Rain man

朋藤チルヲ

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clover

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 太陽の光に照らされたベランダの境を越えるのは、深夜に同じことをするよりもずっと簡単だった。

 ただ、誰かに見られて通報される可能性はもちろん、明るいほうが高い。下の道路を通る人たちや周りの建物の住人たちが、忙しい朝の日常に追われて、私に気づかないことを祈るしかなかった。

 コンクリートのザラザラした床であっても、素足がつくとほっとする。でも、足の裏はまた汚れた。初めてここに訪れた時と同じで、まるで時計が巻き戻されたみたいに思える。
 あの夜とは違うと教えているのは、散らばったカタバミ。私の手は、ハート型の葉がついたままの一本を、そっと拾い上げていた。

 雪模様のカーテンが開いている。そのガラスに顔を寄せる。ただでさえ光が反射して見えにくいのに、白い息がぶつかって曇り、向こう側がよく見通せない。呼吸を止めようと思えば思うほど、肩でする息は上がっていって、ますます視界を悪くした。

 やがて、ガラス越しに見知った姿形が現れた。その足元には、黒いふわふわとした輪郭も見える。
 窓が開くと、私は北風のようにするりと室内に入り込み、待っていられないように朝日の腕を掴んだ。

「朝日……逃げて!」
「凛子」

 こんな時でも落ち着いている朝日の表情が、こんな時だから腹立たしい。

「パパが……パパが帰ってきた! ごめん、ごめんなさい。私が鍵をかけ忘れたから……ねぇ、きっとすぐにあの男たちがまた来る。パパも追ってくる!」

 パパは、私が隣の部屋に逃げたと気づいたに違いない。怪我をさせたし、きっとすごい剣幕で怒鳴り込んでくるはず。朝日が危ない。組織の人間だというあの男たちがやって来るのだって、時間の問題だ。どちらにしたって、ここにいたら危ない。

 朝日に会えなくなるのは嫌だけど、危険な目にも遭わせたくない。なんなら、私も一緒に逃げたっていい。朝日とレインと一緒なら、知らない街でもきっと暮らしていける。そう言おうとした私を、朝日の目と声が制した。

「凛子、落ち着いて。お父さんのことは大丈夫」

 吸い込んでくるかのような朝日の目が、至近距離でじっと見つめてくる。私は一旦口を閉じた。

「……で、でも、ベランダに出たところを見られたんだよ。朝日は顔を見られたし、すぐにここにいることがバレちゃう」

 パパが今にも玄関のドアを壊れんばかりに叩いてきそうで、朝日の肩越しにちらちらと、そちらの方角を窺った。

「大丈夫」

 朝日はもう一度、私を説き伏せるみたいに言った。
 アメイジング・グレイスを歌った声で「大丈夫」と言われると、どんな危機的状況でも、本当に大丈夫だと思えてきそうで不思議だ。

「お父さんは、凛子が僕と一緒にいたと気づいていないでしょう?」
「……たぶん」

 勘がいい人なら気づくかもだけれど、パパは鈍い。

 心配なのは、洗濯機の中に放り込まれたままの汚れ物。あの中には、朝日の物もある。
 でも、パパは普段、洗濯機に触りもしない。私がいない間、自分の汚れ物はほったらかしだった。だから、いよいよ着る物に困って洗濯するしかないって時までは、たぶん気づかれないだろう。その際にだってまさか、誰の汚れ物なのか、一枚一枚チェックするなんて気色悪いことはしないだろうし。

「じゃあ、大丈夫だよ」
「でも、私がこの部屋に行ったってことは、たぶんわかってるよ」
「それだって、別に恐れることはないよ」

 朝日は柔らかく微笑む。

「もし怒鳴り込んでこられたとして、来たのは来たけど、通り抜けてどこかへ行ってしまったと僕が言えばいい。そうしたらもう、凛子の行方は誰にもわからない」
「でも……朝日、パパに殴られたりしない?」

 ふっ、と私の顔に温かい息をぶつけて、目を細めながら朝日が笑った。

「僕は、プロの殺し屋だよ」

 みすみす素人の攻撃にやられることはない、と言いたいんだろう。それもそうかと思う。

「そ……そっか。でも、パパはそれでいいとしても」
「でも、でもって、凛子の中では、不安の雪崩が起きているみたいだね」

 朝日は私の腕を丁寧にほどき、雷を怖がる子供をなだめるみたいに、私の背中に自分の腕を回した。

「それも、大丈夫。僕はこれまで様々な修羅場を越えてきた。凛子が心配するようなことにはならないから、安心してほしい」

 そう言って、また私をじっと見る。

 朝日のセリフは、根拠らしいことは何も言っていない。それでも私は納得したし、納得するしかなかった。

「それよりも」

 朝日は悲しい目をする。

「凛子は……大丈夫?」

 その時、たまたまなのだろうけど、レインのぴんと立てた尻尾が私の足を撫でて、その優しい感触にはっとした。違う感情の蓋がぱっと開いた気がした。

 耳の奥で、パパの声がこだまする。

『お前のことなんか、一秒だって可愛いと思ったことなかった。だから、母親だって捨てたんだ。お前を愛しているやつなんか、この世に一人もいない』

 そんなことは、とっくに知っていた。
 うぬぼれたことなんか、一度もないつもりだった。
 私はいつも一人で、それ以上でも以下でもなかった。
 一人でだって、生活を楽しむ方法を知っていた。
 多くを望まないで、与えられたものだけで、日々をこなしていく知恵を身につけた。

