一寸先は闇3

北瓜 彪

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サニーレタスの章

サニーレタス

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 。踏み歩く黒い運動靴。大地の芝生。遠くに小さくサッカーゴールが見える。黄緑の地平線の上には青空が中ぶりの白い雲を含んで横長に広がっている。
 黒い人影が無限の芝生の中央を、ひとりで横断している。

 過ぎる雲。

 過ぎる時。

 過ぎる空。
 
 芝生は雪の日。雪原のグラウンドのあちこちに白い雪がゆらゆらと落ちてきて。 
 その風景の片隅の雪だるまーー大きな雪玉の上に、小さなゆきだま。


 向こうからぐんぐんと、迫りくる芝生。眼下から背後へと、踏み歩く芝生が過ぎ去ってゆく。
 人影が、ミントブルーの青空を背後にくっつけて、肩先を揺らして歩いている。
 広大な人工芝の校庭。
 初夏の日差しに灼けついて、大地はミドリの鉄板(インドの露営市場の日陰じみた木組みの屋台の中で、アラベスクの布のかぶさった錆びた骨董品の山に埋もれた黄金の扇風機は、止まっている)。
 こんなグラウンドにも、雪が積もったことがある。一面白い校庭に、誰かがつくって、置き去られた雪だるま(イタリア広場の噴泉の勇者の像は、渋谷駅前のコラコラ汚らしい喧噪に揉まれて遠景にまぎれている)。
 はてしない灰色の雲が、グラウンドの上空の空を覆っている。美術室は窓の下の流し台に蛇口の列をぶら下げて、暗く沈んで生活の終わり。
 曇天の隘路を火山雷がすごく昇る。
 ホームルーム教室は氾濫していた。イスも机も湖状の床の中に半分脚を沈めて軒並み傾いている。増水した木製タイルの海に、体育着袋や、ジュースの紙パックが浮かんでいる。教室の前の黒板は、チョークの白い文字が細切れに吹き消され、ただ右下に黄色で書かれた休講のメッセージだけが、規則的に点滅している。
 教室に漂う机の上に、地理資料集が開かれている。そのページの端の、ひとつの写真。
 ゲルの建ち並ぶ原野ーーモンゴルの沙漠。
 マフラーやニット帽の人々が多く見られる、白っぽいレンガの街なみーー北欧の都市の雑踏。
 熱帯林の、大きな葉の目立つ茂みと、下方の赤くて丸い果実ーー真昼間のコーヒー農園。その樹林を横切って、頭に乗せたカゴを運んでゆく黒人の働き手たち。

 わたしの心は、なぜかき乱されているのだろうか。後光受けアリーナに立つ選手でもないのに。
 日の照り包む人工芝の半ばに立ち、人影は青空をあおぐ。大きな雲の影がいる以外は、グラウンドは陽光を浴びていた。風もなく、かげろうも、逃げ水もない。陽射しにもかかわらず暑さはなく、気温も、音もない。悪い風邪に寝込んでいるみたいだ。
 頭上に広がる宇宙。
 空の裏は星や銀河のパノラマがある。2姿
 (わたしはグラウンドの真ん中で空を見上げていた。) 、壮大な何かが創っている(たとえばニューヨークの真ん中に、ビルほどの大きさのノラネコのオブジェを置いてみる。その毛並みは、ニスの滑らかな木材につけられた動かしがたい刻みでしかない。ベビーベッドの真上からライチの模造品が吊るされて、空の壁紙を背景に空中に浮かんでいるように見えても、目をこらすと吊り糸が見えている。照明の重たい厨房でひそかにラテに描きとげた悪魔の横顔は、店のドアが開く音がして、吹いてきた風にさらわれてすぐさま渦を巻き返して、あとは跡形もない)。顔を上げると、校舎の向こうに茶色い家の煙突が見える。

