月台

朋藤チルヲ

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三人目

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 僕の胸は高鳴った。

 扉がひらく。

 もこもこした尻尾の車掌が、そこから離れていくのが目に映る。どういうわけなのか、完全に身体が車内に入ってくるまでは、その乗客の姿が確認できないのがもどかしかった。

 乗ってきたのは――――




「……長作?」

 僕は震える声で尋ねた。




 白いすとんとしたワンピースをまとった若い女性は、着ているそれよりもずっと白い肌をしていた。

 そして、その片腕を、汚れた包帯でぐるぐる巻きにして、細い肩から吊っているのが痛々しかった。

 顔は、なぜか薄暗くてよく見えない。

 それなのに、生前とはまったく違う姿でもあるのに、僕にはすぐにわかったんだ。

「……お久しぶりです、お兄さん」

 鈴が転がるような澄んだ声で、彼女は言った。

「呼んでくれて、ありがとう」

「長作」

 それ以上、僕は何も言えなかった。

 胸の中がじわりとした痛みでパンパンになって、涙がブワッと網膜を押し返す。声を漏らせば、濁流となって溢れ出す気がした。

 長作は、僕が高校生の頃に一緒に暮らしていた猫だ。仔猫のときから、僕が母親代わりになって、ミルクを飲ませて育てた。

 家にいる間は、何をするときだってそばに置いた。

 名前を呼ぶと、どこにいたってすぐに返事をして駆け寄ってきた。

 僕らは、まるで人間同士の親友みたいに、喜びも悲しみも、何だって分け合った。

 長作と僕とは、心が通じ合っていると本気で信じていた。

 それなのに。




 長作は向かい側に座った。おじいちゃんのときと同じだ。

 でも、おじいちゃんのときとは違い、目にできない素顔。それは、もしかしたら僕に対しての怒りの表れなのかもと思った。

「お兄さん、どうしてわたしを呼んだの?」

 長作は、そう静かに問いかけてきた。

 うつむいたら、つるつるした板張りの床に、雨粒みたいな雫がとうとうパタパタと落ちて、弾んだ。

 ゆがんだ視界には、淡い紫色のパンプスを履いた、きれいに揃えられた二本の華奢な足が映っている。

 僕は涙を飲み込んだ。

「……謝りたくて」

「謝る? どうして?」

 長作は驚いた声を上げた。そうして、無意識なのか、そっと右手の包帯に触れるしぐさが目の端に入る。胸がズキンと痛んだ。

 僕はぎゅっと両目をつむった。

 出口をふさいでも、涙はあとからあとからとめどなく溢れ出し、こぼれて、床を濡らした。

「大好きだったのに」

 震える声で、僕は言った。

 わたしもよ、と返す長作の声が聴こえた。

「最後まで、ずっと大好きだったわ」

「でも僕は」




 彼女を突き放してしまった。




 元気な女の子だった長作は、よくケガをした。大抵が、舐めて治ってしまう程度のものだったけど。

 でも、ある日。それは、冬の寒い夕方のことだった。

 真っ白な毛並みを真っ赤に染めて、右の前脚をプラプラさせながら、やっとの様子で帰ってきたんだ。

 変な角度で折れ曲がった脚からは、内側の肉と、白い骨が少しのぞいていた。

 長作は、コタツ布団に寄りかかるようにして倒れ込んだ。

 野良犬にでもやられたのかもしれない。それとも、車か。

 だけど、我が家はけして裕福ではなかったから、病院に連れていってくれ、なんてワガママを突き通すことができなかった。

 アルバイトでもしていればよかったのだけど、それもしていなかった。

 ただそばに寄って、わぁわぁ泣くことしかできなかった。




「よく覚えてる。お兄さん、わたしのこと、すごく心配してくれた」

 少女のようでもあり、妙齢の女性のようでもある声で、長作は懐かしむように言った。

 だけど、と僕は子供みたいに、両方のこぶしで目元をぬぐった。

「だけど、僕は、何もしてあげられなかった」

 そればかりか、そのうちグズグズと膿み出した傷口が臭うのを嫌がって、次第に彼女から離れていってしまったんだ。

 そんな状態でも、変わらず長作は僕を慕ってくれた。

 今までと同じようにいつでも一緒にいようと、弱った身体ですり寄ってきてくれたのに。

 それを、迷惑と感じる僕がいた。

 結局、その傷がもとで長作は息を引き取った。

 そのとき、僕は思ったんだ。解放された、って。ほんの少し、ほっとしてしまったんだ。心の奥底で。




「ごめん。ごめんよ」

 声は、嗚咽でほとんど聞き取れなくなった。みっともなく、長作は呆れていることだろう。

 正面で、ギシリ、とシートのスプリングが鳴いた。

「お兄さん、手を」

 ずぶ濡れの顔を上げる。

 長作は、こちらに向かってスラリと長い左手を伸ばしていた。かろうじて見える口元には、うっすらと笑みを浮かべている。

 僕は、長作が何をしたいのかわからず、一瞬戸惑い、でもすぐに言う通りに腕をまっすぐに張った。

 座席と座席の真ん中で、指の先と先が、わずかに触れ合う。その温度は、少しだけ冷たくて、少しだけ温かかった。

 遠い昔に膝の上に乗っていた体温が思い出されて、僕の胸が、ぎゅう、と縮んだ。

 涙が押し出される。

