステキな先生だから。リラックスして、たくさんお話してくださいね」
そして、わたしはまたもや待合室にいた。
問診室には、時間にしたら十分もいなかったと思う。その間に、待合室には座るスペースがないほど、患者さんがドッと増えていた。
しかたなく、今度は受付の前じゃなくて、廊下に設置された長椅子のそばで立って待つ。二十分くらいボンヤリしていたかも。ショックでスマホを手に取る気も起こらなかった。
……ご子息って言った?
それって、男のカウンセラーってことだよね? しかも、院長の息子? そういうステイタスのある人って、なんかめちゃくちゃプライドが高そうなイメージ。
そんな人相手に、リラックスなんてできるかな。でも、花井先生はステキな先生だって言っていたし……え、でも、男の人に失恋の話するの?
花井先生の和やかスマイルで、せっかく一安心したところだったのに。またグルグル不安になる。
逃げ出したい気持ちが復活しかけた時、絶妙なタイミングで受付のお姉さんが廊下まで出てきて、角からこちらに顔をのぞかせた。
「橘 甘奈さン。第三診察室へェ、お入りくださいィ」
もう逃げられない。この時の心臓の引っくり返り具合。たぶん予感だったんだと、あとになって思った。
『第三診察室』。
さっき入った問診室の一つ奥。つまり、長椅子の端に立ったわたしから見ると、建物のいちばん左の端に、ソレは位置した。
わたしはリノリウムの床をスリッパの底で擦るようにして、ちょっとずつ近づき、重い腕を持ち上げて、その部屋の扉をノック。
「どうぞ」
わかってはいたけど、男の人の声だ。低い。いや、女性でも低い声やハスキーな声の人はいるけれども。それは、はっきりとわかる男性特有の声質。
聴いた限りでは張りがあって、若者っぽい雰囲気だ。そもそも院長先生を知らないから、その息子って言われても、いったい何歳くらいの先生なのか、サッパリ見当がつかない。
年齢はともかく、花井先生みたいな優しい人だといいな。
「……シ、失礼します」
また声が裏返っちゃった。メンタルへなちょこすぎ。
一歩室内に足を踏み入れたとたん、ド肝を抜かれた。
これまでわたしが出会った、『先生』って呼ばれる人たち。病院の先生、学校の先生、塾の講師も然り。その人たちは大抵黒髪だった。たまに白髪のおじいちゃん先生がいて、髪の毛自体がない人もいたけど。
ところが、目の前で横顔を向けている『ご子息先生』は、なんとグレー! どっちかって言うと、シルバーに近い。おまけに、前髪に青いメッシュ。
ファンキーすぎる髪の色に、目がチカチカしてしまう。何かしらの原因があって髪色が抜けちゃったとか、そんなんじゃないのは一目瞭然。加齢のせいでもないと思う。
だって、どう老けて見積もったって、そこに座っている彼は、せいぜい二十代の前半にしか見えない。なんたってメッシュ。絶対的に人工でしょ。
ド肝を抜くポイントは、それだけじゃなかった。
超絶イケメン!
まだ正面から拝見していないのに、その目鼻の整い方が尋常じゃないことがすでにわかる。
こんなウルトラ美形がこんな地方の街にいたなんて。いや、この辺の出身とは限らないか。院長先生ともども、都会から通ってきているって可能性もある。
見れば見るほど、モデルが泣いて逃げ出しそうなルックス。
難を挙げるとすれば、背が少し低いところかな。椅子に座っているから正確な身長はわからないけど、パッと見た感じ、百七十センチまではなさそう。愛しの君、望月くんのほうがぜんぜん高い。
その部屋も、問診室とほとんど同じ造りだった。若干こっちが広いくらい。机が壁のほうを向いて置かれていて、椅子は二個。イケメンご子息が座っているオフィスチェアと、隣に丸椅子。彼を通り越して奥には、別の部屋へ続く扉があって、本棚がある。やっぱりこ難しい書籍がぎっちり。
ただ、机が向いた先に、大きな窓があるところだけが違っていた。ブラインドが上がっていて、朝の太陽光に青メッシュがピカピカ光っている。
花井先生はわたしが部屋に入ったことがわかると、自分から挨拶してくれた。でも、彼の場合はそうじゃなかった。
「なに」
机に向かったままでボツッと言われたから、本気で聞き取れなかった。
「え?」
わたしが目を丸くしていると、やっと椅子を回転させて、こっちを向いた。
薄いピンク色の白衣からのぞくスラッと細い足を、偉そうに組んでいる。不機嫌に上がった眉尻。への字口。
「なに突っ立ってんだっつーの。問診受けただろ? 同じように座れよ。イチイチ指図受けねーと動けねーのかよ。園児か」
「……フ」
――――フェエエエエエ~!!???
