Besides you 上

真楊

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「来んな…っ!」
 放課後の教室に、一人の男子生徒の声が響き渡った。男子生徒は目の前にいる男の胸を思い切り押すと、怯えた瞳で震えている自分の手を見つめた。
「悠哉…?」
 悠哉と呼ばれた男子生徒はハッと我に返ると、自分が男に対してやってしまった過ちをまじまじと身体で実感し、恐怖心から急いで教室から飛び出した。
「悠哉!?」
 男が自分の名前を呼んでいる。しかし悠哉は引き返すことなく走り続けた。
 これは悠哉にとっての忘れてしまいたい記憶の一部だった。人間誰にでも忘れたい記憶というものが存在する。しかし、そんな記憶に限ってなかなか忘れられず、自分の中に住み着いて消えようとはしない。
 悠哉の中にも同様に、あの日の出来事が後悔という記憶として、永遠に悠哉の中に渦を巻いている。二度と会うことがないであろうあの男の顔が、悠哉は忘れることが出来なかった。



 ガヤガヤと騒がしい教室内、生徒たちはホームルームが終わるや否や待ってましたと言わんばかりに立ち上がり始めた。彼らは学校という名の拘束された空間から解放されたことによる喜びや、これから始まる部活動への不満など様々な声を上げている。
 しかし、そんな会話など悠哉にとってはどうでもいい事だった。聞きたくもない会話が嫌でも耳に入り、「はぁ…」と悠哉の口からはイラつきからついため息が漏れ出た。
 そんな騒がしい空間の中から「悠哉!」とはっきりと自分の名前を呼ぶ、男にしては少し高い聞き馴染みのある声が聞こえてくる。声の主、柚井陽翔はいつものように人好きな笑顔を浮かべ、窓際に配置されている悠哉の席へと歩みを寄せた。
「帰ろっか」
「・・・あ、ああ」
「どうしたの?」
 陽翔の顔を見た途端、つい言葉に詰まってしまう。悠哉の異変に敏感な陽翔はすぐに疑問に思ったようだが、悠哉は何事もなかったように「なんでもない」と立ち上がり帰り支度を始めた。
「まぁ悠哉ってたまにボーっとしてるもんね」
「うるせー」
 陽翔の姿をなるべく視界に入れたくなかったために、自分の気持ちとは裏腹に平然を装い悠哉は教室を出た。
 ――こいつの顔を見ると嫌でも気分が下がる。
 男である彼、涼井悠哉は同性の親友である柚井陽翔に対して友情以上の感情を抱いてしまっている。そんな悠哉の恋は陽翔に恋人ができたことによって失恋へと変わってしまった。

 放課後の騒がしい廊下を部活動に入っていない二人はいつものように急ぎもせず、自然と互いの歩みに合わせた速度で歩みを進めていた。
「なぁ、お前って男が好きだったのか?」
「え・・・?!急にそれ聞く!?」
 悠哉の唐突な質問に陽翔は大きな瞳を丸め、驚いたような表情を悠哉に向けた。
「急も何も無いだろ、お前だって急に恋人ができたって言ってきたくせに」
「ゔっ、それはそうだけどさ…そこはなんとなく触れないでいてくれると思ってたから…」
「普通触れるだろ」
「悠哉ってデリカシーないよね…」
 陽翔は悠哉の無神経さに思わず眉を下げた。しかしそんな陽翔の態度に納得が出来なかった悠哉の口からは「は?」と低い声が漏れる。幼なじみであり親友でもある人間がゲイだった事実を確認しただけでそのような言い方をされるのは如何せん納得が出来ない。それに陽翔から今の今までそのような話を聞いたことがなかったため、親友として確認するのは当然のことだろう。触れないで欲しかったのなら最初から俺に話すなよ、と悠哉は思った。
 陽翔から恋人がいると告げられたのがつい昨日のことで、出会ってから一度もそのような浮ついた話を耳にしたことがなかった悠哉にとって陽翔の告白は衝撃的だった。誰にでも好かれるような人柄をしている陽翔には友人と呼べる人間は多数いたが、所謂恋人と呼べる人間はいなかった。それは悠哉の知る限りの範囲内でしかないが、陽翔に恋人がいたら確実に気がつくことの出来る自信が自分にはあったため、陽翔に恋人がいなかったという事は事実と捉えて問題ないだろう。
 そんな陽翔に恋人が出来た。正直ショックは受けたが陽翔に今まで恋人ができないこと自体おかしかったのだと悠哉は考えている。男にしては低い身長、オレンジ色の瞳はぱっちりと大きくまさに女顔と呼ぶに等しい容姿、一見男扱いされずに友人として付き合っていくのに丁度いい相手のように思われるが、柚井陽翔という人間は誰にでも等しく優しいお人好しだった。女が憧れるイケメンとは違うのかもしれないが陽翔の内面を知って好意を寄せる女も少なくはなかった。結論として、陽翔という人間は世間一般にいうモテる側の人間だった。それでも恋人がいなかったのはなぜか、多分俺のせいだろうな…と暗い気持ちを抱えながら悠哉は眉を寄せた。
