Rain man

朋藤チルヲ

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 来た時とは違うカラーリングのタクシーに乗って、病院を出た。

 パパのことはひとまず置いてきた。
 病院にいる間に、パパの会社の事務員さんが連絡をくれて、葬儀会社をこれから決めるらしい。決まったら葬儀会社の人が、専用の車でパパを病院から自宅まで運んでくれるそうだ。
 パパの身体は今夜中に、私が望む望まざるにかかわらずに、自動的に我が家に戻ってくる。

 今夜は家に誰がいるかと訊かれたので、私しかいないと答えたら、事務員さんの声はとても低くなった。
 あの時の看護師さんと、まったく同じ表情をする事務員さんの顔が、電話越しに見えるようだと思った。

 私はかわいそうな子供なのだろうか。
 たった一人の家族を失ったのだから、周りから見れば、確かにかわいそうなんだろう。まったく悲しんでいないから、なんだか申し訳なくなる。

 タクシーは直接アパートには向かわなかった。ファミレスで停まり、大家さんを窺うと、好きなものを食べなさい、と笑った。
 そこで初めて、お昼ごはんの時間をとうに過ぎていたことを知る。

 だけど、せっかく寄ってくれたのに、びっくりするくらいお腹が空いていない。喉も乾いていない。大袈裟じゃなく、病院に着く前から水の一滴も飲んでいないし、あれだけ泣いたというのに。

 でも、大家さんは何か食べないと許してくれなそうな雰囲気で、しかたなくバニラのアイスクリームを一つ。あとは、ドリンクバーでカルピスソーダを一杯だけ飲んだ。

 腫れぼったいまぶたと心で、絶え間なく朝日のことを想っていた。大家さんは私に気を遣ってか、ほとんど口を開かなかったので、私は存分に物思いにふけることができた。

 ごはんは食べただろうか。セーターの肩口は完全に乾いただろうか。来て欲しくない人が訪ねてきてはいないだろうか。ギターの音は鳴っているのだろうか。

 朝日とレインがあの部屋に変わらずいてくれることを、早く確認したくてたまらない。

 大家さんは、パパを迎える時には自分も一緒にいようかと言ってくれた。それはたぶん、私を一人にしないようにという配慮。
 偽善だとしても、気に留めてくれる人がいるってことは、ありがたいと思う。でも、断った。

 明日からはきっと慌ただしくなる。今日だけは一人きりで気持ちの整理をしたい。私はそう言った。もちろんでまかせだ。一人きりになるつもりなんてない。

 普通に考えたら、死んだ父親を、中学生がたった一人で待つことは耐えられないことだろうし、たぶん嘘だってバレバレだと思う。でも、大家さんはすんなり納得した。

 私を部屋の前まで送ると、大家さんは隣のドアをチラリと見やって、言いにくそうに、でも、これだけはといった覚悟を滲ませて口を開いた。

「お隣さんとは……仲がいいの?」

 私はうつろな瞳のままじっと大家さんを見て、少し考えてから、小さく頷いた。

 やっぱり訊かれたかって思った。
 朝日のことを探られたくはないけど、大家さんには、二人で出かけていたところを見られている。隠したら余計に変だ。

「そう……でも、あんまり深入りしちゃだめよ。優しそうに見えるけど……なんだか得体が知れない人だから」

 大家さんは、朝日との関係を深く突っ込んで訊こうとはせずに、一緒にいることを咎めることもなかった。心配してくれていただけなんだ。

 特別お節介だとは思わない。思春期で、しかも不登校の女子が、職業不詳の独身男性と親しげにしているのだ。常識ある大人なら、誰でも心配する。

 本当は守秘義務ってやつがあるんだけどね、と前置きしてから、大家さんは小声で続けた。

「部屋を貸してほしいって言っていきなり現れた時、ほとんど手ぶらだったんだよ。それなのに、現金で百万円、ぽんと出してきてね」
「百万円……」

 それは大金だ。

「このお金でしばらく住まわせてくれって。余った時は返さなくていい、出る際に荷物を置いていくから、そのお金で処分してくれって言ってね。なんだか怪しいでしょう?」

 私の知らない話。
 でも、矛盾も疑問もない。
 朝日の仕事は特殊中の特殊だから、一般人から見たら、話す事や行動が奇異に映ることもある。でも、知っている私にとっては、それらはぜんぜん驚くような事実じゃなかった。

