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5 太陽のような
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入道雲がいくつも浮かぶ青空。
広大な公園の中を、虫取り網を手に走り回る子供2人。
「はぁ、はぁ…………全然つかまんないなー」
「なぁ戒。今日はもうやめよ。暑いしつかれた」
「何言ってんの、ゆき。夏休みの自由研究でトンボ観察するって決めたじゃん」
「そうだけど、あんな速いやつどうやってつかまえんの。もっと簡単なのにしようよ」
「たとえば?」
「えーっと…………アリとか」
「それだと地面見つめてればいいだけじゃん。そんなのつまんない。こうやって追いかけて、バッとつかまえるのが楽しいの」
「それにいつまでかかんだよ、ったく。…………あ、トンボ」
「見つけたぁー!待てぇぇー!」
「ちょ、戒っ。足元見ないと危ないよ」
「あべしっ」
勢いよく転倒する戒。慌てて駆け寄り、助け起こす。
「だいじょうぶか」
「ふう。びっくりしたー」
「こっちのセリフだよ。って、ひざ血だらけじゃんか!」
「わぁ、ほんとだ。真っ赤っか」
「とりあえず洗って砂落とそう。立てるか、戒」
肩車をして、戒を手洗い場まで連れていく。
蛇口をひねり、水で傷口を洗う。
「ほかにけがはないか。ひじとか」
「あ、ちょっとすりむいてる」
「こっち近づけて。水かけるから」
「あー、冷たくてきもちいいなー」
「のん気だな。いたくないのか、こんなにひどいのに」
「うーん。いたいって、よく分かんないんだよな。かゆいとあんま変わらない」
「何だよそれ。……よし、きれいになったかな。おれの家に行こう。手当てしてやるから」
「つばつけとけば治るよ」
「5年生にもなって幼稚園児みたいなこと言うな。ほら、行くぞ」
手を差し出し、ぎゅっと戒の手を握る。
公園を出て、暑い日差しが照りつける道路をゆっくり歩く。
「戒、ちゃんとおれにつかまれよ。またこけないように」
「うん。ねぇ、ゆき。なんでゆきはそんなにあったかくて、まぶしいの?」
「ん?どういうこと?」
「みんなとちがって、きみだけずっと太陽みたいだよ。こういうの何て言うんだっけ。やさしい、だったかな」
「よく分かんないけど、おれにとって戒は大事な友だちだよ。それにいっつも見てて危なっかしいから、おれがとなりで守ってあげる」
すると戒はつぶらな瞳を向け、笑った。
「ありがとう、ゆき」
暖かい輝きを放つ、太陽のような笑顔で。
「__、ゆき。起きて」
肩を揺すられ、重い瞼を開ける。
下向きの姿勢で固まった首を持ち上げ、横を見る。戒がこちらへ身を乗り出し、苦笑いを浮かべている。
「2限目始まって10分も経ってないよ。寝るの早過ぎ」
「どうでもいい雑談だからいいだろ」
「もう終わったよ。今日は割と短かったね」
前方の黒板を見ると、先生が授業内容を口にしながら板書を始めている。
欠伸をしつつプリントを机に広げ、先生の説明に沿って文章の空欄を埋めていく。
さっき、夢を見ていた気がする。確か、戒と遊んでいた昔の記憶。それは何でもない日々のうちの一つで、同時にかけがえのない思い出でもある。
戒も、そう思っているだろうか。
やがてチャイムが鳴り、生徒がぞろぞろと教室を出ていく。
「次何だった」
「調理実習。早く行かないと先生に怒られるよ」
戒に促され、仕方なく小走りでロッカーへ荷物を取りに行く。
調理室。
「火加減ってこれでいいんだよね」
「私洗い物するわ」
「ねぇ、これ塩入れたっけ。誰か分かる人いる?」
「味見すればいいだろ。あー、皮むきマジでめんどい」
班の中で各自分担作業をする中、俺はサラダの具材を包丁でカットしていた。麻婆豆腐とスープの方も調理は順調のようだ。
が、不意に違和感を覚えて一旦手を止め、コンロの前に立つ女子2人に尋ねる。
「戒はどうした。そこの担当だっただろ」
「戯堂君なら、野菜切るの手伝うって言って、今やってるよ」
「はっ?」
慌てて向かい側に置かれたもう一枚のまな板へ目を向ける。
そこでは既に悲惨な事件が起こっていた。
「トマトって切りにくいねー」
不思議そうな顔で包丁を持つ戒。まな板の上には、切ったというより潰したと表現する方が正しいような有り様のトマトの残骸。
