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番外編
4.好き
しおりを挟む「好き」とか「愛してる」とか、そういう言葉を平気で口にする、いわば口先だけの人間は沢山いる。事実として自分の父もそうだったのだろうな、と悠哉は思っていた。たまに父が悠哉に向けて口にした「好き」という言葉は、当時の悠哉からしたら心臓が破裂してしまうほど嬉しかった。普段は愛情など全く注いでなどくれない父、すっかりと空っぽになってしまった悠哉の心には、そんな父の一言だけで満たされるものがあった。
けれど結局、父は悠哉の事を愛してはいなかった。悠哉ではなく、最愛の人と悠哉を重ねているだけだったのだ。言葉なんて薄っぺらい、口にすることなど誰にだって出来る、それが自分に向いていなくとも、本心でなくとも口にするだけなら簡単な事なのだ。だからこそ悠哉は言葉というものを信用しなくなった。本当に自分の事を愛してくれているだなんて、言葉だけでは分からないのだから。
しかしこの男はどうだろうか。最近悠哉には恋人という存在が出来た。生まれて初めて出来た恋人は同性であり、それはもう目を疑うほど端正な顔立ちをした男だ。自分なんかと決してつり合わない、そんな卑屈な思考を持ってしまったことも全て神童彰人という男が男前すぎる故だった。
彰人は口を開く度に悠哉に対して「好きだ」「愛してる」と甘ったるい言葉を吐く。付き合う以前から頻繁に耳にしていた彰人の口説き文句は、最初は悠哉も口先だけなのだろうと思っていた。「好き」と言えば軽い女のようにすぐにコロッと落ちてしまう、そう彰人も考えているのだと思っていたのだ。口先だけの「好き」というたった一言になんて絶対惑わされない、その言葉を真に受けて後から傷つくのは自分なのだから、と悠哉は決して彰人の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
けれど悠哉のそんな考えは妄想にしかすぎず、彰人という男は悠哉の事を心の底から愛していた。悠哉が彰人を愛す事が出来たのだって、彰人が悠哉に愛を教えてくれたからであり、今では素直に言葉という愛情表現を受け取ることも出来るようになった。それも全て彰人のおかげだった。悠哉が変わることが出来たのは、この愛に溢れた男に愛されたからだった。
「好きだ悠哉」
そして今日も彰人は愛情に満ち溢れた瞳を悠哉に向け、「好き」という言葉を口にする。そんな彰人の耳を擽るような声が、今しがた行っていた行為を思い出させるようで悠哉の肌は嫌でも赤みを増してしまう。もう何度も耳に入れているその言葉は聞き慣れているはずなのに、悠哉の心臓は毎度の事忙しなく跳ね上がっていた。
ベッドの中で足をもぞもぞと動かした悠哉は「お前には恥ずかしいっていう感情はないのか…?」と隣で悠哉の髪を撫でている彰人に尋ねる。
「急に何の話だ?」
手を止めた彰人は、不思議そうな顔で悠哉を見た。
「好きって…よく恥ずかしげもなく言えるよなって思って…」
悠哉は彰人から目線を逸らし、小さな声で呟いた。悠哉から指摘されても彰人の表情は涼しげで、ちっとも照れてなんかいない様子に、自分だけ顔を赤くしている今の状況に何だかいたたまれなくなる。
「別にお前に好きだと伝えること自体が恥ずかしいとも思わないしな」
「…元からそうなのか?」
「元から?」
「俺と付き合う前もそうだったのか?好きとか愛してるとか平気で口にしてたの?」
悠哉はゆっくりと視線を上げ、彰人の顔を見る。何気に気になっていた疑問だった。悠哉と出会ったばかりの彰人は無愛想でとてもじゃないが愛など口にするような男には見えなかった。しかし蓋を開けてみればこちらが恥ずかしくなる程の言葉を平気で口にする。自分以外の相手にもそうだったのか、悠哉は密かに気になっていた。
「いや、完全にお前限定だな」
悠哉の疑問をさも簡単に答えた彰人。悠哉は大きな黒目をぱちくりとさせた。
「前にも言ったが、お前と付き合うまで俺は本気で恋愛をしてなかった。だからかなり冷たい男だったと思うな」
「…そうなんだ…」
自分にだけ、その事実に悠哉の胸はきゅぅんと愉悦が広がるようだった。
「正直言葉なんて意味の無いものだと思ってた。言葉ほど薄っぺらいものはないからな」
そう言った彰人の表情はどこか寂しげだった。悠哉は彰人の頬に優しく触れると「お前の言葉は薄っぺらい くなんかないよ」と口にした。彰人は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「ふっありがとな」
