感情のない君の愛し方

真楊

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 昼下がりの静かな職員室、昼休みの職員室というものは案外静かなものだった。昼食を食べるもの、次の授業の準備をするもの、それぞれが個人の時間を過ごしている。
 今しがた昼食を食べ終わった蒼太は空の弁当箱をビニール袋へと入れ、はぁ…と短く息を吐く。

 昨日のライブでの一件、昨日の藍は確かに笑っていた。あの笑顔は演技ではなく、心から楽しんでいたからこそ出来る笑顔だと蒼太は感じた。この数年の間で藍には感情が芽生えていたのだ。高校時代では決して見れなかった藍の姿に、蒼太は驚きとともにモヤモヤとした感情を抱いた。藍が感情を持てたことはとても喜ばしいはずなのに、自分の知らない藍が存在することに蒼太はどこか不満を持ってしまっている。そして藍を変えた人物が春斗だということに、嫉妬心を抱いてしまっていたのだった。
 藍の本性を知っているのは自分だけだ、そんな優越感に浸っていたが、本当の藍を知っているのは自分ではなく春斗だった。藍の昔の友人にしか過ぎない自分が藍の特別だと勘違いしていたことが惨めで恥ずかしくて堪らない。
 藍は写真撮影の仕事を辞めるなと言っていたが、正直今の蒼太には感情のある本当の藍の姿など撮ることが出来るのか分からなかった。春斗の存在によりすっかり自信をなくしていた。

 そして何より、下心で藍に近づいていることに対して罪悪感が増していく。藍は蒼太の事は嫌いでは無いと言っていた、しかしあの時足を舐められた事に嫌悪感を抱いていたのは確かだった。それなのに藍はあの時の出来事を蒼太に謝ったのだ。藍は何も悪くないのに、蒼太が藍に性的感情を抱いたことは事実だというのに、藍は蒼太を信じてくれており、自分が悪かったと謝った。藍を騙し続けることで藍の傍に居る、なんて卑怯なのだろうと自分を責め立てる気持ちで埋め尽くされそうだ。

 ──やっぱり俺みたいな奴が藍の傍にいるべきじゃない。

 いつの間にか蒼太は、藍の傍にいる自信がなくなってしまっていた。

 午後の授業が始まり、蒼太は「じゃあ出席番号順に発表していきましょう」と生徒たちに声をかける。美術教師である蒼太の担当科目はもちろん美術であり、今日は自分の描いた絵を全員の前で発表するといった内容だった。
 一人ずつ発表が進む事に、蒼太は自分の呼吸が苦しくなる感覚を覚える。こういった内容の時は必ず緊張してしまう生徒が数人はいる。その生徒達の鼓動の音は緊張で激しくバクバクと音を立てていた。鼓動から生徒達の緊張感が蒼太まで伝わってきて、蒼太は息が詰まるようだった。

「じゃあ次」

 一人の少女が前に出ると、蒼太は眉をひそめた。彼女は極度のあがり症であり、誰よりも鼓動の音が激しく鳴り響いている。そんなに緊張してしまっている彼女が可哀想に思えてきた蒼太は「ゆっくりでいいから、リラックスしてね」と笑顔で声をかける。
 彼女は胸に手を当て「…はいっ」と震えた声で返事をした。彼女が話し始めると、彼女の鼓動はこれでもかというほど激しくなる。すると、急に蹲った彼女は「はぁ…っはぁ…っ」と苦しそうに詰まるような呼吸をし始めた。蒼太はまずいと思い、すぐに彼女に駆け寄った。

「大丈夫っ?!ゆっくり、ゆっくり息をして」

 蒼太が背中をさすり声をかけても、彼女の呼吸は荒いままだった。緊張のし過ぎでパニックを起こしてしまっている、過呼吸状態の彼女に驚いた周りの生徒達もざわざわと騒ぎ始める。

 ──やばい…やばい…。

 彼女につられるように、自分の息も苦しくなっていくことが分かった。このままではまずい、蒼太は「誰か大人を呼んできてっ!」と声を上げた。
 ものの数秒で「先生!河合先生が居ました!!」と一人の生徒が教師を呼んでくれた。教師はすぐに蒼太達の元へ駆け寄り「大丈夫ですか…っ!?」としゃがんだ。

「すみません…あとよろしくお願いします…っ」

 立ち上がった蒼太は女生徒を教師に託し、ふらふらとした足取りで美術室を出た。階段の踊り場でがくり、と膝から崩れ落ちた蒼太は荒い呼吸を必死に何とかしようとするが、上手く息を吸おうと意識するほど、息の仕方が分からなくなる。

「はぁ…はぁ…くそっ…」

 今みたいなことが起きるのは別に初めてではなかった。鼓動の音から相手の不安や恐怖などの負の感情が伝染し、自分にまでその感情が影響されてしまう、幼い頃からこの特性と付き合ってきたのだから慣れていたのに、今日は特に酷い。藍の事があって情緒が安定してないせいなのか、とにかく今すぐにでも気を失ってしまいそうな程辛かった。

 結局その後早退した蒼太は、なんとか車でマンションまで帰ってきた。周りの教師達からはこんな顔色で一人で帰れるのかとえらく心配されたが、無理やりに笑顔を作った蒼太は大丈夫だと答えた。
 未だにガンガンと鳴り響く頭痛に頭を押えながら、蒼太は思い足取りで扉の前までたどり着く。扉を開け蒼太が中に入ると「あれ、お前早くね」と部屋着姿の藍と目が合った。何故藍が居るのだろうか、蒼太はぼんやりとした頭で考える。

「ってお前どうしたんだよ?!顔色悪すぎだろ!!」

 蒼太の異変に気づいた藍はすぐさまこちらに駆け寄ってきた。心配そうな表情で蒼太の肩に手を添えた藍は「具合悪い?」と蒼太の顔を覗き込む。

「大丈夫…大丈夫だから…」

「何言ってんだよ…全然大丈夫そうじゃねぇだろ!」

 靴を脱ぎ、無理やりに立とうと腰を上げた蒼太の視界がぐらりと揺れる。

「あっ、おいっ!」

 藍は慌てたような声を出すと、すかさず倒れそうになった蒼太を受け止めた。

「無理に立とうとすんなよ…ふらふらじゃん」

 藍はそっと蒼太に声をかける。そして身体を離そうとした藍に「藍…待って」と蒼太は弱々しく背中を掴んだ。

「もう少しこのままでいさせて…」

 藍は何も言わなかった。それでも藍が抵抗しないことに安心した蒼太は目を瞑り藍の鼓動に耳を傾ける。

 ドクン、ドクン

 藍の静かな鼓動の音に包まれ、心地よい気分に蒼太は「はぁ…」と息を吐く。なんて落ち着くのだろうか、蒼太は離れたくないと言うように藍の背中に回した腕の力を強めた。

「いつまでこのままでいんの?」

「もう少しだけ…お願い」

 藍は一つため息をつくと「今だけ特別だぞ」と蒼太の背中をぽんぽんと軽く叩いた。

「ありがとう藍。藍の鼓動ってほんと、すごく落ち着くんだ」

「ふーん」

「鼓動だけじゃなく、お前の匂いもすごく甘くて、心地いいんだ」

 蒼太はすんすん、と藍の香りを吸い込む。藍はしばらく黙り込むと「嗅ぐなよ変態」と蒼太の頭を優しく叩いた。
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