一寸先は闇

北瓜 彪

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第4章 赤い舟に揺られて

怨念古書堂

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 「本との邂逅は人生の栞」
 神文町でその言葉を知らない者はいなかった。書店氷河期の現代、神文町は国内でも有数の本屋街として知られており、全国から読書通が訪れる。にも関わらずそのこぢんまりとした控えめな雰囲気を保っているのもまた人気の理由の一つであった。
 とはいえ近辺にはお洒落なカフェやレストランが集まっているので、本を買う目的でない人々も多くやって来る。その男、石田真もそんな一人であった。

 「あのう。」
 傾いた金色の日差しが射す古書堂の入口に、石田が身を屈めるようにして入ってきた。
「あのー…恥ずかしながら、駐車場はどこでしょうか。」
石田は、入って右手の、レジに近い本棚の前で文庫本を開いている女店員に声をかけた。
「……あ、あのー。」
「あッ、はい、何かお困りでしょうか?」
 女店員はまるで本を読みふけっていたかのように驚いた様子で顔を上げたが、今の石田にはもっと気がかりなことがあるのだ。
 「あのー、駐車場ぉ、の場所を教えて頂けますでしょうか……。」
「ちゅ、駐車場?………」
 女店員はしばらく怪訝な顔で考えていたが、やがて大きく息を吸って石田を覗き込んだ。
「えーっと、この辺りに駐車場はなかったと記憶しているんですが…。」
「駐車場がない⁉︎…いえ、わたくし実はこの近くに車を止めていた者なんですが、確かにこの辺りだったはずなんですがねえ………。」
 予想外の店員の反応に、石田は弱った。彼の問題とは、先程からずっと探し続けている自分の車がどこにも見つからないことだった。
「いえ、この辺りに駐車場はありません。ここの通りはずっと書店ばかりで、書店と飲食店以外でしたら、例えばこの通りを抜けて、平生大学とかのある辺りまで行かないとぉ…ないですね…。」
「あ、そうですかぁ………。」
 相槌を打ちながら、石田はすっかり困り果ててしまった。自分が方向音痴だと思ったことなんて一度もなかったし、それも駐車場の場所を忘れるなんて、こんな経験、初めてだ。
「参ったなぁ…。」
諦めて店を出ようとした石田はふと、入口近くに平積みになっていた文庫本に目が留まった。
「……マツメ、ようちえん?」
 「ご存知ですか?」
 タイトルを読み上げただけで件の女店員が話しかけてきたので、石田は思わずまじまじと彼女を見つめる形となってしまった。店員はふっ、と口元で笑うと、石田が見つけた本に目を落とした。 
「ご存知なんですか?松梅で『マツメ』なんて、珍しい名前ですよね。」
「え?ええ…。私が勤めていた幼稚園と同じ名前なので…。」
 それは事実であった。「松梅まつめ幼稚園」。まさか自分が勤務していた幼稚園の本が出版されるなんて、一体著者は誰ということになっているのだろうともう一度文庫本の表紙を見ると、「君島大」となっている。
 ああそうか、きっとどこかの記者がノンフィクションの執筆か何かで取材して、それが偶々あそこだったということか。自分がいた時にも昼のドキュメンタリー番組の取材が入って、「現代の幼児教育の現場」とかいう内容で園の様子が取ってつけたようなナレーションと共に放送されたのを覚えている。
「お客様、松梅幼稚園の先生だったんですか。」
「ええ、もう4年も前になりますが。」
「そうなんですか、実はこの本が出版されたのは5年前なんですよ。お客様のことも書かれてあるかもしれませんね。」
 なんだって?現役時代で取材が入ったのは6年前、しかもあれはテレビだったはずだ。番組がノベライズされたのだろうか。石田は、車を止めた場所が思い出せず焦る心を落ち着けるために、その本を開いた。
 
「第1章 僕は告発する」
読み始めた瞬間、サパッ、と乾いた音がして、先のページに挟んであった栞が落ちた。
「あ。」
女店員が床から栞を拾い上げてくれた。
「あ、すいません……ありがとうございます…すいません…。」
石田は女店員に謝りながら視線を再び本に戻す。開いているページに適当に栞を挟むと、栞にある「神文町本屋協会」の文字とその上のキャッチコピーが目に入った。
「本との邂逅は人生の栞」
ああ、あのたまに見るやつか、と石田は思った。人生の栞、って…栞に書いて粋な感じを出したかったんだろうが、ちょっと無理があるというか…言い過ぎだろう。まぁこの町には本以外に触れるものがないような人たちが集まってるってことなのかなぁ、など考えて笑いそうになっている顔を店員に見られまいとして、石田はわざとらしく口元を引き締めて読書を再開した。
「第1章 僕は告発する
      