悠哉の頭を撫でる彰人の優しい手つきに、悠哉は自然と目を細める。
悠哉だってついこの間まで言葉という愛情表現なんて信用もしていなかった。けれど彰人に愛されてからはそんな考えがどこか遠くへ行ってしまったように、彰人の愛に溢れた言葉によって満たされている。彰人の言葉は悠哉が耳にしていた誰の言葉よりも情熱的なのだ。
けれど何故彰人はここまで言葉として愛を伝えるようになったのだろうか。元々はそういうタイプではなかったのに、何が彰人の考えを変えたのだろうと悠哉は不思議に思った。そしてふと一つの考えが浮かび上がった。
「もしかしてさ…俺って結構気遣われてる…?」
「どういう事だ?」
彰人が首を傾げる。どうやら悠哉の質問の意味が理解出来ていないようだった。
「お前って元々は好きとか口にするタイプじゃなかったんだろ?それなのに俺にはめちゃくちゃ言ってくるじゃん、それも俺が他人よりも愛され慣れていないからなかと思ってさ…」
悠哉の考えはこうだった。他人よりも愛に乏しい悠哉のために、彰人は分かりやすく言葉として愛を表情してくれているのではないか。全ては悠哉を安心させるための彰人の優しさなのではないかと悠哉は予想した。
すると彰人は珍しくきょとんととぼけたような顔でしばらく黙り込むと、青い瞳を泳がせた。
「いや…それはお前の考えすぎってやつだな」
「じゃあなんでそんなに好きとか頻繁に口にするんだよ」
彰人は口元を緩めると悠哉から視線を逸らしてしまった。何を言い淀んでいるのだろうかと悠哉が不思議でいると、自分の顔を右手で覆った彰人が「無意識だ」と口にした。
「無意識…?」
「お前のことが好きだと感じたら無意識に口から出てしまうんだ。だから意識して口にしている訳では無い」
そう言った彰人の耳はいつもより赤いような気がした。珍しく照れている彰人に驚きつつも、彰人が言葉として愛情を示すことの意味が全て悠哉の考えすぎだった事実に拍子抜けした気分だった。
「ていうかそんなにそんなに言ってたか?」
「は?口を開けば言ってるだろ」
「そうか…」
未だに赤みの引かない彰人の肌、悠哉はなんて可愛らしいのだろうと思った。
「なんで好きって言う時は照れないのに、今は照れるんだよ」
珍しい彰人の姿に、悠哉はからかうような口調で揶揄する。彰人は分が悪いとでも言うように眉を寄せた。
「お前に指摘されるまで気づきもしなかったからな。改めて悠哉の事が好きすぎると自覚するとなんだか照れるもんだな」
好きだから言葉として伝えるのではなく、好きだから言葉として漏れてしまう、そんな彰人に悠哉の愛おしさはじわじわと急速に増していく。そして悠哉の口から「好き…」という二文字が漏れ出た。ハッと自分の発言に気がついた悠哉は、くるりと身体を反対に向いた。
けれど悠哉の言葉を聴き逃していなかった彰人は「ちょっと待て悠哉」と身体を起こした。
「こっちを向いてくれ」
「いやだ…」
確実に今の自分は真っ赤な顔をしているだろう、悠哉には断言出来てしまったため彰人の言葉に従うことは出来なかった。
好きだなんて言うつもりはなかった。けれど彰人の事を愛おしいと感じたその瞬間に、無意識には口に出していたのだ。彰人の言わんとしている事を理解出来てしまった悠哉は、彰人を馬鹿にできない程自分も彰人に惚れ込んでいると自覚させられたようで恥ずかしくて堪らなかった。
「悠哉、耳が赤いぞ。お前も照れてるのか?」
「うっさい…お前のせいだからな」
「お前は本当に可愛いな」
彰人は悠哉の肩を掴み、無理やりに悠哉の身体を上へ向かせるとそのまま唇を塞いだ。悠哉は突然のキスに驚いたものの、すぐに心地のいいキスによって甘い声が漏れる。
「んっ…ふぅ…っ」
くちゅり、と唇がいやらしく合わさる度に、悠哉の腰は再度疼くような甘い刺激に囚われる。キス一つでいとも簡単に堕ちてしまう自分に悠哉は呆れながらも、気がつけばすっかりキスに夢中になっていた。
「はぁ…んっ…は…っ」
すっかりキスを堪能してしまった悠哉は、唇が離された時には既に息が上がっていた。彰人との間に紡がれる細い糸を眺めながら、ぼーっとした思考で胸を上下させた。
「好きだ悠哉」
熱烈たる瞳で悠哉を見下ろしている彰人の口から、またもその言葉が口にされる。その一言だけで彰人がどれほど悠哉を愛しているのか、悠哉には分かってしまう。今彰人は心から自分の事を愛おしいと感じてくれている事実に、悠哉の口からも「俺も好きだよ、彰人」と自然と愛する恋人に対する好きという気持ちが漏れていた。
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