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第4話 カツカレー
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「世界で初めて誕生した……カツカレー……?」
向晴は、のび田の言葉を反芻する。
世界初。
それは向晴にとって、甘美な言葉だった。
世界で初めて無着陸無給油の世界一周飛行したジーナ・イェーガーとディック・ルータン。
世界で初めて有人宇宙飛行したユーリイ・ガガーリン。
世界で初めて月面に着陸したニール・アームストロング。
世界初とは時に、歴史に刻まれる第異業である。
「『世界初のカツカレー』を食べた鳳凰院向晴……うへへ……」
「どうしました、お嬢様? 涎が垂れてますよ?」
「はっ!?」
向晴は急いで涎を拭き取り、銀座スイス本店の方を向く。
世界初のカツカレーと知った瞬間から、向晴の目には先程まで馬鹿にしていた建物が、まるで別物に見えた。
「改めて見ると、レトロで趣があって、なかなかいい建物じゃない」
「そうでしょう。銀座スイスは、終戦直後の昭和二十二年に創業した歴史あるお店ですからね」
「へえ。七十年以上の歴史があるから、建物もこれほど趣深いのですね。ふふ。私のような高貴な人間には、わかってしまうのですよ」
「さすがです、お嬢様。銀座スイスの本店は、二〇二二年にこの場所へ移転したばかりなですが」
「早く言ってくださる!? 私、まるで知ったかぶったようじゃありませんか!?」
「まるでじゃなくて、知ったかぶってたんですよ」
知ったかぶりがバレた向晴は、顔を赤くし、両手で顔を覆う。
首を左右にぶんぶんと振り、必死に恥ずかしさを体から放り出そうとする。
「と、とにかく、入りますわよ!」
が、すぐに恥ずかしさからは逃れられないと察し、カツンカツンと音を立てながら銀座スイスの建物へと入っていく。
狭い入り口をくぐれば、二階への階段が続き、ステンドグラスの付いた扉が向晴を出迎える。
扉の大部分を占めるステンドグラスからは、店内が良く見える。
「あら、ずいぶんアンティークですこと」
「昭和二十二年に創業した歴史あるお店ですからね」
「二〇二二年に移転したばかりですけどね!? 蒸し返さないでくださる!?……でも」
が、向晴が気になったのは、ステンドグラスの上部。
ステンドグラスの上部には、木とガラスの境に鎮座する『GRILL SwiSS』のロゴがあった。
赤い背景に白い文字で書かれたロゴは、ここがグリルスイスであると主張しているようである。
向晴が来た場所は、銀座スイス本店のはずだ。
しかし、目の前にあるロゴはグリルスイスなのだ。
その矛盾に、向晴は首をかしげる。
「グリルスイス?」
「ああ。グリルスイスというのは、創業時の名前ですね。株式会社銀座スイスが運営する洋食店がグリルスイスです。ですが今は、ホームページにもSNSにも、銀座スイス本店と表記しているので、銀座スイスと呼んで問題ないかと思います」
「へえ、そうなの」
「多分!」
「……普通、そういった裏話はウラを取って話すのではなくて?」
「仕方ないじゃないですか。Wikipediaに何でも書かれていると思わないでください」
「Wikipediaの知識かよ!」
疑問の解決しないモヤモヤを残しつつ、向晴は扉を引いて開ける。
「いらっしゃいませ」
扉の先は、先程までの細い階段とは打って変わって、広い空間が広がっていた。
右側には、木の温もりを感じるブラウン広がるカウンター席。
左側には、白い椅子と白いテーブルクロスのかかったテーブル席。
一つの空間に、二種類の洋の雰囲気が広がっていた。
「何名様ですか?」
「え、あ、えっと」
「三人です」
店員からの人数確認に、初の外食である向晴は戸惑ってしまったが、すぐにのび田が後方からフォローに回る。
「はい、三名様ですね。では、こちらのテーブル席にどうぞ」
店員に案内され、向晴、のび田、兆老の三人は席に着く。
メニューと共にテーブルに置かれたお冷のグラスには、入り口の扉と同じ、赤い背景に白い文字で書かれた店名のロゴがプリントされていた。
向晴はグラスを手に取り、ロゴをまじまじと見つめる。
「凝ってるわね」
そして、水を口にする。
「……水ね」
「お嬢様、水にまで多くを求めないでください」
グラスを置いた向晴に向けて、のび田はメニューを広げる。
メニューには、牛ヒレのカツレツやカニクリームコロッケといったフライ料理から、ハンバーグステーキやポークステーキといったグリル料理、さらにはオムライスなど、洋食屋で見られるメニューがズラリと並んでいた。