      今年の3月、僕の友人の息子さんがめでたく卒園した。4月からは新1年生として小学校生活をスタートさせる。水色の園服を着てにっこり顔で友人のカメラに卒園証書を向けたキミは、今や毎日ランドセルを背負って学校でお勉強に励む立派なお兄さんだ。
      なんて、多くの人は言った。」
 あ、こりゃ本格的なノンフィクションだな。と石田は早々に本から顔を上げた。実際は、この後この子は小学校でいじめられ、笑顔は消え失せ、今は鬱か不登校かで筆者の友人であるお父さんに当たっているのだろう。石田はぱらぱらとページをめくり始めた。
「第3章 松梅幼稚園の実態」
 それを見て石田は「ん?」と手を止めた。「松梅幼稚園の」実態?じゃあつまりこれは、松梅幼稚園に通っていた男の子が何らかの不利益を被った、ということか?読み進めていく内に、石田は自分の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。
 「  Aくんは、本が大好きな子だった。松梅幼稚園では年少のふたば組、年中のあおば組、年長のおはな組のそれぞれのクラスがカーテンで仕切られ、入口の反対側、一番奥の壁には本棚が置かれている(P3,写真1)のだが、休み時間になると、Aくんはいつもそこで本を読んでいた。
      ある日Aくんが本に読み耽っていると、『はいみんな集合ですよ~』と支援のD先生が呼びかけた。気づくと、さっきまでオモチャや室内遊具で遊んでいた友達は周りにおらず、ほとんどの子がクラスのカーテンの奥でお山座りしていた。Aくんと同じように遅れた友達がカーテンの方へ走っている。 Aくんも本を本棚にしまい、走ってクラスに向かった。
  その時、担任のC先生が驚くべき行動に出たのである。
  C先生はカーテンを閉め始め、クラスに入ろうとする子たちを、カーテンを握っていない方の手でぼーん、ぼーんと突き飛ばしたのだ。急がないとという一心で駆け寄ったAくんも、C先生の片手でその小さい体を突き飛ばされた。Aくんは何が起こったのか分からず、泣きそうな顔でC先生を見たと言う。
     突き飛ばした子たちをカーテンの外に置き去りにして、C先生は他の子たちに何かを話し始めた。
     しばらくしてC先生が出てきて『入って』とAくんたちを中に入れた。そしてC先生はクラスみんなに向かって話し出した。
     『この人たちなんで入れてもらえなかったか分かる?』
するとBくんが真っ先に答えた。
『しゅうごうじかんにおくれたから』
『そうBくん大正解。この人たちは、集合時間にクラスでお山座りしててねって先生が言ったのに、それを守んなかった。だからクラスには入れてあげなかったの。ねえ、ちゃんとお時間守ってくれない人がいたらみんな迷惑しちゃうよねー?だから、今回は特別に入れてあげたけどお、ほんとはダメなんだよ。ほらD先生も怒ってる』
Aくんが後ろを振り返ると、D先生が漫画かアニメでしか見ないような『ハリセンボンのように顔を膨らませて怒る顔』をしていたという。」

 なぜだ。なぜこんなにも克明に園の様子が記録できるんだ。あの時、あの場に記者も作家もいなかったし、第一、先生が怒っているような場面を取材させるはずがない。まさか、この本の著者は園の関係者なんじゃないだろうか。「君島大」。誰なんだ。さっきからずっと考えているが、そんな人間に憶えがない。いやそもそも何百人といたかつての園児たちの中から1人の名前を思い出すことさえ、まさしく「砂の中のケシ粒を探す」ようなものなのである。

 「大丈夫ですか?」
はっ、と我に返ると、石田は例の女店員に顔を覗き込まれていた。
「随分難しいお顔されてましたよ。」
「あっ、いえ、ちょっと本の世界にのめり込んでしまって。」
石田は「本の町の住人」が好きそうな言葉を言ってやったつもりだった。
「そうですか。きっとAくんもそうやって時間に遅れてしまったんでしょうね…。」
石田は心臓が縮むような心地がした。この女は、すぐそこでといえども、横の客が読んでいる本の文章を書架整理をしながら目で追うことができるのか⁉︎しかしすぐに思い直した。自分がこの本を見つけた時、この女店員は興味津々に食らいついてきた。
「ご存知ですか?」
と。さらに自分が松梅幼稚園の教諭だったことを語ると、これまた食いついてきた。出版年まで覚えていたことからすると、恐らくこの人は単にこの本が好きで、内容も全部頭に入っているのだろう。やたらに話しかけられるのも、自分が詳しい本を目の前の客が手に取ってくれて嬉しいからかもしれない。大書店でも見かける「店員のオススメコーナー」と題された店員の独断による雑多な本の寄せ集めの一角を思い出しながら、石田は1人納得した。