 ただ、朝日に対して、もう少し器用にやったらいいのになと少しだけ呆れはした。

「部屋を貸してしまった私が言うことじゃあないと思うけど。この頃は物騒だからね。子供を狙う犯罪者だって多いし。気をつけるに越したことはないから」

 その言葉に、私はふっと頬を緩める。

 大家さんは鋭い。朝日は本当に犯罪者だ。
 だけど、おそらく子供にとっていちばん安心できる犯罪者だ。
 あの殺し屋はとても頑固な性格で、子供からの依頼は絶対に受け付けない。子供を手にかけるような人だったら、とっくの昔に私はここにいないだろう。

 私はこの機に、気にかけていたことを尋ねてみた。
 刑事を騙ったあの男たちが、パパを連れていった時のことだ。
 あれだけ通路で騒いでいたのに、大家さんが呼ばれて駆けつけることはなかった。もちろん、私はその男たちのことを何も知らない体で問いかけた。

 大家さんはその騒ぎを知らなかった。
 その日のその時間、大家さんは外出していて、管理人室兼自室にはいなかったらしい。あとになって、わざわざ報告する住人もいなかったってことだろう。

「こう言ってはなんだけど、お父さんはトラブルメーカーだったからね。酔っ払って誰とも知らない相手に、いちゃもんつけることもしょっちゅうで」

 大家さんはそう言って困ったように笑うと、断ったのに、「葬儀屋さんが来たら呼んでちょうだい」と言い残して、下の階へ下りて行った。

 私はそのドアのインターホンを押そうとして、やめて、ノブをひねった。鍵は開いていた。

 その瞬間、聞き慣れたギターの音色が、先の空間から押し寄せるように流れてきた。
 それは耳たぶをくすぐり、心を優しく撫で、私の後ろへと流れていく。閉じ込めたくてドアを閉めた。

 窮屈なローファーを脱ぐ。玄関に脱いであった、大きなサイズの黒いブーツを飛び越えて、部屋の奥へと駆けていった。

 静かで、哀愁を感じさせるその旋律には、聞き覚えがあった。

「Romance de Amor……」

『メンフィス・ベル』の『アメイジング・グレイス』同様、それもまた有名映画の劇中歌だった。

 心臓をぐっと鷲掴みにされる。胸の奥できゅっと縮んで、息が止まりそうになるくらい、痛くて悲しい気持ちになる。

 まるで歌うように、まるでほろほろと透明な涙を零すように、音を紡ぎ出すミュージシャンを、私は他に知らない。

 朝日はいつものように窓を開け放って、床にあぐらをかいて、ギターを弾いていた。足元にはレインが丸まっている。
 夕焼け色の絵の具を少し混ぜ合わせたような太陽の光が、朝日の頬とレインの背中で、ゆらゆらと踊っていた。

 私の顔を見ると、朝日はたおやかに微笑んだ。
 とたんに、全身の力が蒸発していくような感覚に襲われて、倒れ込む前にと近づき、横に座り込む。

 自分の頬が濡れているのがわかった。
 安心したからなのか、孤独な自分を訴えたいのか、今の曲に感化されたからなのか、わからない。

 そんな私の顔を、朝日は手を止めて、じっと見つめてきた。すっと手を伸ばして、細くしとやかな指でわたしの頬に触れる。そして言った。

「……おかえり」
「ただいま……」

 生まれてから十三年。こんな日常的なやり取りすら、私は誰とも交わしたことがなかった。

 たったそれだけで、渇いてひび割れた地面に、雪解け水が注ぎ込まれるような感じがした。水が隅々まで行き渡り、潤って、溢れ出す。
 それは、自分の存在を、ここに今生きていることを、ちゃんと認めてくれる言葉。
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