また、コーヒーや紅茶、松山産ライムサイダーと言ったソフトドリンクに加え、ビールやハイボールのメニューも充実している。
洋食店としての利用だけでなく、アルコールを含んだ小さなお祝いの席としても使えるラインナップだ。
向晴は興味深そうにメニューを隅々まで眺めた後、目的のメニューへと到達する。
「千葉さんのカツレツカレー」
メニュー表のなかで、ひときわ大きなスペースで書かれていた『千葉さんのカツレツカレー』は、向晴が仮にカツカレーを目当てにしていなくとも、目を引いただろう大きさだ。
「カツカレーでよろしいですね?」
「ねえ」
「はい?」
「私たちは、カツカレーを食べに来たのよね?」
「はい」
「カツレツカレーしかないわよ? カツカレーじゃないの?」
「同じ意味だと思ってください。カツ、つまり豚カツの先祖が、カツレツなんですよ。元々、カツレツをカレーに乗せていたのですが、時代とともにカツレツはカツへと変わっていき、現在のカツカレーになったという訳ですね」
「そうなの? じゃあこの、千葉さんって誰?」
「注文してから料理が来るまで少し時間がありますので、その間にご説明しますよ」
向晴が卓上ベルをチリンと鳴らすと、店員がテーブルにやってくる。
のび田が『千葉さんのカツレツカレー』を三つ注文すると、店員は下がる。
そして、別の店員がテーブルに紙ナプキンを置き、その上にスプーンとフォークを並べる。
テーブルの上に料理を食べる準備が揃ったところで、のび田は改めて向晴への説明に入る。
「さて、どこから話しましょうか。この銀座スイスの創業が終戦直後であることは先ほどお話ししましたが、当時の食事事情は酷い物だったらしいです。敗戦国である日本にお金があるわけもなく、未来も見えない混沌とした状況でした」
「本でしか見たことありませんが、終戦後は酷そうね」
「当時、西洋料理は高価であり、とても手の届くものではありませんでした。が、そんな西洋料理を『より多くの方に食してもらおう』という理念のもと銀座スイスを創業したのが、首相官邸・国会記者クラブで総料理長を務めた経験もあり、料理界で大きな影響力を持っていた岡田進之助です」
「料理界の重鎮、という訳ね」
「そうなりますね。銀座グリルのメニューには西洋料理が並びました。私たちがよく知る物では、海老フライ、オムレツ、サンドイッチ、カレーライスなどでしょうか」
「聞いたことある料理ばかりですわね。庶民的ですけど」
「その中にあったのが、ビーフカツレツ、ポークカツレツ、そしてチキンカツレツです」
「つまりカツレツというのは、肉の調理法の名前ってことかしら?」
「そうなりますね。元々は、薄切り仔牛肉にパン粉をつけて炒め焼きするフランス料理『コートレット』として、明治時代の日本に入ってきました。入ってきた当時は日本でも牛肉を使用していたのですが、牛肉だと値段が高くなることから、薄切りの豚肉や鶏肉を使用し始め、ポークカツレツやチキンカツレツという名前で普及し始めました」
「へえ。庶民なりの工夫ね」
ちなみに、カツレツというのは、フランス語のコートレットの発音を日本人が聞いた際、カツレツと聞こえるからカツレツに変わったという話もある。
また、コートレットとカツレツの調理法は少々異なる。
コートレットが細かいパン粉をつけてフライパンで炒め焼きするのに対し、カツレツは粒の大きなパン粉をつけて油で揚げる。
つまり、焼くから揚げるへの変化も、日本の事情が反映されている。
「その後、ポークカツレツをより日本人好みにするため、薄切りの豚肉から厚切りの豚肉に変えたり、油の量を増やしたりを改良を重ね、誕生したのが豚カツです」
「西洋料理のコートレットから洋食のカツレツが生まれて、洋食のコートレットから和食の豚カツが生まれたわけですね。なんだか、聞いてて不思議な感じがしますわね」
海外の料理から日本の料理へ。
洋食から和食へ。
料理とは、文化の変成そのものである、
「カツレツカレーがカツカレーの元祖であることは、ご理解いただけましたか?」
「ええ。でも、あと一つ。千葉さんが誰かが、まだ」
向晴が残されたもう一つの謎を口にしたところで、店員がテーブルにやって来た。
「こちら、セットのスープでございます」
持ち手のついた白いスープカップが、テーブルに並べられる。
当然、カップにも赤と白のロゴがついている。
スープカップの中では、クリーム色のスープがゆらゆらと揺れていた。
銀座スイス創業時からの味を守った『あさりとベーコンのポタージュ』だ。
銀座スイスでは、食事を注文した客に無料で一杯がサービスされる。
「続きは、後にしましょうか。冷めないうちに頂きましょう」