なになになに!? 超怖い!! ものすごく逃げ出したい!!
だけど、身体がカチンと凍りついたみたいに固くなってしまって、とても無理。足がすくんで無理。アワアワとたちまち顔が青くなる。心拍数上昇。
「座れ」
彼は顎で自分の目の前の椅子を指す。
言う通りにしないと、ブン殴られそうで怖い。でも、そんな至近距離に近づくのも怖すぎる。ドアに背をつけたまま、わたしは動けない。
「す・わ・れ」
こちらを吸い込みそうに大きな目をさらに見開いて、彼はすごんできた。
足をガクガクさせながら、まるでロボットみたいな動きで、やっとの思いでわたしは椅子に座る。美しすぎる顔面がすぐ近くに。でも、感動とか見惚れるとかより何より、とにかく怖い。身体のブルブルが止まらない。ヤバイ。涙が出そう。
椅子の上で、猛獣に狙われた小動物のように、身体を振動させるわたし。その腕を、彼が取った。ガシッと。そのまま顔を近づけてくる。もうだめ、チビる。
「お前、バカか」
「……え? え?」
なになに。意味がわからない。パーフェクトな顔面が目に馴染みなさすぎて、クラクラと眩暈までしてきた。
「なんだ? フラれて心が傷つきました、学校が怖いですって」
「……え? だってだって」
唇が震える。だって本当のことなのに。
彼は机の上にあった一枚の紙を、ペラリと反対側の手に取る。わたしが書いた問診票だ。ソレに目を落とす。そらさないままに言う。
「橘 甘奈。十六歳。ふーん、甘奈っていうのか。オレと結婚したらお前、カンナカンナじゃん」
「エ?」
怯えて身も心も縮み上がっていたのだけど、イケメンから思いがけず食らった『ケッコン』なんてときめきワードに、図らずも頬が真っ赤に。
彼の胸元、透明なネームカードに目線をダウンさせる。黒い紐でぶら下がったソレには、目の前にいる彼の顔写真と名前。『神名 誠』。そっか。アレ、『カンナ』って読むんだ。
「ぶぁーか。赤くなってんじゃねーよ。冗談に決まってんだろ、ガキンチョが」
突き放すみたいにして、彼はわたしから手を離した。
怖くて泣きたい気持ちに、悔しい気持ちもプラスされる。
自分だって、どっちかって言うとガキンチョみたいな童顔のクセに。背も低いクセに。言えないけど。
彼はホイッと問診票をデスクに放り投げると、腕を組んだ。
「お前、もしかして処女か? まだ貫通してねーのか」
今度は、鼻血を噴いて後ろに倒れそうになった。
先程から、とてもカウンセラー様とは思えないような語彙が、その歯並びも美しい口から飛び出してきていますけど。
態度は偉そうだし、何が言いたいのかワケわからない。とにかく、まずはもうちょっと言葉を選んでいただきたいデス。
「なるほどな。お前、キッスもしたことねーだろ」
「キキキキキキ……!!」
この動揺かげんで、答えるまでもなく、未経験であることが明白に。
瞬間的に頭の熱が沸騰寸前にまで上昇したせいで、彼の吐いた単語の若干の違和感をスルーしてしまった。
彼は机にもたれかかって、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「情けないねぇ、十六にもなって。そんなだから、フラれたくらいでこんなトコに通うはめになるんだっつーの」
「ななななななな」
質問。わたしが受けているコレは、心療内科の診察、すなわちカウンセリングというものなのでしょうか?
誰が優秀? 誰がステキ?
いや、確かに顔は一級品。
だけど、花井先生。ソレを本気で言っているんだとしたら、先生が一度、誰か著名な方のカウンセリングを受けたほうがよろしいかと思います!
「しょうがねーな。こういうのはな、なまじヤンワリ対応してもムダなんだよ。時間ばかり食って、効果は小さじ一杯分ほどしかない」
彼は身を乗り出す。顔だけじゃなく、膝の上に置いた指先まで、本当に嫌味なくらいキレイ。その手で、もう一度わたしの腕を掴んだ。ゾクリ。嫌な予感。
「ショック療法がいちばん」
そして。
こちらに逃げる隙どころか、考える間も与えない素早さで。ぶちゅう。
……わたしの人格が、一瞬宇宙に旅立ちマシタ。
乙女の淡い憧れと、清純を奪ったヤツのお腹に、全身全霊を込めた蹴りをぶちかまし、わたしは泣きながら家へと逃げ帰ったのでした。
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