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 意識が戻ったルビーは、体を包み込む感触から自室のベッドに運ばれたのだろうとわかった。
 ベッドの周囲からざわざわとした声が聞こえてきて、大勢の人がベッドを囲んでいる気配を感じ取っていた。
 両親、使用人、そして医者あたりだろうと、ルビーは容易に想像がついた。
 
 今、目を開けば皆が喜ぶだろうと知りつつ、ルビーにはその前にやるべきことがあった。
 即ち、現状の把握である。
 ルビーの歩んできた人生を、赤口瑠璃の記憶で遡り、一つ分かったことがあった。
 今現在、ルビーがいる世界は、乙女ゲーム『純白の少女と烈火の令嬢』の世界だと。
 
 乙女ゲーム『純白の少女と烈火の令嬢』とは、赤口瑠璃の生きた日本において、大ヒットしたゲームのことだ。
 ゲームの舞台は、魔力を持つ貴族と魔力を持たない平民に二分化された、中世ヨーロッパ風の世界。
 魔力を持って生まれた唯一の平民ダイヤモンド・レグホーンが、魔法学院に入学するところから物語は始まる。
 魔法学院は、魔法を持つ貴族たちのために作られた学院であり、在校生の全員が貴族。
 それゆえ、唯一の平民であるダイヤモンドは、入学早々貴族たちからの好奇と侮蔑の視線を向けられる。
 
 さらに間の悪いことに、ダイヤモンドが入学した時点の魔法学院は、学院史上最も荒れている時期だった。
 その原因は、同時期に魔法学院に入学した皇太子、オニキス・アイボリーの存在である。
 オニキスが婚約者と死別したことで、皇太子妃の席が空き、貴族たちの中で空席争いが起きていたのだ。
 魔法学院という狭い箱の中で、オニキスと交流することができる絶好の機会。
 貴族たちの権力争いは加速していく。
 
 そんな混乱渦巻く魔法学院の中で、ダイヤモンドはオニキスを始めとした攻略対象たちと出会い、愛を育んでいくこととなる。
 
 このゲームが流行った理由はいくつかある。
 一つは、ゲームが最難関攻略対象であるオニキスと婚約者の死別シーンから始まること。
 一つは、主人公の邪魔をする悪役令嬢が、皇太子妃の席が空いたと聞くや否や婚約を破棄し、オニキスへアプローチを開始すること。
 いずれも従来のゲームでは見られなかった衝撃的な展開で、ゲームをプレイしたユーザーの驚きがSNSを駆け抜けて、一気に知名度を上げた。
 
 そしてもう一つ。
 こちらは悪い意味で知名度を上げる結果となったのだが、このゲームは複数本買わなければ全てのエンディングを見ることができないという仕様だったのだ。
 ゲームを一本クリアしたユーザーたちは、その仕様の前に憤り、開発会社への文句を垂れ流した。
 しかし、ユーザーたちは全てのエンディングを見たいという欲求に敵わず、開発会社の思惑通りに財布の紐を緩める結果となってしまった。
 
 さて、話を戻そう。
 ゲームが流行った理由の一つである、婚約を破棄してオニキスへアプローチを開始する悪役令嬢こそが、何を隠そうルビー・スカーレットである。
 ゲームのルビーは、オニキスの周囲に現れるダイヤモンドを疎ましく思い、あの手この手で嫌がらせし、魔法学院を追い出そうとしてくる。
 そして、主人公ダイヤモンドがハッピーエンドを迎えた時、ルビーは今までの嫌がらせの証拠を突きつけられる。
 あまりにも貴族として相応しくない振る舞いを前に、ルビーは魔法学院を強制退学のうえ、スカーレット家にも見放されて国外追放となる。
 国外追放後のルビーがどうなったかは詳細に描かれていないが、ただ一文、劣悪な環境とこの上ない屈辱に耐えながら短い余生を過ごした、と締められている。
 
 
 