 愛されなくたって、うまく生きていたはずなのに。

 どうしてこんなに、壊れたバケツから水が溢れ出すように、胸から痛みがとめどなく溢れて止まらないんだろう。

「……朝日」

 見開かれた私の二つの目からは、ボタボタと大粒の涙が零れ出していた。
 足がガクガクと震える。全身に倦怠感が蔓延する。ついに力が抜けた膝小僧が、両方とも硬い床にぶつかるのと同時に、私は小さな緑色の葉に指を近づけた。

 私はいつも、この小さな可愛らしい葉に、自分を傷つけた人たちの悲運を願った。
 でも、今は、何よりも、誰よりもいちばん、私が消えたい。今、葉を千切る。

「私を殺してぇ……!」

 朝日は私と同じようにひざまずくと、あっという間に私を抱きすくめた。
 手首をきつく握られて、私の手から萎れかけたカタバミが解き放たれる。乗せた顎に感じる朝日の肩の感触は、見た目よりもずっと筋肉質で逞しかった。

「僕は、子供からの依頼は受けつけないよ」

 淡く、柔らかく、透き通ったいつも通りの声で、朝日は言った。

「後払いもだめだ」

 愛されることも、殺されることも、叶わない。
 それじゃあ、私はいったいどうしたら救われるの。

 涙が頬を転がり、ぽとぽと落ちて、朝日のセーターを湿らせていく。編み込まれた毛糸が、瞬く間に悲しみを吸い込む。そのおかげで、とてつもなく膨らんで暴れ出すことはなかった。

 朝日の胸も、肩も、腕も、全部が温かい。熱いくらい。濡れたパーカーだけでなく、私を浸食し始めていた濁った水溜まりまで、するすると蒸発させられていくようだった。

「泣くことは、悪いことじゃない」

 耳のすぐそばで、朝日の声が響いた。

「取り巻く状況は変わらないかもしれないけど、自分の中のずっと奥のほうで、変わるものは必ずあるから。泣かなきゃだめなんだ、凛子。泣きなさい」

 優しい声。
 私のことを、朝日は聖母みたいな温もりだって言ったけど。その声も、温かさも、朝日こそそうなんじゃないかって、私は思う。

「……変わる?」

 目をきゅっと閉じると、涙の粒が押し出されて零れていく。次々に生まれてくる新しい涙は、出口を塞いでも易々とこじ開けていく。
 終わりを知らない涙に、溺れてしまうんじゃないかと思う。朝日の熱が少しずつ私を乾かしていくのと、どっちが早いだろう。

「変わるよ」
「……本当に?」
「本当に」
「……身体中が痛くてたまらない。バラバラになりそう」
「大丈夫。僕が押さえてる」
「……消えないの。シミが……黒いシミが……」

 絨毯に広がった、苦々しいシミが。私の中に広がる、禍々しいシミが。

「消えるよ。大丈夫。消える」
「……朝日。朝日は、どうして泣くの?」

 どうして、泣きながら人を撃つの。

「生きていかなきゃならないからだよ」
「……どうして、生きるの?」

 どうして、私は独りぼっちで生きていかなきゃいけないの。

「僕にはやらなきゃいけないことがあるからだ。誰にでも、そういうものがあるんだよ。凛子にも必ずある」

 この世には、絶対なんてものはないと思っていた。
 だから、裏切られる前にすべて諦めてきた。
 だけど、朝日の言う「必ず」には、信じられる強さを感じる。どうしてなんだろう。

「凛子。涙を見せないことが強いわけじゃないんだよ。もしそうなら、人は神様から涙を与えられるはずがないでしょう? 泣くから……泣きながら、人は強く優しくなれるんだよ」

 泣いても、悲しみはきっと変わらない。
 開いた傷口から溢れ出る鮮血が、すぐにでも止まって、かさぶたにもならずきれいに治るなんてことはない。

 だけど、その悲しみを、痛みを、自分で優しく抱きしめてあげることはできる気がする。傷の深さも、悲しみの大きさも認めて、痛いねって、悲しいねって、自分に共感してあげることはできる気がする。

 そうすると、自分の中の愛情にふと気づく。
 自分という人間に、少しだけ愛着が持てる。
 生きていてもいいんじゃないかなって自信が、ほんのりと燃え始める。
 こんな私でも、誰かを慈しむことができるんじゃないかって思う。

 こうして朝日に抱きしめられていると、そんな思いが湧いてくる。

 泣くってことは、たぶん、そういう力を連れてきてくれるものなのかもしれない。朝日が言う強くなるってことは、優しくなるってことは、そういうことなのかもしれない。
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