 陽翔は悠哉に対して異常なまでの庇護欲を持っている。例えば放課後遊ぼうと誘われても「ごめん、これから用事があるから」と言い断ることがほとんどだった。用事など悠哉の家で一緒にゲームをするといった特に優先するべきでもない有り触れたものだというのに、悠哉を一人にさせないためだけに陽翔はそういった行動をとる。何事にも陽翔は悠哉を優先してしまうため、いつの間にか悠哉の隣にはずっと陽翔がいた。そして悠哉自身もそんな陽翔に依存してしまっているのが現状だった。だから陽翔に恋人、しかもその相手が男である事に悠哉はショックを隠せずにいる。
 すると、陽翔は困ったように眉を下げた。
「んー、別に男の人が好きって訳じゃないと思う…多分…」
「はぁ?!じゃあなんで男に告られてOKしたんだよ」
「いやぁ、僕自身告白されるのって初めてだったのもあるし最初はすごい戸惑ったんだけど、でも僕みたいな人間を好きって言ってくれる先輩の気持ちを無下にしたくなくて、それに実際に付き合ってみないとわかんないじゃん?」
 陽翔の返答に悠哉は思わず立ち止まり固まってしまう。本気で耳を疑った、長年付き合ってきた親友がここまでお人好しの馬鹿だったとは知らなかった、と悠哉は陽翔の価値観を理解出来ずに困惑した。こいつは好きでもない、しかも男とボランティア感覚で付き合うつもりなのか?ありえないだろ、悠哉には到底理解できない考えだった。
 そして悠哉の脳裏に嫌な疑問がひとつ浮かび上がる。お前のことが好きだと言ってくれる相手だったら誰でもよかったのか、性別など関係なく、相手に誠意があり真剣に好きだという気持ちを伝えることが出来る人間なら誰とでも付き合うことが出来るのか、それなら自分だって陽翔と恋人同士になることが可能だったのではないだろうか、そんな考えが悠哉の表情をより一層曇らせた。男同士という壁、さらに親友という間柄であり悠哉の人生に必要不可欠となっている陽翔の存在を失うことへの恐怖、そんなことをうだうだ考えた末に陽翔と恋人になることは自分には無理だと思った。だけどそんな考えは無駄であり素直に告白さえしていれば、陽翔と恋人同士になれたのではないか。
「じゃあ、俺が告白したら付き合うのか?」
 そんな疑問が悠哉の頭の中を右往左往と飛び交い、ついには言葉として口からポロッと漏れた。
 悠哉が立ち止まっていることに気がついた陽翔は自分も同じようにその場で足を止め、振り返ってふっと微笑みを悠哉に向けた。
「いや、それはないよ、だって僕たち親友でしょ?恋人にはなれないよ」
 陽翔は特に考え込んでいる様子もなく、キッパリとそう言いきった。陽翔の笑顔でさえ今の悠哉にとっては残酷なものに見えてしまい、胸が苦しくズキズキと痛む、誰かに心臓を鷲掴みにされているようなそんな気分に陥ってしまった。
 最初からわかっていたはずだった、陽翔が自分の事をそういう対象として見ていないことぐらい。
 悠哉はふぅ、と一言呼吸を置き、なんとか平常心を保つことに集中する。
「…そうだよな、まぁよくよく考えたら陽翔と付き合うとか有り得ないな、普通に嫌だし」
「ゔっ、地味に傷つくなぁ」
「そもそもそいつ本当にお前のこと好きなのか?遊ばれてんじゃねぇの?」
「それ言う?!確かにみんなのヒーロー的存在な慶先輩が僕みたいな凡人好きになること自体おかしな話なんだけど、でも!すっっごい真剣に告白してくれたんだ…!あれが嘘なはずないし、疑うのも失礼ってもので…って?あれ?聞いてる?」
「あー、悪い、幼なじみの惚気を聞くことに対して体が拒否反応を起こしてるみたいで全く内容が耳に入ってこない」
「なんだそれ!?てか別に惚気けてないし…それにこの話始めたのは悠哉のほうだろ?」
「記憶にないな」
「えぇ~…」
 悠哉の態度に半ば呆れた陽翔は情けない声を出しながら目線を正面に戻し、止めていた足を動かした。どうやらこの話はこれで終わりらしい。
 聞くんじゃなかった、陽翔が友情以上の感情を自分に抱くはずがない、分かっているんだ。いや、分かっていたつもりだった。実際は陽翔と恋人同士という関係になれることに少し期待していた自分もいたのだろう。陽翔は自分の事を大切に思ってくれている、これは数年付き添ってきた経験から悠哉は断言できた。しかしその想いが恋愛感情なのか、はたまた親愛のようなものなのか、陽翔の場合は後者だった。どれだけ大切に想っている兄弟がいても恋人同士になろうとはしない、つまり陽翔にとって悠哉の存在はそういうものなのだろう。
 ――だけど…陽翔のことをろくに知りもしないやつに取られるのはすげぇ腹が立つ、俺の方が陽翔のことを知っているのに、俺の方が陽翔を想う気持ちは強いのに。
「陽翔」
 正面から高校生にしては良いガタイをした一人の男がこちらに歩みを寄せてくる。その男は悠哉にとって今一番会いたくない人物だった。そのため男の姿を視界に入れた瞬間、慌ててふいっと目をそらす。陽翔の名を呼ぶその人物、難波慶は一年生の教室の前を三年生であるにも関わらず堂々と歩き、こちらに近づいてくる。サッカー部のキャプテンでありエースでもある難波は学校内ではちょっとした有名人だった。その難波が何故こんな所にいるのか疑問に思っている生徒もいるようで、ひそひそとした話し声も聞こえてくる。上級生の難波が何故一年生の教室いるのか、そんなこと悠哉にとっては簡単な事だった。恋人である陽翔に会いに来たのだろう。