 長作は、かすかに上げた口角を動かさずに言った。

「脈を打っている」

 確かに、高揚感からか、罪悪感からか、僕の鼓動は激しく波打っていた。

 神経をそこに集中させると、なおさらわかる。指の先端は、触れるものをすべて弾き出しそうに震えている。

 今にも皮膚が破れ、そこから、緑の茎がどこまでも昇り、毛細血管とよく似た鮮やかで瑞々しい色の花が咲きそうな思いに駆られた。

「笑ってください、お兄さん」

 長作が微笑んだ。




「ただこうして脈を打ち、生きている。そんなあなたを見ているだけで、それだけで、わたしたちは幸せなのです」




 やわらかい声。そうだ、長作は、こんな声で鳴く子だった。僕は、目を閉じた。

 振動して止まらない心を優しく撫でるように、温かい涙がつるつると頬を伝っていった。




 僕らは、そのままお互いの指をからめ続けた。

 幸い、電車内は音もなく、揺れもなく、繋がった指と指がほどけるきっかけなど、何もなかった。

 やがて、先に沈黙を破ったのは、長作のほうだった。

 そろそろ時間です、と言って、彼女はチラリと僕が持つ青い切符へと視線を投げた、

「わたしは、月へは向かえません」

 電車が減速をしはじめたのがわかった。

 僕は月へ行くのか。

 泣きすぎてボンヤリとした頭で、初めて目的地のことを思った。

 そのとき、一瞬、脳裏をかすめる映像があった。

 遠いセスナ機の銀色みたいな、何かチラチラ光るものが、ツバメの低空飛行のように目の前を横切った。

 でも、それが何なのかはわからず、すぐに忘れてしまった。




 泣きはらしたまぶたは重い。寝不足の朝に懸命に両目をこじ開けるようにして、僕は長作を見た。

「……怒っていないの?」

 それは、もしも彼女に会えたなら、いちばんに訊いてみたいと思っていたことだった。

 長作は、木の葉が舞い落ちるみたいに、力なくひらひらと首を左右に振った。




「生前、誰かに心から愛された者は、死んでから五十年、その相手を見守る役目を与えられる」




 僕は、パジャマの袖でゴシゴシと目をこすった。

 引き留めることは、きっとできないのだ、とわかった。だったら、長作の言葉を、一言一句聞き逃さないようにしようと、目を凝らし、耳を澄ませた。

「わたしがここにいることは、お兄さんに心から愛していただいた証しです」

 だから、と触れ合った指先にほんの少し力が入る。




 ――――感謝しています。




「さようなら、お兄さん」

 からめた指のまま、透明な声で彼女は言った。

「呼んでくれて、ありがとう」

 出会って最初に口にしたセリフを、そっくりそのまま繰り返して告げた。だから、よけいに、これは本当の別れなんだと実感できた。

 もう今度こそ会うことはない、永遠のサヨナラ。二度目のサヨナラ。

 電車が停まった。

 ほろり、と指がほどけた。長作のほうから先に腕を下ろした。

 最後にニコリ、と微笑んで、彼女は電車を降りていった。




 どのくらい呆けていたんだろう。

 僕は、あいかわらずしぃんと静まり返った電車の中に、たったひとりで座っていた。

 巨大なスクリーンで、大作を観終えたあとのような気分だった。

 感動と、安堵感と、少しの痛みを余韻として抱きながら、流れるエンドロールを目で追うように、窓の外の流星群を追いかける。

 会いたい人は、もういなかった。

 抜け殻のような心と身体で、僕はただこの箱に運ばれているだけだった。

 月には何があるんだろう。

 僕は、視線を落として、手の中の青色の切符を見た。

 初めてまじまじと眺めてみたけど、表面には記号のようなものが並んでいるだけで、その意味はサッパリわからない。

 ウサギの車掌が空けたパンチの穴から、長作に負けないくらいの真っ白な肌の色がのぞいていた。

 僕は、いつから、こんなに軟弱な肌の色に?




 突然、車内にアナウンスが響いた。

 本当に唐突で、油断しまくっていたので、瞬間的に僕のお尻はオーバーではなく十五センチほど宙に浮いた。

 あまりに静かだから、この電車は無人だとばかり思っていたけど、どうやら運転士が乗っていたらしい。考えたら、ごく当たり前のことだ。




「まもなく終点、終点でございます。長らくのご乗車、誠にありがとうございます」




 車掌がウサギなら、運転士はどんな動物だろう。

 僕は、運転席がある方向に首を伸ばしてみたけど、客が乗るスペースとの間の仕切りは、ガラスが曇っているせいなのか見えなかった。

 おとなしく座り直す。

「お忘れの未練はございませんでしょうか。もれなくすべて解消されましたでしょうか」

 運転士がなめらかな口上で言うのと同時に、窓の外が急激に明るくなってきた。進行方向の一点から、閃光が射してくる感じ。

 レモン色の光の帯がぐんぐんと着地点を伸ばしながら、やがて電車の後方にまで届く。

 渦を巻いた光の中に取り込まれるようだ。

 窓ガラスが白っぽくなる。車内も。まるで僕の身体全部から、光を発しているみたいになる。

 まぶしくて、目を開けていられない。

 先はいったいどうなっている? 額に手をかざした。




「まもなく終点、終点でございます」









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