のび田はそう言って、スープカップを手に取った。
ふんわりとした柔らかな香りが、三人の鼻をくすぐった。
向晴は、のび田の言葉を反芻する。
世界初。
それは向晴にとって、甘美な言葉だった。
世界で初めて無着陸無給油の世界一周飛行したジーナ・イェーガーとディック・ルータン。
世界で初めて有人宇宙飛行したユーリイ・ガガーリン。
世界で初めて月面に着陸したニール・アームストロング。
世界初とは時に、歴史に刻まれる第異業である。
「『世界初のカツカレー』を食べた鳳凰院向晴……うへへ……」
「どうしました、お嬢様? 涎が垂れてますよ?」
「はっ!?」
向晴は急いで涎を拭き取り、銀座スイス本店の方を向く。
世界初のカツカレーと知った瞬間から、向晴の目には先程まで馬鹿にしていた建物が、まるで別物に見えた。
「改めて見ると、レトロで趣があって、なかなかいい建物じゃない」
「そうでしょう。銀座スイスは、終戦直後の昭和二十二年に創業した歴史あるお店ですからね」
「へえ。七十年以上の歴史があるから、建物もこれほど趣深いのですね。ふふ。私のような高貴な人間には、わかってしまうのですよ」
「さすがです、お嬢様。銀座スイスの本店は、二〇二二年にこの場所へ移転したばかりなですが」
「早く言ってくださる!? 私、まるで知ったかぶったようじゃありませんか!?」
「まるでじゃなくて、知ったかぶってたんですよ」
知ったかぶりがバレた向晴は、顔を赤くし、両手で顔を覆う。
首を左右にぶんぶんと振り、必死に恥ずかしさを体から放り出そうとする。
「と、とにかく、入りますわよ!」
が、すぐに恥ずかしさからは逃れられないと察し、カツンカツンと音を立てながら銀座スイスの建物へと入っていく。
狭い入り口をくぐれば、二階への階段が続き、ステンドグラスの付いた扉が向晴を出迎える。
扉の大部分を占めるステンドグラスからは、店内が良く見える。
「あら、ずいぶんアンティークですこと」
「昭和二十二年に創業した歴史あるお店ですからね」
「二〇二二年に移転したばかりですけどね!? 蒸し返さないでくださる!?……でも」
が、向晴が気になったのは、ステンドグラスの上部。
ステンドグラスの上部には、木とガラスの境に鎮座する『GRILL SwiSS』のロゴがあった。
赤い背景に白い文字で書かれたロゴは、ここがグリルスイスであると主張しているようである。
向晴が来た場所は、銀座スイス本店のはずだ。
しかし、目の前にあるロゴはグリルスイスなのだ。
その矛盾に、向晴は首をかしげる。
「グリルスイス?」
「ああ。グリルスイスというのは、創業時の名前ですね。株式会社銀座スイスが運営する洋食店がグリルスイスです。ですが今は、ホームページにもSNSにも、銀座スイス本店と表記しているので、銀座スイスと呼んで問題ないかと思います」
「へえ、そうなの」
「多分!」
「……普通、そういった裏話はウラを取って話すのではなくて?」
「仕方ないじゃないですか。Wikipediaに何でも書かれていると思わないでください」
「Wikipediaの知識かよ!」
疑問の解決しないモヤモヤを残しつつ、向晴は扉を引いて開ける。
「いらっしゃいませ」
扉の先は、先程までの細い階段とは打って変わって、広い空間が広がっていた。
右側には、木の温もりを感じるブラウン広がるカウンター席。
左側には、白い椅子と白いテーブルクロスのかかったテーブル席。
一つの空間に、二種類の洋の雰囲気が広がっていた。
「何名様ですか?」
「え、あ、えっと」
「三人です」
店員からの人数確認に、初の外食である向晴は戸惑ってしまったが、すぐにのび田が後方からフォローに回る。
「はい、三名様ですね。では、こちらのテーブル席にどうぞ」
店員に案内され、向晴、のび田、兆老の三人は席に着く。
メニューと共にテーブルに置かれたお冷のグラスには、入り口の扉と同じ、赤い背景に白い文字で書かれた店名のロゴがプリントされていた。
向晴はグラスを手に取り、ロゴをまじまじと見つめる。
「凝ってるわね」
そして、水を口にする。
「……水ね」
「お嬢様、水にまで多くを求めないでください」
グラスを置いた向晴に向けて、のび田はメニューを広げる。
メニューには、牛ヒレのカツレツやカニクリームコロッケといったフライ料理から、ハンバーグステーキやポークステーキといったグリル料理、さらにはオムライスなど、洋食屋で見られるメニューがズラリと並んでいた。
また、コーヒーや紅茶、松山産ライムサイダーと言ったソフトドリンクに加え、ビールやハイボールのメニューも充実している。
洋食店としての利用だけでなく、アルコールを含んだ小さなお祝いの席としても使えるラインナップだ。