 「慶先輩!」と陽翔が元気よく駆け寄っていく。難波を視界に入れた途端、陽翔の表情がぱあっと明るくなったような気がして悠哉の胃はキリキリとした嫉妬心で痛んだ。
「よぉ、今帰りか?」
「はい!先輩は部活ですか?」
「まぁな。あー、陽翔、今からちょっといいか?」
「今からですか?」
 陽翔がチラッと悠哉の方へと視線をよこす。「えーっと…」と言い淀んでる様子から、自分の存在を気にかけているのだろうと悠哉は察した。これから一緒に帰ろうとしている友人を置いて恋人のもとへ行ってもいいのか。恋人ができた今でも陽翔にとって悠哉の存在はかなり大きいらしく、難波よりも優先度が高いのかもしれない。
 陽翔の気持ちは嬉しかったが、この場面で変に気を遣われてもただただ気まずいだけだった。俺なんか気にせずに早く難波のもとへ行ってくれ、と悠哉は心の中で強く願った。
 曖昧な返事しか返さない陽翔に対して疑問に思った難波は、悠哉の存在に気がついたようで視線を向け「お前、悠哉だよな」と、声をかけてきた。
 まさか自分に話が振られるとは思っていなかったため、ビクッと身体が反応してしまう。悠哉は恐る恐る難波の顔を見た。真正面から見た難波慶という男は自分の人生で決して関わろうとしない人種であることがよく分かった。別に髪の毛を明るくしてるわけでも、制服を着崩しているわけでもない、難波の見た目は黒髪に短髪、キリッとした眉が特徴的な男前の面をしており、世間一般にいう優等生の部類だろう。だが、何故か難波慶という男から発せられるオーラ的なものが悠哉にとっては苦手意識が強く、陽なものに感じてしまっていた。順風満帆な人生を送っており、何不自由ない家庭で育ってきたおかけで真っ直ぐとした性格で誰にでも分け隔てなく対応出来る完璧な人間、悠哉からの難波慶という男のイメージはそんなところだった。
「そうですけど…」
「ちょっとだけ陽翔のこと貸してくれないか?」
 わざわざ自分に許可を取ってきた難波に、悠哉の眉はピクリと動いた。陽翔と話したければ勝手に話せばいいのに何故こちらの許可を取ろうとするのだろうか。しかしここで無理です、なんて断ることも出来なかった悠哉は素直に陽翔のことを差し出した。
「別にいいですよ、ほら」
「ちょっ、人を物みたいに…っ」
悠哉は陽翔の背中をドンッと押し難波の方へ突き出すと「外で待ってる」とだけ言い残しその場を後にした。

 玄関で靴を履き替えた悠哉の口から本日何度目かわからないため息が漏れた。先程の気まずい空気、自分の存在が二人の邪魔をしていることは明らかだった。恋人同士の二人の間に入る隙など一ミリもなかったではないか。唇をぐっと噛み締め、悠哉は自分の陽翔への独占欲を憎んだ。
 柚井陽翔という人物は悠哉が今まで出会ったことのない存在だった。小学五年生の頃、転校生である悠哉に陽翔が話しかけてきたことが二人の出会いだった。当時、悠哉は人に対する興味が全くなく、誰とも関わろうとしなかったためわざと一人でいた。そんな悠哉に陽翔が声をかけてきたのだ。
「僕は柚井陽翔、困ったことがあったらなんでも聞いてね!」
 屈託のない笑顔で自己紹介をしてきた陽翔の第一印象は、他人に気をつかえるほど人生に余裕を持っている幸せ者のお人好し、という小五にしてはひねくれ過ぎた感想だった。
 悠哉が何度無視をしようが陽翔はしつこく付きまとってきた。友達や仲間、そういうものを毛嫌いしていた悠哉にとって陽翔の存在はただただうざいもので、本音としては放っておいてほしかった。そしてそんな陽翔に耐えられなくなった悠哉は、ついには陽翔に対して強く当たってしまった。普通の人間ならば「うざい」「しつこい」「放っておいてくれ」などの言葉を向けられたら軽蔑するに違いない。せっかく人が気を遣って寄り添ってやったのになんだその態度は、と離れていくのが普通だろう。しかし陽翔は違った。
「どんなにうざがられても構わない、だって僕お前と友達になりたいもん。それに悠哉を一人にしたくない」と悠哉に向けて真っ直ぐとした眼差しでそう言葉を投げたのだ。こんなに真っ直ぐな瞳は初めて見た、こいつのことなんか全然知らないのに、こいつだけは俺のことを裏切らないのではないか、そう悠哉は思うことが出来た。
 人間不信で決して心を開こうとしなかった悠哉の心の扉を無理やりにでも開いてくれた人物こそが陽翔だった。それから陽翔は片時も悠哉のそばを離れることなくずっと隣に居てくれた。陽翔さえいればそれでいい、他に望むものは無い、そう思えるほど陽翔の存在は悠哉の中で異常なまでに大きくなった。
