真宵の天窓

桜部ヤスキ

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第2章 閉ざされた悪夢への誘い

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 そこは静かで重厚な闇に満ちていた。
 懐中電灯から発せられる頼りない光が、埃っぽい室内を曖昧に照らす。壁や床、天井全てが「荒廃した」としか表現できないような有り様。長い間放置されたことで建物全体が朽壊の一途をたどっている。
 そんな打ち捨てられた空間に、4つの人影があった。
 好奇。恐怖。警戒。迷惑。各々が明解な表情を携え、己の周囲を取り巻く暗々たる景色を見渡している。
 その中の、今にもやれやれと首を振りそうな顔つきの少年__弥央は背後を振り返る。
 焦げ茶色の木製の片開き扉。所々塗装が剥げ、中へ入る際に開けた時には蝶番がひどく軋む音がした。
 だが今は、丸いドアノブを握って開けようにも扉はびくともしない。内から鍵をかけた覚えもなければ、そもそも鍵などかかっていない。にもかかわらずこの出入口は固く閉ざされている。

 つまり、どういうわけか建物内に閉じ込められてしまったのだ。

 ズボンのポケットから携帯を取り出す。時刻は午後2時12分__13分。通信状況はなぜか圏外。これでは外部に助けも呼べない。いつだったか部室で話題に上がった、しばしばミステリー作品の舞台となる閉鎖的空間のことをふと思い出していた。
 さて、どうしたもんかなぁ。
 あくまでのんびりした心境で、弥央は頭をかきつつ開かずの扉を眺めていた。



 遡ること24時間前__。

 時は5月初旬、ゴールデンウィークなる連休の最中。弥央は一夜との根気強いRINEのやりとりの末、出かける約束をとりつけることに成功した。当日累人は部活で登校することも把握済みだった。
 行き先は学校近辺にある老舗の喫茶店、〈黄昏たそがれ喫茶〉。一夜いわく去年からクラスメイトとの勉強会の場として度々活用しているらしい。
 店の前に来たところで、そのクラスメイト2人と遭遇した。正確には学年が上がった現在は別のクラス、4組に所属している。
「やなっちが累人君以外の人と一緒にいるの初めて見た。いつの間に鞍替えしたの?」
 こじんまりした店内の奥の4人席。窓際に座る弥央の正面に腰掛けた小柄な少年が言う。
 佐々蔵ささくら吉鈴よしすず。短く切り揃えた赤みがかった茶髪に、アホ毛がピンと立っている。いつだったか累人の話に出てきた、好奇心という名の暴走列車に乗った面白がり大魔神とは彼のことだったように思う。
「おい蔵。自分がどんだけ非礼なこと言ってるか分かってんのか」
 その隣に座るのは伊志森いしもりじょう。4人の中で最も高身長で、濃藍色の短髪につり上がった目つきをしている。佐々蔵とは中学時代からの馴染みらしいが、何となく苦労性が見て取れる。
 4人で店内に入った流れでこうして同じ席に着いた。弥央にとっては彼らとは初対面で、一夜は相変わらずの沈黙。何だかテーブルを半分に分断する透明な壁があるように思えてくる。
「そんなことないよー伊志。やなっちには一人しか気の置ける人がいないとか思ってるわけじゃなくてね。懐くというか依存というか、あんなに累人君ベッタリだったのを知ってる僕からすれば今の状況はズバリ浮気ってことに__」
「もうお前黙れ。悪いな、一夜」
 佐々蔵の顔を押しのけて言葉を遮る伊志森。いつものが始まったという憂鬱顔で仲良し2人をスルーしつつ、一夜は湯気の立つコーヒーをすすっている。
 弥央もならって手元のカップにミルクを注ぐ。スプーンでかき混ぜると、黒い液面がたちまち柔らかいベージュに変わった。初めて飲むが一体どんな味だろうと期待を抱いて一口。…………苦かった。
「へぇー、やなっちが文芸部か。らしい感じするね」
 各々の自己紹介を軽く済ませた後、話題は弥央達の部活へと移っていった。ソーダの上のバニラアイスをストローでつつきながら、佐々蔵はまん丸の瞳を向けてくる。
「活動内容ってどんな?」
「本読んだり、あと小説書いたり。でもいいアイデアがなかなか浮かばなくてよ。なんかおもしろいことないかなーって思ってるんだけど」
「あ、じゃあ廃墟探索に行こうよ」
 弥央が言い終わって間髪入れずにそう提案した。
「廃墟?」
「北里団地から麓に下りたあたりだったかなー。丘っぽくなったところにポツンと洋館があるんだって。誰も住まなくなって10年くらい経ってるらしいけど、未だに取り壊されず残ってる。これは行くしかないでしょ」
「お前一人でな」
 アイスティーの氷をストローでくるくる回しながら、伊志森が冷めた口調で言う。
「え?何言ってんの。みんなも行くんだよ?小説のネタとしてはこれ以上ない逸材じゃん」
「お前こそ何言ってんだアホ蔵。去年の夏休みもそうやってかこつけて、夜中の火葬場に肝試し行こうとか血迷ったこと言い出しやがって」
「あったねーそんなこと。今回はちゃんと昼間にするから大丈夫。明日のこの時間に洋館前に集合ね。場所は後で送るから」
「俺は行かねぇからな。用事あっから」
「じゃあ仕方ない。代わりに累人君誘うかー」
 ガチャッ、と隣で食器がぶつかる音がする。中身の液体が大きく波打つ中、ソーサーに置いたカップを握ったまま静止している一夜。平静で真剣なその表情を見て、何を考えているのか弥央には何となく分かる気がした。だから、
「いいね。じゃあ4人で行こう。楽しみだなぁ」
 そう笑顔で同意を表明した。自分でも白々しいと思える言い方だ。
 その後、マスターが2つのプレートをテーブルに運んできた。喫茶店を長年一人で切り盛りしている老人だ。
「また何か企んでいるのかい、お前さんら。わんぱくなのはいいが、怪我しないようにな」
 弥央と佐々蔵の前に置かれた白いプレートには、真っ赤なイチゴジャムが添えられたホットケーキが乗せられていた。