そして、トマトの汁にしては鮮やか過ぎる真っ赤な液体に染まった左手。
「……戒。今すぐ包丁を置け。ゆっくり、調理台の真ん中に」
「顔めっちゃ怖いよ、ゆき」
「言う通りにしろ。今すぐ」
「うー、分かったよ」
凶器を手放した戒をすぐさま確保し、そばにあったきれいなタオルで血まみれの手をくるむ。
「俺が保健室に連れて行く。悪いけど後は頼んだ」
呆然と固まる班のメンバーに告げ、急いでその場を後にした。
保健室。
タイミングが悪く先生は不在で、室内は無人だった。ひとまず手洗い場で手を洗わせ、エプロンを外してソファに座らせる。
「手、見せてみろ」
戒の隣に腰を下ろし、差し出された左手を観察する。
切り傷がいくつも入り、そのうちの二か所は特に深いのかまだ血が流れ出している。
「とりあえず消毒して、包帯巻いておくな。先生が戻ってきたらきちんと手当してもらえよ」
「ゆきの手当もすごくうまいよ。手慣れてるって感じで」
「誰かさんがしょっちゅう怪我するおかげでな」
テーブルに置かれた道具を拝借し、応急処置を行う。
「大体、二度と包丁は握るなって前にあれ程言っただろ。危うく指切り落とすところだったの忘れたのか」
「いやー、数年振りにチャレンジしたらいけるかなーと」
「全くいけてねぇよ。傷だらけじゃんか」
「…………ゆき、怒ってるよね」
「当たり前だ。どれだけヒヤッとしたと思ってる」
「でも、感情が冷たくないのは、なんで?」
顔を上げると、疑問を圧縮したような瞳がじっと見つめている。
「負の感情は冷たくて、尖ってて、暗い。怒りだってそう。でも、今の君のは、あったかいし鋭くない。なんでなの」
「……悪いことに対して怒るのと、誰かを心配して怒るのはまた違うからじゃないのか。うまく言えないけど。……よし、できた」
包帯を巻き終わる。
正直あまり直視したくない程の傷だったのに、戒は一言も痛いと口にしなかった。思えば昔からそうだった。転んでも刃物で手を切っても頭をぶつけても、ただただ平気な顔をしている。
それは、中身が怪異だからなのだろうか。
「…………分からない」
戒が俯いたまま、わずかに口を動かす。
「分からない。どうして君の想いは変わらないの。怒っていても、僕が人間じゃないって、怪異だって知っても、どうして変わらないの」
呟きが後から後からこぼれていく。
「戒?どうした__」
手を伸ばしかけた途端、戒が身を乗り出してきて俺の肩を掴み、そのまま背後に押し倒す。
包帯の巻かれた左手をソファについて、触れてしまいそうな程目の前に顔を寄せる。淡黄の髪の間から、一切の光を吸収した闇のような瞳が覗く。
自分の心臓の鼓動が速くなり、息が上がるのが分かる。
何だ、どうなってるんだこれは。
「戒…………何、を……」
「君の感情が分かる。だからこそ分からない。どうしてバケモノに対してそこまで強い正の感情を向けられるのか」
「……それは……」
「僕は本来、こうして人間のそばにいてはいけないんだ。自分のことなんて知らないことだらけだけど、それだけは何となく分かる。僕が人間の想いに引かれるように、人間が怪異に引き込まれることもあるかもしれない。……もしかしたら、君がずっと強い想いを抱いているのは、人ではないものに魅せられているからなのかもね」
戒の右手が頬に当てられる。
ぞっとする程冷たく、触れた箇所から体温が奪われていく。
「戒。俺は……」
「でもね、魅せられてるのは僕も同じなんだ。こんなに居心地のいい場所は、初めてだから」
すると、目の前の戒の姿がぼやけ始めた。
波打つ水面のように揺れて、輪郭が曖昧になっていく。
「前はずっと暗くて寒い所にいて、ずっと独りぼっちだった。あれはきっと、寂しかったんだ」
形が崩れ、どろどろに溶ける。動かない体に黒い泥が滴り落ちてきて、まとわりつく。
「君の隣は、すごくあったかかった。ずっとそこにいたいって思えた」
体が、意識が、深い沼の奥に沈んでいく。
「今なら分かる。僕は最初に出会った時から、君のことが好きだった」
【食べてしまいたいくらいに】
目を開けると、見知らぬ天井があった。
起き上がり周囲を見渡す。どうやらここは保健室で、自分はソファに寝転がっていたようだ。
だがなぜ、こんなところに?