 陽翔は悠哉にとって大切な友人であり、人生の支えだった。しかし現実は残酷なもので、陽翔に恋人が出来た今、陽翔は悠哉だけの陽翔ではなくなった。いつまでも子供じみたわがままも言ってられない、自分が陽翔を解放しなければならない。陽翔の幸せを祝福してあげることこそが悠哉に出来るせめてもの恩返しなのだ。そのため悠哉は心の奥底で陽翔を諦めることに決めたのだった。

 悠哉は思い足取りで外へと出ると、陽翔を待つために柱の前でしゃがみ込んだ。憂鬱な気持ちが晴れないまま悠哉は先程の出来事を思い出し、頭を抱えてしまいたい衝動に駆られる。
 陽翔は優しいを通り越してお人好しすぎる、それに誰に対しても愛嬌があり自分なんかに相応しくないことは悠哉自身自覚していた。それに陽翔の相手である難波、彼は悠哉が耳にするほどの人気者であり学年問わず男女共に好かれていた。完璧と言ってもいいような難波は自分なんかよりも陽翔に相応しい。その事実を分かっているつもりでも、悠哉の気持ちは辛いままだった。かけがえのない存在である陽翔を突然よく知りもしない男に横から取られる、どんなに二人がお似合いだろうと今の悠哉には難波に対する妬ましい感情しか抱けず、二人の幸せを願うことなんて到底出来なかった。
 ガタッ、背後から人の足音が聞こえ、悠哉は反射的に立ち上がった。もう陽翔が来たのだろうか、と思った悠哉は軽い気持ちで後ろを振り返った。その瞬間、悠哉の頭は真っ白になる。悠哉は驚きのあまり声を発することすら出来ずに呆然と目の前の人物を見つめていた。この男が自分の目の前にいることに対してどうやら頭の中の思考が追いついていない。いや、理解したくないようだった。
 そこに立っていた人物は陽翔ではなく、神童彰人だった。
「お前、悠哉か?」
 数年ぶりに聞いた彰人の声に、悠哉の心臓はドキリと跳ね上がった。年齢の割には低くて落ち着いている、よく耳に馴染むその声を悠哉はしっかりと覚えていた。その声で名前を呼ばれただけで、悠哉の身体は無意識に硬直していく。
 思い出したくもないあの時の出来事が鮮明に蘇ってくる。――俺の後悔が。
「まさか同じ高校だったとはな。」
「なんでお前が…」
 目の前の男は平然とした態度で悠哉のことを見下ろし、階段をゆっくりと下りてくる。悠哉はやっと絞り出た声でハッと我に返った。これ以上この男に近づいてはいけない。
 地面にカバンを置いたことすら忘れ、悠哉は今すぐこの場から逃げるため校門に向かって走り出した、つもりだった。しかし、彰人に腕を捕まれたことによりそれは叶わなかった。
「また逃げるのか?」
 悠哉の喉がヒュっと鳴る。吸い込まれてしまいそうなほど澄んだ綺麗な青い瞳がこちらをじっと見つめている。凛々しい眉は下がっており、悲しそうな、辛そうな、そんな表情に見えた。顔を歪め、力強く掴まれた腕からはでかい図体に似つかわしくないほど弱っているように悠哉には感じられた。
 彰人に触れられていると理解してしまったらもう駄目だった。懐かしいあの体温が肌を通して悠哉には伝わってきた。ダメなのに、彰人という男を嫌でも思い出してしまう自分がいる。
「…っ、離せよ!!」
 悠哉は堪らず力強く腕を引いたが掴まれた腕が離されることはなく、むしろ先程よりも強い力でギュッと握られた。意地でも離さまいという意思さえも感じられ、彰人は悠哉をこの場から逃がすつもりはないらしい。
「俺はもうお前とは関わりたくないんだ!お前だって俺のこと嫌いなんだろ?そりゃあそうだよな、お前にひでぇことしたんだもん」
 声を荒らげた悠哉に彰人はギョッとした表情を見せると「ちょっと待ってくれ」と口を開いた。
「お前は何か勘違いしているようだからこの際はっきり言うが悠哉、俺はお前のことが好きなんだ」
 彰人はすぅ、っと一息ついてからはっきりとその言葉を口にした。「好きだ」という言葉を。
 急な彰人からの告白に、悠哉にはその言葉の意味を理解することが出来なかった。思考が停止し、まるで脳みそが何も考えたくないと訴えているようだ。この男は今なんと言った?俺のことが好きだと言ったのか…?いや、有り得ないだろう。
 しかし、真っ直ぐと見つめられた瞳からは冗談を言っているようにも感じられず、青い瞳に捕らえられてしまった悠哉はただ彰人の顔を見つめることしか出来なかった。
「三年前から俺の気持ちは変わっていない。お前から拒絶された時は酷くショックを受けたさ、俺がなにか嫌われるようなことをしたんだと悔いた。それでもこの三年間お前を忘れることはなかった、他に恋人を作ったところで長続きもしなかったしな。こうして再会できた今だって好きだという気持ちが抑えられていない」
 三年前という単語を聞き、悠哉の眉はぴくりと反応する。サッと彰人から顔を逸らし「…離せよ」と悠哉は静かに口を開いた。
「あ、あぁ悪い」
 彰人から腕を離され、シワになった袖を伸ばした。そしてやっと解放された腕は先程まで握られていた余韻のせいかじんじんと痛む。