 __現在。

 あの時のホットケーキ、フワフワで甘くておいしかったなぁ。
 開かずの扉を眺めながら、弥央はぼんやりと思い返す。
 佐々蔵から携帯で送られてきた地図を頼りに目的地へ向かい、到着したのが今から10分程前。その時他の3人、佐々蔵、一夜、累人はすでに集まっていた。
 学校の北側に位置する北里山の麓辺り。丘の上の林に囲まれた中に、その洋館はあった。黒い鉄柵が敷地の周囲をぐるりと巡り、煉瓦の門柱、いくつかの小花の装飾が施された黒鉄の門扉が堂々とそびえる。それらの大部分が雑然とツタに侵食されており、長い間人の手入れがなかったことは明らかだった。門扉は施錠されておらず、巻かれていたであろう鎖がほどけて地面に落ちていた。
 キィィ……と軋む音を立てながら門を開け敷地内に入った。雑草の茂った前庭に一直線に伸びる黒ずんだ石畳を進んでいくと、建物の正面入口に着いた。
 壁は薄汚れた白。黒い枠の四角い窓が並び、どれも黒い雨戸が備えられている。屋根は灰がかった青色の切妻屋根で、瓦の所々が剥がれたり欠けたりしている。
 おれの家の3倍くらいはあるかも、と眼前の2階建て洋館を見上げながら漠然と考えていた。一見特に風変わりな所はなく、たまにテレビで見るようないかにも〈洋風の家〉といった外観だった。
 この洋館について弥央は何の情報も持っていなかった。多少は事情を知っていそうな佐々蔵からは何の説明もなく、早速中に入ろうと躊躇なくドアノブに手をかけていた。鍵はかかっていなかった。
 今に至るまで私有地だとか売却といった看板は目にしておらず、建物や土地の所有がどうなっているのかは分からない。こういうのはバレなきゃいいんだよなと楽観的な意向を保ったまま、弥央は3人の後に続いて建物の中に入った。
 途端に出迎えられた陰気な視界と埃っぽい空気に立ち止まっている間に、背後で扉が音を立てて閉まった。完全に光が遮られ、佐々蔵が持参した懐中電灯をいそいそと点灯させた。その時点ですでに、扉は開かなくなっていたのだろう。
 にらめっこで開くなら苦労しない。改めて3人の方へ向き直る。
 明らかに現状を楽しんでいる様子で周囲を見回す佐々蔵。臨界点に達する勢いで恐怖をたぎらせている累人。ドラマに出てくる殺人犯の形相で目をギラつかせる一夜。全員同じ状況に身を置いているのに、よくもこれ程まで多彩な表情が見られるものだと、純粋に感心を抱いた弥央であった。
「なんか変じゃない?」
 すると、佐々蔵が首を傾げつつ言う。
「なにが」
「晴れた昼間の家の中ってこんなに暗いっけ。明かりがないとろくに前も見えないよ」
「たしかに」
 佐々蔵にもらった2つ目の懐中電灯をつけ、弥央は周囲を照らしてみる。
 玄関ホールは広々とした空間だった。床のあちこちには埃が被り、天井からは蜘蛛の巣をまとった照明がぶら下がっている。扉の左右には一つずつ上げ下げ窓があり、ひび割れたガラスの向こうは黒い板のようなもので覆われている。
「なにこれ。全然外見えないじゃん」
「……雨戸が閉まってるんじゃないのか」
 感情を押し殺した声色で一夜が言う。
「アマド?」
「窓の外側につけてある扉だよ。雨風をしのぐための。入る前に見えたでしょ、黒い木の扉が」
「あぁー、あれね」
 佐々蔵の解説に頷くが、ふと疑問が浮かんでくる。
「でもよ、あれ最初は閉まってなかったよな」
 外から館を眺めていた時、確かに雨戸は開いて窓ガラスが見えていた。その記憶に間違いはないはずだ。
 窓に近付き、開錠して押し上げようとする。が、接着剤で固められているかのようにびくともしない。
 鍵がかかっていないのに開かない扉と窓。いつの間にか閉じた雨戸。風の仕業や老朽化による不具合で片付けるにはどうにも不自然な事態ではないか。楽観視を続けていた弥央の意識に、ようやくわずかながら曇りが立ち始める。
 実のところ、建物内に踏み入る前からは感じ取っていた。だが取るに足らないものだと即座に判断して意識から除外していたのだが……。
 おれたちを閉じ込めたのは、のしわざか?
「あ、あのさ…………これから、どうするの」
 恐る恐る累人が声を絞り出す。さっきから一夜の背後に貼り付いたままの状態だが、それが視界に入る度に喉の奥に魚の骨が引っかかったような気分が弥央の中で持ち上がる。
「玄関からは出られなさそうだから、ほかの部屋に行ってみるしかないんじゃねーの。ここに突っ立っててもなにも解決しないし」
「やひろんの言う通りだね。クリアするまで外に出られないみたいだし、手がかりやアイテムゲットのために探索を始めよう」
 さぁ行くぞ隊員諸君、と拳を掲げながら佐々蔵は進み始める。すっかり探検隊の隊長気取りのようだ。
「ここって、土足で上がっていいの?」
「洋館だからいいんじゃない。ていうか累人、どんだけ怖がってるの」
「だってほんとに苦手なんだよ。こういういかにもな場所とか。しかも入ってきたばっかりのドアが開かないって何。初っ端からそんなホラー要素持ってこないでよ。それにみんな耐性高過ぎるし」
「こんなのでビビる方が理解できないけど」
「なんで急に辛辣モードなんだよ弥央」
 早口でまくし立てる累人に、ついぶっきらぼうな口調で返す。無言でちらりと向けられた一夜の視線がまるで我儘な幼児を諌める親のように見えて、弥央はつんと顔を背けた。
 いいから早く行けよと促し、ようやく歩き出す2人の後に続く。手に持った懐中電灯を下方へ向け、埃まみれの板張りの床に浮かび上がる靴跡をひたすら見つめる。
 ……くっつき虫って、どうやったら引きはがせんのかな。