「起きたんだ、ゆき」
声のする方を見ると、窓際に戒が寄りかかって立っていた。
「戒…………えっと、なんで俺保健室にいるんだっけ」
「僕の怪我の手当でここに来て、その後君が寝ちゃったんだ。具合でも悪かったんじゃないかな」
「そうなのか?……思い出せないな」
今朝の体調は特に問題なかったと思うが。でも確かに、体が少しだるい気がする。急に疲れが出たんだろうか。
「そういえば、今何時だ?」
急いで壁の時計を確認する。3,4限目が調理実習という時間割で、現在昼休憩まであと20分程という時刻。
「もう料理できてるかな。どうする、戻る?」
「あぁ、今は具合悪くないし。お前は手大丈夫か」
「うん、大丈夫」
と、笑顔で真っ赤に染まった包帯の手を掲げる。
「いや全然大丈夫じゃねぇし。それで戻ったらクラスの連中大騒ぎだろ。ほらここ座れ。巻き直してやるから」
ソファに戒を座らせ、新しい包帯を巻いてやる。血が止まらないのはまずいな。しばらくここで休ませた方がいいか。
「ゆき」
「何だ」
「さっきはごめん。ついむきになった」
「さっき?何の話だ」
「んー、何でもない。実は君が寝てる間にいたずらしようとしたんだけどー」
「そうかよ。で何したんだ。顔に落書きか。もっとろくでもないことか」
「してないよ何も。寝顔がかわいかったから、そばでじっと眺めてただけ」
「っ……変なこと言うな。ん、できたぞ」
「ありがとーゆき。やっぱり手当うまいねー」
「どーいたしまして」
戒はいつも、俺が怪我の手当をしてやると笑顔で礼を言ってくる。
こっちの心配を吹き飛ばすようなあの表情に、胸の中が温かくなる。それは昔からだったなと、振り返って思う。
広大な公園の中を、虫取り網を手に走り回る子供2人。
「はぁ、はぁ…………全然つかまんないなー」
「なぁ戒。今日はもうやめよ。暑いしつかれた」
「何言ってんの、ゆき。夏休みの自由研究でトンボ観察するって決めたじゃん」
「そうだけど、あんな速いやつどうやってつかまえんの。もっと簡単なのにしようよ」
「たとえば?」
「えーっと…………アリとか」
「それだと地面見つめてればいいだけじゃん。そんなのつまんない。こうやって追いかけて、バッとつかまえるのが楽しいの」
「それにいつまでかかんだよ、ったく。…………あ、トンボ」
「見つけたぁー!待てぇぇー!」
「ちょ、戒っ。足元見ないと危ないよ」
「あべしっ」
勢いよく転倒する戒。慌てて駆け寄り、助け起こす。
「だいじょうぶか」
「ふう。びっくりしたー」
「こっちのセリフだよ。って、ひざ血だらけじゃんか!」
「わぁ、ほんとだ。真っ赤っか」
「とりあえず洗って砂落とそう。立てるか、戒」
肩車をして、戒を手洗い場まで連れていく。
蛇口をひねり、水で傷口を洗う。
「ほかにけがはないか。ひじとか」
「あ、ちょっとすりむいてる」
「こっち近づけて。水かけるから」
「あー、冷たくてきもちいいなー」
「のん気だな。いたくないのか、こんなにひどいのに」
「うーん。いたいって、よく分かんないんだよな。かゆいとあんま変わらない」
「何だよそれ。……よし、きれいになったかな。おれの家に行こう。手当てしてやるから」
「つばつけとけば治るよ」
「5年生にもなって幼稚園児みたいなこと言うな。ほら、行くぞ」
手を差し出し、ぎゅっと戒の手を握る。
公園を出て、暑い日差しが照りつける道路をゆっくり歩く。
「戒、ちゃんとおれにつかまれよ。またこけないように」
「うん。ねぇ、ゆき。なんでゆきはそんなにあったかくて、まぶしいの?」
「ん?どういうこと?」
「みんなとちがって、きみだけずっと太陽みたいだよ。こういうの何て言うんだっけ。やさしい、だったかな」
「よく分かんないけど、おれにとって戒は大事な友だちだよ。それにいっつも見てて危なっかしいから、おれがとなりで守ってあげる」
すると戒はつぶらな瞳を向け、笑った。
「ありがとう、ゆき」