 悠哉は腕をさすりながらチラッと彰人の顔を盗み見ると、今告白したことが嘘であるかのように平然とこちらに視線を向けている彰人と目が合った。悠哉の心臓はドキリと脈打った。途端に顔に熱が集まるような感覚に陥ったため、顔を背けなんとか気持ちを落ち着かせようとするが、ドキドキと鼓動は確実に速くなっている。なんで俺こんな気持ちになっているんだ、と悠哉の頭は困惑した。
「だいたいそんなの信じるわけないだろ。ふざけた嘘つくなよな、誰が信じるかよ」
 悠哉が分が悪そうに頭を搔くと「信じてくれないのか?」と少し悲しそうな表情で彰人が問いかけた。
「信じるかよっお前みたいなやつが俺なんか野郎を好きになること自体ありえないし…」
「元々俺はゲイだ。むしろお前みたいな男が好きなんだ」
「…っ、それにお前だって俺の事避けてただろ」
「それはしょうがないだろう。俺だって相当ショックを受けていたんだ。お前のことが好きだから尚更な」
 こちらが反論すればすぐに論破してくる彰人に、悠哉は言葉に詰まってしまう。本気なのかからかってあの時の憂さ晴らしをしようとしているのか悠哉には彰人の本心など分かるはずもないが、彰人は好きだという事実を否定するつもりは無いらしい。なんて厄介なのだろうか、と悠哉は眉をひそめた。
「俺は信じないから」
「全く頑固だな。そういうところは昔から変わってなくて少し安心したよ」
「…っ、理由はなんであれ、俺はお前に酷いことをしたんだ、最低だ。それにお前だってあれから俺に関わろうとしなかっただろ?俺が逆の立場でもそうするし、あんな態度取ったんだから文句言えねぇよ、軽蔑したならはっきり言ってくれた方が楽だ。だから今更好きとかくだらない嘘ついて俺を混乱させないでくれ、嫌いならもう関わらないでくれよ」
「それは出来ないな、俺はお前のことが嫌いじゃない、むしろ好きなんだ、信じてくれないなら何度だって言ってやるさ、悠哉、好きだ」
「…っ!?」
 スっと手を伸ばした彰人は、悠哉の髪を壊れ物を扱うかのような優しい手つきで撫であげた。まるで愛おしいものを愛でるようなその彰人の表情に、また自分の顔が熱くなっていくのが悠哉には分かった。
 悠哉は堪らず彰人の手を払い除けると、彰人に向かって声を荒らげた。
「触るなよっほんとなんなんだよお前っ!俺はずっとお前に軽蔑されたって思ってたんだぞ?なんも悪くねぇお前に酷いことしたのに…それなのに好きとか意味わかんねぇよ…!」
「それじゃあお前は壮大な勘違いをしていたわけだな、軽蔑なんてした事ない、どんなにお前に嫌われようが俺はお前のことが好きで好きで仕方がなかったんだ。好きだと告げたら気持ち悪がられると思っていたが俺の予想はどうやら外れたようだな。顔が真っ赤だぞ」
「なっ…!?」
 彰人にそう指摘された悠哉の身体は、途端にぶわっと体温が上昇していった。こんな感情知らない、知らないはずなのに。胸の中がグツグツと煮えたぎっているように熱い、その熱が全身に伝わって自分の身体を包み込んでいるようだった、鼓動も早くて落ち着かない。
 今の悠哉には、キッと彰人を睨みつけ「赤くなんかなってない…っ」と反論するだけで精一杯だった。陽翔以外の人間からこんなにも好意的な目で見られるのは悠哉にとっては初めての事だった。愛されることに慣れていない悠哉にとって、彰人の言葉に平常心でいること自体無理だったのだ。軽蔑されることは慣れていても愛されることには慣れていない、悠哉はそんな人間だった。
「そんな顔をされたら諦められそうにないな。それに俺は何も悪くないと言ったなよな?なぜあの時お前があんな態度を取ったのか分からないが、俺を本気で嫌いになったからじゃないんだな?」
 悠哉に嫌われていたと思っていたらしい彰人は、自分が嫌われていないと分かって安心したように目を細めると、だったら何故避けられていたのかその理由を追求してきた。本気で嫌いになっていないという彰人に対する本心をつかれ「…そうだよ」と悠哉はつい本音で返してしまう。
 三年前だって彰人のことは嫌いではなかった。むしろ昔の自分に似ていたため、どこか放っておけない存在だったぐらいだ。悠哉にとって彰人は数少ない『自ら自分が関わろうとした人物』だったのだ。
「お前から酷く嫌われていると思っていた俺も壮大な勘違いをしていたんだな、お互い様だ」
「おい、勘違いするなよ。別にお前がそういう意味で好きなわけじゃないからな?誰かに告白されるのとか初めてで戸惑っただけで…」
 「ああ、わかってる」と頷いてみせた彰人の顔がどこか嬉しそうなニヤついている表情をしており、そんな彰人に悠哉は無性に腹が立った。誰のせいでこんなに取り乱してしまったと思っているんだ、こんなことならあの時みたいにお前なんか大嫌いだと言ってしまえばよかった、二度と関わろうと思わないほど嫌われてしまえばよかった、と悠哉は心の中で後悔した。
 しかし今から後悔しても手遅れだったようで、彰人は悠哉の事を諦めるつもりなどさらさら無いようだ。むしろ悠哉の態度に少し自信をつけてしまったように感じられた。
 ――無駄なのに、俺が好きなのはあいつだけだ。
「それに俺には…」