 玄関ホールはおよそ正方形で、出入口から向かって正面には2階へ続く階段、右側の壁の中央には黒い両開き扉、左側には真っ直ぐ伸びる幅広い廊下がある。
 先頭の佐々蔵が向かったのは右手の扉だった。両手で押すとあっけなく開いたようで、ずかずかと踏み入れていく。
 そこはなかなかの大広間だった。上は吹き抜けの構造で、一辺だけせり出た2階部分へと続く階段が左手の奥に見える。壁際にはいくつもの棚が並び、部屋の中央あたりにはローテーブルを挟んで向かい合うソファのセットが3つ置かれている。
 床は赤と黒の絨毯。壁は植物模様入りの赤いクロス張り。並んだ縦長の窓の内側のカーテンは開いているが、外側の雨戸はやはりどれも閉じているようだ。先程佐々蔵が壁のスイッチをカチカチいじっていたが、電気が通っていないのか照明はつかず暗闇のままだった。
「何だろうねーこの部屋。来客をもてなす用とか?」
「教室くらいの広さあるんじゃねーの。どんだけ金持ちだよ」
 そう呟きつつ、弥央は一番近くのソファに近寄る。埃を被り布地がほころびているが、明らかに高級品であることは分かった。
 佐々蔵は入ってすぐ左の壁際にある本棚を物色中。勝手に触っていいのかという蚊の鳴くような累人の主張は完璧にスルーされていた。
「こういうのって、棚を調べると日記とか研究書が見つかって館の秘密が明らかになるパターンが基本だよねー。かつて大量虐殺があったとか、大勢が犠牲になった人体実験や生贄の儀式が行われたとか。やひろんはどんな舞台設定が好み?」
 手に取った書物をペラペラめくりながら佐々蔵が問う。
「ていうと、この館に誰が住んで何をしてたかってこと?」
「そ。まー実際事件はあったっぽいんだよね。家主の一家が強盗に殺されたとか、家族揃って心中したとか、ネットに色んな書き込みがあった。ああいうのは面白いけど信憑性に欠けるからねー。現地に来たからにはぜひとも真実を暴きたいところさ」
「ふーん。…………、たしかに証拠があれば一気に増すもんなー。わけありのホラー館って感じが」
「そのとーり。呪いをまき散らす怨霊や魔改造された武装クリーチャーが覚醒して、害意むき出しでどこまでも追ってくる。その追撃をかわしつつ隅々まで探索して脱出の条件を満たしていくわけさ」
「そーそー。そんで道中怖がってくっついてるヤツらに限って真っ先にバケモノにおそわれたりしてなー」
 佐々蔵の壮大な設定語りに弥央も適当に乗っかってみる。さっと横を一瞥すると、累人が青ざめた顔で一夜の背後から離れるのが見えた。してやったり、と内心舌を出す。
 その時、館に入った時から感じていたが一段と強くなった。玄関ホールの方から、じめっとした生乾きの雑巾のような雰囲気が漂ってきて……。
「佐々蔵」
 開いた扉へ歩を進めながら呼びかける。
「あのー、あれだ。せっかく4人いるんだから分担しようぜ。おれ向こう見てくるからこっちはまかせた」
「……待て、弥央」
 広間から一歩出たところで一夜が言った。かなり険しい表情。
「なに、一夜。もしかしていっしょに来てくれるの?」
「ここは何が起きるか分からない場所だ。一人で行動して危ない事態になったらどうする」
「へぇ、一夜も心配性?それとも信用してないだけ?」
「今はそんなことどうでも…………」
 言葉が途切れる。一夜はさらに目つきを尖らせ、ある一点を真っ直ぐ睨みつける。
 その視線をたどって弥央は振り向く。大広間の出入口から玄関ホールを挟んだ正面には、先の見えない廊下が奥へ伸びる。