向晴は興味深そうにメニューを隅々まで眺めた後、目的のメニューへと到達する。
「千葉さんのカツレツカレー」
メニュー表のなかで、ひときわ大きなスペースで書かれていた『千葉さんのカツレツカレー』は、向晴が仮にカツカレーを目当てにしていなくとも、目を引いただろう大きさだ。
「カツカレーでよろしいですね?」
「ねえ」
「はい?」
「私たちは、カツカレーを食べに来たのよね?」
「はい」
「カツレツカレーしかないわよ? カツカレーじゃないの?」
「同じ意味だと思ってください。カツ、つまり豚カツの先祖が、カツレツなんですよ。元々、カツレツをカレーに乗せていたのですが、時代とともにカツレツはカツへと変わっていき、現在のカツカレーになったという訳ですね」
「そうなの? じゃあこの、千葉さんって誰?」
「注文してから料理が来るまで少し時間がありますので、その間にご説明しますよ」
向晴が卓上ベルをチリンと鳴らすと、店員がテーブルにやってくる。
のび田が『千葉さんのカツレツカレー』を三つ注文すると、店員は下がる。
そして、別の店員がテーブルに紙ナプキンを置き、その上にスプーンとフォークを並べる。
テーブルの上に料理を食べる準備が揃ったところで、のび田は改めて向晴への説明に入る。
「さて、どこから話しましょうか。この銀座スイスの創業が終戦直後であることは先ほどお話ししましたが、当時の食事事情は酷い物だったらしいです。敗戦国である日本にお金があるわけもなく、未来も見えない混沌とした状況でした」
「本でしか見たことありませんが、終戦後は酷そうね」
「当時、西洋料理は高価であり、とても手の届くものではありませんでした。が、そんな西洋料理を『より多くの方に食してもらおう』という理念のもと銀座スイスを創業したのが、首相官邸・国会記者クラブで総料理長を務めた経験もあり、料理界で大きな影響力を持っていた岡田進之助です」
「料理界の重鎮、という訳ね」
「そうなりますね。銀座グリルのメニューには西洋料理が並びました。私たちがよく知る物では、海老フライ、オムレツ、サンドイッチ、カレーライスなどでしょうか」
「聞いたことある料理ばかりですわね。庶民的ですけど」
「その中にあったのが、ビーフカツレツ、ポークカツレツ、そしてチキンカツレツです」
「つまりカツレツというのは、肉の調理法の名前ってことかしら?」
「そうなりますね。元々は、薄切り仔牛肉にパン粉をつけて炒め焼きするフランス料理『コートレット』として、明治時代の日本に入ってきました。入ってきた当時は日本でも牛肉を使用していたのですが、牛肉だと値段が高くなることから、薄切りの豚肉や鶏肉を使用し始め、ポークカツレツやチキンカツレツという名前で普及し始めました」
「へえ。庶民なりの工夫ね」
ちなみに、カツレツというのは、フランス語のコートレットの発音を日本人が聞いた際、カツレツと聞こえるからカツレツに変わったという話もある。
また、コートレットとカツレツの調理法は少々異なる。
コートレットが細かいパン粉をつけてフライパンで炒め焼きするのに対し、カツレツは粒の大きなパン粉をつけて油で揚げる。
つまり、焼くから揚げるへの変化も、日本の事情が反映されている。
「その後、ポークカツレツをより日本人好みにするため、薄切りの豚肉から厚切りの豚肉に変えたり、油の量を増やしたりを改良を重ね、誕生したのが豚カツです」
「西洋料理のコートレットから洋食のカツレツが生まれて、洋食のコートレットから和食の豚カツが生まれたわけですね。なんだか、聞いてて不思議な感じがしますわね」
海外の料理から日本の料理へ。
洋食から和食へ。
料理とは、文化の変成そのものである、
「カツレツカレーがカツカレーの元祖であることは、ご理解いただけましたか?」
「ええ。でも、あと一つ。千葉さんが誰かが、まだ」
向晴が残されたもう一つの謎を口にしたところで、店員がテーブルにやって来た。
「こちら、セットのスープでございます」
持ち手のついた白いスープカップが、テーブルに並べられる。
当然、カップにも赤と白のロゴがついている。
スープカップの中では、クリーム色のスープがゆらゆらと揺れていた。
銀座スイス創業時からの味を守った『あさりとベーコンのポタージュ』だ。
銀座スイスでは、食事を注文した客に無料で一杯がサービスされる。
「続きは、後にしましょうか。冷めないうちに頂きましょう」
のび田はそう言って、スープカップを手に取った。
ふんわりとした柔らかな香りが、三人の鼻をくすぐった。
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