「悠哉?」
 悠哉が言葉を紡ごうとしたその時、誰かに名前を呼ばれたことにより遮られた。視線を玄関の方へ移すと、そこには陽翔が立っていた。難波との話が終わったのであろう陽翔は、悠哉が彰人と共にいることに対して状況が上手く掴めていないようだった。
「俺は邪魔者みたいだから帰るよ、じゃあな悠哉」
 彰人はぽん、と悠哉の頭の上に自分の手を乗せさらりとひと撫でした。しかし、すぐにその手を離してしまうと陽翔のことなど見向きもせずに彰人は歩いて行ってしまった。悠哉はというと、ただ呆然と校門へ歩いて行く彰人の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
 「ほら、カバン」という声でハッと我に返る。陽翔は地面に置いてあった悠哉のカバンを差し出した。
「今の人って神童先輩だよね?」
「あ、ああ」
 悠哉の返答に対して陽翔は「そっか」とあっさりとした言葉を返し、特に詮索もせずに「ほら、行こ?」とすたすたと校門の方へ歩いて行ってしまった。しかし、悠哉には一瞬だけ陽翔の表情が曇ったように見えた。悠哉は不審に思いつつも、自分の気の所為なのだと深く考え込まず何も言わずに陽翔と後へと続いた。
「難波とはもういいの?」
 帰り道、代わり映えのしないいつもの下校コースを複雑な心情を抱きながら悠哉は足を動かした。
 思いがけない彰人との再会に悠哉の頭は未だに理解が追いついていなかったが、一度陽翔に話題を振り彰人のことを頭の中から消そうと試みた。
「え?あ、うん。週末の予定聞かれただけだから」
 悠哉の質問に陽翔は微笑んで返した。この様子だとどうやら週末はデートの予定があるのだろうと推測出来た。デートの約束ぐらいLINEで出来るのにわざわざ陽翔を引き止めて聞くところが悠哉の癇に障った。まるで自分から陽翔を引き離そうとしているようで難波への嫉妬心がますます溜まっていく。
 「はぁ…」とついため息が漏れる。今までは陽翔と一緒にいるだけで心が休まるような気持ちになれたのに、今は逆だった。陽翔といると嫌でも難波のことを思い出してしまって、親友の幸せを喜んでやれることが出来ない自分が憎くて堪らなくなる。
 二人は特に会話をすることもなく足だけが動いていく。その間も悠哉はぐるぐると余計なことを考えてしまっていたが、いつの間にか家の前まで来てしまい我に返った。自然とポストに手が伸びるとガサゴソと溜まっている郵便物を出す。すると悠哉はふいに強い視線を感じた。
「なに?」
 悠哉はくるりと振り返り、陽翔に問いかけた。「え?!」と大袈裟に驚いている陽翔の様子から、無意識に自分の事を見ていたのだろうと悠哉は思った。あたふたと取り乱す陽翔の姿は滑稽で、これだから陽翔には飽きないんだよ、と悠哉は心の中で失笑する。
「えーっと、悠哉顔赤いけど大丈夫かなーって思ってさ」
 陽翔は頬をかき、言いずらそうに悠哉へ指摘した。悠哉は途端にバッと顔に手をやり、なるべく自分の顔が見えないように隠した。まさかさっきの名残がまだ残っているのか…?と思ったが、確かに自分の手に伝わる体温は普段よりも高いような気がした。
「熱、あるかも」
 「やっぱり?ちょっと触るね」と陽翔は悠哉のおでこに手を伸ばした。生暖かくしっとりとした陽翔の手に触れられ、なんだか懐かしい気持ちにされられる。
「やっぱり熱いよ、今日はゆっくり休みなよ」
「お前は俺の母さんかよ」
 悠哉はボソッと呟いた。面倒見がいいお人好し、悪く言えばお節介、陽翔のそんな面が悠哉にとっては母親のような存在に感じられた。
 とにかく先程のやり取りのせいで顔が赤くなっているのではないのだと分かって悠哉は胸をほっと撫で下ろす。彰人に対して変に動揺してしまったのだって、熱があったからなのだと自分を納得させた。きっとそうに決まっている。
「何か欲しいものある?あとで持ってきてあげるよ」
「別にいいよ。そこまで体調悪くないし」
「でも徐々に熱も上がるかもしれないしさ、母さんに何か作ってもらうように頼んでみるよ」
 「…お節介野郎」と、つい心の声がポロッとこぼれた。悠哉が体調を崩す度、毎度のことながら陽翔のお節介は度を超えていた。わざわざ学校を休んでまで看病しに来たこともあったほどだ。
「そんなこと言われたって仕方ないじゃん、悠哉は家に一人なんだし、心配なんだよ」
「とにかく、今日はもう大丈夫だから。ピンポンならしても出ねぇから、じゃあな」
 悠哉は扉に手をかけ、素っ気なく言い返した。今日は色々ありすぎてストレスが溜まっているのが自分でもよく分かった。それに加え熱もあると来たら今の気分は最悪だった、陽翔のお節介に構っているのも辛いほどに。
 悠哉の機嫌が悪いことにいち早く気がついた陽翔は「分かったよ。でも辛かったらいつでも連絡してよ?じゃあ、お大事にね」と手を振り悠哉の家の隣にある自分の家に向かい歩みを進めた。
「はぁ……」