暖かい輝きを放つ、太陽のような笑顔で。
「__、ゆき。起きて」
肩を揺すられ、重い瞼を開ける。
下向きの姿勢で固まった首を持ち上げ、横を見る。戒がこちらへ身を乗り出し、苦笑いを浮かべている。
「2限目始まって10分も経ってないよ。寝るの早過ぎ」
「どうでもいい雑談だからいいだろ」
「もう終わったよ。今日は割と短かったね」
前方の黒板を見ると、先生が授業内容を口にしながら板書を始めている。
欠伸をしつつプリントを机に広げ、先生の説明に沿って文章の空欄を埋めていく。
さっき、夢を見ていた気がする。確か、戒と遊んでいた昔の記憶。それは何でもない日々のうちの一つで、同時にかけがえのない思い出でもある。
戒も、そう思っているだろうか。
やがてチャイムが鳴り、生徒がぞろぞろと教室を出ていく。
「次何だった」
「調理実習。早く行かないと先生に怒られるよ」
戒に促され、仕方なく小走りでロッカーへ荷物を取りに行く。
調理室。
「火加減ってこれでいいんだよね」
「私洗い物するわ」
「ねぇ、これ塩入れたっけ。誰か分かる人いる?」
「味見すればいいだろ。あー、皮むきマジでめんどい」
班の中で各自分担作業をする中、俺はサラダの具材を包丁でカットしていた。麻婆豆腐とスープの方も調理は順調のようだ。
が、不意に違和感を覚えて一旦手を止め、コンロの前に立つ女子2人に尋ねる。
「戒はどうした。そこの担当だっただろ」
「戯堂君なら、野菜切るの手伝うって言って、今やってるよ」
「はっ?」
慌てて向かい側に置かれたもう一枚のまな板へ目を向ける。
そこでは既に悲惨な事件が起こっていた。
「トマトって切りにくいねー」
不思議そうな顔で包丁を持つ戒。まな板の上には、切ったというより潰したと表現する方が正しいような有り様のトマトの残骸。
そして、トマトの汁にしては鮮やか過ぎる真っ赤な液体に染まった左手。
「……戒。今すぐ包丁を置け。ゆっくり、調理台の真ん中に」
「顔めっちゃ怖いよ、ゆき」
「言う通りにしろ。今すぐ」
「うー、分かったよ」
凶器を手放した戒をすぐさま確保し、そばにあったきれいなタオルで血まみれの手をくるむ。
「俺が保健室に連れて行く。悪いけど後は頼んだ」
呆然と固まる班のメンバーに告げ、急いでその場を後にした。
保健室。
タイミングが悪く先生は不在で、室内は無人だった。ひとまず手洗い場で手を洗わせ、エプロンを外してソファに座らせる。
「手、見せてみろ」
戒の隣に腰を下ろし、差し出された左手を観察する。
切り傷がいくつも入り、そのうちの二か所は特に深いのかまだ血が流れ出している。
「とりあえず消毒して、包帯巻いておくな。先生が戻ってきたらきちんと手当してもらえよ」
「ゆきの手当もすごくうまいよ。手慣れてるって感じで」
「誰かさんがしょっちゅう怪我するおかげでな」
テーブルに置かれた道具を拝借し、応急処置を行う。
「大体、二度と包丁は握るなって前にあれ程言っただろ。危うく指切り落とすところだったの忘れたのか」
「いやー、数年振りにチャレンジしたらいけるかなーと」
「全くいけてねぇよ。傷だらけじゃんか」
「…………ゆき、怒ってるよね」
「当たり前だ。どれだけヒヤッとしたと思ってる」
「でも、感情が冷たくないのは、なんで?」
顔を上げると、疑問を圧縮したような瞳がじっと見つめている。
「負の感情は冷たくて、尖ってて、暗い。怒りだってそう。でも、今の君のは、あったかいし鋭くない。なんでなの」
「……悪いことに対して怒るのと、誰かを心配して怒るのはまた違うからじゃないのか。うまく言えないけど。……よし、できた」
包帯を巻き終わる。
正直あまり直視したくない程の傷だったのに、戒は一言も痛いと口にしなかった。思えば昔からそうだった。転んでも刃物で手を切っても頭をぶつけても、ただただ平気な顔をしている。
それは、中身が怪異だからなのだろうか。
「…………分からない」