 その手前に、がいた。

 暗闇にぼんやりと浮かぶ輪郭は人型で、平均的な大人の背丈。だが顔も体も全てが真っ黒。マネキンがこちらを向いて棒立ちしているような、希薄ながらもどこか不気味な存在感を放つ。
 手元の懐中電灯を向けようとして、光が当たる直前には走り出した。通路の奥の暗闇へ溶けて、バタンとどこかの扉が閉まる音がした。
 2人が走り出すのはほぼ同時だった。
 一直線の廊下の両側の壁にはそれぞれ木製の片開きドアが2つずつ、計4つある。表札らしきものはないため何の部屋かは入ってみないと分からない。
 はどこに入ったのかと躊躇していると、一夜は進行方向から左手の奥のドアをおもむろに開けた。明かりを持っていないにもかかわらず中に踏み込んでいく。
「一夜、そっちに行ったのか」
 弥央が駆け寄ると鼻先でドアが閉まった。錆びついたドアノブを握って再び開けようとする。
 ……開かない。
 玄関の扉と同じだ。鍵のかかってないどころか、そもそもこれには錠がついていない。だが押しても引いてもガタつきすらしない。一体何なんだ、この館は。
 苛立ちを覚えつつ拳を握り、ドアに叩きつける。
「一夜。中どうなってる。一夜っ」
 何度も叩きつける。内側からの返事はない。思わず舌打ちを漏らし、ドアノブを握ったまま体当たりする。
 この時弥央の頭の中は、どうにかして突破しなければならないという切羽詰まった観念に満ちていた。一夜の身に何かあったらどうしよう。早く無事を確認しないと。一夜。一夜。
 3度目の体当たりで、急につかえが外れたようにドアが内側に開いた。勢いよく部屋に入り込む。数歩先に立っている人影を目で捉えた、次の瞬間。

「消えろっ!」

 怒号と共に猛烈な風圧が正面から突進してきた。これはただの風じゃない。当たったら
 反射的に右手に風を溜め、前方に突き出す。ほぼ同等のエネルギーの衝突によって大半が相殺され、無害の空気の塊と化した余波に弥央は廊下まで吹き飛ばされた。背中を壁に強く打ち、力なく座り込む。衝撃で一瞬全身が麻痺したような感覚に陥る。
 何とか顔を上げ、弥央は前方の開いたドアの奥へ目をやる。眼鏡がずり落ちなかったのが奇跡だ。
 床に転がった懐中電灯が、そこに立つ彼、一夜の姿をくっきりと照らす。
 その蒼白な顔面には、衝動的な殺意に似た戦慄が仮面のように貼り付いていた。


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