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第1章

それは些細な一言でした

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「今日は外出する」
「あ、はい。……いってらっしゃいませ?」
朝食後に突然宣言されて、佑那は戸惑いながらもそう返すと魔王はじっと見つめ返してくる。

「……姫は出かけたくないのか?」
「え、あの……もしかして私も一緒にという意味ですか?」
不安と期待を胸に訊ねると、魔王はこくりと頷いた。

「――出かけたいです!」
思わず前のめりで答えてしまったのは、やはりこの状態に閉塞感を覚えていたからだろう。

狭い牢屋に押し込められているわけではないが、それでも室内と書庫しか行き来することができないのだ。舞い上がった気分の佑那はどこに行くのかも知らないのに、わくわくした気持ちが込み上げてくる。

すぐにミアから暖かそうなセーターやコートなどに着替えさせられて、連れていかれた屋上には栗毛の馬に似た動物がいた。通常の馬よりもずっと大きいし、角があるから多分魔物だ。
魔王は佑那を抱え上げて馬らしき魔物に乗せ、自身もそのまま後ろにまたがった。屋上からどうやって降りるのだろうかと不思議に思ったがすぐに疑問は解消した。魔王が手綱を引くと馬が空を駆け上がる。

(馬じゃなくて、むしろペガサス……。でも翼がないし、むしろ空中を駆けているからやっぱり馬?)

そんな疑問に気を取られたのは僅かな時間で、なかなかの速度とうっかり下を見てしまった佑那は身体を固くする。
高いところは苦手ではないが、足元に広がる森は遥か彼方にあり落ちれば間違いなく即死だろう。つかむ場所もないため魔物の背中に置いた手に力が入るのは無理もなかった。

「大丈夫だ」
後ろから耳元で囁かれると、腰に回された腕に力がこもった。

シートベルトの代わりなのだと思えば恐怖は和らいだが、その部分から伝わってくる温もりにいつも以上に距離が近いことに気づき、今度は別の意味で鼓動が早くなる。
そのおかげで完全に恐怖を忘れることができたが、佑那は何かが削られたような気分になった。


到着した場所は森の中で、辺り一面雪に覆われている。移動中は雲の間から日が差していたが、生い茂った木々が日差しを遮っているため少し薄暗い。佑那が住んでいた街ではこんなに雪が積もることはなく珍しさも相まって、ザクザクした雪の感触に童心に戻りそうになるのをこらえる。

(真っ白な世界と冴え冴えと澄んだ空気……とても綺麗だわ)

生き物の気配は希薄だが、雪の中でも濃緑の葉を付ける植物の静かな力強さに圧倒される。
溜息を吐いてその景色に心を奪われている佑那に魔王が手を差し伸べる。ぼんやりしていたため、理解が追い付かず首を傾げてしまった。

「慣れていないと滑りやすい」
「あっ、ありがとうございます」

(今の私は王女だもの……エスコートされるのは当たり前よね)

それなのに意図を把握できなかった佑那は、恥ずかしさに赤く染まった顔を見られないよう俯き加減で魔王に手を引かれて付いていく。しばらく森の中をゆっくり歩いていたが急に視界が開けた。目の前には大きな湖が広がっていて、柔らかな日差しが凍った湖面を美しく輝かせている。風もなく穏やかで静かな光景は神秘的といってもいいぐらいだ。

声もなく自然の美しさに見とれていた佑那だが、繋がれた手の感触に隣を仰ぎ見る。

「綺麗ですね」
静謐な雰囲気を壊したくなくて、佑那は小声で囁く。

「気にいったか?」
「はい。連れてきてくださってありがとうございます」
魔王は頷くとすぐに佑那から顔をそらした。

(……これってもしかして、照れているとか?)

その可能性に気づいて佑那は必死に笑いをこらえた。そう考えればまるで思春期の男の子みたいで可愛いとすら思えてくる。魔王の言葉はいつもシンプルで分かりにくいことも多いが、きちんと返してくれるのだ。勝手に連れてこられたことを除けば、とても紳士的で魔王を知れば知るほど、悪い人だとは思えない。

(それに比べて私は……嘘つきで不誠実だ)

グレイスを守るためとはいえ身分を偽っているし、求婚の約束だって守る気もない。澄み渡った光景とは裏腹に佑那の心は重く沈んでいく。仕方ないのだと思えば思うほど、罪悪感が募る。

「姫?」
魔王に声を掛けられ佑那は慌てて表情を取り繕った。

せっかく連れてきてくれたのに、暗い表情するのは失礼だろう。ごまかすつもりで森のほうに顔を向けると、木陰の間に小さなオコジョが姿を見せていることに気づいた。白い毛皮にくりくりとした目がかわいらしい。この世界でも元の世界と同じような動物は多く、佑那は初めて見る実物のオコジョに釘付けになる。
魔王に話しかけたのは、その感動を分かち合いたいと思っただけで特に意味はなかった。

「陛下、あちらの木陰にオコジョがいるのが見えますか?可愛いですね」
「欲しいか?」

一瞬何を聞かれたのか分からなかった。佑那が理解する前に魔王は軽く手を振ると、バチッと鋭い音と小さな悲鳴とともにオコジョが仰向けにひっくり返る。

「……っ、何をしたんですか!?」
声が震えそうになったのは寒さのせいではなかった。

「捕らえやすいよう気絶させただけだ」
「止めてください!」

足を踏み出した魔王の腕をつかんで必死で止めながら、佑那は先ほどの魔王の言葉の意味をようやく理解した。
魔王は不思議がるように首をわずかにひねったが、佑那の言葉に頷くと様子を窺うかのようにこちらを見ているのが分かる。
だが佑那はオコジョから目を逸らせなかった。距離があるせいか倒れたままピクリとも動かないように見える。

(本当に……気絶しているだけ?)

じわじわと恐怖が押し寄せてくる。そんな中オコジョがわずかに身じろぎしたように感じた瞬間、大きく身を震わせ飛び起きた。辺りを忙しなく見渡すと素早く身をひるがえし森の中に消えていく。

恐らくはほんの数十秒の出来事だったのだろうが、佑那にはひどく長く感じられた。緊張が解けて冷たい雪の上に座り込んでしまう。
頭上で魔王が自分を呼んでいる声がするが、顔を上げられない。抱きかかえられるようにして体を起こされると、魔王は佑那の頬に触れられながら問いかけた。

「何故、泣く?」

自分の些細な一言がきっかけで動物を傷つけてしまったことに、そして魔王の躊躇いのない行動に佑那は動揺していた。

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
心の中で祈るように謝罪の言葉を繰り返す佑那は魔王の言葉に反応する余裕はなかった。

「姫、泣かないでくれ。頼むから」

涙が零れるたびに魔王が冷たい指で優しくぬぐう。その落差が動揺に拍車をかけて、涙が次から次へと溢れてくる。ようやく泣き止むと魔王は佑那を抱きかかえ、もと来た道の方向に戻り始めた。
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