 読み進めていくと、読み飛ばしていた部分の内容も少しずつ分かってきた。Bくんはクラス1のいじめっ子で、著者の友人の息子・Aくんを室内遊具のブロックで作ったバリケードに閉じ込めたり近くの公園で追い回して突き飛ばしたりしたという記述もある。Aくんは毎日毎日Bくんに怯えながら園に通っていたそうだ。教員たちのAくんに対する対応も常識に欠けるもので、それがAくんをさらに追い詰めた。もはやAくんの味方は、泣きながら園から出てくる彼をお迎えに行っていた彼の母親と、彼の話を母親を通して毎日聞かされていた父親しかいなかったようだ。
 「  それは卒園も間近に控えた、ある日のことだった。
      松梅幼稚園では毎年3月に発表会を行い、ふたば組~おはな組の全クラスが各々何か1つの発表を完成させる。今年のおはな組の発表は、1月に行った『アクアマリン水族館』見学で印象に残った魚を絵に描き、それを切り抜いて頭につけ、それぞれの子が自分が描いた魚に扮して『うみのせかい』をテーマにした劇をクラスごとにやるというものだった。Aくんのクラスは『おさかなぱーてぃー』の劇をやることになった。
      実はAくんはこの劇を作る第一歩である水族館見学を、風邪をひいて欠席してしまったのである。それでお母さんがC先生にどうすれば良いか聞いたところ、『アクアマリン水族館のきれいな魚を描いてください』と言われたという。水族館見学に行っていないのに水族館の魚の絵を描けとは無理な話ではないか、と僕は思ってしまうのだが、このお母さんは当初、それなら水族館に問い合わせて展示してある魚について調べてみようとした。またAくんと一緒に魚類図鑑を開いて、C先生が言った『きれいな魚』を隅から隅まで見て探した。しかしC先生は『きれいじゃない』『アクアマリン水族館にはいない』などの理由をつけてそのほとんどを却下した。結局Aくんは色々な魚を描いたものの、どれにするか決められず、発表会当日を迎えた。
      その日、Aくんはおはな組の子たちの席から少し離れたところに、他の数人の子供たちと共に座らされた。そこは劇の準備に間に合わずクラスの発表に参加できなかったおはな組の生徒たちの席だった。
      そう、Aくんは、見学に行ったにも関わらず準備をサボったクラスメイトたちと同じ括りに入れられてしまったのである。
      
      この様子を見た僕の友人とお母さんは、怒りで体が震えたという。
      なぜ息子はあんな扱いを受けなければならなかったのか。ただ風邪で1日欠席したというだけで、ここまでの全ての努力を踏み躙られたのだ。
       確かにAくんはもっと主体的に行動すべきだったのかもしれない。だが、だ。 Aくんとお母さんの案を下らない理由でことごとく却下し、2人の話にほとんど聞く耳を持たず、結果的にAくんの八方を塞いだのは、誰が、どこから、どう見ても、幼稚園の先生だろう。

       『この3年間、この幼稚園に通っていて良かったことなんて1つもなかった』
Aくんは卒園後の春休みにそう言っていたのだという。
        今、Aくんは僕の友人のお母様に当たるおばあさんの家へ移り、その学区内の小学校に通っている。だがいずれは両親の家へ戻り、中学受験をすることも考えているそうだ。

     
        僕は告発する。1年前テレビのドキュメンタリー番組で模範的な幼児教育現場として紹介されたこの園が、1人の子供を追い詰め、楽しいはずの子供時代に総じて影を落としているということを。
        僕は告発する。1人の子供の日常を、『いじめ』という子供っぽい言葉で表現される混ぜこぜの大波が掻っ攫い、彼がその下に窒息しそうになるのを、教諭の名のついた人々が誰一人として助けようとしなかったことを。」

 石田は「最終章」を残して本を閉じた。その手はわなわなと震え、顔面は蒼白に近かった。ズルズルッ、ズルズルッと洟水をすするかのように口腔内の唾を飲み込む。
 あり得ない。あり得ない。この著者はどうしてこんな詳細を知っているのか。ただの園児の親の友達というだけで、こんなに詳しいことが分かる訳がない。たかが幼稚園児ひとりが、ここまで日々の出来事を正確に大人に伝えられるなんてことが、あるはずがない。
 駐車場のことといい私は何か重大な記憶障害を患ってしまったのではないだろうか。
 「記憶障害?……寝ぼけたことを……!!」
地の底から響くような声がすぐ隣から聞こえて、石田は心臓の毛が縮み上がる程の恐怖を感じた。サッ、と女店員の方を見る。しかし彼女は依然書架整理を続けていた。でも待てよ。思えばこの数十分間ずっと1つの棚から動かないなんて、おかしいじゃないか。
 石田はストーカーを訴える心持ちで女店員の名札を睨みつけた。
「大島」
大島。誰だ。大島なんて苗字、腐るほどいるじゃないか。自分の近親者に大島、大島は………。
 次の瞬間、石田は音を立ててその場に崩れ落ちた。そういうことだったのか。キミは、ああ、そうだったのか。女店員の悲痛な程高い「大丈夫ですか⁉︎」の声を聞きながら、石田は全身の力が抜けてゆくのを覚った。