「ああああああああああ!?」
 
 ルビーは叫びながら飛び起きた。
 周囲の人々の視線が、一斉にルビーへ突き刺さる。
 
「よ、良かったルビー! 目覚め」
 
「婚約破棄いいいいい!!」
 
「こ、婚約破棄?」
 
 ルビーの父が声をかけるが、ルビーは聞いていない。
 周囲の人々は、ルビーの発した言葉の意味が分からず、喜びの表情から困惑の表情へと変わっていく。
 眠っている間に何か悪い夢でも見たのだろうか、思考がそこへ辿り着くのは当然である。
 
 ただ一人、ルビーがトパーズと婚約破棄をしようとしていたことを知っている、使用人のルベライトを除いて。
 ルベライトは顔をさっと青くして、一歩前へ踏み出した。
 次の瞬間には、ルビーがトパーズと婚約破棄すると言い出すのではないかと冷や冷やしながら、ルビーの口元を注視していた。
 この場での、即ちスカーレット公爵家当主であるルビーの父の前で婚約破棄を口にすることは、自室で発言することとは重みが違う。
 いざという時は、無礼と思われてでもルビーの口を塞ごうと、ルベライトは覚悟を決めた。
 
「ルビー、大丈夫か? 大丈夫なのか?」
 
「だ、大丈夫! 大丈夫だから! もう、なんともないから!」
 
 しかしルベライトにとって幸いなことに、ルビーが婚約破棄を口にすることはなかった。
 父からの心配の言葉をのらりくらりと躱しつつ、ルビーはきょろきょろと辺りを見回した。
 
「し、しかし。階段から、落ちて」
 
「本当に大丈夫! あ、でも、ずっと寝てて汗かいちゃったから、お風呂に入りたい!」
 
 辺りを見回していたルビーと、ルビーを注視していたルベライトの目が合う。
 
「いた! ルベライト、着替えの服を持って来て!」
 
「え? か、かしこまりました」
 
 ルビーはそう言うやいなや、ベッドを飛び降り、周囲の人々の間をすり抜けて自室を飛び出し、ドタドタと浴室の方へ走っていった。
 ルベライトも急いでルビーの服を用意し、その後を追いかけた。
 
 残された面々は、部屋を出ていく二人の背中を見送ることしかできなかった。
 
「……ルビーは、あんな走り方をする子だったか?」
 
「さあ? 頭を打って、ちょっとおかしくなっちゃってるのかしら? お風呂から出たら、お医者様によく見てもらいましょう」
 
 ルビーの両親は、互いに顔を見合わせ、首を傾げた。
 
 
 
 コンコン。
 
「失礼します、お嬢様」
 
 ルベライトが浴室に続く扉を開けると、ルビーは脱衣所で服を着たまま腕を組んで待っていた。
 
「よく来たわね、ルベライト!」
 
「お、お嬢様?」
 
 脱衣所で一人になったルビーは、冷静さを取り戻していた。
 先程の自室での振る舞いはゲームのルビーとは異なるものであったと反省し、ゲームのルビーらしくルベライトを出迎えた。
 ルベライトは、ルビーの振る舞いに違和感を覚えつつも、階段を落ちた一時的なショックによるものだろうと受け入れた。
 
「お嬢様、こちら、お着替えになります」
 
 ルベライトは使用人らしく、たんたんとやるべきことをこなす。
 一方で、目覚めた直後に発した婚約破棄という言葉の真意は気になっており、質問をするタイミングを伺っていた。
 
「ルベライト! 婚約破棄はどうなった!? 私、ちょっと前後の記憶が曖昧で!!」
 
 しかし、ルベライトが質問するよりも先に、ルビーが口を開いた。
 ルビーはルベライトの両肩をがっしりと掴み、ルベライトの体を前後へがくがくと揺らす。
 ルビーの表情には、鬼気迫るものがある。
 
