cranberry soda

朋藤チルヲ

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 グレーのスーツ。その上に羽織ったカーキ色のロングコート。シルバーのバックルが朝日を反射している革靴の、片方は脱げてはるか彼方。白い靴下の薄汚れたかかとが、雲一つない青空を仰いでいる。そっぽを向いて伏せられた顔。栗毛色の後頭部。

 震える手でハンドバッグに手を差し込んで、中にあるスマホを握った。

 これは、事故? それとも事件?
 どちらにしたって、素通りできるはずもない。

 心臓が激しく収縮する。その音が耳を拡声器にして、無人の公園に響き渡る気がする。
 そう。誰もいないのだ。
 普段だったら、朝が早いとは言っても、ジョギング中の若い男性であったり、小型犬を連れた老婦人であったり、誰かしら遭遇するのに。今日に限って、まだ一人もすれ違っていない。来た道を振り返っても、人が近づいてきそうな気配すらなかった。

 とりあえず警察だ。泣き出しそうになりながら、スマホを取り出す。
 でも、何て説明すればいいんだろう?
 公園に男性の死体が転がっています。
 おそらくそれで伝わるし、済むはず。
 でも、もしかしたら、怪しい人を見なかったかだとか、周囲に変わったところはないかとか、他に細かいことを尋ねられるかもしれない。
 パニックになっている頭の中に、なぜか冷静な、遅刻、の単語がよぎる。その一瞬、人として本当に最低だとわかっているのに、面倒、という思いが湧き上がってしまった。
 その時。

「う」
 ごくかすかなうめき声。
「ううう」

 横たわっていた男性はおぼつかなく身体を起こして、四つん這いになった。固そうに背中を反ったかと思うと、うなだれていた頭を上げた。

「うわわわわ、生き返った!」

 最低なことを考えたわたしに神様が怒って、天罰を与えるために、彼をゾンビ化させたのかなんて幼稚なことを、わりと本気で思った。
 落ち着いて考えればそんなことあるわけがなく、彼は寝ていたか意識を失っていたかだけのことだったんだな、と気づく。
 とはいえ、この寒空の下だ。野天で寝るなんて普通は無理だし、意識を失っていたのだとしたら、それはそれで大問題だ。それこそ事件だ。通報案件だ。

 男性が振り返った。
 朦朧としているのだろうか、目はとろんとしているが二重。通った鼻筋。意外にも整った顔立ち。
 彼は自分の下半身に目を落としたあとで、ぼんやりとした口調で訊いてきた。

「……僕の靴、知りませんか?」

 彼から見て前方を、恐る恐る指さしてみせた。

「ああ」

 素直に振り向いてそれを見つけた彼は、赤ちゃんのはいはいの動作でそちらへ向かう。
 意思疎通は問題なく行える。少しだけ安堵したのも束の間、突如、ぽきんと音でもするかのようなあっけなさで、彼の上半身が芝生の上に前のめりに沈んだ。

「ああ!」

 声を上げずにいられない。
 そのまま彼はぴくりとも動かなくなる。
 いよいよスマホの出番か。病院は110ではなく、何番だっけ、とすぐに思い出せないくらいには、パニックは続いていた。

「すんません……」

 天に向かって突き上げたお尻が、か細い声で懇願する。まだ息があった。

「……お水を買ってきてくれたら、ありがたいんですけど」
「お水?」
「お金だったら、ここ、ここにあるんで」

 そう言って、彼は自分のお尻を撫で始めた。

 思わず辺りを見回す。ケガもなく、病気でもなさそうだという点については良かったけれど、どことなく変態じみた仕草に、先程よりも切実に他の誰かの助けを求めた。
 あいかわらず誰もこない。逃げたい。

「お願い。吐きそう。お願いします」

 近寄る気配が感じられないからだろう。彼は探し当てた自分の長財布を、ポケットから抜き取ってわたしに差し出す。依然として、お尻を高く掲げ上げたまま。
 そう言われても、わたしの中の何かがシグナルを発している。近寄るのは危険ですよ、と言っている。
 見た目は普通のサラリーマン。だけど、実際は何者かなんてこと、それこそ性癖なんて、会ったばかりのわたしにわかるはずもない。悪い人間はいかにも悪い外見をして現れない、とも聞いたことがある。

 意を決して、一歩後退した。ヒールの先端が、砂利を踏みしめて音を鳴らす。

 本当に体調が優れないのだとしても、動けるし、他人に自分の意思を伝えられるのだから、放っておいても平気だろう。そのうち誰かが通りかかるだろうし。
 なまじ親切心を出したばっかりに、新聞に載るはめになってしまう、今はそんな世の中だ。自分の身は自分で守らなければ。

 もう一歩下がったら一気に走り出そう、とふくらはぎに力を込めた瞬間。

「あ! だめだ!」

 それを掛け声に、彼の口から放出された噴水をわたしは見る。


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