 レンガの四角い煙突から、もくもくとした白いけむりが出ていた。
 けむりの先を目で追うと、同じ白色をした雲がちぎれていた。
 その家は、雲をつくっていた。
 この空のはるか遠くの端からこちら全体まで、あの小さな煙突から伸びた細いけむりが、白く大陸続きに広がって、雲に分かれて青空の隙間をうめていた。
 人影は校庭を離れた。人影はーーわたしは石畳の階段をくだってギリシャの路地を抜けた。パステルカラーの家なみの間を通っていった。そして石造りの壁に挟まれた茶色い家のドアを前に、煙突とそこから流れ出る雲を見上げた。雲を見ても、雲は雲でしかない。わたしはもう、雲から何かをつくることはできない。けれど。わたしはその木のドアを開けて、中に入った。

 そこはせまい廊下の途中だった。左にも、廊下が伸びている。わたしの目の前にはさらにもうひとつの黒いドアが立ちはだかっていた。ドアノブは古風な意匠を施した立派な代物のようだ。ワックスで逆立った髪に、神経が集中するのを感じた。四角いあごが固唾を飲む。わたしはもう、何かをつくることはできない(雪がちらちら落ちてくる)。めくるめく断片ばかりが溜まってあふれ(校庭の青空にあふれすぎた雲が、綿ぼこりのように落ちてくる天気雪)、つくっても、つながって形を生み出すことがない(雲のくぼみに雷が走ると、ねずみ色の雨模様。ホームルーム教室はどの机もイスもどこかの脚の下の方を失って、斜めのまま固まっている。緑色の人工芝に、傾いた雪だるまばかりが散らばってある)。無理やりくっつけて、できるのは無為な 欠陥品レモンばかり。道中の路地裏のはずれの、水色の壁のそばで人影は佇んだ。いびつな雪だるまの影たちが、人影から少し離れたところでそれぞれに傾いている。わたしは黒のスウェットの袖を伸ばして、ドアノブをつかむ。グラウンドの地面に風が吹いて、草の先が揺れるのが見えた。顔を上げる。雨上がり、ホームルーム教室の机に突っ伏していた男子が起き上がって逆光の窓を向くと、夕日の光が、西から上るところだった。扉を開けた。かぎりない太陽の光がーーもれてきた。

 パールピンクで塗りこめられた高い壁の下で、白シャツの男がこちらに背を向けている。部屋はいくつもの窓からのあたたかな日光に満ちあふれて、その姿もかすんでいるほどだ。男はイーゼルに立てた巨大なキャンバスを絵筆で触っているようで、絵描きだと思った。その頭はオムレツでできていた。
 サーモンオレンジで塗りこめられた壁を横切って、わたしは尋ねた。

「何を描いているんですか?」

男がふりかえった。オムレツは小さな目に赤くて細い眼鏡をかけ、くちびるの上にうっすらひげを生やしていた。
 彼がほほえんで答えた。

「美しいと感じたものです」

部屋中の採光窓の陽光を受けた、笑顔のスナップショットだった。男とキャンバスとこの部屋を、今の一瞬をクレヨンで描いて残したいと感じたくらいだった。
 わたしの右目からいつのまにか、なみだが

 ツウ……

と顔の右側をつたっていった。
 オムレツは部屋のすみにシャツの指を伸ばして教えてくれた。あのドアの先にある隣の部屋に、あなたへのご馳走がありますよ。
 わたしは彼の指す場所まで行き、ストライプの壁紙にうまった薄茶のドアを開けた。
 水色の壁に囲まれた部屋の真ん中に、ただひとつテーブルだけがあった。
 そこにひとつだけ白い皿が用意され、それにひとかたまりのサニーレタスが誂えられていた。
 わたしは部屋の中を歩いてゆき、水色に塗りこめられた壁を背に椅子についた。その時にはもう、わたしの顔を消していた黒いクレヨンの塗りつぶしは消えていた。わたしはフォークを持ってサニーレタスを取り、口にはこんだ。


「美味しい」


わたしはカトラリーをしずかに置いた。きれいな白の丸皿だけが、テーブルの真ん中で見下ろされていた。
 それだけで、充分だった。


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