 ルベライトは口を開き、固まる。
 ルベライトとしては、ルビーに婚約破棄をして欲しくはない。
 そしてルビーは、前後の記憶が曖昧だと言った。
 もしも、今ここでルベライトが婚約破棄の報告は完了しましたと言えば、ルビーが婚約破棄を終えたと思い込み、婚約破棄の実行が回避されるかもしれない。
 しかし、ルベライトの使用人としての誇りが、主人に偽りを述べることを許さなかった。
 開いたルベライトの口は、再び閉じられ、苦々しい表情へと変わった。
 
「ま……まさか」
 
 そんなルベライトの様子を見て、ルビーは顔を青くする。
 
「お嬢様……」
 
 言うべきか言わぬべきか、ルベライトは必死に考える。
 
「私、婚約破棄なんてしてないわよね!? まだ、トパーズ様の婚約者よね!?」
 
 だから、ルベライトの想像とは真逆のルビーの言葉に、ルベライトは目を丸くした。
 衝撃を前に、ルベライトの口はあっけなく開いた。
 
「え、ええ……。まだ、お嬢様はトパーズ様の婚約者のままです」
 
「よ、良かったー!」
 
 ルビーは緊張の糸が溶け、その場にへたり込んだ。
 表情は緩み、心に刺さっていた針が抜けたような、晴れやかな顔をしていた。
 一方のルベライトは、心に針がさらに深く刺さり、言いようもない気持ち悪さを感じていた。
 それは、ルビーが婚約破棄をすると叫んだり、婚約破棄をしないと叫んだり、別人のような話し方や仕草をしたり、小さな疑問の積み重ねによる気持ち悪さだ。
 
「お。お嬢様、やはりどこか具合が」
 
「大丈夫! すっかり元気よ!」
 
 生き生きとした表情のルビーは立ち上がって、悠々と脱衣所を出て行こうとする。
 
「お、お嬢様、お風呂で汗を流すのでは?」
 
「あー……。大丈夫! 汗、全部引っ込んだわ!」
 
 部屋を出るための言い訳として使った言葉を忘れていたルビーは、ルベライトの言葉をてきとうに流し、そのまま脱衣場を出ていった。
 一人取り残されたルベライトは、目の前で起きた一連の流れを理解するのに時間がかかり、しばらく立ち尽くしていた。
 
 
 
 屋敷の廊下を歩きながら、ルビーは考える。
 ここが乙女ゲーム『純白の少女と烈火の令嬢』の世界で、自身が悪役令嬢のルビー・スカーレットであるならば、ゲーム通りに進めばその身が破滅すると。
 国外追放の後、想像したくもない生活が待っていると。
 
「絶対、破滅なんてしてやるもんか! 主人公にも攻略対象にも嫌われず、破滅エンドを回避してやる!」
 
 だから、ルビーは決めた。
 ゲームのように、主人公に嫌がらせをしたりしない。
 オニキスの婚約者なんて目指さないし、その他の攻略対象にも決して嫌われるような真似をしない。
 当初の婚約者であるトパーズと結ばれて、皆で仲良く、幸せなハッピーエンドを目指すのだと。
 
 さしあたり、ゲーム開始の合図でもある、ルビーからトパーズへの婚約破棄シナリオは回避した。
 これによって、トパーズから嫌われることはないだろうと、ルビーは踏んだ。
 ゲーム上にはトパーズから信頼を失うイベントが散らばっていることを知っているので、さしあたり、ではあるが。
 
「一つ一つ! 丁寧に! 合言葉は、ラブアンドピース!」
 
 ルビーは腕をぐっと上に伸ばして、歩き続ける。
 ルビーの破滅を回避する戦いは、今まさに始まった。
 
 
 
「ねえあなた。あの子、大丈夫かしら……?」
 
「う、うーん……」
 
 そんな変わり果てたルビーを心配した両親によって、ルビーが再び医者の元へと連れていかれるのは、また別の話。
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