 陽翔が帰った途端、どっと疲れが訪れる。悠哉は家の鍵を閉めたことを確認し、玄関に倒れ込んだ。本当に今日は色々あり過ぎて心も身体も不安定にぐらぐらと揺れている。
『お前のことが好きだ、悠哉』
 ふと先程の彰人の言葉が脳裏によぎった。端正な顔立ちをした男がこちらをじっと見つめ好きだと言っている。なんで俺なんだ、お前みたいな色男にはもっと相応しい相手がいるはずだろうに、と悠哉は静かに目を瞑った。

 神童彰人、彼の名前を口にするだけであの時の後悔が悠哉を押し寄せる。悠哉にとって彰人は思い出したくない記憶の中の一部だった。
 彰人は悠哉よりも二つ歳上で、悠哉と中学が同じだった。そんな二人の出会いは三年前、悠哉が中学一年生の時であった。
 当時美化委員に入っていた悠哉は、二人一組となって週に一回当番制で花壇の水やりを任せられていた。ペアはその場で適当に決められ、悠哉の相手は三年生の男子生徒らしく、その時の委員会の集まりには来ていなかった。学校を休んだわけでもなく、どうやら集まりを放り出したようでそんな奴が真面目に当番に来るのか、と悠哉は些か不安に思ったのを覚えている。
 案の定男は来なかった。だろうなとは思っていたものの、本当に来ないとなるとそれはそれで腹が立つ。委員長にその事を話し当番活動への催促を促したが、一ヶ月経っても一度だってその男が当番に来ることはなかった。
 そんなある日、悠哉がいつもの様に一人で花壇の水やりをしていると、その横を中学生にしては大きな図体をした男が横切った。その風貌から一瞬教師なのだと思ったが、その男の顔を見た途端悠哉は「おい」と男を呼び止めた。
「なんだ?」
「お前、神童彰人だよな?なんで委員会の当番に来ないんだ」
 神童彰人、クラスの女子が噂していたのを悠哉は耳にしたことがあり、その男の名前となんとなくの風貌は知っていた。そしてこうして間近にするのは初めてだったのだが、この男が神童彰人なのだと悠哉は男を目の前にして確信できた。彰人はくっきりとした目鼻立ちが特徴的な日本人にしては顔の堀が深く、端正な顔立ちをしていた。そしてなんといっても金に近い髪色、物珍しい青い瞳が悠哉の耳にしていた特徴と合致していたのだ。
「当番…」
 少し考えるような仕草をして彰人は「ああ、そのことか」と特に悪びれる様子もなく悠哉の方へ距離を詰めた。
「確かに佐原から金曜に美化委員の当番に行けと言われたが、別に俺一人が来ないだけで特に支障はないだろ?だから行かなかった、これで納得したか?」
 彰人は面倒くさそうにそう言った。そんな彰人の態度に悠哉の沸点はふつふつと見る見るうちに上がっていった。「は?それが理由か?」と問いかけると、もう話は済んだと言ったように「そうだ」と悠哉に背を向け彰人は歩き出した。
 プチン、と自分の中で何かがキレた音がした。途端に悠哉は相手が上級生だということも関係なしに彰人の胸ぐらを力強く掴んだ。
「納得した?そんな理由で納得するわけないだろふざけんな。こっちが年下だからって舐めんな」
 彰人はまるで珍しいものでも見たかのように目を見開き悠哉を見ていたが、すぐにキッと睨みあげる。そして悠哉の腕をガっと掴み上げ「お前こそ調子に乗るなよ?」と再度鋭い瞳で悠哉を睨んだ。
「は?別に調子になんて乗ってねぇよ。お前の方こそ調子にのってるんじゃねぇの?自分の任された仕事すらできないような奴がよ」
「お前いい加減にしろよ」
「なんだ殴るのか?そうやって理不尽に自分の腹が立つことがあったら相手を黙らせる、でかい図体してるくせにやってる事がだせぇーんだよ」
 悠哉の言葉を受けた彰人は瞳をカッと見開いた。その姿に、今にも怒りの感情が露になっていることが見てわかった。すると、彰人が悠哉の顎をグイッと上に上げ力強く引き寄せる。ゆらゆらと揺れている青い瞳が目の前にあり、悠哉の喉は思わずゴクリと鳴った。
「その生意気な口を今すぐ閉じろ、今すぐお前を襲ったって俺は構わないんだぞ。」
 悠哉の言葉に彰人は本気で腹を立てているようで、先程よりも掴んでいる手には力が込められており悠哉の腕はじんじんと痛んだ。それでも腹が立っているのは同じだったため、悠哉は彰人の脅しに物怖じせずに負けじと睨みあげた。
「そんな脅し使っても無駄だぞ、俺はお前のことなんてちっとも怖くないんだからな。でかい見た目してれば誰でも怖がって言うこと聞くと思うなよ」
「俺が怖くない…?はっ、強がるなよ」
「強がってなんかない。とにかく離してくれないか?そして俺の言うことを聞いて当番に来い」
 しばらくの沈黙が続く。物珍しい青い瞳がこちらをじっと見つめている。悠哉はここで目を逸らしたら負けだと思い、彰人の瞳から視線を外すことなく見つめ続けた。
 すると彰人は悠哉の顎から手を離し、するするとその手で身体をなぞると悠哉のケツを揉んだ。その瞬間ゾクリと嫌な寒気が悠哉の全身を走り、悠哉は堪らずに彰人の頬を思いっきり手のひらで叩いていた。
 「…っ、なにすんだお前…っ!」と彰人は叩かれた頬を痛そうに撫でた。かなりの力で叩いてしまったため、彰人の頬には立派な手のひらの跡が残ってしまっている。