戒が俯いたまま、わずかに口を動かす。
「分からない。どうして君の想いは変わらないの。怒っていても、僕が人間じゃないって、怪異だって知っても、どうして変わらないの」
呟きが後から後からこぼれていく。
「戒?どうした__」
手を伸ばしかけた途端、戒が身を乗り出してきて俺の肩を掴み、そのまま背後に押し倒す。
包帯の巻かれた左手をソファについて、触れてしまいそうな程目の前に顔を寄せる。淡黄の髪の間から、一切の光を吸収した闇のような瞳が覗く。
自分の心臓の鼓動が速くなり、息が上がるのが分かる。
何だ、どうなってるんだこれは。
「戒…………何、を……」
「君の感情が分かる。だからこそ分からない。どうしてバケモノに対してそこまで強い正の感情を向けられるのか」
「……それは……」
「僕は本来、こうして人間のそばにいてはいけないんだ。自分のことなんて知らないことだらけだけど、それだけは何となく分かる。僕が人間の想いに引かれるように、人間が怪異に引き込まれることもあるかもしれない。……もしかしたら、君がずっと強い想いを抱いているのは、人ではないものに魅せられているからなのかもね」
戒の右手が頬に当てられる。
ぞっとする程冷たく、触れた箇所から体温が奪われていく。
「戒。俺は……」
「でもね、魅せられてるのは僕も同じなんだ。こんなに居心地のいい場所は、初めてだから」
すると、目の前の戒の姿がぼやけ始めた。
波打つ水面のように揺れて、輪郭が曖昧になっていく。
「前はずっと暗くて寒い所にいて、ずっと独りぼっちだった。あれはきっと、寂しかったんだ」
形が崩れ、どろどろに溶ける。動かない体に黒い泥が滴り落ちてきて、まとわりつく。
「君の隣は、すごくあったかかった。ずっとそこにいたいって思えた」
体が、意識が、深い沼の奥に沈んでいく。
「今なら分かる。僕は最初に出会った時から、君のことが好きだった」
【食べてしまいたいくらいに】
目を開けると、見知らぬ天井があった。
起き上がり周囲を見渡す。どうやらここは保健室で、自分はソファに寝転がっていたようだ。
だがなぜ、こんなところに?
「起きたんだ、ゆき」
声のする方を見ると、窓際に戒が寄りかかって立っていた。
「戒…………えっと、なんで俺保健室にいるんだっけ」
「僕の怪我の手当でここに来て、その後君が寝ちゃったんだ。具合でも悪かったんじゃないかな」
「そうなのか?……思い出せないな」
今朝の体調は特に問題なかったと思うが。でも確かに、体が少しだるい気がする。急に疲れが出たんだろうか。
「そういえば、今何時だ?」
急いで壁の時計を確認する。3,4限目が調理実習という時間割で、現在昼休憩まであと20分程という時刻。
「もう料理できてるかな。どうする、戻る?」
「あぁ、今は具合悪くないし。お前は手大丈夫か」
「うん、大丈夫」
と、笑顔で真っ赤に染まった包帯の手を掲げる。
「いや全然大丈夫じゃねぇし。それで戻ったらクラスの連中大騒ぎだろ。ほらここ座れ。巻き直してやるから」
ソファに戒を座らせ、新しい包帯を巻いてやる。血が止まらないのはまずいな。しばらくここで休ませた方がいいか。
「ゆき」
「何だ」
「さっきはごめん。ついむきになった」
「さっき?何の話だ」
「んー、何でもない。実は君が寝てる間にいたずらしようとしたんだけどー」
「そうかよ。で何したんだ。顔に落書きか。もっとろくでもないことか」
「してないよ何も。寝顔がかわいかったから、そばでじっと眺めてただけ」
「っ……変なこと言うな。ん、できたぞ」
「ありがとーゆき。やっぱり手当うまいねー」
「どーいたしまして」
戒はいつも、俺が怪我の手当をしてやると笑顔で礼を言ってくる。
こっちの心配を吹き飛ばすようなあの表情に、胸の中が温かくなる。それは昔からだったなと、振り返って思う。
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