 思いの外西日はまだ神文町に注いでおり、交差点は照らされ、秋でもないのに灼けるような綾錦色に染まっていた。
 その道を1人、石田はとぼとぼと歩いていた。
 「君島大」。それはきっと、5年前の3月に松梅幼稚園を卒園した男の子・大島まもるくんだろう。「大島」という名前を見て思い出した。「大島くん」。逆から読むと「君島大」だ。さらに「松梅幼稚園」でいじめに遭い先生たちから酷い扱いを受けた男の子の仮名はAエイ、そして大島くんの下の名前は音読みでエイだ。私は、彼のことが気にかかって、後ろめたくて、他県の私立幼稚園の教諭に転身した。4年前ーー彼が卒園した1年後のことだった。私は確かに知っていた。B、いや中谷くんが、先生の機嫌を取るのが上手で遊びが得意なために他の子供たちを軽蔑するようになり、けれど我々は彼を信じた。彼が我々教員の手助けになり他の子たちをクラスのムードメーカーとして助け…いや、白状しよう。これ以上面倒を増やすことを、誰もが避けたのだ。他の子供たちのフォローだけでも手一杯なのに、たった1人の園児のいじめに気を配るなんて、そんなことよりやらなければいけないことが他に山ほどあったのだ。それに、罪滅ぼしに私はバザーの時に大島くんに元気に声をかけてあげた。大島くんは自分から他の子に手を上げることがなく、家庭環境も恵まれており、正直彼がおはな組の中で一番「健康的な」生徒だった、はずだ。しかし彼は別の問題を抱えていた。要領が悪く、のろくて鈍臭くて…。こういうタイプの「障害」を持った生徒が実をいうと一番のストレッサーなのだ。ことあるごとに、他人ひとの3倍時間がかかる。運動会のおゆうぎの練習で中谷くんが大島くんの被り物を破り裂いたときも、大島くんへの同情よりも、その日に間に合うようにC先生ーー田安先生やD…浅生先生と徹夜で作った園児たちの被り物を破られたことへの苛立ちの方が強かった。私たちの時間を返せ。私はあの時確かに君島大と同じくらいの怒りを、感じていた、感じていた……………。全て大島が悪いんだ、そう思えば全てが解決した。てきぱき行動できないから時間に遅れる。弱そうだからいじめられる。要領が悪いから遅れをカバーできない、だから劇にも参加できなかった。この劇の件については私は今でもそう思っている。中谷くんに追われる恐怖から鬼ごっこの一種である「わにさん」の遊びを仮病を使って休もうとした時は、職員室で休ませる代わりに「今日は特別。次はないよ。」と言い聞かせたそれの何がいけなかったと言うのだ。隣のクラスの担任として見ても、休み時間に外で遊びもしない、内気でのろまで、授かった口さえ上手に使えない大島衛は、私の、他の子供たちの、先生方の………。
「ぼーん」
 


 一瞬、何が起こったかよく分からなかった。だがすぐに状況を理解した。私は今、横断歩道の地面に横たわっているのだ。激痛と、苛立ちと、不安と、悲嘆と、後悔と、恐怖と、それでもまだ残っているなけなしの冷静さに身を委ねながら。ふと気づいた。子供は知識や語彙力がないからつたない伝え方しかできないだけで、自分のことを人にしゃべるのには、こちらが嫌になるほど熱心であったではないかということを。
 これから自分はどうなるのだろう。私を轢いた私の車の運転手は私をどうするつもりなのだろう。私の車からなぜかあの女店員が降りてくる。
「おまえのせいだ。おまえが自分で自分に報いたんだ。」
地の底から響くようなあの声に重なって、たぶんそうだったであろうあの幼い男の子の声が聞こえる。あの後、彼に何があって、なぜ今、こんな形で…他にも分からないことが山ほどあるが、ただ1つはっきりしているのは、これが私にとって間違いなく人生の抜け落ちない栞となるということだ、と、馬鹿な考えを吐き捨てながら、その苦笑は意識とともに車道の表面に吸われていった。




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