「それはこっちのセリフだ…!この変態が…っ!」
「だからって叩くことないだろ?ただの嫌がらせを本気にするなよ」
「はぁ?!嫌がらせって…男相手に冗談じゃねぇ…っ!」
 嫌がらせにしてもタチが悪すぎる、と悠哉は顔を顰めた。なぜ男に尻を揉まれなければならないんだ。
 当の彰人は叩かれたことに納得がいっていないようで「普通上級生を叩くか…」と怒っているというより半ば呆れているような様子だった
「お前みたいなやつとは初めて会った。俺を見てもビビりもせずにむしろ噛み付いてくるなんてな、そしてまさかビンタされるとは思ってなかった」
「それは完全にお前が悪いだろ?男のケツを揉むなんていい趣味してるよほんと」
「お前はもう少し危機感を持った方がいいぞ、そんなに誰これ構わずに噛み付いていたらいつか痛い目を見る」
 彰人は悠哉に憐れむような視線を向けてそう忠告した。
「はぁ?お前にそんなこと言われる筋合いはない。とにかく、来週当番に来なかったらもう一発くれてやるから」
「それは怖いな。まぁいい、お前みたいなガキにそもそも興味なんて無いしな、それにこれ以上言い争っていても埒が明かないから俺は帰る」
「あっ、おい!!」
 背を向けた彰人に、このままでは逃げられてしまうと思った悠哉は咄嗟に彰人の手を握った。「来週は絶対来いよな」と自分より十センチ以上は大きな人間に対して下から見上げるような形で訴える。彰人は一瞬驚いたような仕草を見せたがすぐに顔を背けてしまった。握っていた手を払われ「気が向いたらな」とだけ言い残し、彰人は今度こそ背を向け歩き出した。
 自分より一回りは大きかったであろう彰人の手。触れた瞬間なんて冷たい手なのだろうと悠哉は思った。まるであの冷めきった青い瞳のようだ。
 彰人への第一印象は最悪だった。初対面でケツを揉まれたのだから、こうした印象を抱くのだって仕方がない。それに不真面目で愛想が悪い、悠哉自身曲がったことが大嫌いだったため当番に来ない彰人のことが正直気に食わなかった。だけどそんな彰人を放っておくことが出来なかったのは、彰人が陽翔と出会う前の自分に似ていたからなのだろう、と悠哉は考えている。これが悠哉と彰人の出会いだった。
 それからというもの、悠哉は彰人を見かけてはしつこく声をかけ続けた。彰人のことは嫌いだったが、当番に来ないことには単純に腹が立ったため、どんなに嫌いな相手だろうと悠哉は自ら関わろうとした。彰人はというと、最初こそ反抗してたものの、そんな悠哉のしつこさに根負けしたのだろう、ついには当番に来るようになった。二人の関係が変わっていったのはそれからだ。学年は違えどなんだかんだ気兼ねなく話せる仲になり、よく二人で何気ない会話を交わしていた。彰人も徐々に口数が増え、自分自身が抱いているコンプレックスを教えてくれたこともあった。
 彰人は母親が日本人、父親がアメリカ人のハーフということもあり、父親の遺伝子が色濃く残ってしまったがために目の色が深い青色だった。その事で差別をする人間もいたようで、彰人自身自分の目の色を嫌っていたのだ。それに加え成長するにつれて背も徐々に伸びていき、中学生にしては大人のような容姿をしていた彰人は周りから怖がられ、時には持ち前のルックスから親しくもない女が擦り寄ってくるなど、自分の容姿に関してかなりのコンプレックスを抱いていた。そんな彰人は自分の容姿しか見ていない周りの人間を軽蔑していた。悠哉からしてみればそんな奴ら気にしなければいいと思うのだが、彰人にとってはそんな自分も周りの人間も毛嫌いしてしまっていたのだろう。そんな彰人のことを余計に放っておくことが出来ず、あの頃は彰人のことばかり考えていたような気がする。しかし、二人の関係は長くは続かなかった。
 事件が起きたのはその年の冬、悠哉は実の父親に無理やり襲われかけた。親からの性的被害、陽翔が助けてくれたおかげで未遂で済んだものの、たった一人の肉親であった男に襲われそうになったことは悠哉の中で言い表せないほどのトラウマとして刻まれることになった。それから悠哉は大人の男性に対して恐怖心を抱くようになり、彰人のことも同様に怖がった。悠哉は彰人と父親の姿を重ねてしまい、彰人のことを強く拒絶してしまったのだ。あの時の彰人の傷ついた顔は今でも鮮明に悠哉は覚えており、忘れられずにいる。それから彰人が卒業するまで一度も会話を交わすことなく二人の関係は疎遠になった。
 そしてその時の出来事は自分の中で後悔として現在まで残っていた。彰人のことを思い出すとあの人のことまで思い出してしまいそうで悠哉にとって恐怖だった。そのため彰人の存在ごと自分の中で忘れようとしていたけれど、彰人に対しての罪悪感が強く自分の中に根付いていたため、悠哉にはそう簡単に忘れることなど出来なかった。
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